6.告白
6.告白
彼女が過去に戻ってきたのは今から遠い昔のことである。清水咲良は、初めて過去に戻ってきた時、全てを察することができた。これが過去に戻るということか、と。
端的に言うと彼女にはなにもなかった。人生も未来も過去も。ならばいい機会だ。いっそのこと過去を変えてしまおう。彼女にとって過去に戻ったことは実に都合がいいことだった。頭部の痛みは、いつの間にか消え、目を開くことができ、自立できることが昔のことのように感じ、自分がいるのが虚構であるということを直感的に感じた。彼女はベッドの上に横になり、今までの人生を振り返る。
二十六歳の彼女は、その短い人生に幕を閉じようとしていた。というか、ほぼ閉じかけのところまで行っていたのだろう。死神は気まぐれで残酷だ。だがそれが彼女にとってはありがたかった。死神は彼女の部屋ぬの前で止まり、ドアをノックしてきた。死神と心中したかった彼女はまるでサンタクロースを迎えるかのように高揚しながらドアを開けようとしたが、落とし穴によって、過去へと堕とされた。彼女は生から逃れることはできなかった。人によってはそれは何よりの救いであって、それ以外の者はそうではなかった。『現実から逃れるために死を渇望した』者だ。
何もない彼女の人生を救おうとしたのは、一台の乗用車と、その運転手だ。横断歩道を渡ろうとした彼女と彼は目が合った。居眠りをしていたのか、携帯電話に夢中になっていたのか、彼の表情から感じるものは絶望以外に他ならなかった。『解放される、この人生から』瞬時にそういった希望が全身を満たし、奮い立たせる。人間は死の瞬間に初めて生を実感する。彼女は不気味なほどに笑顔だった。今までの人生でしてきたそれとは比べものにならないほどの。きっと彼は私の顔を見てより恐らく感じたことだろう。ただ、申し訳ないとは全く思わない。元はと言えば彼が全部悪いことなのだから。
次の瞬間、激しい衝突音と共に、彼女は宙を舞った。私の視界は先ほどまでとは違い、スローモーションになっていた。なぜか、思い出が次々と浮かんでくる。嫌な記憶しか私は持ち合わせていないので、それを止めようとしたが、無駄だった。止めようとすればするほど、彼女の目の前を数々の記憶が霞む。記憶の箱にしまっておいたのに、埃まみれのそれは、鍵が空いたことによって一気に散らばった。最初に見えたのは、小学生六年生の記憶だった。
ある日、登校した彼女は、自分の教室に向かって歩き出した。同級生と思われる女子がこちらをちらちら見て、陰口を叩いているのが分かった。しかもそれは一人でも一組でもなく、クラスメイトほぼ全員がそうだった。元々友達なんて呼べるような人は私にはいなかったのだが、何かした記憶はない。教室に入ると、全員がこちらを向いた。芸能人にでもなったかと思った私の薄い希望は私が昨日まで使っていたと思われる机は見るも無惨な姿に変わっていたのを見た瞬間、風に吹き飛ばされた。花瓶が置かれ、机には数々の暴言が乱雑に書かれていた。
これが『いじめ』というものなのだろう。
内気で陰気臭く、おまけに丸眼鏡までしている私は、確かに周りから好かれるような人間ではなかった。だがそれが、敵意に切り替わるとは思ってもいなかった。その日から耐えの日々が始まった。
幼稚園を卒園してすぐにこっちに引っ越してきた彼女は学校に慣れたことなんで今のいままでない。周りもそんな彼女を受け入れようとはしなかったのだろう。彼女が拒んだからかもしれないが、周りに人が集まったことは一度もなかった。
なにより驚いたのが、座板から背もたれまでそれはびっしり続いていたことだ。おまけに、画鋲を裏返してまで椅子に置いてあった。私は何を思ったか、それを見るなり椅子にいつものように座り出した。針が皮膚という壁を超え、プツッと音がした気がした。裏ももから尻にかけ、激痛が走った。小学生の彼女にはそれは強すぎる痛みだった。だが、その頃の彼女は、それを痛みとして覚えておこうと思ったのだ。精神的な苦痛から、肉体的な苦痛まで、私は自分を徹底的に戒めた。それが何に繋がったかも分からないが、そうすることで自分を保てている感覚がした。
彼女の下半身は悲鳴をあげ、血が流れた。クラス中その光景を見て大声で笑いをあげていた。中には、「いいぞー」とか「もっとやれー」とかいう声をあげるものもいた。
まさに『混沌』だった。五分ほどして、彼女は痛みに耐えきれず、それらを抜いた。すると、流血の勢いは増した。それは元々青だったはずの半ズボンを黒く染め上げ、終いには、椅子の上までそれが溢れた。クラスはそれを興味津々といったような図式で見つめていた。さきほどから一目たりとも離さない男子もいた。子供の好奇心というのは恐ろしいものだった。それだけで簡単に人を傷つけてしまう。先生がこの教室に入ってくるまであと役十分。それまで耐えられるだろうか。
一滴、体から垂れたそれを手につけ、見つめながら思う。彼女はどこで間違ってきたのだろう。前の幼稚園では友達はいたし、少なくともうまくやれてはいた。こっちの学校に入り、外界を拒んだ自分への罰なのだろうか。私はここにはいられない。そう思って彼女は生まれたての小鹿のように、震えながら立つ。わたしは、視線というスポットライトを浴びされながら、おぼつかない足取りで保健室へと向かう。事情を知らない生徒たちが気味悪そうにこちらを見たが、助けるものはいなかった。この階段を降りれば、保健室に辿り着く。そう思って足を一歩前へ踏み出そうとしたその時、片方の足だけ抜こうとした力は、全身から抜け落ちていった。十数段ある階段を私は転び落ちた。意識が段々遠のいていくのを感じた。視界が暗闇で満たされていく。ある一人の先生が、それに気づき、肩を揺らし声をかけてきたところまでは覚えているが、なんと言っていたのかは覚えてない。聞けなかったと言ってもいいだろう。心配してくれる人がこの学校に一人でもいたという事実は彼女を安堵させた。
目が覚めると、病院のきれいな白のベッドで横になっていた。太ももにはまだ痛みがあった。痛みは心臓と同じように、鼓動を打っている感じがした。彼女の部屋のベッドは灰色だったので、純白のベッドが羨ましかった。だから今自分が横たわっている綺麗すぎるそれを見た瞬間、夢の中にでもいるのかと思った。あれで私は死んだのだと。だが期待とは裏腹に、彼女は生きながらえてしまった。自分が生きていると分かった瞬間、とても落胆したことも覚えている。そこで記憶は終わっていた。
次に彼女の視界を埋め尽くしたのは、高校二年生の記憶だった。地元から少し離れた高校へ進学することができた彼女だったが、性格や雰囲気が変わることはなかった。それでも何か変わるかもと思い、自分を更生させようとしたが、もはや自分のアイデンティティとさえなっていた根暗な思想を共有する相手はやはりどこへ行っても見当たらなかった。高校でもまた一人になってしまった。しかし、そんな彼女でも想いを寄せるような相手ができた。彼女とは真逆の太陽のような人だ。人に話しかけることさえ珍しかった彼女は、彼と席が隣になり、稀に話し相手になってくれるという小さなことでさえ嬉しかった。好き、という気持ちを初めて学んだ。彼が他の女子と話していると鼻についたし、明日、彼に何を話そうかと夜をふかしたことは何度もあった。小中一貫の学校に通っていた私は、長年の呪縛から解放され、晴れて鳥籠から出ることができた小鳥のように羽ばたく。はずだった。
彼女は彼の気を引くために、眼鏡を外し、コンタクトをつけた。化粧も少しずつ学んでいったし、自分が変わっていくのが明らかに分かった。多分その頃が人生の中で一番輝いていたのだと思った。だが彼女は重大な勘違いをしていたのだ。ただ毎日喋れただけで、ただ軽い愚痴を聞いてくれただけで、彼女は彼を勘違いしていたのだ。
ある日、彼女は決心をつけ、放課後、彼を屋上に呼んだ。 人生最大のイベントに彼女は胸を躍らせていた。きっと遠足前の小学生はこんな感じなのだろう。味わえなかったその感覚に彼女は少し嫉妬した。
彼が現れ、彼女は不器用なりに想いを伝えた。今思えば、彼女は自分がいいカモだったのだと思う。少し優しくされただけで簡単に落ちてしまったのだから。どうしようもない人間だ。
彼は誰もいないことを確認すると、豹変した。彼女がど勇気を出し、頑張って伝えた想いを一蹴し、詰った。自分はここ最近で普通の女の子になることができたのに、そんなところが気持ち悪いと言われてしまった彼女の心は深く傷つき、鋏でバラバラにされてしまった。
そこで終われば私の人生はまだ良いものになっていたかもしれない。だがその時の彼の行動は、小学五年生のあの日と同じか、それ以上の傷を私の心に刻んだ。
なんと彼は、一通り文句を述べた後、暴行を加えてきたのだ。ふと改めて考えてみると、彼は表で周りにいい顔をしていて、そのストレスの吐口の標準を彼女に定めたのだと思う。なんと酷い男だろう。
高校二年生男子の暴力というのは、それだけで狂気的かつ凄惨的だった。彼の拳は彼女のありとあらゆる部位を傷つけた。終いには中指まで折られ、絶叫した。それはもう言葉では言い表せない辛さだった。
早く逃げなければ……そう思った私は、唯一の出入り口であるドアに向かって走った。だが、もう遅かった。
ドアの前には彼の友人とみられる男子生徒が数人こちらをニヤニヤと見つめながら立っていた。その時初めて、人生の終わりを悟った。
彼らはまだ痛みの残る私の華奢な腕や足を掴み、夏だというのに冷たい地面に押さえつけた。それでもなんとか抵抗しようと思ったが、女子高生一人の力ではもうどうしようもなかった。私はうつ伏せにされ、口を塞がれた。彼らの異様なニヤけ笑いが今でも耳にこべりついて離れない。
金属音が聞こえ、それがベルトを外す音だと分かった瞬間、彼女は声にならない声で叫んだ。下着を脱がされ、全身を嫌悪が走った。
彼女は様々な気持ちが混ざった咆哮をいつまでも、いつまでも上げていた。
そこで記憶は終わった。他にも様々な記憶が目の前を通り過ぎていったが、それらを考えれば、死など容易に受け入れられた。
彼女は鈍い音と共に地面に叩きつけられた。少なくとも折れたのは指ではなさそうだ。それがコキッと小さく、代償にしては物足りない音を立てることを彼女は経験済みだ。あの時のように目の前が暗闇で満たされていく。
三度目の正直でどうか、どうか私の人生を終わらせてください、彼女はひたすら心の中で祈った。
暗闇の中で私は神に祈り続けていた。次目が覚めたときには……なんかありませんように。
どれほど経ったかは分からない。彼女は目を開けられなかったが、会話を聞くことは辛うじてできた。声から察するに、彼女の父親と医者だろう。
彼女は、母親の顔を覚えていなかった。母の行方はどうなったかなど、父から聞かされたことはなかったし、頭は良かったので、物心ついた時から、その質問だけは絶対にしてはいけないという暗黙の了解を理解していた。僕とは違い、咲良は幼い頃から強かったのだろう。
彼女の父親は、がむしゃらで、厳格だった。彼女が反抗したことは何度もあったし、思い返してみても喧嘩したことしかなかったような気がすると言った。だが彼女も父親もそれが愛だということは分かっていた。だからどんなことがあっても父を心配させるわけには行かなかった彼女は、話すことがない学校生活を偽ることも多々あった。
そう、あの日も、あの日も。
彼女の味方は父親だけだった。そんな父に迷惑をかけてしまったことを申し訳なく思った。
父が泣きながら医者らしき人物と話しているのを聞くと、彼女まで泣きそうになった。今すぐ目を開けて、今までの謝罪とこれから共に生きることを約束したかった。今になって大切な人がこんなに近くにいたことを痛感した。でも、もう遅い。
その医者らしき人物は根暗なのだろう。話している単語はぼそぼそしていて聞き取ることはできなかった。父を気遣って声のトーンを落としているのかもしれない。しかし、彼から発せられた四文字の言葉は私に、毒を塗られた夜のごとく、突き刺さった。
『植物状態』
彼女は奇跡でも起きない限り、目を覚ますことはないらしかった。ドラマか映画でしか聞かない単語だったので、なかなか実感が湧かなかった。しかし、次の言葉はそんな彼女のためだけに丁重に用意してくれたらしい。
「彼女の目が覚めることは、ほとんどありません。」
彼女の中の闇がさらに深いところまで広がった気がした。先ほどまでの暗闇とはまるで違う。どこからか嘲笑うような声が聞こえてきた。闇は彼女を指差し、殴り、指の骨を折り、犯した。
彼女は、彼女自身でさえ自分の手で終わらせることはできなかった。ふと、母と見た海岸を思い出した。優しく抱き抱えられた彼女を母は優しい目で見つめる。母の顔には幼稚園児が書いたような白のクレヨン線がかかっていたが、海は夕日に照らされ、オレンジ色だった。彼女は生きていた頃は全てが無色に見えた。だがしっかりと覚えているそれは、今の私から見て綺麗だった。あの時の彼女にはどう見えたのだろう。もし綺麗だと、美しいと思ったら、それをよく目に焼き付けておいて欲しいと願った。
これから知る現実はそんな風には見えないだろうから。
何時間経ったか、何日か、もしくは何年か。
彼女は声で目覚めた。それが父親だと分かるまで時間はかからなかった。彼女の父は泣きながら、今までのことを謝罪した。反省する罪人のように、神に救いを求める落ちこぼれ者のように、その声に嘘はなかった。
伝わっているよ。暗闇の中で彼女はひたすら答えた。だがそれだけで彼女の体が動くようにはならなかった。
思ってみれば、彼女は泣いてばかりだった。僕のそれとは比べ物にならないほどに。話している今でもグラスから水が溢れ出そうだった。表面張力でなんとか堪えられているが、何かの拍子に溢れ出てしまうだろう。実際それは先の話ではなかった。
彼女の父は謝罪の言葉を何度も溢していた。叫んでいたわけでもなく、呟いていたわけでもない。しゃがれた声から、きっと「溢れた」が一番適切な表現なのだろう。そんな言葉をしっかり聞いておこうと思った。いつか来たるその時に、父の言葉は大事に抱えて持っていけるように。
私は''その時''を待った。決心なんてとっくについていた。本当の意味で''解放''されると彼女は思った。小さな針が腕に刺さる感覚がした。習字のように丁寧な手捌きだった。抜け殻の私でも、優しくされる価値があったことに驚いたが、神からのせめてもの情けなのだろう。
悲劇がようやく終わる。
しかし、期待していたものとは違かった。暗闇だった彼女の視界は白で満たされた。その直後、翼でも生えたかのように、人生を俯瞰して追っていった。いい記憶から悪い記憶まで全部。最新の記憶から、小学生の頃の記憶まで。そう、まるで過去に戻るように。
目が覚めると、彼女は家のベッドの上にいた。目覚めてしまったことに絶望と歓喜が同時に彼女を襲った。あの暗闇は辛くて億劫だった。腸を煮えくり返したようなあの空間は何もなかったが、それが生む虚無も今まで味わったことがないような感覚だった。しかし彼女にとっては『生きる』こともさほど変わらなかった。現実に期待すればするほど打ちのめされる強度は増す。風船を膨らませ、針で突けば今まで貯めていた空気の開放音と共に割れる。重要なのはどのくらい膨らませるかだ。それが限りなく最大になった時、音と衝撃もそれ相応のものとなる。彼女の人生はいつもそんな感じだった。空気を貯め、期待と希望で大きく膨れた彼女は、もちろん針で滅多刺しにされた。彼女という風船の開いた穴を塞ぐことはできなかったのだ。
しかし、そんな暗闇の中でも少しの希望ができた彼女は、生き返ったことに多少の安堵を覚えた。そう、それは父親にすべてを伝えることだ。彼がいつも私のそばで、赤子のようにわんわん泣いていたこと、彼のその言葉がどれほど私の支えとなったか計り知れないこと、いつも喧嘩ばかりだけど、本当は感謝してもしきれないこと。
謝ろう、そしてこれからの人生は彼を大切にしよう。
唯一の肉親である彼を置いてはいけない。
ベッドから立ち上がると、彼女の体の違和感に気づいた。事故直前までの彼女が見ていた景色とはまるで違う。身長が小さくなったような、そんな感じがした。久しぶりに立つからそう思うんだろうか。嫌な予感は洗面台で彼女が自分を見ることによって的中することとなる。
なんと彼女はタイムスリップしてしまったのだ。カレンダーから見るに、今自分は十一歳ということになる。彼女はその事実に歓喜した。不揃いな不格好な眼鏡、ぼさぼさの髪、根暗な表情。そこにはいじめられる要素という項目がもしあるのなら、全てにチェックマークがつきそうな特徴を持つ自分が写っていた。
彼女は、過去を変えることを決心した。もうあんなことが起きないように、昔の馬鹿な自分にならないように、彼女は努力の道を辿った。眼鏡をはずし、髪を整え、笑顔を作る練習までもした。初めのうちは苦労したが、これからの最悪を考えると、それは妥当すぎる努力だった。神は私を見捨ててはいなかったのだ。彼女がこんなに救われたような気分を感じた日は初めてだった。受験対策のように、自分の欠点をしらみ潰しのように克服していった。
それから彼女は、一躍スターになった。中学校では、クラスの中心人物となり、高校では、一周目の彼に告白されるほどの美貌を手に入れた。誘いは丁重にお断りしたが、心の中で彼に復讐しようとは思わなかった。むしろ彼とその囲いに情けや同情を感じた。私がこんなに綺麗だったなら一周目のあれもしょうがない、と。彼女はいつの間にか、弱かった頃の彼女を蔑むようになっていった。間反対の道に進んでいった暗い自分を思い出すと、気の毒に思ったが、なるべく振り返らないように努めた。
彼女は一周目では得れなかった美貌や名声を手に入れたのだ。ないものねだりだったあの頃とは違い、今は何にでもなれるし、得れないものなどなかった。これからの人生を想像すると、それだけでワクワクした。高校を卒業した私は、有名大学に入り、金持ちの紳士と結婚して、子供を作り、愛でる生活を。
しかし、彼女の理想はまたしても打ち砕かれることとなる。高校卒業まであと三か月を切ったある日のことだ。
学校でいつものように女友達数人と談笑していた咲良は、その日も大はしゃぎしていた。彼女らとの話は話題を尽きることを知らず、毎晩遅くまで学校に残っていた。時々先生が見回りに来るが、そんな先生でさえ許してしまうほどの容姿の持ち主となった彼女は、もはや無敵の存在だった。
家に帰宅し、完璧な生活に今日も誇りを持ちながら彼女は眠りについた。思えばここ数週間、父親の顔を見てなかった。単に彼が忙しいこともあったが、明日は彼女の満喫した生活について少し話してみてもいいかもしれない。きっと自慢してしまう形になるのだが、そうすることによって前の自分を救えたような気がした。醜くも淡い確かな希望を彼女自身で叶えてあげることができた。これからは胸を張って生きていけばいいのだ。毎日が新鮮で快適な生活だった。明日は何が起こるのだろう。
煌びやかで華やかな明日を想像しながら、彼女は眠りについた。
彼女は夢を見た。''昔''の自分が目の前に不気味な笑みを浮かべて立っている。彼女は''彼女''を見て怖がったと同時に自分がどこかで昔の自分を嫌悪していたことと向き合った。咄嗟に''彼女''から逃げようとしたが、体は動かなかった。逃げようとしたことがバレたのか、念力をかけられたのか。
「そうやって自分から逃げるんだ。」
そう言うと''彼女''は彼女の衣、皮、肉を剥ぎ出し、それを自分につけた。元からそこにあったように、それらは''彼女''と同調していった。顔以外全て剥がされた彼女は、筋肉と臓器が丸見えの状態となった。画家が描く癖の強い絵か、かの有名なCDジャケットのように見えた。
''彼女''は顔以外完璧な状態になっていた。それ以上はやめて。私から何も奪わないで。そんな悲痛な願いも虚しく、''彼女''は顔の皮を剥ぎ取っていった。
段々と完成してく''彼女''が自分と同じ見た目になっていった。その時初めて、この満足した生活も、完璧だと思っていた私も、何もかもが嘘と偽りで固められた陶芸品のようなものだと気づいた。ありのままの自分を愛すことが彼女にはできなかったのだ。自分の醜さを隠し、それが今になって露呈したのだ。
気づいた時には彼女はまた醜い姿に戻っていた。身長は低く、手は荒れ、爪は汚い。不格好な丸眼鏡をかけて、髪はボサボサ。
それが夢でないと気づいた時、彼女はまた絶望を覚えた。私のベッド、私の部屋、私の体。最後の一つは定かではなかったが、ここは夢ではない。飛び起き、洗面台で姿を確認する。冷凍庫で冷やしてあったのか、北極から送られたのか分からないほど冷たい水道水で顔を一生懸命に洗う。夢から目覚めろ。彼女はひたすら願った。もうあんな姿に戻りたくない、その一心で彼女は必死に顔を洗った。それはもはや洗ったというより、水責めのような感じまであったことだろう。恐る恐る彼女は顔を上げる。
しかし、そこに写る彼女は変わっていなかった。
私はまた過去に戻ってきていたのだ。
理解が追いつかなかった。私は神に救われた人間でなかったのか。それとも幸せの意味を履き違えたために、すごろくのように『振り出しに戻る』のイベントマスを踏んでしまったのだろうか。
様々な憶測が彼女の中で駆け巡った。街中にある空気で紙を飛ばす式の抽選機のように。新しい考えが出ては消えた。量産的でさえあるそれは、いつまでも私に答えを導かせないようにしているようでさえあった。
彼女は、いつまでも結論が出ないこの問いに無理矢理答えをつけようとした。溢した水を布巾で囲い、堰き止めるように、見切りをつけた。『偶然そうなった』だいぶ合理的で無理矢理な答えだろう。しかし、それ以上考えたところで無駄だった。
彼女は前回と同じ人生を歩んだ。あんな夢を見た後だったが一回目と同じ人生など死んでも御免だった。あの道が正解だとしても、もうあんな苦痛は味わいたくない。そうしてまた''彼女''を拒んだ。時折''彼女''の視線を感じた。それが幻覚だったのか、本当に実現しているのかは分からなかったがそれは彼女の勝ち組の人生を狂わせるものとなった。輝きはあったものの、爆発的で魅惑的な輝きは無くなってしまった。学力も、運動能力も、生活も、前と比べて落ち着くものになった。どれだけ高揚する場面が来ても、遊びに誘われても、異性から告白されても、そこに''彼女''がまるでそこにいたかのように現れ、あの不気味な笑みを私に向けているのを視線に捉えた瞬間、彼女は逃げるようにその場から立ち去ってしまった。あの時の''自分''が、浮かれている自分を呪いに来たのだろうか。
ごめんなさい、''彼女''には本当に悪いことをしてしまったと思った。自分で自分を許せないことを心の底から深く後悔した。ただ、あの生活を私は死んでも手放したくなかった。次もし、彼女が現れたら、怖がらずに追いかけよう。それが幻覚だとしてもきっと意味のあることだろう。半ば強引にそれを彼女は『克服』と読んでいた。周期もない。いつ、どこに現れるのかも不確定。そんな曖昧な''彼女''にけりをつけるために彼女は『克服』を計画した。
そしてそ高校二年の冬の寒さが厳しくなってきたある日、突然訪れた。いつものように数人の友達と街中で談笑していた時、''彼女''が人混みの中で不気味に微笑んでいる姿を見つけた。夕食はどこで食べるか、という他愛のない会話を遮って、友人たちに別れを告げた。彼女たちは困惑していたが、元々「変わってる子」という印象がついていたのか、理由を聞こうとはしてこなかった。今思うと、彼女たちはただ単純に彼女の勢いに押し負けて、空気を読んでくれたのかもしれないと思う。帰宅する憂鬱なサラリーマンの波を押し除け、彼女の元に駆け寄る。どうやら裏路地に入っていくようだった。慣れた足運びでそこへ入っていく彼女を見つけた。薄暗く、ご飯なのか、埃なのか分からない匂いが満ちる、足場の悪い道を私は慣れない足つきで通り抜ける。
さっきまでの道とは裏腹に開けたそこには一軒の古びた居酒屋があった。''彼女''はどこに行ったのだろうと、周りを焦るように、舐め回すように眺めていたとき、目の前の店の扉が開く音がした。一人の女性が中から出てきた。モヘアニットにマキシ丈スカートという見た目の年齢に合った格好をしていた。
彼女と目が合った時、彼女は驚きと疑問で心が埋め尽くされたのは、彼女の方も同じだった。
二人は磔に固定されたかのように数秒間動かなかった。彼女より先に口を開いたのは咲良の方だった。
『あなたも戻ってきたのですか……』
すっかり夕方になり、辺り一面がオレンジ色に美しく、容赦なく、残酷に照らしていた。まるで隠れた真実を優しく抱きしめるように。
それから咲良と彼女は長い時間話をした。彼女の名前は覚えていないらしかったが、僕には考える間もなくその名前が浮かんできた。彼の名前が水面の波紋のように頭を埋める。
咲良が彼女と長時間話して分かったことは、どうやらあの時打たれた注射は私の願いを叶えるものではなかったらしい。
彼女の体内を巡ったのは『タイムマシン』という液状の錠剤。それにより別の時間軸である今に意識が飛ばされた、というわけらしい。彼女は、なぜか事実をすんなり受け入れることができた。
「あなたは、事故で脳を損傷したの。だから時空が歪みを起こした。決められた時間軸での往復というバグが起きたの。」なんて説明されたけど、随分と都合のいい薬らしい。
彼女はそれの存在について現代で聞いたことがあった。彼女にはそれを使っても何の意味もなかったので、耳から耳へ流していたが、まさかここでその名を聞くとは思わなかった。「過去を変え放題」という見出しがもしついていたら、迷うことなく使っただろうか。
彼女の話を総括すると、咲良は七年間を一生味わわなければならないらしい。咲良は理解すると、やはり私は不幸せになるように作られた人間なのだと自覚した。あの救いに見せかけた裏切りは、神か医者の悪意でしかないのだと。
彼女は一気に人生のやる気を失った。再出発どころか、寝たきりのままになっていたことを自覚した。これは妙に現実味のある夢で何をしてもいいが、また始まりに戻る。
そうしてこの夢は醒めることなく、生か死かも分からない状態で私は生き続けるのだ。
幸い、本体が死ねば必然的に今もなくなるのだが、そんなことをする人は残念ながら彼女にはいなかった。呼吸器を抜くだけでいいのに、それを頼める人も、頼む方法も彼女には持ち合わせていなかった。その日は魂が抜けたように帰宅した。今までどこに行っていたんだという父の怒鳴り声が響いたが、彼女はもはや無敵の存在だった。何を言っても、何の関心も持たない、所謂『病み』を彼女は抱えて生きていくことになる。極力いじめられないように多少の努力はしたが、それ以上する気にはならなかった。何かを得ても、次には失っている。それを考えると、彼女のやる気や活気は削がれていった。
そこからは何回も何十回も繰り返しの日々だった。
何周目のことだろう。彼女はどうせならとしたいことをしようというこれほどない前向きな目標を掲げた。きっかけはテレビで見た『人生の目的』という議題の番組だった。くだらないことだったが、その時の彼女には何か刺さるものがあったようだ。最初は小さなことからだったが、次第に大きな目標を掲げることになった。金を貯め近場の海外に行ったり、今まで知らなかった神秘に触れることで彼女は性格こそ治らなかったが、段々と精神的な落ち着きを取り戻していった。
それからすぐのことだろうか。彼女はある一人の女子と知り合うことになった。しかも特殊な形で。
彼女の名前は藤崎純恋。彼女と出会ったのは、病院でのことだった。日に日に人生のしたいことリストが増え、疲労が限界に達したのか、咲良はある日倒れてしまった。目を覚ました時、あの時の病院の天井とやけに似ているので奇跡が起こったのかと思った。しかしそこにはあの時と違う点滴が私に繋がれていて、それを思い出すと目が彼女はまた絶望した。悔しかったとも言える。いくら経っても起きあがれない亀のようになってしまった私が、憎くて悔しくて堪らなかったのだ。隣からは小さな鼻歌が聞こえてきたがそれでさえも彼女の逆鱗に触れた。
仕切りであるカーテンを引き裂くように開くと、そこには自分と同じかそれより低い女の子がベッドに横になっていた。髪はツインテールが巻いてあり、綺麗な茶色の髪の毛は私のそれよりはるかに艶やかに美しく見えた。目は咲良よりも丸く、子供らしい可愛さを詰め込んだような顔立ちだった。彼女が一個下ということを知ると、やはり信じられなかった。こういうフランス人形を子供の頃見たことがある。彼女もこうなることを望んでいた時期があったのだろう。
勢いよく開けたはいいものの、彼女は何も言葉にすることはできなかった。横の彼女は咲良をじっと見つめ、カーテンを開いた時と同じ威力で、私の手を掴んできた。
「綺麗な目してる!」
最初、彼女は自分を馬鹿にしているのかと思った。が、彼女の顔を見ると、そうでもなさそうだった。十分すぎるほど綺麗な目は輝きながら私を見つめていた。そんな眩しい性格の彼女に最初は困惑したのを咲良は覚えている。
彼女は自分の名前をすみれと言った。
純恋と書くそうなのだが、この世に純粋な恋なんて存在しないのにね、と純恋は笑った。確かにそうだなと咲良は思った。恋なんて汚れた下心でしかなく、もし純粋なものなら「愛」なんてものは存在しないのに、と付け足して言った。純恋はそんな話を面白く聞いてくれた。彼女と私は性格は違うけど感性は似ているのかもしれないと気付いた頃には、彼女たちはもう親友のような存在になっていた。窓から一緒に星を眺めたし、お互いの好きなタイプまで話した。(その日は朝まで、互いの熱が下がることはなかった。)夜に抜け出して病院内を肝試ししたこともあったし、二人は二週間の間、ずっと一緒にいた。手を繋いで眠りに落ちることもあったし、彼女は理想の妹のようだった。
たった二週間の入院だったけれど、純恋と過ごすとあっという間に感じられた。退屈な二週間を想像していた私にとって、それは儚いものでもあった。
そういえば、彼女はなぜ入院しているのだろう。前に一度聞いたことがあったが、はぐらかされたのでそういう事情なんだと詮索はしなかったが、彼女といる楽しさを知った今、聞かずにはいられなかった。純恋にとって今更そんな話ををされても困るだろうが、長くなるなら彼女のそばにいつまでもいればいい、それが終わったら二人で世界を旅しよう、この広く残酷で美しい世界を。それを思うと咲良の心は高揚した。
入院最後の日に思い切って聞いてみることにした。春の匂いがまだ立ち込める暖かい日だった。私たちは季節を感じるために窓をいつも開けたままにいた。どうせ、ここには二人だけしかない。
「純恋はさ、なんで入院してるの」
春の夜はそれだけで見惚れてしまうほど幻想的だった。月明かりに照らされた桜は名残惜しそうに一輪、また一厘と散っていった。
実際、彼女と生活して異常なところは感じたことがない。だとしたら身体の中が悪いのだろうか。
「退院したらさ、世界を旅行しようよ。」
何度も言ってきたことだ。これを聞くたび、彼女は、またそれ?聞き飽きたよといつも笑ってくれた。えへへと笑う時もあった。
いつもお互いにしたいことを退院したら一緒に思いっきりしようと彼女たちは言い聞かせてきた。咲良は世界旅行だったが、純恋その方は可愛らしく、
「世界中の洋服を着たい!」と言った。
「私が全部買ってあげるよ」と言うと、彼女は嬉しそうに、「ほんと!」と言いながらベッドの上を音を立てて嬉しそうにした。変な踊りをしてはしゃぐ純恋を看護師が優しく注意するのを見た時、咲良の心は温まった。
以前までの根暗な性格も治り、純恋といることで彼女は救われた。暗闇で彷徨っていた咲良を、純恋は太陽のように照らしてくれた。咲良にとって純恋はそれほど大きな存在だった。
その他にもしたい事がたくさんあった。咲良が打ち明けるたび、純恋はいいね!賛成。と言ってくれた。ゆびきりげんまんを何度したことだろう。
しかし、今日の純恋はいつもと違う様子だった。黙り込んで小さく微笑んでいる彼女を見て、咲良は嫌な予感が漂ってくるのを感じた。
「ごめん、実はね、私は退院できないの。」
純恋は小さく呟いた。
「それどころかね、あと一カ月で死んじゃうの」
過呼吸が咲良を襲った。私はまた、大事なものを失うのか。
「嫌だ、私との約束はどうなるの。」咲良は涙ながらに想いを伝えた。涙は春の風に攫われ、桜のように散った。
「純恋のことがね、好きなの。」
思えば、咲良が素直に想いを伝えたのはこれが初かもしれなかった。恥ずかしさもやましさもなく、純粋な心で。
「私はね、咲良のことを一目見た時、守ってあげたくなったの。すごく暗そうな顔をしていたから。ごめん、今まで強がってたんだ。あともう少しで死んじゃうって知った時は私でも落ち込んだ。でも咲良の笑顔を見れたことがね、咲良の正義のヒーローでいれたことがね、私すごく嬉しかったんだよ。」純恋の涙も同じように名残惜しそうに溢れた。
「そんなの、嫌だよ。」
「ごめんね、ほんとごめん」
私はこれから彼女のいない世界を過ごしていったらいいのだろうか。そんな風に咲良は思った。
「でも泣かないで、私の傍で笑って見せてよ。」
彼女は細い手を差し出した。それは最初の頃より心なしか生気がこもっていないように見えた。兆候だったのかもしれない。咲良が気付く頃にはもう何もかも遅かった。
「こんな弱い私でも、正義のヒーローだったと思わせてよ。」泣きながら笑顔の純恋は言った。
「うん。」それに応えるように私も泣きながら笑って見せた。
二人はいつまでも身を寄せていた。咲良が退院してからも毎日のように布団で過ごしたし、他愛のない会話も今までより距離が近くなったことにより、より特別なものになった。純恋がどんどん痩せてしまっていることに彼女は見て見ぬふりをした。
春も終わりに差し掛かり、夏の予行練習のような暑さのある日、外では祭りの喧騒で賑やかになっていた。咲良が退院したことにより、純恋が必然的に窓辺に移った。
二人は何も言わず彼らを見ていた。そんなに遠くなかったので連れて行きたかったが、彼女はここでいいと言った。
祭りには色々な人がいた。シャツと短パンの男子三人組、小学生だろうか、学校のジャージ姿で走り回る女子二人。共通していることは、彼女たちとは違い、彼らは幸せそうだった。嘆くように、羨むように二人は街を眺めていた。もう制限時間は切れかけていた。明日彼女が隣にいる保証はない。腕の細さがそれを表していた。純恋はもはや隠そうともしなかった。純恋はまだ隣で、茶色の髪を靡かせていた。すると、目の前に大きく花火が舞い出した。一つずつ丁寧に打ち上げられ、真っ暗な空を華やかに照らした。純恋のような花火だった。それを眺めている彼女の表情を何と言ったらいいだろうか。哀しみと嬉しみが混ざったような、夏の暑さと冷房の効いた部屋の境目のような、昼と夜の狭間にあるオレンジ色をした夕方のような、そんな顔だった。
ふと、思いついたように純恋はこちらを振り向き、言った。まるで恋人かのように。
「ねぇ、」
「指切りしてみない?」
不意に寂しいものを感じた。これが『別れ』というものなのか。
「そうだね」
咲良は満面の笑みを作ったつもりだったが、純恋はそんなのバレバレだよ、と言うかのように小さく微笑んだ。
そう言って彼女たちは薬指を近づけた。弱々しく、すっかり細くなった彼女の指を咲良の指が支えるように絡めとる。
『指切りげんまん、嘘ついたらはりせんぼんのーます』
ゆびきった。
純恋は名残惜しそうに、悲しそうに、懐かしむように、嗜むように歌った。
彼女たちは、お互い涙で染まった目を合わせて、ずっと笑い合っていた。この世界がちっぽけになるほど。
硬く結ばれた小指は、決して離れることはなかった。
花火が彼女たちの横顔をいつまでも、いつまでも照らしていた。
翌日、純恋の容態が急変した。医師はそう伝えたが元から用意していたような言い草だった。彼女の死で咲良は泣くことはなかった。昨日が最後だと、薄々勘付いていたからでもあるのだろう。三日前の彼女なら絶対受け入れられないだろうなと思った。発狂して、純恋の後を追おうとするが、その先に彼女はおらず、そこにいるのは十一歳のちっぽけな自分だけなのだろうと。
一瞬のように長い春が終わりを告げた気がした。
気付くと、彼女は純恋が入院していた病室に来ていた。彼女がいない病室を見渡すと、とても殺風景に見えた。彼女がいることで、この無機質な景色といいコントラストを出していたことに初めて気づいた。いつものように、彼女がいた布団に座る。純恋は私がベッドに腰掛けると、足を反対に寄せてくれていた。姉思いの、いい妹だ。
純恋の死から咲良は色々なことを学んだ。それらは大事に持っておこう。彼女の死で一つ証明されるとしたなら、永遠だったはずの未来が、容易く壊れることを知った時、人は成長するということだ。生まれ変わると言ってもいいかもしれない。(咲良にとっては皮肉でしかなかったが。)人によって変わることだが、彼女は私にとっての正義のヒーローになった。あくまで一例でしかなかったが、それは他のなによりも最高なものになることだろう。今も咲良の中で彼女が言っている気がする。
『笑って見せてよ』
純恋が咲良にとってのヒーローであり、彼女は最後まで役目を務めたということになる。
咲良は彼女と出会って、何もかもが変わった。この憎き、憎悪の塊でしかない世界をいつのまにか美しいと思うようになっていた。条件付きで限りある人生だけれど、この一カ月だけは、それを忘れることができた。
私はもう下を見ない。時に逃げることがあるだろうが、向き合っていこう。''彼女''が果たせなかったことを、願いを、少しずつ乗り越えていこう。
胸に今も居続けるヒーローのように。