4.時の旅人
4.時の旅人
「タイムマシンの研究については様々な研究が行われてきました。時間的なパラドックスから、肉体的なパラドックスまで。その最たる例が『親殺しのパラドックス』です。ほら、よく聞くあれです。実際、私たち研究者が一番悩んだ点はそこですし、その大変さといったら表しようがないほどでした。そこまできて、私たちの計画は破断してしまったかのように思われたのです。ですが、そこで一つ、ある説が提唱されたのです。それを言葉で説明すると長くなりそうですが、構いませんね。」
僕は黙って頷いた。
それを見ると間宮透子は鞄の中から紙とペンを取り出した。まるで僕と会う準備はいつでも整っていたと言う具合に。
彼女はメモ用紙サイズの紙に何本か線を並行に描いた。彼女の指は細長く、何かの拍子にポキっと折れてしまいそうだった。
「これらはこの世界に無数に存在する数あるうちのいくつかの時間軸です。私たちは今ここ。現代の私たちはここ。」
一本目の線真ん中をペンで丸を囲い、二本目の線の右端らへんを丸つけた。
「つまり、現代と過去は同じで違うというわけです。元がどこなのかは分かりませんが、現代の時間軸をオリジナルとするなら、今生きているこの空間はコピーってことですね。」
彼女は僕に喋る隙を与えずに、次を発した。
「この理論に私たちはとても救われました。こうして、タイムマシンは完全なものになったのです。千秋さんが他に何を聞きたいのかは分かります。どういう仕組みでそんなことができるのか、でしょう。ただし、その質問にはお答えすることができませんと言っておきます。私は今や、ただの一般人ですが、秘密を暴露するような禁忌を犯すことはできません。これからの私のために。」
聞きたいことの半分は合っていたが、まだあった。どうやら彼女は、二年前スペスを作る研究員だったらしい。どういうわけか、今は過去にいるのだが。被験体にでもされたのだろうか。間宮透子が現代から来た人間だということは一目で分かった。瞳の奥は明後日の方を向いているようだったからだ。それは僕も同じだったようで、もう夜だったこともあり、僕らは町から少し外れたレストランに入った。今の人からしたら、タイムマシンや過去と未来がどうこうといった話題は馴染みがなさすぎたためである。変人だと思われたくないのはお互い同じだった。側から見たら、高校一年生と、二十歳過ぎの女性が一緒に歩いているほうが気味悪く思うだろうか。それは承知の上だ。街から外れたところに入るのはもちろん咲良に見つからないようにするためでもあった。彼女に見つかったら一巻の終わりだ。
「僕が聞きたいことの半分はそうです。しかし、自分には謎の部分が多すぎるのです。説明書をきちんと読まなかった、というのもありますが、そこでは解決できないようなことだってあります。この世界は現代と変わらず自由ですから。」
窓の外を見ながら言う。
「説明書を読まず、ここで長時間尋問をしなければならないこっちの身にもなって欲しいものですよ。」
彼女は笑いながら皮肉をこぼした。確かにそうだと面食らった僕は、黙って微笑を返すことしかできなかった。
「ですが、いいですよ。答えられる範囲であればお答えします。」
まるで取り調べのようだ。彼女は頭の切れる狂気殺人犯で、その態度から余裕さえ見られる。メガネをあげる仕草が、彼女の頑固さをよく表していた。容易く相手を欺ける妖艶な瞳、凛とした佇まいから、僕はより緊張が増した。その気になればハンニバルレクターのように、言葉だけで人を殺せるだろう。カシスオレンジを飲みながら外を眺める彼女は、世界すべてを見下しているといった感じだった。
「いきなりで悪いのですが、死者を救うことは可能なのでしょうか。もしそれをした場合、僕はどんな罰を受けるのでしょう。」
彼女は少し驚いた顔を見せた。痛いところを突いてやったと少し喜んだ。
「いきなりですね……」
彼女は一度深呼吸をして答えた。
「結論から申し上げると、死者を救うことは理論上は不可能です。それゆえ、後者の質問は消えますね。」
雷に打たれたような衝撃が走った。薄々勘づいていたことも事実だが、心のどこかで、彼女を救えるだろうという希望があったというのもまた事実だ。改めて事実を突きつけられると、希望という見せかけの防御は簡単に打ち砕かれた。
「そうですか。」
この言葉しか出てこなかったが、彼女は無機質な言葉を吐き続けた。
「たとえ救えたとしても別の時間軸なので現代に連れ戻すことはできません。同じように、何かを持ち帰ることも不可能です。先ほども言った通り、この世界は所詮模造品なのです。」
犯人に動揺を探らせまいと、僕は早めに言葉をお返しした。
「では、透子さんは何のために過去に戻ってきたのでしょう。デリケートな部分だと思うので、答えていただかなくても大丈夫です。」
「私もプライドというものがあるのですが、今そんなことを言い出しても仕方ないですね。さきほどの''死者を救うことができない''の例が私なので。」
内心驚いたが、僕は表情を固くしたままだった。
「詳しくお願いします。」
彼女は先ほどより長く深い深呼吸をした。どうやら長い話なのだろう。
透子は禁断の果実を生み出したことに、歓喜したと同時に一つの希望が見えた。それは二個上の兄を救うことだった。
彼女の兄は五年前に交通事故で他界していた。彼女は、自分と真逆で、明るい性格だった兄をとても好いていた。几帳面で頑固な自分とは違く、柔軟で誰とでもすぐに打ち明けることができる兄なので、少し嫉妬したが、そんな兄でも簡単に愛すことができた。それほど彼女の兄は魅力的な人物だったのだ。兄のおかげで、少しは明るく振る舞えることができたし、二人は周りからも最高の兄妹だ、なんて言われるほどの人気があった。兄が大学へ上がり、恋人ができてからも、彼らの絆が途切れることはなかった。むしろ、その恋人とすら仲良くやれたし、すべてが順調に思えた。あの時が来るまでは……。
彼女と兄は同じ大学で勉学に励んでいた。彼女は軒並み頭が良かったが、兄と同じ大学を優先した。兄は友達も多かったが、愛する妹の頼みや誘いを断ったことはなかった。彼女は、兄と二年も一緒に過ごせると考えたら、学びよりもそちらを優先したくなったのだ。その頃には、透子と呼ぶには色がつきすぎていたのかもしれない。
兄が卒業し、結婚式を挙げることになった。透子はそれをなによりも喜んだ。彼の幸せは透子の幸せだったし、透子の幸せは彼の幸せだった。小学生の頃にはいつも一人きりだった透子にも友達が増え、まともな女の子としての生活を送ることができていた。透子の兄からいい影響を受けた透子はまるで別人のように輝き始めていた。透子は幸せだった。これ以上ないほどに。
だから彼が事故で亡くなったという知らせを聞いた時は、これ以上ないほどの絶望を感じた。夢であって欲しいと願ったが、いくら瞬きをしても、頬を叩いても、目の前の景色が変わることはなかった。夢ではないとわかった瞬間、彼女は、大量の涙を流しているのに気づいた。涙は決壊したダムのように流れた。思えばこの数年間、涙とは無縁の生活を送っていた。その事実もまた、彼女の心を打ちのめすための一つの材料になっていた。そこからの落ちぶれようは誰の目から見ても明らかだった。女性らしい服装はしなくなったし、友達との関係もみるみるうちに崩壊していった。兄の恋人には、『あなたが兄を殺した。』『責任を取れ』などとさえ言ってしまった。その時に彼女が見せた涙を透子は忘れたことはない。いつも笑っていた彼女だったが、その時だけは笑ってはいなかった。彼女の泣き顔を見たのはそれが最初で最後だった。あの頃の透子は全てを憎んでいたのだ。友人、恋人、家族、自分、兄までも。今になっては、全て謝罪したいが手遅れにも程があった。家族とはその一件から確実に壁を感じるし、周りの人物から手を差し伸べられても容易に拒んできた。そのせいで、彼女に注目する人物はいなくなったし、煙たがられるようにもなった。ロッカーにゴミが散らばっていたり、赤く『死ね』と書かれてあったことは数え切れないほどあった。だが透子はもうなにも感じなくなっていた。あの事件未満のことなんてこれっぽっちも痛くない。わたしにはもう何もない。そう思った彼女は、それまでの趣味を全て捨てて、勉強に時間を割くようになった。それは当然のことだった。関係や人は簡単に失うが、知識を失うことはないからだ。そのおかげで彼女は大手企業に入り、スペスの研究をするようになった。別に他の分野でも良かったのだが、今の無機物の彼女が唯一興味を持ったのがそれだったというのもある。そして入社した四年後に、タイムマシンが完成した。それはこの上ないほど革命的で画期的だったが、その効果の絶大さゆえに、最も簡単に人を絶望に叩き落とせる道具になった。治験での死亡率は最大の五十八パーセントを叩き出し、スペスの中でも、群を抜いて問題視されるようになった。廃止すべきという意見も飛び交ったが、禁断の果実がこの世からなくなることはなかった。政府もその力にひれ伏したのか、話題にすることを避け始めた。批評家たちは次第に見る影を失った。
透子が研究所を去ったのは、タイムマシンが完成してから一年後のことだった。死人を蘇らせることの危険さと難しさは重々承知だった。だが彼女の望みはそこで途切れることはなく、今こうして過去に戻ってきたのだ。
そこまで言って、彼女は結露でシャンデリアのような模様になったグラスをゆっくりと口に持っていった。カランという氷の倒れる音が店中に響き渡った。
驚いた。彼女は僕とあまりにも同じ道を通ってきたらしい。タイプは違えど根は変わらないらしい。
「そしてその、お兄さんは……」
なんでこれを言ったのかは僕でも分からない。答えはわかっているはずなのに。まるでカンニングしたのにわざと間違える学生のように卑劣な行動だった。その行動は何の価値を生まないのだから。
「今ここであなたと話しているのがすべての結果です。理想の私は今ごろ兄に甘えっきりでしょうから。」
懐かしむように、寂しそうに彼女は言った。彼女の心が動くとき、決まって外を見る。話を聞いて分かった。彼女は決して世界を憎んでなどいないのだ。むしろ憎いのは自分の方であって、外の世界を羨ましんでいるようにさえ見える。完全に彼女を見誤ってしまっていた自分を恥ずかしく思った。
「千秋さんは、なぜ過去に。」
気を取り直して、という感じで彼女は訊いた。
「あなたと同じです。どうやら僕たちはすごく似ている人間なのだと思います。」
彼女は悲しい笑顔を見せた。それは咲良がよくするそれと似ていた。
「残念ですが、そのようですね。あなたにも依存している人がいて、その人を救いたいということでしょう。」
そこまで言って彼女はウェイターを読んだ。彼女と店に入って一時間程度経っただろうか。ようやくと言った具合に彼女は慣れた口調でジェノベーゼパスタを頼んだ。僕も何となく、彼女と同じものを頼んだ。
「さきほどもお伝えしたとおり、あなたの思い通りになる可能性は今のところありません。研究員の一人である私から見ても、無謀であった、と言うしかないでしょう。まぁ、何を言ってももう遅いでしょうが。」
「なぜ無理なのでしょう。事前に起こることを伝えておいたらそれは起こらないと思いますが。不可能なのは''彼女を連れて現代に戻る''ことだけだと思うのですが。」
「事故当日、私は兄を部屋に泊めてほとんど監禁状態にしました。足のためならと思った結果だったので後悔はありません。兄は困惑しながらも付き合ってくれましたし。」
彼女はきっぱりと言った。
「''本来であれば事故が起きていた''時間に部屋からの声が聞こえなくなりました。急いで中に入ると、彼はそこにはいませんでした。その直後、一周目と同じように携帯が部屋中に鳴り響いたときには、全てを察しました。」
起きたことは一周目と変わらないらしい。そこで運命の行き違いが起こることを願うしかないのだろうか。
「まれに、一周目と違うことが起きるでしょう。ですが何周しても事故が起きるということは変わらないと思います。」
「変わるディテールは細かな部分だけであって、主要な出来事は変わらないというのが私の見解です。」
僕が思っていることなど見透かされていたようだ。
その後は長い沈黙が続いた。喧嘩中のカップルのようにも見えていただろうか。二人とも虚しさを抱えているのは間違いないが。
結局、彼女は悲劇のヒロインに堕とされることは変わりのない事実であった。禁断の果実の作成に携わった元研究員が言うのなら本当だろう。後二年、僕は一つの事実だけを持って彼女と生活しなければならない。いっそのこと、何も伝えず、遠くへ引っ越してしまおうか。そこで彼女を想う生活からかけ離れれば、身も軽くなることだろう。そんなことが何の解決にもならないことは重々承知の上だ。
半分ほどパスタを食べたところで僕は手を止めた。それと同時に、フォークと皿が奏でる冷たくて甲高いメロディも止まった。彼女も止め、こちらを見た。
「お兄さんと違うところは、死に方です。あと約一年というところでしょうか。彼女は自殺するんです。」
ただ淡々と事実を述べた。遠回りしても解決しない問題だからだ。
「人為的な死となると、事故より厳しそうですね。」
彼女とはもう打ち解けていたようだ。表情は柔らかくなったし、棘のある話し方もいつのまにか無くなっていた。別の世界ではきっといい友人になっていただろうなと思う。きっと歩んできた道のりもさほど変わらないだろう。
「ですが、真相を突き止めることはできます。過去にわざわざ戻ってきたことから察するに、きっと一周目ではそれが叶わなかったということでしょうから。」
「なんでもお見通しなんですね。」
僕は苦笑いして、パスタを口に運んだ。彼女はまだ何か言いたそうにしていたが、僕にはそれがわかった。
「きっと僕らは、双子になっていてもおかしくはなかった。とでも言いたそうな顔ですね」
「悔しいですが、正解です。」
「こんなのが双子では嫌でしょうが。」
彼女も苦笑いして、同じようにパスタを口に運んだ。
全て食した後、僕らは軽い身内話をした。咲良の話だったり、彼女の兄の話だったり様々だ。どこが好きで、お互い、どんな風に人生を狂わされたかなども。話をしているとき、少なくとも彼女は楽しそうだった。たまに前のめりになって共感してくれることもあり、頼む酒は段々度数が高いものになっていった。
話の話題の中にはもちろんスペスのことも含まれていた。
「近頃、タイムマシンを使った詐欺が横行してます。」
「詐欺、ですか。」
「そうです。AさんとBさんがいるとしましょう。AさんはBさんに好意を寄せており、今にでも付き合いたい気持ちですが、そんな勇気を持ち合わせていないAさんはタイムマシンを使って過去の中でBさんと関係を持ちます。そして現代に戻ってくると、なんとBさんが薄っすらではありますが、Aさんを覚えていると言い出すのです。洗脳に近いですね。先ほど書いた時間軸の考え方でいくと、過去の線が太くなり、現代であろう線も影響を受け、少し太くなっている、ということですね。」
「そんな合理的な説明がつくのでしょうか。過去改変に近いことができるということですよね。」
「そういうことになりますね。これは科学者でも予想していなかったことです。」
頬を赤くした彼女は言った。
「あ、ですが安心してください。兄や咲良さんは記憶が鮮明にあったと言うことで、その確率は無くなります。」
そういえば、彼女に一つ聞きたいことがあった。いや、全て挙げると山ほどあるのだが。
「二周目のある段階で一周目のこれからの記憶がいきなり抜け落ちたことがあったのですが、これはどういうことでしょう。」
「それは初耳ですね。詳しくお願いします。」
赤裸々に全てを語った。その場でいつも通り二周目を考えようとした瞬間、崩れ落ちたこと、あの何とも言えない気持ち悪い一瞬の感覚、丸一日眠っていたこと、医者からはただの貧血だと診断されたこと。
「すみません、私にはそれがなんなのかはお答えできかねます。ですが、それがなんらかの兆候であることは確実です。」
酒が入っているというのに、まだ敬語なのかとふと思った。彼女の防御は相当に硬いのかもしれない。
「なぜそう言えるのでしょう。」
「勘というやつです。しかも元研究員のお墨付きの。」
「それは良かった。」
「言っておきますが、私は自慢したいわけではありませんから。あくまで事実です。」
我に返ったように、咳払いを一つして言った。
「でもわざわざそれを言うということは、自分でも気にしてるってことですよね。」
あしらうように笑って言った。
「あなたは意地が悪い人ですね」
彼女はそう微笑んだ。自分が今日見た中で、それが一番の笑顔だった。
僕らは日付が替わる前に店を出た。店内と外の気温差はジェットコースターを彷彿とさせるような高低差だった。
寒いと言う言葉ですら惜しい、というのは彼女も同じだったようで、いつのまにか脱いでいたニットを今では深々と着込んでいた。
このまま凍死してしまいそうですね、という彼女の意見には賛同せざるを得なかった。彼女の家は僕とは真反対の方向にあるらしく、僕らはすぐ別れる感じとなった。
ありがとうございました、久しぶりに楽しかったですと言う彼女に、こちらこそ、と返した。お互いそれぞれの家に向かおうとしたとき、後ろから、声が聞こえてきた。
「あの」
彼女にしては大きい声だった。陽気で周りと馴染んでいる一周目の彼女を想像するには充分すぎるほど、まっすぐな声で。
「また会えますか」
二言目は、恥ずかしさからか、一言目の反省なのか、声を控えて言った。
「会えますよ。きっと。」
そう言うと、彼女は微笑んだ。二人は手を振り帰路についた。
彼女との話を家に着くまでの道中で振り返った。息を吐くと白い煙が上がり、それを見た僕はタバコを吸いたい気分になった。体に悪いという理由で一周目の僕はやめてしまったが、あれはなかなかにいいものだった。こういったなにか考え事をしたい時によく効く。きっと一周目の今だったらそんなことは思いもしなかっただろう。代わりにポケットから音楽プレーヤーを取り出して耳に装着した。
よく一人の時は、こうして音楽の中に籠るようにしていた。特に理由はないが、歌詞とリズミカルな演奏は気分を安らかにしてくれる。よく聞く曲をセットして、思考の渦に身を投じた。
今日わかったことは、例えどんな手であっても咲良は救えないということ。そして、この世には少数であるが、タイムマシン使用者がいること。間宮透子と僕の人間性や人生はかなり近しいものであるということ。最大の収穫はタイムマシンについての大体の知識はついたということだろう。だが、それが根本的な問題に繋がったかと聞かれたら頷くことはできないだろう。
僕はこれからどうすべきなのか。目的を完全に失った旅人は、ただの流浪になり、辺りを彷徨うしかなくなる。いずれ力尽き、彼を救うものは現れない。本来僕はそうなるべき人間だったのだ。そうならずに済んだのは答えるまでもなく、咲良のおかげだった。
雪が降ってきた。思えば今日が初雪だった。冬の本番を合図する雪は、まるでその時を待っていたかのようにすぐ勢いを増した。
外の音を聴くために、イヤホンを外す。レナードコーエンの声が名残惜しそうに遠ざかり、辺りは無になった。無音を聴くのもたまには良いものだ。
思考を停止して、ただ冬と一緒に歩いた。彼はいつのまにかいなくなってしまうが、それまではいい友人だ。僕は悲しい人間だから、彼とは気が合う。寂しい日には、道に白化粧を施し、僕の存在を隠してくれる。
予想もしなかった今日という日に、時の旅人に出会った。今では彼女は流浪と化してしまったが、いずれ僕にもその時がくる。旅はもうすでに、折り返し地点を過ぎ、あとのことはどうなるか分からない。
帰って横になると、そのまま眠ってしまった。それほど人と話すのは体力がいるのだ。なにしろ自分みたいな弱い人間は、相手の機嫌を損ねないよう、などの細心の注意を払う。相手にどう思われるかではない。結局は嫌われたくないというくだらない願望からなのだが、それを拒むことは今更不可能だ。
朝目覚めると、外は綺麗なほどに真っ白に染め上げられていた。まるで白紙の上に白を塗ったような白さだった。自分はあの事件からというもの、冬に敏感になっていた。トラウマになっているのかもしれない。果たして僕は本当の意味で冬を越すことができるのだろうか、とその景色を眺めて思う。窓際は、すっかり冷め切っていて、手をかけただけで、こちらの体温を奪っていくのがわかった。
昨日のことを思い出す。もう彼女には会えないだろうな、と直感的に感じた。
支度をして、家を出る。彼女の家に寄って、いつも通り一緒に登校する。僕はまだ昨夜のことで頭がいっぱいだ。なんせ、彼女を救う方法はもうどこにも存在しないのだから。
そんな僕の異様な様子を彼女は見逃さなかった。
「千秋くん、なんかあった?」
なんかどころの騒ぎではない。今僕は生きる理由を失ったのだ。何か言わなければならない。いつものように、完璧な嘘を作ればよいではないか。偽りの自分を語ればよいではないか。
しかし、僕はもう疲れてしまった。彼女の自殺の原因がなんだかなんて、元々どうでもよかったのだ。彼女を現実に生き返らす。それが本当の目的だったということに気付かされた。本来前者が目的なら、こんなに気怠く感じることはないだろう。僕は今や、歩く死体と何ら変わりない。
「千秋くんはやっぱり栄養を取った方がいいよ。野菜とか、今度私が……」
なんてことを言いながら、彼女は僕の数歩先を歩む。
次の言葉は、確かに僕から発せられたものだ。いや、''現実の''僕からのものだった。言ってはいけないが、聞かなくてはならない、何が正解か不正解か、僕は麻痺していたのだ。三年間溜めてきた思いを、僕は言葉に乗せて放った。彼女の話を遮る形で。
「君は、死ぬの?」
突拍子のない問いに数歩先をいっていた彼女はこちらに振り向く。
いつもの彼女なら、こんなくだらない質問は流すだろう。しかし、今の彼女は、真面目な顔をしていた。
そして、笑顔になった。いつもの、悲しい笑顔に。
「死ぬよ」
それだけ言った。僕はその場で立ち止まり、彼女を眺めていた。雪が彼女の黒髪を白く染めようとしている。
こんなにも美しく、儚いものがこの世界にあるだろうか。時間が許すまま、僕は彼女を眺め続けていた。
次の日から、彼女が学校に来なくなった。家に寄っても、彼女が出てくる気配はなかった。
彼女が自殺するまであと二ヶ月という日、彼女は僕の前から姿を消した。