3.恋煩い
3.恋煩い
それに気づいたのは、入学して二か月経った日だった。咲良と僕はいつも通り帰路についていた。高校にも慣れて、彼女はクラスの中心人物に、僕はそれ未満の人に、それぞれクラス内での区別がついてきた。彼女は新しい環境になっても注目の的だった。ただ、前と違うのは、クラスメイトから嫌悪や妬みを抱かなかくなったことだ。それどころか、そんな宝石のような人といつも一緒にいる男子として、一目置かれている存在になった。「どういう関係なの?」や「紹介してよ」などで声をかけられることが多々あり、少々厄介だったが、少なくとも中学の時のように同性から煙たがられる存在ではなくなったということだ。高校になり、クラスメイトが大幅に変わった。僕のこの状況を踏まえたらアップデートと言っても良いのかもしれない。そのおかげで、多少人と話すようになった。それもこれも彼女のおかげなのだが。明らかに僕の性格も矯正されつつあった。
「綾人くん、最近明るくなったね」
「君のおかげだよ。」
「えへへ」いつも通り彼女は無邪気に笑った。
彼女は自分にとって全てだった。太陽のような存在で、僕の全てを変えてくれた人。哀れだった一匹の仔羊を導いてくださった神のような存在だ。だが長年の疑問がある。
咲良はどうだろうか。咲良は僕のことをどう思っているのだろう。僕には彼女しかいなかったが、彼女は僕なんかより他にもっといい選択肢があったんじゃないか。僕より魅力的な人は沢山いるし、彼女を僕なんかよりのっぽと幸せにできる人は星の数ほどいるのに。考えれば考えるほど疑問は深まるばかりだった。
まぁ、二週目にこんなことを考えるのはおかしいか。
二週目……?
その時、僕を強烈な眩暈が襲った。昔に見た映画の画面切り替えを一瞬思い出した。直後、僕は道に手をつく形になって倒れた。咲良が必死に声をかけているのが分かったが、僕はそれどころじゃなかった。膝に滲むような痛みが走った。恐らく出血しているのだろう。ごつごつした地面に手をついた。
だがそんなことはどうでも良かった。
一週目の記憶がほとんど抜け落ちてることに比べれば。
二週目ということすら今久しぶりに思い出したのかもしれない。確かに、ここ最近は生活が豊かすぎた。さっき述べた通り、人間関係は良好だし、特に悩みもない。かといって一週目を忘れるようなことは何もなかったはずだ。いつから忘れているのかさえも覚えていない。疑問と不安が襲った。目の前では咲良が慌てふためいている。
僕は泣いていた。それが傷による痛みでないことは自分で分かっていた。それは記憶を失う悲しみだった。彼女との出会い、会話、出来事。さらにただ随一覚えていることが、咲良が自殺するということだ。むしろその日の記憶が鮮明になっていると言ってもいい。運命は残酷だ。どうして一番忘れたい記憶はそのままにしておいてしまうのか。僕への見せしめなのか。それが悔しくかったのか、麻痺していた痛覚が復活したのか、大粒の涙が止まらなかった。どこかで忘れようとしていたこと、記憶の片隅に置き去りにしてしまおうとしたことを、なぜこんなにもまざまざと思い出してしまうのだろうか。吹雪の降る日、作品に借りた映画のタイトル、無機質な電話がかかってきたこと、布団の中で泣いたこと。
僕は彼女のことを直視できなくなっていた。思い出すだけで吐き気がしそうだ。
なんとか体勢を整えようとしたが、それより先に気を失ってしまった。
目を開けると、無機質な天井が広がっていた。全体的に視界は白で澄み渡っていた。今は朝だろうか。はたまた夢かもしれない。現実に戻ったのかとも思った。ただそれがまだ過去だと分かったのは、彼女の柔軟剤の匂いがしたからだ。目を下にやると、咲良は僕の腹にうずくまって肩を震わせていた。一週目の彼女はこんなに泣いただろうかと思い出したかったが、記憶の保管庫にそんなものはないと脳からの冷たい返信を受信した気がした。あんなに幸せな日々を忘れることがあるだろうか。
僕はどうしていいか分からず、薄目で彼女を見つめていた。やがて彼女は起き上がり、薄ピンク色のハンカチで涙をふいた。それだけ見てまた眠りに落ちた。
まだ夢の旅は覚めてない、それだけで安心した。
目を開けると、そこは真っ暗だった。さっきのが夢か現実か分からなかったが、ここはどう考えても過去の中の現実だった。病院のアルコール臭い匂いが鼻を掠めたからだ。僕は暗闇の中で考えた。なぜ、一週目の記憶が消えたのか。ここから僕はどうしたらよいのか。そもそも一週目なんてものは存在せず、ここが現実で、その前まではただの長い夢だったのではないか。そうだとしたら、咲良は死なないで済むのだろうか。僕は目を逸らしたいことまでも、深く考えた。ピースをはめるように、順序よく。
だが、そのパズルが完成することなく、朝を迎えた。結局のところ、考えたって無駄だという考えに至った。
日の出を見たのは久しぶりだった。朝日は僕が思うより強く、明るく街を照らした。絵の具をこぼしたようにオレンジが広がっていく。それは咲良と出会った時の光景にかなり似ていた。彼女にも見せたい。
それからしばらくして咲良が来た。その前に看護師や医者らしき人物から説明を受けたが、ただの貧血らしい。だがそれが貧血によるものではないことなど、自分が一番分かっていた。彼女が来ると分かったのは、ドタドタという足音のおかげだ。扉越しにも聞こえる大きさで、革靴を高らかに鳴らしているのが容易に想像できた。大袈裟すぎる、と思ったが、それでも嬉しかった。
彼女は病室の前まで来ると両手で思いっきり扉を開き、一目散にこっちに向かって走ってきた。
「大丈夫?」彼女は息を切らしながら聞いた。
「大丈夫だよ、ただの貧血だって」
「良かったよ、通った甲斐があった」
「そのおかげなのかな」
「当たり前だよ。私に貸しが一つ増えたね」
私のおかげだねと言わんばかりに彼女は自信で満ち溢れふれていた。そしてそれは安心しきった表情でもあった。
「なんで泣いてたの?」
気を取り直して彼女は言った。
それを聞きたいのはこちらもだったが、内緒にしておこう。
僕は脳内を高速回転させ、必死に嘘の言葉を並べた。こういうのは昔から上手かった。
「膝を擦りむいて痛いってのもあったけど、意識が朦朧としていく様がとても怖かった。魂を抜かれるようなそんな感じ。初めての体験だったから思わず泣いてしまった。」
実に完璧な嘘だと思った。ありそうな出来事をありそうな表現で固める。言わば、粘土細工みたいなものだった。完成した作品を僕は自慢げに発表したのである。まだ全てを打ち明けるわけにはいかない。
「怖いねー。私もびっくりしたよ。」
彼女の心配する声色は変わらなかった。
「明日から普通の生活に戻っていいらしいよ。」
「ほんと。良かったよほんと。」
散歩ではしゃぐ犬のように、喜んだ。
「どのくらい経った?」
「丸一日かな。私ね、四回来たんだよ。」
あの泣き姿は、僕だけのものにしておこう。いつまでも脳のメモリに大事に保存していよう。
「でも一向に目を覚まさなくてさ。」
「良かったね。目が覚めて」
彼女はニコッと笑った。その笑顔は、今まで自分が見た中で最高の笑顔だった。雲ひとつない晴天のようだった。僕はこれを失う。二年後に。しかもこれからは『一週目』というヒントなしで生きていかなければならない。原因を突き止める。そして阻止する。後半の部分は、二週目を過ごしていて新たに浮かんだ考えだ。ところどころ過去と違うとこがあるのなら、それも起こらないのかもしれない。道が違えばゴールだって、結末だって違うかもしれない。それが現実にどんな影響を及ぼしたって構わない。どんな重罪を受けたって構わない。彼女が生きてさえいれば。
僕が退院して一週間が過ぎた。自分が選んだ選択がこれで正しいのか、一週目と合っているのか、などはもう考えすらしなかった。しても無駄なだけだ。ただ幸せなだけで全て良かった。ただ、事件は僕らが気づいてない間に背後に迫ってきていた。
事件が起きたのは、蝉が泣き、太陽が照りつける、二年目の暑い夏だった。僕の高校では夏期講習があるのだが、それが起きたのも夏期講習真っ只中のことだったと思う。
いつも通り二人は面倒くさがりながらも暑い中登校していた。僕らは歩きだったので風を浴びることはなく、いつも汗だくだった。目の前を通る自転車がとても羨ましかった。彼ら彼女らはシャツをだらしくズボンから出して、それを靡かせていた。船の上の帆のようだと思った。それは忖度抜きでとても気持ちよさそうだった。彼女もそれは思ったらしく、
「来年から自転車にしようか。」と提案してきた。
「うん。こんなのはもうごめんだね。」僕も乗った。
学校に着くと、校門に人が溜まっていた。その状況から校内には入れなさそうだった。
「何があったんだろう」彼女は心配そうに聞いてきた。
「分からないけど、入れる状況じゃなさそうだ」
中にはパトカー複数台と、救急車が止まっていた。警察が何人かいて、そこからは物々しい雰囲気を感じた。
すぐに生徒指導の先生が校門にやってきて、すぐ帰るように促した。そこにいる人たちはなかなか離れることはなかったが、僕たちもそこに溜まっていた。その時には暑さは消えていた。というより、異様な雰囲気を感じてそれどころじゃなかったと言ったほうが正しいのか。
すぐ、ブルーシートで何かを隠してるのが目に入った。
「あれって……」と彼女は呟いたが、僕は無言だった。そこでようやく事態の大きさに気付いた気がする。心の中で胸騒ぎが起こる。一週目の記憶はほとんどないが、絶対と言っていいほどこんなことはなかったはずだ。答え合わせしたかったが、解答はもう僕の手元にはなかった。
自殺だった。男女二人の。どうやら前日に屋上の鍵を開けて、今朝早く学校に着き、飛び降りたらしい。学校はそれの対応でしばらく休みになった。僕がそれを知ったのもニュースを見てからだった。夏休みは予定よりも伸び、暇な時間もそれに合わせるように増えた。僕たちは何回か会ったが、話題はそれに持ちきりだった。原因はどうとか、ただの噂にしか過ぎないデマとかも語り合った。そんな話題を喫茶店で声高らかに喋っていたので、客からは時々白い目を向けられることがあった。それに気づくと、僕は彼女を止め、逃げるように退席していったりもした。
二人は手を繋いで落ちたらしい。そうなると僕が真っ先に考えるのが咲良のことだ。もしその時が来て僕も一緒に逝ったらどうだろうか。おそらく彼女は望まないだろうな。なんせ彼女からは悩みという悩みを聞いたことがない。一人で抱え込むタイプなのだろうか。僕が二週目になっても気付けなかったことだ。僕がすることは一つだけ。その悩みの原因を解明してしまえばいい。現段階でそれがあってもなくても、それを根から抜いてしまえば、これ以上ない。あと約二年、ここからは、すべてのことに注意を払う気でいた。
原因はあげると幾つかあったが、どれもこれも立派な悩みとも言えず解明は困難だった。しかも彼女はこよなく現実を愛するタイプの人間だ。口癖は「生きててよかった」だし、生の喜び的なことを言ってくることもあった。彼女から死の言葉を感じたことはお世辞にも一度もなかった。
だが今回はいい機会だ。ある日僕は彼女に問いた。
「咲良はさ、死についてどう思う?」
高校一年生にしては重すぎる質問だとも思った。
「うーん、それって悲しいし、儚いものだけど一方で喜ばれるべき事でもあると思うよ。自ら死を選択する人にとってはね」
ほんとに彼女は独特の世界観を持っている。
「つまり?」
「死と同調したって事だよ。老いたり病気で逝ってしまう人は死からのアプローチだけど、そういう人たちは死と和解したんだと思う。死も受け入れ、人も死を受け入れた。そんなことができる人間ってすごいと思うな。」
悲しい表情で言った。この悲しい表情については、二週目となった今でも意味は分からないが、これが自殺する人の合図なのかもしれないと考えると……。
いや、下手な断定は良くないと思った。それじゃまるで今から死を望んでいる人ではないか。今のところ彼女は一番近くの僕から見ても健全な女の子だった。
「要するに、自殺じゃなくて、死と分かり合ったってこと?」
「そうだね、私はそう言ったほうが正しい気がする。」
彼女の思考は深いどころか、僕には手の届かないとこにあるのだろうと思う。
「そうすると残酷だね。彼らは三人で分かち合ったんだから。どっちか一人が止めることもできた。」
店内では、クラシックなBGMが流れていた。この中で死について語り合う僕らは何か神聖で美しいものに思えた。
「それがそうではないらしいんだよ。彼ら実はカップルじゃなかったらしいの。聞いた?」
それを聞くのは初めてだった。僕の町はあの事件以来、その噂話で絶えない嫌な町となったわけだが、そんな話を聞くのは初めてだった。
「初めてだ。意外というか、それを聞いたら話が変わってきそうだ。他殺だって考えられる。」
「それが怖いことに、争った形跡がないらしいんだよ。」
「だとすると片方はどうして……」
「そこが問題だね。」
咲良は探偵にでもなったかのようだった。時々彼女は色んな役職になって僕との会話を楽しんでいた。時には討論者になりスイーツの重要性を、時にはストーカーになり好きなアイドルを語ってきた。そんな彼女が僕は好きだった。家族以上に長い時間を過ごしているかもしれない。
「どちらかの恋煩いだったことは確実なんじゃないかな。人物像的に女性の方だろうね。」
そう、この事件の注目ポイントはここにあった。男子の方はみんなから好かれる咲良のような人だった。クラスに友達がいたし、素敵な彼女だっていた。僕もクラスは同じで、よく彼の笑った顔が容易に想像できた。彼からは笑顔以外見たことがなかった。要するに彼はいいヤツだったのだ。彼が実は咲良を狙っていたという噂も、耳に胼胝ができるほど聞いた。
一方、女子の方は、陰気臭い、周りから煙たがれる僕のような存在だった。彼女と同じクラスメイトでさえ、その報道を聞いた時、最初は誰のことだか分からなかったというほどらしい。
そんな二人が、一緒に飛び降りた。手を繋いで。
「もしかしたら洗脳にかかっていたのかもしれないよ。ほら、惚れ薬的なやつ?」
「いや、それはないな。周囲の人間は、彼女が彼に近づくところさえ見たことがないらしい」
「心中しかないけど、心中はありえない。不思議だね。」
彼女は、頭を掻いてみせた。彼女が悩んだりする時は、よく髪を触る癖がある。
「君が僕とここにいることと同じくらいね」
不意に口にした。
「悲観的な性格は変わってないんだね。」
彼女はくすくすと笑った。見惚れて顔が赤くならないように僕は外を向いた。生産性のない生活で曜日感覚などとっくになかったが、今日は休日なのだろう。外には幸せそうな子連れの親、どうしてそこまでと言いたくなるような短さのジーンズを履いた二人の女の子、ウェアをぴちっと着てランニングをする中年の男性、他にもいろんな人がいた。溢れかえっているほどではないが、ここもまだ廃れることはないんだなと感じた。相変わらず暑苦しい太陽は、道の奥をまるで水かのように照らしていた。あの現状はいったい何だろう。
彼女とはそれからしばらくして会計を済ませ、外へ出た。外は気が狂いそうなほど暑く、息苦しささえ感じた。まだ中にいればよかったと少し後悔した。僕らは行く当てもなく少し歩いては店に、また歩いては店に入るといった程度で過ごした。お互いでしか埋められないものがあった。二人とも、どうにか一緒に過ごす時間を増やしたかったのだ。家に帰ると、一人の時間がたまらなくつまらなかった。つい何年か前までは家が唯一のテリトリーだったのに。咲良の魔法に僕はすっかりかかってしまったようだ。
そこから小一時間ぐだぐだしてから僕らはそれぞれ、''お互いがいないつまらない空間''に戻っていった。
僕の両親は僕に対して特に無関心だった。帰ったら、卓にスーパーの惣菜が置かれていたことなどは珍しくなかったし、基本的に話は少ししかしない。だが、それも彼らなりの愛情なのだろう。深さの話ではない。見せ方がそうなだけであって、他の家庭とは違うと見切りをつけることで僕は僕を救ってきた。公園にいる三人で手を取り合っている幸せそうな家庭を見ると心底悲しい気持ちになったが、彼女には打ち明けたことはない当たり前のことだがない。咲良の両親も見たことはないし、彼女の口から聞いたことすらない。だがきっと、僕と同じ感じなのだろう。二人の間で親の話はもはや、暗黙の了解となっていた。
だから初めて彼女が僕を家に招いた時は驚いた。それは夏休みが折り返し地点を差し掛かり、例の話題のも鎮火されつつある日のことであった。
僕たちはいつものように街をあてもなく歩いていた。同じ道をもう二十回は歩いている。この門を右に曲がると小洒落た喫茶店があり、左に曲がると古びた本屋がある。僕の頭の中のナビは、この暑さの中でも正常に働いていた。「どっちもつまらない道だ」と思う。夏休みが始まった当初は、新鮮さそのものだったが、今ではもう「普通」の道だ。彼女も同じことを思ったのか、家に来ないかという提案をしてきた。彼女にしては大胆な行動だった。快く受け入れたが、彼女がいつもとは違う空気だということは鈍感な僕でさえ分かることだった。
彼女の部屋は意外にも無機質だった。物は少なく、部屋というよりかは、個室の方が言い方として正しいだろうか。
「狭くてごめんね。そこ座って」灰色のラグを指差して言った。
「意外だね、なんというか、シンプル。」包み隠さず言った。
「でしょ、つまらないよね。」
「そんなことない、少なくとも僕よりは面白い」
「えへへ」彼女は愛らしく笑った。
しばらく二人とも無言でいると、彼女は沈黙を遮るかのように飲み物を取りに下へ降りていった。
彼女の言う通り、この部屋はつまらなかった。というより物足りなかった。てっきり洋風の城のような部屋なのかと想像したが、そこには民家の一室があった。だがかえって現実みがそこにはあった。こんな部屋なら、止まることなくいけるかも――とふと思ってしまった。僕は勝手にその光景を想像する。あの細い首が締め上げられ、無気力にぶら下がる体は冷たく白に色づいている。その時咲良はどんな表情をするだろうか。彼女の苦しい姿を見たことはおろか、想像さえままならない。思いつくパターンの全ては朗らかでまるで寝ているかのような表情ばかりだ。
「いや、やめよう。」そこまで考えてこの考えが浮かんだ。この世界ではきっと起こりもしないことだ。
数分して、彼女はクッキーと飲み物を抱えて部屋に乗り込んできた。相当な量を抱えていたが、それを乱雑にベッドに散らした。
「これで足りそうだね。」自信満々な彼女にまた惹かれてしまった。
「足りそう?お泊まり会でもするつもり?」
「そうだよ、千秋くんには今日はうちに泊まってもらいます。異議は認めません。」
軽くジョークのつもりで言った言葉が、まさかほんとだったとは。彼女はどこまで残忍なやつなんだ。
「着替えすら持ってきてない。」
「パパのを使えばいい。」そして彼女は馬鹿だ。
「連絡手段もない。僕の家族は恐らく失踪届を警察に提出するだろう、そしたら君は誘拐犯として捕まるけど。」
「その前に君をめちゃくちゃにするよ。そうして目的が果たした時、私は千秋くんを殺すの。」
夢のことを語るようにわくわくした彼女を隣で見てると、こっちまで気がおかしくなりそうだ。今の彼女はサスペンス映画ものの悪役となんら変わりない。昔、狂気じみた殺人鬼が縦横無尽に人々の命を奪う映画を観た。彼女ならそんなこともできるだろう。そうだな、まずはこの美貌で相手を取り憑くところから始めるだろうか。実際、僕がその一人だ。ただ、その映画の結末は誰も予想してないものになる。『悪役が死ぬ』というのは、誰がどう見てもハッピーエンドでしかないだろう。自殺だと話は違ってくるのだが。
映画の中身を飛ばして結末を見た時、観客は疑問符を浮かべるだろう。実際のところ、僕がその状態だ。主要登場人物と結末だけ知ってる被害者役の俳優。今は中身を追っているところだろうか。長さを見るにようやく中盤ってところだ。結末を変えることが果たして僕にできるだろうか。
「君に殺されるのなら光栄だ。」
「えへへ」かけられた罠は、僕の最深部まで侵していく毒付きで、今でも体を蝕んでいる。
その夜僕たちは、特になにもしなかった。旅行の時のように向かいあって眠ることもなく、敷布団とベッドでそれぞれ分かれた。幸せな新婚夫婦から離婚ぎりぎりの崖っぷちに立たされた夫婦の変わりようはこんなものだろうか。彼女の親はどちらも出張中らしく、今日はたまたま家にいないとのことだった。どんな仕事なのだろうと疑問に思うと同時に、土下座したいほど感謝していたのも事実だ。
彼女はベッドで、僕は下で敷布団を敷いて寝転んだ。特に眠くもなかったのは僕だけではなかったようで、映画を観ようということになった。
彼女のセンスはなかなかにいいものだった。静かな夜に合うお伽話のような映画だった。内容は端折るとするが、なかなか面白い映画だった、気がする。というのも、僕は寝てしまっていた。目を開けたら朝日が眩しくこちらを照らしていて、全てを察した。今はざっと六時といったところだろうか。恐る恐る彼女のいるベッドを覗き見たが、咲良はまだ寝ていた。いつまでも見ていられるなと考えながら彼女の寝顔を見ていると、眉毛が少し動き、ゆっくりと目を開けた。そのまま見つめ合う形となってしまったが、それもなかなかドキドキするもので、僕たちは数秒か数分の間、見つめ合っていた。胸の高鳴りは時間だ経つにつれ、増していき、頬が赤くなった。それは彼女も同じだったようだ。
「キスしようか」
「うん」
僕たちは甘い口づけを交わした。不意に、あの事件のことを思い出した。なんとなく、彼女がとった行動の理由がわかった気がした。僕もとっくに彼女の恋煩いにかかっていたからだ。
家に帰ると、分かってるよと言わんばかりに母親がニヤニヤこちらを見た。こちらも、そうだよと言わんばかりの微笑を返しておいた。お願いだから、口にしないで欲しい。恥ずかしさで爆発しそうだ。
そこからは、お互い会う回数を減らした。やはりどうしてもら恥ずかしさが勝ってしまうのか、あれ以上いい時間を過ごすことはできないと悟ったのか、会う数は、後半になるにつれて、だんだん減っていった。だが、仲を悪くしたということではない。二人の間の空気感などは僕が思う限り、変わったことは一度もなかった。だが時々不意に目を合わせると、ドキッとしてしまうことがあった。それを感じてしまったら、その日は気まずい雰囲気が二人を包んだ。だがどれもこれもいい思い出だ。
今年の夏休みもまた、濃い時間を過ごした。
謎の事件が起こった僕の高校だったが、新学期はなんの予定を狂わせることなく始まった。学校では、それ関連の話を禁止すると高らかに宣言したが、始まって数週間はそれ関連の噂話で持ちきりだった。彼の親しかった友人や彼の彼女は度々泣くことがあった。その涙は明らかに悲しみからくるものであることは明確だった。ふとしたことから彼がもうこの世にいないことを感じるのだろう。それに嫌でも気づいてしまったら、こじ開けられた感情に蓋をすることは簡単ではなかった。
周りに気づかれないように泣く者もいたし、大声で号泣する者もいた。そんなことがしょっちゅうあったのだが、それらは彼の人望がいかに厚いかを僕に見せつけているようで、少し退屈した。「悲観的だね」と咲良に笑われるだろうか。彼女もその男と関わりがあるようだったが、少なくとも僕の前ではそんな話は一切しなかったし、泣いたりするということもなかった。僕はそれを不本意ながらにも喜んでしまっていた。根っからの屑というのは、こういった存在のことを言うのだろう。
彼の葬式が開かれたが、僕はもちろん行かなかった。なんせほんとに関わりがないのだ。誘いすらも来なかったし、それが悲しいとすら思わなかった。彼女は行ったらしいが、それは彼女の善意からか、それとも存命中の親しみがあっただろうか。どちらにせよ、僕には分からない世界だ。僕が''こんなの''になったのは理由がある。
僕が通った小学校はとても大きかった。建物という点でも、人数という点でも。僕は小学生のときはまだ''そちら側''だったのだと今になって思う。彼女と同じクラスになったことはなかった。彼女の変身前を覚えていないだけなのかもしれないが。
僕たちのグループには標的がいた。今の僕みたいな、悲観的で陰気臭いやつだ。そんなやつのくせに、なぜか僕たちについてこようとする。そんな都合の良さを僕らは良く思っていなかったのだ。ある日から、彼を遠ざけた。だが、僕だけは違った。僕はそんな彼の唯一の話し相手だった。僕も根は同じだったのだろう。彼とは話が合ったし、いつもはグループ内で少しは気を使うところも、彼とならその必要がなかったので、楽だったとも言える。日に日に仲が良くなっていく僕を見て、彼らは次の狙いを僕に定めたようだった。ある日から一言も口を聞いてもらえなかったのだ。でもそれが要因ではない。一番心にきたのはその彼までも話をしてくれなかったことだ。そして彼はなんと僕の席を奪い、そのグループに居座ったのだ。この時初めて、人間の闇や、嫌な部分に気付いたのだと思う。いや、今までは見て見ぬふりしていたことが露呈したと言ったほうが正しいだろうか。それから、誰かが笑い合っているところを見ても、『簡単に裏切るんだろうな』と思ってしまうようになっていた。こうして、僕という卑劣でクズな人間が完成した。そんな僕を咲良は受け入れてくれたのだ。彼女はやはり天からの使者だ。
ある日、咲良と一緒に帰路についていた時、ふとある匂いを感じた。それは僕にとってとても嫌な記憶を思い起こさせた。夏の終わりを久しぶりに感じた。金木犀の匂いがどこからか風によって運ばれ、まるで紅葉も崖っぷちかのように、枝にしがみついているものもあれば、リタイアしたものもあり、その残骸が、僕たちの足元を色鮮やかに彩っていた。
冬が来る。彼女のタイムリミットまで残り一年を切っていた。
冬は嫌いな季節だ。もちろん彼女のこともあるのだが、理由は他にもある。冬は全てが終わり、変化する季節だからだ。それは関係や位もそうだが、生命の終わりでもある。雪化粧はそれを見るだけでも人の心を豊かにするという。僕に言わせてみればそれははったりだ。空は暗いし、道は純白ではない。所詮水なので、靴の中にまでも侵入してくるし、すごく厄介だ。何を言いたいのかというと、白の裏には必ず黒があり、利点の裏には犠牲が山ほどあるということだ。その年も僕らの町は積もった。少し寒くなったと思えば、間髪入れず大量の雪が襲ってくる。毎年そうだ。僕はこの時だけ神を呪う。毎年の恒例行事だ。
だが、そんな綺麗事を言えないのも事実だった。なぜなら僕は、その神が与えた賜物に縋っている一人の弱い少年だからだ。しかも、その中で禁忌を犯そうとしている。人間というのは、動物史上最も都合の良い生き物だろう。『過去に戻る』なんて発想、人間以外のなにが思いつくだろうか。二人の事件を聞いて初めて思ったことはスペスを服用したのではないか、だった。過去の中で彼(もしくは彼女、または二人とも)は過去を謳歌しすぎたのかもしれない。そんなのはただの妄想でしかないが、よく考えてみると筋の通る話だった。使用するまで分からなかった感覚だ。あらゆる事件について新しい視点を得ることができた。まぁ、そんなの何にもなんないけど。
時々、朝目覚めると、全て夢だったのではないかと思う。彼女が死ぬというのも、この人生が二週目というのも。あの薬も、タイムマシンも何もかも全てが。そんなのが何の安心材料にもならないことは十分分かっていた。だが、僕は現実から、真実から目を逸らしたかった。ほんとは五年前に向き合っているはずの真実に。
だが、なにを言っても全て過去のことだ。実際に自分の意思で起こしたし、起きてしまった。そうして今がある。
僕には嘘で固められた真実を突き通す義務がある。禁忌を犯すというとんでもない義務なのだが。
町は冬になって静かになった。夏は人気だった飲食店や喫茶店も閑散としていた。やはり、冬は寂しい季節だ。と思いながら道を歩く。今日がいつもと違うことは、雪がなく、久々の晴天ということもあるが、隣に彼女がいないことだろう。僕は一人で町を散歩したくなる瞬間が時々ある。これは隣に咲良が一緒にい始める前からの習慣だった。彼女といることでこの衝動は薄れていったが、冬は違った。今になってわかる。きっとあの頃の僕は寂しかったのだ。誰からにも相手にされない生活がたまらなく。幸せな家族とかカップルとかを見てると安心した。いつかは報われたい、ああいう生活をしたい、そう切に願っていたのかもしれない。その時は、単なるないものねだりだったが、今は違う。卑劣で弱い幸せを願う少年を救おうとしてくれる人が今はいた。彼女といることで幸せは現実味を帯び、それは立派に完成し始めていた。完璧なものになるまであと少しのところまできていたのだ。
道を歩いていると、ある裏路地に目が止まった。いつもはこんなつまらないところなど無視する僕だが、なぜかこの時は違かった。ふと、そちらに行ってみたくなった。そこは薄暗く、ご飯なのか、埃なのか分からない匂いで満ちていた。足場の悪い道をのそのそと歩いていく。なにか見てはいけないものを見ようとしている気がした。この先に答えはある。そんなふうにも思った。実際、予感は当たらなかった。そこには一軒の古びた居酒屋があり、他になにか人生を変える手掛かりになりそうなものはなかった。
だがこの予感はすぐ的中することとなる。僕がなんとなく居酒屋の前に佇んでいると、店の扉が開く音がした。一人の女性が中から出てきた。客なのか、定員なのかは分からないが、ニットにロングスカートというなんとも女性らしい格好をしていた。年齢的に二十代後半といったとこだろうか。彼女と目が合ったとき、驚きと疑問で心が埋め尽くされたのは彼女の方も同じだった。二人は磔に固定されたかのように数秒間動かなかった。僕も彼女も言いたいことは同じだったが、先に重い口を割ったのは彼女の方だった。
『あなたも戻ったんですか……』
すっかり夕方になり、辺り一面がオレンジ色に美しく、容赦なく、残酷に照らしていた。まるで嘘と矛盾を白日に晒すように。
彼女が死ぬまで約一年の今日、オレンジ色の空の下で、僕は二、いや、三度目の運命的な出会いをした。