2.ロマンティック
2.ロマンティック
人にもしニ週目の人生が与えられたら、どうするだろう。後悔を一つずつ取り戻すだろうか。それとも不自由ない幸せな人生を追体験するだろうか。人によるだろうが、結局は追体験に収まるのだろう。この議論は実際、タイムマシンを扱う討論番組やネット記事なんかでよく見かけた。その時の僕にとってはどうでもいいことだったが、今は僕もそんなタイムマシンの奴隷と化している。関係ないと思っているほど、そういうのにハマりやすいのだと思う。犯罪も、薬物もそうだろう。
自分の場合、後者に近いように思った。というよりそうでなければならないという使命を持っている。より詳しく言うと、僕は彼女に違和感を覚えさせてはいけないのだ。できるだけ記憶と同じようにしなければ、この偽りの幸せは崩れてしまう。いくら死の真相を突き止める目的と言っても、過去に戻ってみると、そんなのは二の次だった。僕は残り少ない幸せを楽しんでしまっていた。彼女に不信感を覚えさせないよう、『中学生の幸せ絶頂期の僕』がしなさそうなことはとことん避けてきたつもりだ。一つ一つの行動の切り捨てを慎重に行ってきた。が、そればかりではない。たまに一週目とは違う行動をしたし、それはかえって楽しかった。咲良との日々は一週目と同じ楽しさ、違う楽しさがあった。そこから来る感情も異なっていて新鮮だったのだろう、自分は段々違った選択を選びがちになるようになっていった。だが、基本的な方針は変わらず普通に振る舞えるようにしていた。実際、この作戦はなかなか上手くいった。
「進路とかどうするの?」横でかき氷を頬張る彼女が聞いてきた。時々見せる、朗らかな表情に稀に衝撃を受けることがある。眉をひそめる仕草に釘付けになってしまう。僕たちは一年足らずでここまでの関係に成長したのだ。彼女の明るさと僕の暗さは意外にも合っていたのだ。意外にも彼女の中には、僕と同じような悲観的な何かが存在するのだと思う。喫茶店の彼と同じように。僕が想像してないだけで、彼女の''ここまで''にも辛いことがあったのだろうか。いや、今の僕にわかることではない。半ば強引に思考をやめさせた。こういう負の考えをする時、僕は永遠に続く迷路の中にいるようだ。次から次へと問題が浮き彫りになっていき、最終的にはどこにも行きつかない。
彼女との日々は二週目なので分かっていたところもあるが、改めて過ごしてみると、一週目の復習でも、二週目の習得も、素晴らしいものだった。
中学三年の夏に、もう二度といけないかも、と二人で来た夏祭りだが、玲奈が靴擦れを起こし、神社の石階段に並んで座って休憩している時だった。
二人とも同じ高校に行くのはどうせ分かっていたが、あくまでそういう体で誘い出したかったのだと思うし、僕もそれを受け入れた。
彼女は花火柄の浴衣を着ていた。りんご飴のような髪飾りも。その姿を切り取って、サムネイルとして映画の見出しに貼り付けたかった。タイトルは何がいいだろうか。
「ここに残るよ。僕はここが好きだし」
「じゃあまだ一緒にいられるね」彼女は安堵したのか、間伸びした言葉を吐いた。最初から同じところに行くことは二人の間、いや、周知の事実であった。僕たちの間には、一年で替えのきかない絆みたいなものができていた。
「そうだね、あと三年も手を焼くのは御免だけど」
それを聞くと咲良は顎を引き、少しムッとなって肩を小突いてきた。僕が笑うと、彼女も少し微笑んだ。彼女のこういうところが素直に好きだ。これも一週目と同じ展開だと思うと、安心した。僕はよくやれてると、自己暗示をかけていたのかもしれない。
そこは僕らの休憩場所ではあったが、祭りの終焉を告げる花火を見る場所としてはなかなかの特等席だった。前に一組の高校生らしきカップルが花火が打ち上がる前というのに指切りをしていた。少し大きく、小麦色の指が、鶴のような細く、長い指に絡める。彼らは秘密を共有するかのように互いの顔を近づけ、微笑み合っている。彼らが互いに何を思い、何を願っていたのかは定かではない。が、それはハグよりも、キスよりも大事なことのように見えた。僕らはそれを無言で見つめていた。
この後、彼らと同じように咲良と指切りをする。不意に記憶が目の前を横切った。
二人が前の小さな幸せを見つめながら思っていたことはこうだ。
『僕たち(私たち)もこういう関係なるのだろう。』
すると二人はほんの少しの好奇心から、指切りをした。
この事実を知っていた僕はいくら平常心でいようとしても、なぜかドキドキした。それが重大なものに思われたからだ。一周目では気づかなかった感覚がそこにはあった。咲良は気付いてないらしかったが、ここで動揺を悟られる訳にはいかないと僕は必死だった。
「ねぇ、」この先に来る言葉も行動も全てわかった。
「指切り、してみない?」
「そうだね」
そう言って僕らは顔の前で互いの小指を近づけた。彼らと同じように、顔を近づけた。彼女は笑ったが、すぐ真剣な顔に戻って目を合わせた。時々、僕らは手を繋いでみたりしたし、僕が風邪をひいた時は、彼女の優しい手が額に当てられたこともある。しかし、今回はいつものそれとは違う感覚があった。彼女の小枝のように細い指が僕の弱気な指に蛇のように巻き付く。
僕は彼女との永遠を望んだ。たとえ叶わなくたって一つの大切な願いだ。
咲良は何を思っていたのだろう。
頭の中には僕とのオレンジ色のような暖かく幸せな日々が描かれていたのだろうか。それとも黒に塗られた限りある未来を、この時点でもう見据えていたのだろうか。
してみて最初に思ったことは、意外と落ち着くなという感想だった。相手も同じことを思ったのだろう、僕らはなかなかそれをやめなかった。照れくさそうに微笑みながら腕を振り回したほどだ。
咲良は膨らんだ唇を開け、優しく歌った。
『ゆびきりげんまん、嘘ついたらはりせんぼんのーます』
ゆびきった。
この恋は、どこに向かうのだろう。それが終わりを迎えることが分かっているこの行き場のない偽物の愛は、果たしてどこへいくのだろう。
それは花火が鳴り終わるまで続いた。ようやく最後の火花が空を舞って散っていった。辺りが真っ暗になったところで僕たちも顔を離した。そこからはお互い恥ずかしかったのか、数分目を合わせることはしなかった。僕が彼女の顔を盗み見ると、彼女は泣いていた。
一週目にこんな記憶はなかった。内心焦ったが、いつも通りの行動を心がけていた僕は、彼女になんとなくティッシュを渡そうとした。が、彼女はすぐに笑顔になり、
「なんか面白くて笑っちゃった」と言った。その言葉が嘘であることくらい、僕でさえ分かった。
その泣きは明らかに啜り泣きであった。それが彼女の自殺原因に繋がっているかは分からないが、意味のある涙だということには気付いていた。
次の日、いつも通り学校に向かう前に、咲良の家に寄った。二人で登校するのはもはや日課になっていた。八時五分に彼女の家の前に立つ。少し待つと、彼女が満面の笑みで僕に駆け寄る。
「おはよう、千秋くん」そう言う彼女の目元は明らかに腫れていた。
そこからはいつもの他愛のない会話に戻ったが、僕は昨日のことと合わせて、まったく集中できなかった。したがって返事がほとんど「うん」とか「そうだね」といった単調なものしか出てこなかった。何かを悟ったのか、咲良はそれ以上喋ることはなかった。
やってしまった。ここで二週目初めての決定的なミスを犯してしまった。咲良は何か考え事をしていたのか、口をつぐんでいた。学校に着くまで二人の間には変な空気が流れていた。九月終盤は、季節的には秋なのだろうが、それを全く感じさせない猛暑が街を襲っていた。
朝は流れていた気まずい雰囲気も、放課後になればいつも通りに戻っていた。
こうして二回目の運命的な出会いから、早一年が経っていた。僕たちは''予定通り''同じ高校に入学した。二人は入試試験が終わった後、お祝いという名目で、旅行に行くという計画を作った。と言っても大したところではない。咲良が一番好きな場所らしい、ちょっとした温泉に行く一泊二日の旅行だ。そのおかげで僕たちはやる気を失わず、勉強に打ち込むことができた。この時が唯一、咲良という存在を忘れる時間だったかもしれない。それほど、僕は彼女に恋していた。登校も下校も、休み時間も一緒にいたが、内容は日常的なことから勉強の事へと変わっていった。もちろん僕は二週目なので、大半の記憶はあるのだが、細かい記憶や、重要としてない記憶はほとんど抜け落ちており、試験内容などは一切覚えてなかったので、カンニングではないだろうが、少しだけ姑息ではある。
彼女との学力の差は全くと言っていいほどなく、どんなテストでも平均的、と言ったところだった。彼女と順位が並んだことなど、もはやよくある話だった。クラスの男女はそれを見て僕らを揶揄ったりした。
幸運なことに、彼女はそれらを受け流すのがとても上手かったのだ。子供が大人に柔道で挑むようなものだ。彼らは軽くいなされた。そういう点で言えば、彼女はとても頭の切れる人物だ。
少なくとも僕と同じような結果になるとは到底考えられないほどに。
入試当日、不運なことに会場で二人の教室は分かれてしまった。一週目では同じ教室だったのに、今回は違った。二週目の人生ではよくこういったことが起こった。こういった一週目との相違を僕は、『運命の行き違い』と名前をつけて考えるようになっていた。まぁ起きてしまうのも仕方がないことだ。なぜなら意思とは関係ない運による選別はいつも同じようになるとは限らない。それに、一人になる時間が二周目には多少必要になっていた。彼女の言動などに引っ掛かる部分があれば、受け入れ、それを噛み砕くのに集中できる時間が欲しかったからだ。
「頑張ってね」玲奈は珍しく、真面目に言った。そんな顔も美しい。いつもより緊張しているのだろう。それか、絶対に受かって、というもはや脅迫に近いような固い意志が込められてたのかもしれない。
「お互いね」僕も真面目に言った。
試験は一周目と同じ感じに概ね良く解くことができた。見た限り、問題に行き違いは生じなかったようだ。出来がよかったのは彼女も同じだったようで、試験後はいつものような明るい玲奈に戻っていた。結果は二人とも合格。ここで行き違いが生まれなくて本当に良かったと思った。
晴れて二人は勉強から解放された自由の身となった。二人は旅行だけでは足りなかったようで、何回か打ち上げという名のパーティをした。とは言っても特に豪華にというわけではなく、よくある喫茶店に入っては、商品を頼みまくるとか、放課後に空き教室を探しては、埃臭い部屋で適当に買ってきた菓子を頬張るといった、''いかにも中学生''的な行動ばかりだった。でも、これを味わえるのは二度とないのだと考えるとそれはそれでよかった。もし三周目がなければの話だけど。
果たして、僕の蟠りを解消することはできるのだろうか。自殺の原因を聞いて、受け入れることができるだろうか。もしくは本当に、三周目の旅に出かけてしまうかもしれない。
そして、打ち上げ旅行当日になった。親には、友達と泊まりに旅行へいくと言って納得させることができた。それは半分本当で、半分嘘だった。今更彼女との関係をどう言ったらいいかは分からなかった。彼女は僕のことをどう思っているのだろう。
旅行計画は玲奈が決めた。自ら志願したので、よほど乗り気だったのだろう。彼女は手作りのしおりまで用意した。彼女はなんて愛らしい存在なのだろう。
当日、僕たちはトランクを引いて、弁当を買い、新幹線に乗った。新幹線というのは生まれてから何回か乗ったことがあったが、人が違うだけでこんなにも新しく新鮮な乗り物になるんだなと感心した。想像していた数倍速い。外の景色は瞬く間に過ぎていくのに、僕らはこんなにもゆっくりしている。改めて考えると、意味のわからないことだ。この世界に数学や物理がなかったら、どうなっていたことだろう。旅行の幕開けは、その時間だけで楽しかった。咲良の私服はその時初めて見たが、とても似合っていた。というよりもはや彼女のためだけに作られた特注だと思わせるほどの似合いようだった。一般的なお人形に着せる別売りのコスチュームのようなものだ。似合わないことは想定されていない。
朝早く出たはいいものの、特にこれといってすることはなかった。ホテルのチェックインを済ませ、後は近くを二人でぶらぶら歩いた。しおりにも『ぶらぶらする』としか書いてなかった。蓋を開けてみると、二人専用に作られたそれは、大雑把だったし、無くても構わなかった気がする。しかし、一周目よりも、僕はそれを大切に持っておこうと思った。彼女を感じられる物なら、どんなガラクタだって、僕にとっては宝物だ。街を散策している時、僕らは冬の寒さに襲われたが、二人でいたらそれさえも楽しく思えた。なぜなら、僕らの間に築かれた何かは、それを吹き飛ばすほど暖かかったから。
その街は、いい意味で現実を忘れることができた。街全体が階段に沿っており、僕たちはたくさんの店を行き来したので、普段お世辞にも運動しているとは言えない僕らはそこそこ疲れた。「かなり」に寄っているかもしれない。今時流行りそうな内装のスムージー屋、街中に置かれた恋みくじ。少なくとも、僕らの町にはない光景だ。恋みくじは、僕が凶で、彼女が大吉、一周目もそうだったろうか。その一件で彼女にこれほどかというほどいじられる。少し面倒なので、本気の嫌な顔をしてみる。それを見た彼女はすぐ、誠心誠意の謝罪をしてくる。それも無視すると、彼女はとうとう泣き目になってしまう。僕は最初から自分が悪かったかのように、焦りながら謝罪する。これほど綺麗な形勢逆転劇があるだろうか。それを聞くと、彼女は笑顔に戻る。僕らがしてたのは、こんなくだらないことだ。何ということだろう、今でも僕は彼女に釘付けのままだ。現実では無理矢理割り切ったはずなのに、存在を考えないようにしてきたのに、僕は馬鹿なのか。
数ある店の中で一番僕の印象に残った店は、一週目と同じで射的やピンボールなどの昭和の遊びを集めた老舗だった。僕たちはほぼ全てのゲームをやったと思う。ピンボール、くじ引き、輪投げ。どれもこれも古典的だったが、童心に帰ってみると、意外にも楽しむことができた。彼女といれば、どんなことも魅力的に思うのだろうが。射的では、二人で同じ的を狙った。小さな熊のストラップだったが、咲良は目を輝かせてそれを欲しがった。六発与えられた中で、三分足らずで五発を使ってしまった。咲良の狙いが悪かったのか、商品が重かったせいか、最後の最後まで取れるか取れないかの瀬戸際だった。二人はできる限り身体を寄せ、限界まで身を乗り出した。彼女の息遣いが聞こえるまで近づいた時は、二周目の自分でも流石にドキドキした。約半年前に近づいた顔がまたしても近くにあるという事実もまた、僕の感情を揺さぶった。真剣に的に狙っている彼女の顔を盗み見しながら、景品をよく狙う。僕は一周目と同じようにすればよいのだ。攻めることは返って危険になる。この時久しぶりに僕は本来の目的を思い出した。感情を抑えつつ、僕たちはまじまじと狙った。
せーのの掛け声の直後、二つのコルク弾が熊の眉間を撃ち抜いた。見事景品は落ち、咲良は今まで史上一番喜んだ。感覚的に、一周目より激しく喜んでいた気がする。それを見てなぜだが悲しくなってしまった。時は刻一刻と過ぎ去っていく。
ニ年後の今日、この笑顔はこの世からいなくなる。そんなこと承知の上だったはずなのに。
思えばこの一年間、本来の目的である、彼女の自殺原因については考えたことも、探ろうとしたこともなかった。
それだけ、この生活は充実していたし、そんなこと考えたくもなかったからだ。こうして自ら問題を先送りにしていたのだ。試験前の遊びがあんなにも面白く感じられるのと、恐らくは似ているのだろう。危険を楽しんでいるという言い方が正しいだろうか。この世の中には、非凡な日常でしか感じられないこともあるのだ。過去に戻ることで、それがどれほど幸せだったかを知るように。
一つタイムマシンについて疑問がある。それは、もし過去に戻った服用者が死を遂げた人間をそうさせなかった場合、服用者にどういった罰があるのだろうか。確かに重罪とはあったが、なぜだろう。生きるべき人が生きられるというのは利点ではないだろうか。人間には、死んでいい人間、死んでは駄目だった人間がいる理論には賛成だった。後者と蘇らせ、現実をより良くする方法を生み出せばよいではないか。そうなると、彼女は間違いなく生きてなければいけない方だ。彼女が自ら命を絶ったとしても、だ。彼女を彼女に殺させない、馬鹿げた欲望だが、僕の心の中には時々、それが姿を現した。問題はそれが日の出のように、強かったという点だ。絶対にしなければならないような気がする。ただそれが成功するかは三年後の明日分かることだ。現代に戻る日は服用者自身が決めれることであるが、タイミングは分からない。突然戻るのか、日付が変わった瞬間なのか。大して調べもせずここに来たことを後悔した。
彼女と一緒に現実で歳をとる、倫理的に正しいかどうかはこの際どうでもよい。僕には彼女以外何もないのだから。
日が暮れて人がいなくなってからも僕らは街を楽しんだ。夜になってからは、建物の間を繋いだストリングライトが点灯されていて、幻想的で美しい景色となっていた。
人は驚くほどいなかった。こんな景色を僕らが独占していること申し訳なく思う。昼に帰ってしまった彼らは僕からすれば大損だ。
僕らは当てもなくただ上や下に行ったり来たりを繰り返した。「ビフォア・サンライズ」のように、ただ二人の時間を延ばしたいがために、僕たちは歩いたのだろう。日中にそこの名物やご当地グルメなどをつまんだが、歩いているうちに二人ともお腹が空いてきたのでコンビニでカップ麺を買った。それが原因で僕たちはやっとホテルに戻ったのだ。彼女はまだ歩き足りないと言ったが、飢えと僕の説得には敵わなかったらしい。彼女はとうとう諦めて、お手製しおり三ページの目的地へ進んだ。僕たちが泊まるホテルは所謂、天然湯というやつだった。僕は温泉でも風呂でも構わなかったが、彼女は譲らなかった。
そのことを彼女に問いたことがあった。
「風呂でも温泉でも変わらなくない?」
「そんなことないよ。だって温泉の方が成分で疲労とかよく取れるって聞くし。」豆知識を披露するように言った。
「そんなの文字だけだのハッタリだと思うんだけど。」
「それでもいいんだよ。大事なのは気持ちだからね。」彼女はその美貌からは考えられないほど、自分を持っているらしい。
天然湯はそれを思い出したせいか、意外と気持ち良かった気がする。人はこれほどまでに言葉に左右されるのかと自分を疑った。もし彼女が詐欺師になっていたら国家を転覆しそうだとも思った。現に一人は完全に堕ちてしまっているのだから。
温泉に浸かった二人はその後部屋でくだらない深夜テレビを見て買ってきたカップ麺を啜った。家では感じられない美味しさがあった。
この時点で正午をとっくに過ぎていた。
「ロマンティックだね」不意に咲良が言った。
ロマンチック、何回も聞いたことがあるはずなのに、それを言葉で説明することはできないものだ。味わったことがないからか、想像がつかないものだったからかは分からない。
「そうなの?ロマンチックって二人でカップ麺をすするよりもっと魅力的なものだと思うけど」
「実はそうじゃないんだよ」彼女は少し意地悪に言った。
「現実の平凡さとか冷たさとか、そういったのから離れて空想的である様のことを言うんだよ。この状況ってほんとにロマンティックだと思わない?」
確かにそうだ。目の前の安い麺が美味しく感じるのもそれのせいだろう。この言葉にそんな深い意味があったとは驚いた。言葉とか概念は、純粋な物差しで測れるようなものでない。一見浅そうに見える穴の闇も、深淵のことだってある。確かめるためには、飛び込んでみるしかない。
彼女はいつもの蘊蓄自慢の顔をしないで言った。その表情は朗らかとも言えるし、悲しみに満ち溢れているとも言えた。彼女のこういう顔には全て何らかの裏付けがあるように思える。そこが魅力的でもあり、放っておけない雰囲気を醸し出す要因にもなっているのだ。この二年間で僕はそれを見逃せないようになっていた。
彼女は何を思っているのだろう。何を見ているのだろう。何を感じているのだろう。
僕は純粋にそう思った。その笑顔の裏に何が隠れているのだろう、と。
「綾人くん、お酒買いに行かない?」これまた軽はずみな提案だった。
「コンビニは無理だよ。君ならその美貌で欺けるだろうけどね」
皮肉でもなく、本心で言った。実際そうだし。
「えへへ、いいこと言うね」
「でも私はもっと確実なほうに賭けるよ。さっき通った自販機に二百円オールインする。」
おまけに彼女は小悪魔のようなずる賢さまで兼ね備えている。
「乗った。」
深夜で廊下は誰一人としていなかったが、二人は忍び足で歩いた。それは修学旅行で先生に見つからないようにする学生のようだった。
缶が落ちる音でさえ、僕らを驚かせた。ある意味で、僕らは犯罪を犯しているのだ。それはもう、もの凄く緊迫した状況と言っても差し支えない。
二人は缶を大事そうに、見つからないように浴衣に抱えて持ち帰った。深緑の中に着込まれた水色の模様付きのそれを着た彼女は、二周目でも綺麗だった。
「ではでは、合格記念に」玲奈は部屋に戻るやいなや、缶を開け、こちらに差し出してきた。
「乾杯」重くカランという音がした。
光に照らされた缶を一気に持ち上げ、麦の臭いのする液体を喉に流し込む。やはり中学生には刺激が強過ぎたのか、僕らはそれをちびちびと飲んだ。
そこで二人は初めて酒を呑んだわけだが、アルコール度数が高かったのか、とても苦かった。顔を歪めたくなるような酒のねじ曲がった味が鼻に伝わるのが気味悪かった。
「あんま美味しくないね。大人はなんでああにも美味しそうに飲むんだろうね。」彼女の表情から感情を説明するとしたら吐きたくて仕方がないという感じだろう。
それは僕も同じだった。一周目で、ほとんど酒を飲まなかった原因も、この時のトラウマが残っているからである。乗り越えるのはまだまだ先のことになりそうだ。
「分からない。僕たちはまだ子供だってことだね。」
「美味しさが分かるようになるまで一緒にいようね。」
気づけば僕は彼女のような悲しい笑みを浮かべてフッと微笑んでいた。
「そうだね。一緒にいたい。」
愛の告白ともとれる言葉を小さい溜め息まじりに吐いた。思えば、本音らしい本音を吐いたことは二周目にあまりなかった。少なくとも、僕が知る限りでは、僕は一周目の答案と少しずれても間違いないのないように、過ごしてきた。まさかここで、自分の本音が溢れるとは思ってもいなかった。
僕は咲良の自殺の原因を知りたいわけではないのだ。
ただ咲良と一緒にいたい。それが僕の本音だった。
すぐ二人の顔は真っ赤になった。鍋が沸騰した時のようだったし、湯気がのぼるのではないかと心配になったほどだ。一本ずつは流石に飲み過ぎたのかもしれない。お互い正気なんてものはもう既に煙とどこかへ昇っていってしまった。
それからすぐ強烈な眠気が二人を襲った。あともう少しで底なし沼へ落ちてしまうというところで、彼女の言葉が僕を救った。
「寝よっか。一緒の布団で。」
聞き間違いかと思いもう一度聞く。
「一緒の布団で寝よう。せっかくだからロマンティックを感じようよ。」
一周目にこんな展開はないはずだ。頭の中の警告が赤のランプを点灯させ、危険を伝える。しかしすぐ、警告音は鳴り止んでしまう。今は酔っていて、歯車が狂ってしまったのだろう。素直に喜んでいたというのもある。
「たしかにそうだね。」
飛び上がりそうなほど嬉しかったのを隠したくて、できる限り素っ気なく返事をする。
「やった。」咲良が隠れて小さくガッツポーズをするのを僕は見逃さなかった。
一周目にその記憶はなかった。
その時、酔ってはいたが、確信したことがあった。二周目の彼女についての存在だ。僕は今まで、僕が思っているだけで、それは事前にプログラムされた機械によるただの再現なのではないかと思うようになっていた。それほどまでに、二周目の清水咲良は、完璧な清水咲良だった。違う行動を時々とってしまうのはただのラグであり、どうせシリコンなどで覆われた模造品でしかないと考えるようになっていたのだ。
しかし、この発言で、全てが解消されることとなった。
彼女は、僕が恋した清水咲良だった。オーダーメイドとか複製品とかでは替えのききようのない、本物だった。それほど彼女の発言には心がこもっていたからだ。もし、彼女が偽物だったとしたら、こんなに心を揺さぶられる訳がない。ただでさえ心に傷を負っている人間がこんなにも簡単に同じ人に、叶わない恋をするわけがないのだ。
それでさえ、偽物の想像の範疇だとしたらお手上げだ。
「なんかドキドキするね」向かい合ったまま彼女が言った。先ほどからのあざとい口調は、変わらずだった。りんごのような頬の赤みは暗闇でも存在感でも薄まることはなかった。
「そんなに」
僕は咄嗟に嘘をついた。冷静を装ったつもりだった。が、それは次の瞬間、咲良が僕に抱きついてきたことによって容易に破壊された。いつもはしゃいでいる彼女からは考えられないほど、その手は優しかった。掬われるように、僕の体は彼女の腕によって捕えられた。彼女の美しく瑞々しい髪からは、金木犀とミモザの上品で寂しいような匂いがした。
「嘘つき。こんな鼓動早くなってるのに」
返す言葉がなかったのか、鼓動を抑えようとしたのか、僕はただひたすら黙っていた。
その時の僕の心情は定かではない。どうしてそんなことをしたのかも分からなかったし、一周目の記憶にはなかったが、僕は咲良を抱き返した。彼女と同じように、そっと優しく。陶器のような彼女の華奢で細い体を壊さないように。
どのくらい経っただろうか、彼女が鼻を啜る音が聞こえた。
ありがとう。彼女は小さく呟いた。そのまま僕らは眠りについた。
その日、僕は夢を見た。何かに追われている夢だった。追いつかれたくないというより、帰りたくないと直感的に思った。それは門限に追われる子供のように、過去に追われる罪人のように。
僕はひたすら走った。僕を追う者が暗闇だと気づいた時、僕は走るのをやめた。自分は暗闇に追われながら、暗闇に逃げていたのだ。それはどうしようもないというやつだった。闇に目がついているようで、とても恐ろしい。視線から逃れるように、僕は目を瞑る。目を瞑っても、広がっているのは暗闇だけだった。
僕は飛び起きるように目を覚ました。隣の彼女はまだ寝ていたが、僕は冷や汗をかいていた。鳥肌も規則正しく列を作っている。今まで暗闇を恐れたことはない。この夢に意味がないことを願うばかりだ。
蛇口で顔を叩き、水を手に溜め、それを飲み干す。一瞬経ったところで、それの冷たさに気づく。酔いからの覚めとあってか、それはより鮮明に感じられた。
咲良が目を覚ましてからは冷静を装い、息を呑んだ。
旅行二日目はあっという間だった。僕たちは軽い買い物をして観光名所なんかに行ったりした。観光名所といっても、それは僕にとってはただの山にしか見えなかった。しかし登り切ると、そこにはこれほどないほどの絶景が広がっていた。達成感はやはり捨て難い感覚だ。僕たちが昨日までいた街がジオラマのように小さく見えた。もちらん彼女が隣にいるからだろうが。無機質な深緑の山々と、それらを指差して、感想を嬉々とした様子で語る彼女はまるで絵画のように緻密で趣深いコントラストを描いていた。
そこにはちょっとした広場があった。ベージュ色のジャンパーを着た彼女は子犬のように騒いだ。こんな幸せがいつまでも続きますように、ただそう願っていた。
山を下り切った僕たちは迎えを古びたバス停で待った。屋根にはところどころ穴が空いていたし、標識は錆びていて、文字はギリギリ認識できる程度だった。悪く言えば、朽ちているし、よく言えば、趣があると言えるだろう。二日間の素晴らしい旅行は終わりに差し掛かっていた。僕たちはここまで来ると、何か喋ろうとしてけれども特に話すこともなかった。それもそうだ、僕らは昨日今日でこれ以上ないほど話した。話す話題はもう特にないのだ。それら対策として出たしりとりなどの案も施工済みだ。それは自分で考えても莫大な量の会話だったと思う。ふざけたものから、真剣な話まで。それゆえ、僕たちは何か話そうと、話題をどうにか振り絞ろうとしても、それはもう乾き切っていた。要するにガス欠切れ、だ。そんな話したくても話せない気まずい雰囲気が時々二人を包んだ。すぐ雪が降った。二月の終わりなのに、春の予感はまったくと言っていいほど感じなかったし、僕たちの移動は基本的にダウンがついてまわった。こうなることは分かっていたが、流石に寒かった。ジーンズの隙間から入ってくる冷気だけで気が滅入ってしまいそうだ。それは彼女も同じだったようで、袖の中に腕をしまって待機していた。数分後に来たバスの中はいわば天国だった。暖房の熱気は、ほぼ凍りかけていた僕たちの心までもいとも簡単に溶かしきってみせた。タイタニックのラストシーンにこの熱気が存在したら、どれほど幸せだっただろうか。僕たちは熱気の排出口を見つけては、二人で近寄った。彼女の頬が段々と赤く照らされていく過程は僕でさえ幸せな気持ちにさせられた。
駅についてからは、一瞬だった。一時間ほどの電車内となったが、疲れからか、終わるという寂しさからか行きのような新鮮で楽しい気分にはならなかった。僕らは互いに文庫本を読んだり、寝たりして過ごした。外に猛吹雪が見えた。かけがえのない時間を過ごしたりない僕らの心境を表していたのか、電車の進行方向とは逆の方向に吹雪いていた。
そんな思いも虚しく、二人はいつもの町に戻ってきた。少し懐かしい気がしたが、山も海もないこの町は、なんだか物足りなくさえ感じた。
そこから一カ月は駆け足のように早く過ぎ去っていった。
出来事と言えば、僕の好きな場所に彼女を連れて行ったということだろうか。この町の外れに存在する唯一の丘は、僕の家から見える距離にあった。もちろん彼女の家からも。家がつまらなくなったら真っ先に僕はここか街中へ赴いていた。
整備されているにしては急で歪な階段を登ると、そこからは、町の景色を一望することができた。鉄の柵が寂しそうに一つだけ直立してあり、よくそこから町を眺めたものだ。近くには、犬の散歩をしている中年の女性、自転車を押しながら帰路に着く学生、様々な『生活』を覗き見ることができた。よくここには夕方に来る。太陽にオレンジ色に染められた町は、影のコントラストがよく効いていて、幻想的であった。街で唯一、現実を忘れることのできる場所だ。彼女とそこに行ったのは、旅行から一カ月も経たなかったある日のことだ。僕らは良く晴れた夕方に歩いてそこへ向かい、まだ寒い季節というのに汗を垂らしながらそこへ登った。
「初めてこんな場所きた。私たちが好きな色だね。」
彼女は夕日を指しながら言った。
「僕らにとって初めての日だ。」
「そこから一年半か。なんか短かったね。」
「そうだね。」
ここも、彼女が言うに、ロマンティックなのかもしれない。
「ずっと、一緒にいようね。」
ずっと一緒に。彼女はこの時何を思っていたのだろう。
オレンジ色に照らされた彼女の横顔を見ながら思う。僕が彼女について、自分についての全てを語ったとしたら、彼女はどうするだろうか。現実に連れて帰りたいという願望を伝えたら、果たして彼女は何を言うだろう。自分の死について悟った時、彼女は何を思うのだろう。
それが現実にならないように、僕はまだ少年時代の雨宮千秋という人間を偽り続けなければならない。
最近の僕たちは美しい景色を見るのがブームだったのかもしれない。次旅行に行くならどこへ行きたいかなんてことも話した。
そこからは突出してなにが起こったと言うことはなかった。
もう一つ咲良と卒業式の打ち上げを二人でサボったことだろう。その日は二人きりで小さいパーティを開いた。深夜に侵入する学校ほどドキドキするものはないだろう。あらかじめ用意した経路から、僕らは簡単に屋上へ行くことができた。クリスマスというわけでもないのに無駄にチキンを頬張ったし、シャンメリーを適当に買ったグラスに注ぎ飲み干した。残った骨を校庭に投げてどっちが遠く飛ぶか、なんてくだらないこともした。一つ一つが小さな幸福だったが、それが全て合わさって一つの大きな幸せになるのだ。僕らはまだその過程に過ぎない。一周目の僕はそれが完成するのが楽しみで仕方がなかったのだと思う。今は幸せを感じれば感じるほど虚しくなってしまう。より長く続いてほしいと望んでしまうからだ。
やはり幸せは、無くしてからしか気づけないものだ。
そんなわけで、僕たちの中学校生活は幕を閉じた。
ここまでは、少し道を外れることも踏まえて順調だった。そう、ここまでは。