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1.清水咲良

1.清水咲良

 自殺した幼馴染を助けようなんて馬鹿げてる。

 それでもそれは僕にとって大切なものである。

 なぜなら、この物語は嘘と矛盾で包まれた優しい愛の物語であるのだから。



 すぐ隣に置かれた水の入ったボトルは映写機のように太陽からの光を吸収して不思議な図形を机に映し出してい。それは今の生活とはかけ離れていて美しく、残酷にも見えた。ボトルを動かしてしまえば、それは一瞬で崩れてなくなるのに、虹なんて煌びやかな色で輝いているのを見ると、あの時を思い出す。美しくも、儚い過去を。なかなか決心がつかず、物思いに耽る。生憎、時間だけは腐るほどあった。これまでも、これからも。タイムマシンについて知ったのは、ちょうど三週間前のことだ。

 彼の行きつけの喫茶店に入った時のことだ。大学三年生の彼に友達と呼べるような人物はいなかった。『孤独』とは生涯の友人なのだが、それ以外は見る影もない。無精髭は誰がどう見ても分かるほど顔の面積を埋めていた。元から所謂根暗な性格なのか、それともどこかで歯車が錆びて狂ってしまったのか、僕は世界を見下してまでいる気がする。同じ大学の男女を道中で見かけた。見た感じ、三から五人程度だろうか。彼らは自分の存在価値を世界に知らしめようといった服装ばかりだった。重そうなコート、いかにも冬を思わせる色彩のセーター、絵画で見た波のように内側に巻かれた髪、誰も彼も、僕とは交わることのない世界の住人だった。僕は愚かであると同時に、悲しい人間でもあった。これは根っからの問題であり、改善のしようはもうないと言えるだろう。''過去を変えられるのなら''別だろうが。楽しそうに会話を交わしている彼らを見て嫌悪が湧いたほどだ。妬みとか僻みとかではない。ただ単純に気に食わなかったのだ。こんな糞みたいな世界で笑うな、と。ただ僕の楽しみという感受性が欠損していただけであり、どれもこれも僕のせいとも言えるだろう。当然ながら僕の趣味も自然とそちら側に偏っていた。春よりも冬を、メジャーよりもインディーズを、オアシスよりもニルヴァーナを、といった感じだ。僕の屑加減といったら、並大抵のものではない。だが分かってはいるものの、残念ながら受け入れるつもりは甚だ存在しない。それを受け入れてしまえば、僕を擁護する僕が殺されることになるから。そうなると、この世に僕が存在する意義がとうとう無くなる。だから、認めない。僕が正しくて、彼らみたいな人間の方が間違ってるのだ。そう考えることによって、自分で自分を守れる。それがどんな醜い手段でも構わない。僕には何もないのだから。僕は目の前にある異物の存在から危険信号が発せられたのか、歩を進める速度を早めた。こういう時にだけ、僕の感情は、風に揺られた炎のように蠢いた。それ以外は、まるで操り人形のような人間だ。目的地までは、アパートからそう遠くはなかった。大学に進学して、逃げるように地元から出てきた訳だが、ここ周辺はあそこと同じような街の喧騒だった。それももし''あれ''が起こっていなければ、あそこに留まっていたのだろうか。今日はいつもより早い時間から来てしまった、と「OPEN」の看板を見ながら思う。店内にはいつもより客が多い気がした。このこぢんまりとした喫茶店は、病室のような家を除けば、唯一、心の拠り所となる場所だ。ここの珈琲は、酸味と苦味の調和が絶妙であり、店内に匂いが満たされているほどだ。馴れ馴れしく扉を開ける。ここへの来店は習慣化されていたからか、特に気が張るようなことはなかった。僕が行くところといったら、ここか大学か、コンビニくらいだった。まったく、紙のように薄い人生だな。自分でも切り刻みたくなるほどの黒い人生。

 もちろん、ここに毎日のように来るのには理由がある。店内に入り、いつもの席に向かう。大通りが眺められるお窓の近くに、彼は座っていた。彼の容姿を表現するとしたら、''先ほど見た全員の男が塵程度のものにしか見えなくなる''が正しいだろうか。''僕という存在とは真反対の存在''が正しいだろうか。恐らくはどちらもだろう。それほど彼は成功者のような見た目をしていた。

「千秋、今日は早いね」

「あなたこそ、僕なんかを待っていて何になるんですか。」

「そう怒らないでよ。」彼の笑顔は素敵すぎるあまり、時々自分を卑下しているようにも見える。そんな彼に憧れと嫉妬の念を抱いていたのは確かだ。苦労のない人生、それが彼にとって一番当てはまる言葉だろう。

 彼と出会ったのは、約一年前のことだ。その時点で一年多く通っていた僕からしたら、彼は新参者であった。初めて彼と目を合わせた時、僕の中で何かが共鳴しているのが分かった。彼と僕は似ている。そう思ったのだ。もちろん容姿のことではない。彼は僕と同じ絶望を持ってる、そう感じたのだ。憶測とかではなく、絶対的に。彼と目が合い、お互いの間に衝撃が走ったのだろう。その日から彼とは少々歪な関係になった。

 何が歪なのかという点だが、僕は彼の名前を知らない。なぜだか分からないが、僕は彼の名前を知りたくはなかった。彼とは友人という関係に昇華させたくなかったのだと思う。僕のセンサーは真反対の人間とは、例え同じ絶望を持っている人間でさえも受け入れないのだろう。彼はそれを無理強いしてはこなかったし、苗字から先を聞こうとはしなかった。高身長であり、それでいて容姿端麗。正直に言って、先ほどのグループ全てを合わせても勝てないような完璧ぶりだ。彼から見る世界はどんなものなのだろうか。華やかで煌びやかだろうか。それとも僕と同じように、憎く悲しいものなのか、お互いに引かれた線を超えない限り、僕はそれを知ることはないだろう。

 彼とは中身のない会話が続いた。時事問題だったり、人についてとかの思想など、本屋のように豊富な種類の知識を彼は兼ね備えているようだった。僕は彼という図書館の中で、暇を潰す。そんな日々が続いていた。

「そういえば、聞いてよ。」

 今日もそんな会話が続く、はずだった。今日も、彼の面白くもつまらなくもない話を聞いて僕の意見を述べる、彼それに対して、つまらなそうに、嬉しそうに、ネガティヴだなぁ、と返す。お決まりの展開を想像した。だがそんな想像はすぐ打ち壊されることとなる。


「この世に、タイムマシンがあるらしい」

 

 綾人の体内が謎で埋め尽くされる。確かに、この世界では様々なカプセルが生み出されてきた。惚れ薬のようなカプセルから、見た目を自由自在に変えられるカプセルまで。どういう原理で成り立ってるのかは使用者にも、もちろん綾人にも分からなかったが、もはやそんなことはどうでもいいのだろう。商品は飛ぶように売れ、それらのカプセルには「希望」を意味する「スペス」という名がつけられた。それらが一つ、また一つ改良され、開発されていった。それは神の賜物というべきだろう。だがその賜物は時として凶器になった。狂気とも言えるだろうか。


 しかし、過去に戻れるなんてことがあるのだろうか。

 僕は彼の話を珍しく真剣に聞こうと耳を傾けた。


 彼の話によると、文字通り、タイムスリップすることができるらしい。期間も決められ、過去では自分を制限なく動かせられるのだと言う。誰かの人生を狂わせても、現実には反映されないというのがポイントだ。要するに、過去に戻ってやりたい放題。そんな美味い話が本当に存在するのだろうか。

 スペス使用者は''服用者''と扱われ、使用後にはカウンセリングが求められ、適切な対応が取られる。それでも腐るものは腐るし、かえって鬱が進行する者もいるらしい。一度命の結びがほどけたらもう結ぶことはできないからだそうだ。

 このスペスは自殺率を格段に飛躍させたらしい。まあ辛い現実と楽な過去を天秤にかけると一目瞭然だろう。その効果が切れると鬱病や適応障害が襲ってくるらしく、過去と現実に区切りをつけることができなかった者の末路はどうやら悲惨なものらしい。タイムマシンは、その傾向がより強くなるらしく、過去の中で自死を選択するケースも少なくはないらしい。過去で死んだ人は二度と現実に戻ってくることはないらしい。それを知らせるのは、心電図の無機質な音だけだというのは、なんとなく呆気ない感じだ。


 綾人の中に衝撃が走った。過去を変えれれば、あれさえなければ。この数年彼が思ってきたことだ。


  ''清水咲良''彼女が生きてさえいれば。

  その願いは彼の中でぐつぐつと煮込まれていった。

 

 そこからは早かった。一度走り出した好奇心や興味は不安という障害物を難なくクリアしていった。ゴールは目の前にあったが、その先にあるものまでは見透せないし、巨大な罠かもしれない。それでもいいと思った。大学でも特に大切な友達もいないし、親とは疎遠だ。一緒に暮らしていても、彼らからの愛を感じることは微塵もなかったと言えるほどだ。遺書くらいは書いとくべきだろうか?なんせ今から過去という戦場に飛び込むのだから。

 

 清水玲奈は掻い摘んで言うと美しかった。それがもたらす影響は多く、内気な自分とは真反対の生活を送っているのは自分の目から見ても明らかだった。彼女は僕の憧れで、生まれ変わったら送りたい人生の教科書のような存在だった。お互いの家は近く、小中と同じところに通ったが、彼女との接点は全くと言っていいほどなかった。そんな憧れと関わるきっかけになったのは中学二年の頃だった。

 それはある冬の寒さが頭角を現し始めた秋の日だった。今でも、それを忘れることはない。その日は文化祭一週間前でクラス全員が張り切っていた、というか、一つの目標にクラス全体が目指しているという雰囲気を楽しんでいただけなのかもしれない。僕は内気とは言ったが、クラスメートとの関係はそこそこ良好に保っていたと思う。良好と言っても、『嫌われない人』ということだ。設置面を考えて少数人で考えている人、木材で遊んでいる人、画用紙を切っている人と、様々な種類、大きさの声が教室中に漂っている中、僕は一つの声をくじ引きのように引き抜く。

 誰かからの甲高い「資材買ってきてくれる人ー?」という声を拾い「行くよ」と一言返す。嫌われたくないから、というのもあったし、単純にこの空気感から早く出たいというのもあった。委員長らしき人物は感謝の言葉を放ったが、それに心がこもっていないことくらい流石の僕でもわかった。ふ菓子のように中身のないすかすかの言葉。でもそれで良いのだ。僕のクラスでの立ち位置はそのくらいだということを自覚していたし、僕もそれを望んでいた。宿題を見せてくれる使い所のあるヤツ、そんな風に思われていたのなら十分すぎるほどだ。ノートの端を乱雑にちぎって作成された「買うものリスト」を受け取る。こんな量を買ってもどうせ余るのにと、小さく溜め息をつき、教室を出ようとする。

 

「私も行く」

 

 日差しのような声が背中を突き刺した。振り返るとそこには清水玲奈が立っていた。

 中学生とは思えないほど大人びた顔立ち、華奢な体、艶やかな長い髪。

 僕は磔に固定されたかのように空間に囚われる。彼女はもはや陶芸品そのものだった。いつもなら感想はそんなものだろう。だが今回は違かった。なぜなら、その直後に浴びた冷たい視線と張り詰めた空気によって教室内の時が止まった。自分の中の負の感情の花火が打ち上げられて、破裂し、僕を満たしていく。なぜ?どうして僕なんかに?

 冷静を装い、わかったと冷たい返事をしてから廊下の方を向き直し、歩き出した。教室のザワつきを聞いて、これから自分は今までのようにはいられないなという不安と落胆がさっきの感情と共に渦を巻き、それは鉛のような物に合成され、すべての臓器が重くなったような気がした。

「どうして来たの?」廊下を早歩きしながら、隣をなんとかついてくる彼女に問う。

「来たかったからだよ。それ以上でもそれ以下でも」

 その言葉になにか返そうとしたが、とりあえず自分は全教室、全生徒の視線を浴びているような気がしてならなかった。それはスポットライトというにはかけ離れたもののように感じられた。何とか外に出たが、そこで運動部と何回かすれ違った。彼らはきっぱりと悪意をこちらに向けていた。妬みとか苛立ちとか、そんなとこだろう。それほどの悪意を生み出してしまう存在、それが清水玲奈だったのだ。彼女の容姿が美しいというのもあるだろうが、彼女はなんというか、放っておけない感情を覚えさせる。鉛筆の芯のようにすぐ折れてしまいそうな弱さがそれを掻き立たせるのだろう。もしくは、それを雰囲気というかオーラというかは人それぞれだろうが、少なくとも僕にとっては今1番厄介なものだ。それさえも、彼女の想定の範囲内なのかもしれない。

「綾人君って意外と早いんだね」息を切らしながら彼女は言った。

「私たちって家も近いし、一応幼馴染ってことでいいんだよね?」呼吸を回復しながら彼女は言った。確かに家が近いことは知っていた。が、彼女と一度も喋ったことはない。カードゲームのように、玲奈が出したカードに対して、綾人はあらかじめ持っていたカードをデッキから戦場に出した。

「前者は合ってるけど、後者は違うね。君とは小中で三、四回しかクラスが一緒になってないし、それ以上なってたとしても僕が話しかけられるような人じゃない。」

「確かに接点はなかったけど、『話しかけられるような人じゃない』の部分には反対かな。だってそれって自分で自分を見下しているようなものじゃない?それで他人との関係を切ろうとするのは少しずるいと思う。」

 彼女のニヤけ顔に何か反論したかったが、喉から出かけた言葉を飲み込む。彼女のデッキは僕なんかよりずっと隙がなさそうだ。どう返しても、勝つ未来は見えない。こうなったら降参だ。

「そうかもしれないね。」いつの間にか二人の歩は緩くなっていた。

 この町の特徴を挙げるとするなら平凡なことくらいだろうか。夏には蝉が鳴き、冬には雪が降る。街並み、地形から、公園や図書館まで何もかもが平均的だった。ただ、自分にはそれが特別良かった。稀に見つける景色は平凡と比べるとより素敵に見えたし、散歩するだけでも新しい発見があったからだ。

 彼女がそこにいたらどんなに映えるだろう……とそこまで考えて止めた。途切らせたと言うべきだろうか。彼女の罠に掛かってはならない、僕のセンサーが危険信号を発していた。

「君の魂胆は僕には分かる。」

「魂胆って?」彼女はワクワクして聞いた。その態度が苛立たしい。

「僕をからかってるんだろう。僕が一人だから。それで面白がる計画かもしれないけど、そういうのには騙されない」そこまで言って少しスカッとした。自分の人生を憐れむように、妬みを吐き出すように。

「君はほんとに悲観的な人なんだね。」吐き捨てるように彼女は言った。

自分でも認めるほど虚を突かれたのだろう。そこからは何も言わなかった。この沈黙が一秒も長く続けば……と思ったが、その心配はなかった。目の前には大きな看板のホームセンターがあった。地元でしか見たことはないが、地域の人からは愛されているのだろう。自分が生まれる前からあったということを聞く限り。遠くで踏切が鳴る音が聞こえる。

 自動ドアの前まで来て、彼女に手を取られる。彼女が僕の腕をつかんで入り口とは別の方に顔を向けていたそこにはオレンジ色の花があった。

「私ね、冬に見るオレンジ色の花が好きなの。おかしくない?今は冬で無機質なのに、オレンジ色はこんなに暖かいんだよ。こんな純粋で素直な強さを見てると、自分たち人間がすごい小さい存在に見える。」

「確かにそうだね。」この意見には完全に同意した。その論理的な姿勢は彼女の容姿からは感じられないほどだったので素直に驚いた。何か言おうとして、本来の用事思い出した。半ば強引に彼女を連れて資材を集めた。予想以上に多く、袋は二人で持つこととなった。さっきの会話で距離が縮まったので、他愛のない会話をして学校に戻った。

 戻る途中、ふと立ち止まって見上げると夕陽が落ちる頃合いだったのだろう、空は鮮やかなオレンジで満ちていた。

「僕もオレンジ色が好きだよ」とふと呟いた。自分でも予想していなかった一言に驚いた。

 彼女は驚いたようにこちらを見つめていたが、すぐに微笑んだ。嬉しそうに、そして悲しそうに。


 僕と玲奈は友達になり、親友になった。高校も二人で頑張って同じところに入ったし、入学してからも二人は一つだった。そこからは暖かいオレンジ色の日々だった。


 が、オレンジ色の日はそう長くは続かなかった。


 高校二年生のある冬の寒い日、清水玲奈は自殺した。


 薬缶から噴き出る湯気は、音と共に時間であることを教えてくれるタイマーのような存在だ。それをカップ麺の容器に注ぐ。慣れすぎた生活すぎて、何かを食べたという感覚すらなくなって来ている。食べるというより取り込むほうが僕にとっては正しいのかもしれない。テレビは相変わらず、スペスがどーとかこーとか。タイムマシンについて知らなかったが、スペスは世界中の話題を強盗のように掻っ攫った。液晶に映るのは政治家とか専門家などがくだらない議論を繰り広げている光景だ。僕は滑稽だなとも思える事案だが、それはまだ服用していないからなのだろうか、とも思う。現に、机の上には一粒のカプセルとキャップが開いたボトルが並べて置かれている。それ以外は片付いていたので、病室のようだなとも思う。白の机に、灰色の布団。この一室だけは新築として売りに出せそうなほど、片付いていた。家にあげるような関係の人はいないが、趣味が少ない今の僕にとって掃除の優先度はいつも高かった。

 スペスを服用するのがどれほど重大なことか、と言うことは千秋にも理解はできた。だがほんとにそうなるのだろうか、何かしらの弾みでどこにも行けず、現実と過去の狭間を彷徨いたりするのは死んでも御免だ。

「よくあるタイムトラベル系の映画や作品なんかと違って、このスペスは完璧だった。自分は一人しか存在しないし、それで変わる未来もそれぞれの手に委ねられる。」

 物好きな彼が蘊蓄を披露するようにそんな話をしていたのを思い出す。根本は繋がっているが、そこからの派生は無限通りあった。この原理を、ある人は逆植物空間と言ったし、ある人は派生的別次元空間などとも言ったらしい。

 自分が物理学の専攻だったら、それを調べるために過去に戻り、永遠の時を過ごして研究に没頭するだろう、と綾人は思ったくらいこの仕組みには興味があった。

 タイムマシンはスペスの中でも特に異質であり、与える影響も絶大なものだった。

 だが、人類全員が服用したわけでもなかった。死の覚悟があり、尚且つこの世界に「どうでもいい」という感情を持つ者に多く鬱や自殺衝動が現れた。しかもすべての事例で、それが現れ始めるのが服用後1〜2日であり、これには研究者も頭を悩ませた。さらに頭を悩ませたのは鬱や自殺衝動が見られない人はほんとに微塵もなかったのだ。傾向はさっき述べたこと以外には見つからなかった。

それにタイムマシンの欠点をもうひとつ挙げるとしたら、それは

 ''過去にいた時間と同じ時間が現実世界でも流れる''

ということだ。環境の変化に耐えられなくなって自死の道を進む人だっているのかもしれない。

 なにより、服用者にとって1番の弊害は後遺症だろう。''まるで人が変わったようだ''と表現したらよいだろうか。彼らはあらゆる感情が削ぎ落とされて無駄のない人間になってしまっていた。昔、そういった実験を行っていたとよく耳にすることがある。人為的であっても、そうでなくても状態はよく似ているらしい。きっとタイムマシンを作った人はよほどのマッドサイエンティストなんだろうと千秋は思った。今の自分はまさしく『飛んで火に入る夏の虫』なんだろう。虫はそれを自覚していてかつ、自らそういった選択をとるのだろう。

 これらのことから一時期は政府の陰謀だとか、安楽死計画だとかを言う陰謀論者たちが浮上したが、彼らは淘汰されていった。それほど注目がなくなったのだろう。批判や称賛はどうであれ、そういった人々が注目を集められなくなったら終わりだろう。それほどに国はスペスに依存していた。

 そんな依存者の一人に僕は自ら進んでなろうとしていた。しかも危険度が高いとされているタイムマシン。処方する前にとても長いカウンセリングが行われるのだが、タイムマシン服用希望者に対しては3〜4人がかりで行われた。同じ質問を何回もされたし、日が出てから落ちるまでの生活を監視されたこともあった。彼らには僕が相当勇気のない少年に見えたのだろう。こいつは救える、こいつは一時の思いで人生を投げ出そうとしている、若いなら過去に背を向けて前を向け、と言われた気がしたが、そんなことはもうどうでも良かった。自分の気持ちが揺らぐわけもなかった。もはや自分の命などどうでもよかったのだろう。咲良を救うことができさえすければ……

 咲良の自殺の原因は千秋にはまるで見当もつかなかった。が、気になる点は二つあった。

 一つは、時折見せる哀しげな表情だ。彼女の笑顔はこの上なく美しかった。それは確かだ。だがその裏には確かに何かが隠れていた。彼女が時々見せる哀しげな微笑みからは儚さや嘘が隠れている事は中学生の僕から見ても分かった。が、日常が壊れるのを恐れたのだろう、わざわざ仮面を剥ぎ取るような事はしなかった。

 二つめは、彼女の美貌についてだ。僕の記憶では、少なくとも小学生の頃、彼女がそこまで美しいとは思わなかった。だが中学に入学して変身するように中身も外見も変貌を遂げた。「一人で文庫本を読んでいた地味な少女」から、「クラスの中心的マドンナ」までの様変わりはきっと誰もが驚愕するだろう。彼女の周りの文具や本までもが、それまでのものとはまるで違っていた。国宝にして展示して欲しいものだ、と四六時中考えていた。決して彼女に惚れていたのではない、彼女は''そういう''存在だったのだ、と自分に言い聞かせる。

 千秋は原因をどうしても知りたかった。なぜ彼女は死ななければならなかったのか、ほんとは、自分が知らないだけで、ただ遠くの町に引っ越して、今も中心的な存在として異性から注目を浴びているのではないか。それはただの独りよがりな妄想だということを分かっていた。だがそれでも、そうであって欲しかったのだ。

 考えれば考えるほど思考の渦は勢いを増していく。こんなに生き生きとしている自分は久しぶりだった。思えば高校を卒業してから、いや、あの知らせを聞いたときから生とか喜びとかを心の底から感じた事は一度もなかった。そう言った感情を感じそうになるたびに、自ら強めた火を無意識に強火から弱火にしてしまっていた。なぜなら僕にとってこの世界は憎く、残酷であったからだ。幸せを最も簡単に奪っていく、そんな相手に隙など見せてはいけない。僕にはもうスペスしかないと思った。

 過去に戻ろう、そして彼女を救う、そうすることで僕の心のモヤがはれるような気がした。例えその選択が間違っていたとしても。


 その知らせを聞いたのは、雪が降るとても寒い日だった。いつも通り彼女と別れた僕は寒さで凍え死にそうになりながら歩を進めた。自分の前にはさまざまな靴跡がいくつも続いていた。元々この道は人通りが少ないので、無数のそれはそれぞれの生活の痕跡を表していた。

おそらく数人で遊びながら帰ったであろう小さな足跡。カップルで並んで歩いたであろう大きさが不揃いの足跡。それを見て千秋は平和だなと改めて実感した。こんな幸せがずっと続いたらいいのに。そんな思いも頭をよぎった。約二時間後に掛かってくる電話の内容を知っていたら、こんな風景も違って見えたかもしれない。雪で真っ白になった町を見て純粋に綺麗だと思ったが、薄暗い空は、冬の厳しさを人々に見せつけているようだった。冬は千秋にとって寂しい季節だった。何かが終わっていく季節。死ぬなら冬を選ぶだろう。寒気は綾千秋にそんな思考さえ思い起こさせた。

 その日も親が帰ってくるのが遅く、一人で食事を済ませた。自室で早く就寝の支度を済ませて、咲良から借りた映画でも観ようかと思っていた。彼女が映画を貸してくるなんて事は珍しかったが、断る理由もなかった。外では吹雪が吹き荒れていた。先ほどまでの穏やかな表情とは一変して、そこに容赦なんてものは微塵も感じられなかった。綾人は早く冬が終わってほしいと願った。それは祈りでなく、率直な要望だった。縮こまって何も出来ないのはもう耐えられなかった。高三の冬ともなるとやはり受験だが、志望校はまだ決まってない。が、そこそこなところに推薦で入る予定だった。もちろん、二人で。

 二年後の今頃はきっと咲良と二人で上京して、暖房の温もりが行き渡らない程度の暖かさの部屋で、雪を見ながらなべをつついているだろう。そんな妄想が、千秋の最近の日課だった。もちろん、人に打ち明けられるようなことではないが。

 炬燵が身体を温めていくのがとても良く分かった。このまま寝てしまおうか。明日、映画の感想を求められたら、いつも通りはぐらかそう。

「はぐらかしたって無駄だよ、それで感想は?」とニヤニヤしながら言う咲良の顔が容易に想像できた。


 自分は今、とても幸せだなと思った。だがそんな思いは約二秒後に掛かってくる電話によって最も簡単に打ち砕かれた。

 部屋中に瘡蓋を取った時の血液ほど勢いのある着信音が響いた。それは自分の携帯からであって、何の躊躇いもなく僕はその電話に出た。いや、出てしまったというべきだろう。


『清水咲良が自殺しました。』


 僕は立ったまま石みたいに固まってしまった。どのくらいそうしていたかは分からない。十秒かも、それとも、十分か。

 電話は警察からだった。自室で首を吊っているのを家族によって目撃されたそう。制服の胸元には、''千秋くんへ''と書かれてある遺書が見つかった。おそらく、帰宅後すぐに、あらかしめ用意していたロープで首を吊ったのだろうということだった。声からするに、中年の男性だろうか。彼は事実をまるで台本があったのように淡々と伝えた。きっとこの手の仕事には慣れているのだろう。

「そうですか。」僕は無機質な声で言った。

「心中お察しします。もし私たちに……」

 彼はまだ何か言いたそうにしていたが、電話越しに伝わるものがあったのだろう。彼は一言謝罪を言って電話を切った。

 僕はそこから数分は何も考えることはできなかった。自室の布団に静かに潜り込み、玲奈から借りた映画をデスクに差し込む。音声の設定だとかそんなのはどうでも良かった。どういった映画だったのかは覚えていない。僕はそれを無心で観続けた。途中、携帯が幾度も鳴ったが、机にあるそれに手を伸ばすことは、少なくとも今の僕にとっては無理なことだった。中盤に差し掛かったとこだろうか、映画全体の盛り上がりが収まり、二人の人物の対話のシーンになった。その中の一人が放った「愛してる」の言葉が、トリガーとなって僕の保たれていた我慢は崩壊した。

 僕は涙を流していた。よほど大粒だったのだろう。テレビに映っている二人の俳優の表情さえ分からなくなってしまった。

 幸せだった。本当に、本当に幸せだった。何気ない日常を送ったことも、ちょっとだけ非現実的なことをしたのも、今思い返せば一つ一つが儚くて愛おしい思い出だった。どの記憶の自分も笑っていた。隣にいつもいてくれた人がいたから。どんな一瞬も大切な日常だということに今更気づいた。欠点は、なくなってからしかその日常がいかに大事だったかということに気づけないことだ。僕はそれを何より恨み、呪った。彼女が好きだった。他の何よりも。彼女の腕の中で泣きたかった。酸いも甘いも彼女がいてくれたからこそ、宝物だった。これから自分はどう生きていけばいいのだろう。もう何もかもが終わりなんだ。残りの人生は後悔と自責の念に押しつぶされていくのだろう。

 ひとしきり泣いた僕は疲れからか眠ってしまった。その夜、夢を見た。自分が''何か''を一生懸命探している自分を見る夢だった。その''何か''は目の前の彼にとってとても大事なものだったが、彼は見つけることはできない。いや、初めからないことを知っておきながら、事実を受け入れたくないがために、探しているという風にも見えた。彼は泣いていた。それほど大切だったんだろう。その姿を見て、夢の中の僕は悲しくなったと思う。彼は自分自身なのだから。

 夢は覚めたが、悪夢は始まったばかりだった。何も気にしないでいよう、そう思おうと最善を尽くしたが、町に散りばめられた咲良との記憶を感じずにはいられなかった。今日からはもうそれがないと考えると悲しくなったが、もう涙は出てこなかった。昨日まで栄養があり美しかった一輪の花は養分と水を抜かれて枯れてしまったのだ。

 学校では、一人になった。意外なことに、慣れ親しんだように生活することができた。初日は、クラス中が心配の目を向けているのが分かった。確かに、昨日までの僕と比べたら、その豹変っぷりは一目瞭然だろう。「大丈夫?」と声をかけてくる者もいたが、こちらとしてはありがた迷惑だ。もう咲良の存在を感じたくないのに、その一言が''世界''を''彼女がいない世界''に変えてしまうから。僕はそれら全てを無視し、中学二年のただの「根暗で使えるやつ」に自ら戻った。それが理由で葬儀も参加しなかったし、遺書も受け取ることはなかった。そこからは思ったより早かった。大学はそこそこのとこを受けて、そこそこの職に就いた。彼女がいた痕跡は、見回す限り僕の近辺には存在していなかった。

 椅子に座り、机に向き直る。それは結果を確認する受験生ようだと千秋は思った。赤で書かれた注意書きを読んだが、もはやそれに従うことなどは一ミリたりとも考えなかった。

 


「このスペスで戻った過去での人の生死に関する影響を与える行為は極めて重罪です。絶対にしないよう、注意してください。」


 僕はそのカプセルを飲んだ。水で押し流したともいえるが。

効果は徐々に現れた。懐かしい記憶や情景などが断片的に頭の中を満たしていく感覚があった。より鮮明に、よりクリアに、より現実的に、日々のカケラを拾い集めるように、僕は過去の出来事を思い出すようになっていった。処理が進んでいくごとに意識は薄れていった。体内から自分の形をしたナニカが抜け落ち、水の底に落ちていく感覚を味わった。

それは思ったより、辛く、悲しかった。戻ろうとしても沈んでいくだけ感覚なのはまだ耐えれた。が、、抗えない感じがなんとも気持ち悪かった。横たわる自分との距離が広くなっていき、それと同時に意識も薄れてきた。これが「無」なのかと思った時には、もう手遅れだった。綾人の意識は完全に飛んでしまった。

 そのうち、目の前が光に包まれていくのがわかった。それもオレンジ色の光だった。どうやら千秋の中で一番最初の記憶に飛んだようだ。

 目を開けると、オレンジ色の空が広がっていた。目の前には彼女がこちらを笑顔で見つめて立っていた。

 

 戻ったのだ。初めて心通った日。

 咲良と初めて向き合った日。

 無ければ良かったし、あって良かった最高で最悪の日。

 

 物語は始まったばかりである。

 



 

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