アカクビさん
倉敷ユカは、決してクラスでは目立つ方ではありませんでした。
家が裕福でもありませんでしたし、勉強も中の上くらいなものでした。運動神経も並み程度、だけど特に個性のない自分の運命を恨むこともない、言ってしまえば普通の女の子でした。仲の良い友だちと怪談やオカルトの話をするのが楽しみでしたが、その友だちは一〇歳になると同時に引っ越してしまい、それっきりでした。ユカちゃんはそれを寂しがりながらも、慎ましく教室のなかで過ごしておりました。
しかしクラスのなかで長い時間を過ごしていれば、多少なりとも、衝突まではいかなくても、すれ違い程度は起きてしまうものです。たとえば美術の時間に、偶然組んだペアの似顔絵を描かなくてはならなくなり、倉敷ユカ本人は一生懸命に描いたつもりでも、それを見た相手がわざと醜悪に描かれていると怒り、根にもってしまうとか……。そういったわけで、クラスメイトの加波さんが倉敷ユカのことを良く思っていなかった、という背景はありました。可愛い子ぶってるとか、偉そうだとか、そんな他愛もないわだかまりがあるとき、きっかけを見つけて爆発したのです。理由はなんだってよかったのかもしれません。
ガサガサと引き出しに手を入れていた加波さんは、はたと辺りを見渡し、叫びました。
「きっと倉敷さんだわ!」
加波さんの声は大きく、芯の通った強さをもって響きました。運動神経のすぐれた加波さんの周りには、いつも女の子が数人ついています。人徳というよりは、いわば街灯に蛾が寄り集まるように、みんな加波さんの強さに引きつけられていたのでした。
「さっきまでちゃんとあったもの。給食費のお金を封筒に入れて、わたし持ってたのよ。ちょっと席を外したときになくなったの。そのあいだ、倉敷さんがなにしてたか知ってる人いる? あの子、この頃わたしに嫌がらせばかりしてくるんだもの。とうとうやらかしたんだわ!」
もちろんユカちゃんは否定しました。
「わ、わたし、そんなことしてないわ……」
けれど加波さんは、聞く耳を持たず、色々とユカちゃんのありもしない悪口を並べ挙げた挙句に、泣き出してしまったのです。涙こそ、観衆の心を揺さぶるものはありません。周りの女子は加波さんの肩をやさしくさすり、慰めの言葉をかけながら、チラチラとユカちゃんの方を疑いのまなざしで見つめました。女子たちの疑いの目は、真実以上のものを語っているようでした。
帰りの会が終わると、ユカちゃんは先生に呼び出されました。女子たちが告げ口をしたにちがいありません。ユカちゃんは小さい肩を落としながら、担任の藤崎先生のあとについて、生徒指導室のかび臭い部屋に入りました。向かい合って席に座ると、いきなり先生は切り出しました。
「加波の給食費がなくなったことは知っているか?」
藤崎先生は、大学を出たばかりの若い先生です。いつも正義感に燃えていて、クラスメイトの団結を第一に考えてるような人なのです。先生が今回の事件を重大なこととして考えてるのは、明白でした。
「知ってますけど、わたしじゃありません……」
ユカちゃんの声はふるえていました。緊張で声がうまく喉から出ませんでした。
「加波はこの頃、いろんなことに悩んでいたそうだ。友だちとうまくいかなかったり、勉強にもあまり身が入らなかったりとかな。倉敷、お前、そういうことは聞いていなかったか? 大切な友だちだろ? 身近なクラスメイトじゃないか」
「……いえ、そんなこと」
ユカちゃんは消え入りそうな声で呟いた。
美術の似顔絵の一件以来、まともに加波さんは口をきこうとしてくれなくなっていました。ことあるごとに、敵意のまなざしを向けてくるのは加波さんなのに、とユカちゃんは苦い気持ちで思いました。けれど当然、藤崎先生はそんなことは知らないふうでした。痛ましい表情をしながら、目の底でひたと見据えてくる先生のことを、ユカちゃんは憎らしく思いました。どうしてなにも知らずに、わたしを吊るし上げるような真似ができるのだろう、と。
「友だちが苦しんでいたら手を差し伸べてやるべきだと、そうは思わないか、倉敷?」
「……はい」
「たとえばお前はスーパーの棚にあるお菓子が欲しいとして、それを勝手にポケットに入れたりするか?」
「……しません」
「それはつまり、倉敷は加波のものを盗んだりしてないと、そういうことなんだな?」
確かめるように、先生は目線を一ミリも外さずに、ユカちゃんに訊きました。
ユカちゃんは力なく頷きました。どうしてこんな喋り方をするんだろう、とユカちゃんは考えました。本当に何もかもが嫌いになってしまいそうでした。
「そうか、わかった。一応、親御さんには連絡させてもらうが、倉敷のことを疑ってるわけじゃないんだ。お前だって、いま誠実な態度で俺に話してくれたんだろうからな。しかし分かってくれよ。俺だってこんなことしたいわけじゃない。だが、クラスメイトの大事なものがなくなったんだ。悪人がいるかどうかは分からないが、少なくとも悪事は働かされたんだ。さあ、……もう行っていいぞ」
ユカちゃんは顔を赤らめながら、自分が恥をかかされたことが納得できない様子で椅子から立ち上がると、廊下へと向かいました。その表情は歪んでいました。こんなとき、人はどんな気持ちを抱くのでしょう。ユカちゃんの場合は、自分以外のすべてが消えてなくなればいいという、やりきれない憎悪の感情でした。
アカクビさんについての話を聞いたのは、引っ越してしまった友だちからでした。ユカちゃんはとぼとぼと歩きながらそんなことを思い出していたのです。加波さんでも、クラスの女子でも、藤村先生のことでもなく、アカクビさんのことを考えていたのです。
アカクビさん、というのはこんな話です。
その女の子は目を覆うくらいの長い前髪を垂らし、しわくちゃのセーラー服を着ています。上履きは真っ黒に汚れ、濡れているためか鼻に突くほどの臭いがします。姿勢は猫背で、いつも床の方を眺めています。首に真っ赤な痣があるために、アカクビさんと、そう呼ばれています。
一説にアカクビさんは、二十年ほど前にクラスの男子たちに暴力をふるわれて死んだ女の子の幽霊だ、と言われています。当時男子のあいだでは、何人かでだれかの首を絞め上げ、何秒まで持ちこたえられるかという、いわばチキンレースのような遊びが流行っていました。そんな遊びが流行ってるときに、その前髪の長い女の子は主に女子たちからいじめられていたのです。あくどい男子たちが目をつけないはずがありません。
女の子は数人の男子に囲まれて、男子トイレに連れ込まれました。放課後で、廊下に生徒たちの姿はありませんでした。首を絞める遊びというのは、普段は男同士でやるものですから、女の子相手には加減が分からなかった、ということもあるかもしれません。それに男の子たちは、いじめられっ子とはいえ、ひとりの女の子を数人で囲んでいる、いまなら何をやってもだれにもバレないという、極度の緊張や興奮からでしょう、つい遊びの範疇を超えて、首を強く絞めすぎてしまったのです。アカクビさんの首に浮き上がった真っ赤な痣は、そのときに複数の男子の手によってつけられたものが、いまだ燃えるようにして残っているのです。
その始終は、三階にある男子トイレで行なわれました。なるべく職員室から遠く、目に突かない場所を男の子たちは選んでいたのです。恐怖のせいでろくに反抗したり、声をあげたりすることもできず、女の子は四方を囲まれた状態で、生温かく好奇心を剥き出しにした指が、喉の薄い肉に食い込んでいくのを感じました。軽い冗談のつもりだった男子たちは、無表情な女の子の顔が自分の握力によって歪み、醜くなることに興奮し、我を忘れていきました。力を入れた腕を離したとき、いやらしく喘ぎながらタイル張りの床にくずおれる様子も、彼たちを楽しませました。男を相手にするのとはわけのちがう昂揚感が、窓を閉め切ったトイレの空間の端々まで充満していきました。顔面を鬱血させ、よだれを口の端に滴らせ、顎にも力が入らなくなった女の子の、そのだらしなく開いた口が、どこか笑っているような、まだ余裕のある印象を与えてしまったのも、男子たちが歯止めを失ってしまった原因かもしれません。いずれにせよその事件のせいで、女の子は脳の血管のある部分に損傷を受け、数日後には死んでしまったのです。ですから、そういったわけで、アカクビさんを招き呼ぶ場所というのが、三階の男子トイレだというのも理由ない話ではないのです。
ユカちゃんはだれもいなくなった放課後、三階の男子トイレの前まで来ると、きょろきょろと辺りを見回し、そっと扉を開けてその隙間に身を滑りこませました。もちろん男子トイレに入ることは初めてで、ユカちゃんの心臓は大きく跳ね上がりました。けれど引き返すわけにはいきません。傷ついた心を元に戻すためには、これ以外の方法はありませんでした。アカクビさんが本当には存在していなくても、”復讐する”というポーズを取ることが必要だったのです。三つある個室のうち、ユカちゃんは一番奥のドアを開け、中から鍵をかけました。中に入ってしまえば、来慣れた女子トイレとさほど変わらないような感じがします。うす暗くて、じめじめしてて、かびた臭いが籠っていました。目を閉じて息を整えながら、以前に聞いたはずの必要な手順を頭のなかにきちんと並べ直し、ユカちゃんはうっすらと目をひらきました。
鞄のなかから手鏡を取り出すと、便器の上に屈みこみました。足をたたみ、膝を床のタイルにくっつけると、不気味な冷たい感触がぞわっと広がり、ユカちゃんの肌のあちこちに鳥肌が立ちました。便器に溜まった水をふれるのは、さすがに抵抗がありました。ユカちゃんは鼻をつまみ、ゴム手袋でもあればいいのに、と思いましたが、詮ないことです。アカクビさんを呼び出すのには、あくまで素手で便器の水をすくい上げねばならないのです。派手な汚れがないのを入念に確かめると、ユカちゃんは執拗に、口角泡を飛ばして責め立ててくる加波さんの顔を思い描き、息を止めました。どうにでもなれ、という捨て鉢の精神でユカちゃんは便器に手を突っ込み、水をすくうと、手鏡の上にそれを垂らしました。それからその水に指先でふれ、手鏡の鏡面に満遍なく広がるようにと、薄く伸ばしていきました。水は透き通っていましたが、鏡のなかは次第に曇っていきました。手の脂か、水の汚れか、原因は分かりません。
ユカちゃんは鍵のかかった扉に向き直ると、手鏡を顔の前にかざし、アカクビさん……と唱えました。
――アカクビさん、アカクビさん、アカクビさん、アカクビさん、アカクビさん、アカクビさん、アカクビさん……。
ユカちゃんが黙ると、不気味な沈黙が四方からどっと押し寄せました。やっぱり噂は噂かもしれないと、諦める気持ちが胸をよぎりましたが、ここまで来たのだから、と強く思いました。だから儀式を続けたのです。
「たすけてください、たすけてください、たすけてください」
ユカちゃんは鍵のかかったドアを内側から、コンコンと二回、それから四回たたきました。それから目を閉じたまま、じっとみじろぎをせず、祈るような姿勢を保ちました。
そのときです。たしかに扉が軋む音が、ユカちゃんの耳に届きました。廊下側の扉が、ギイッと重い軋みを立てて開かれ、そして閉まりました。一瞬外の雑音がふわりと室内をよぎり、そして消え失せました。何者かがタイルの上を歩く気配がしました。痛いほどに神経を張りつめるユカちゃんは、それを扉一枚隔てて強く感じました。ユカちゃんはノックを待っていました。侵入してきた何者かがするノックの音を待ちわびていたのです。しかしそれはいつまで経っても訪れませんでした。
ノックの音が聞こえるはずなのに、とユカちゃんは訝しみました。ノックの音が鳴ったらわたしは出迎えるのだ、そうすれば、アカクビさんにお願いをして、加波さんを殺してもらうことができる。
ユカちゃんの胸は大きく脈打ち、ドア一枚隔てたトイレ内の物音を聞くのに邪魔になるほどでした。さあ、とユカちゃんは汚れて冷たい床に膝小僧をくっつけながら、期待して待ちました。
けれど、じきに物音はすっかりやんでしまいました。
さっきはたしかに聞こえたタイルの上を這いずるような物音も、気配もまったく感じられません。窓の向こうからは、微かに運動部の歓声が聞こえています。ユカちゃんはそろそろと立ち上がろうと腰を上げたものの、足が痺れていたため、倒れそうによろけました。体重を預けようとして、隣の個室との仕切り壁に大きく腕をぶつけてしまい、その音がトイレ中に反響するのを、じっと固まったまま聞きました。やがてなにも起こらないことを悟ると、ため息をつきました。
それは安堵の色をしたため息でしたが、心のなかは不満でいっぱいでした。
なぜアカクビさんは、ドアをノックせずにどこかに行ってしまったのだろう。それとも全部やっぱり噂話に過ぎなくて、アカクビさんなんて実在しないのだろうか?
ユカちゃんは男子トイレを出ると、もう日の暮れた暗い廊下を歩いていきました。明日からどんな目で見られるだろう、クラスの中心にいる加波さんにあんなふうに糾弾されたわたしをみんなはどう思ってるだろう、やっぱりわたしが犯人なんだとそう思うにちがいない……。
ユカちゃんの心は来るときほどドキドキしておらず、反対に暗く沈みきっていました。なにも動くものがない夜の湖みたいに、ユカちゃんは陰鬱とした表情で、重い足を引き摺っていきました。
翌日登校すると、クラスのみんなが意味ありげな視線を送ってくるのを感じました。表立っては加波さんの堂々たる無視を受けるくらいでしたが、だれもユカちゃんと口をきこうとせず、そのくせ含みのある視線を送って、影でコソコソとものを言い合っているのです。
ユカちゃんは悲しくやりきれない気持ちで日々を過ごしました。ちょっとは仲の良かった女の子も、もう目を合わせてはくれませんでした。ユカちゃんが近づこうものなら、まるでバイ菌をうつされでもするかのように、怯えた様子で遠くへ去ってしまうありさまです。どこにも居場所がなく、ユカちゃんは肩身の狭い思いをするようになりました。もうだれかに話しかけようともしなくなり、休み時間はノートに覆いかぶさるようにして、前の授業の復習をしてるフリをしてやり過ごし、給食の時間もまわりの話し声を耳に入れないように気を張りながら、うつむいて黙々とごはんを口へ運びました。
どうしてわたしがこんな目に遭わねばならないんだろう、とユカちゃんは思いました。なにを恨めばいいんだろう。加波さんか、それを取り巻く女子たちか、事情も知らずにくだらない正義感を楯にして平気でひとを傷つける藤崎先生か、それとも勝手にペアを決めた美術の先生か……。うずうずとユカちゃんは考えましたが、だからといってなにか行動を起こすこともできず、自分の不甲斐なさと、棘のある周囲からの視線が強く意識されるだけでした。馬鹿らしいと割り切ることもできず、助けを求める手立ても見つからず、ただただユカちゃんは重くのしかかる空気のなかで耐えました。心に痛みを感じながらも、なにもないようにふるまうしかなかったのです。常に緊張しているような具合で、毎日がとても疲れました。その上、時計の針は止まったように動かず、全部の授業が終わるのが途方もなく感じました。
しかし数日経ったある日、信じられないことが起こりました。ホームルーム前の時間です。加波さんが突然ユカちゃんの席に近づいてきたではありませんか。ユカちゃんはまた悪態をつかれたり、嫌がらせを受けるのではないかと、怖々と身をすくめましたが、実際はそうではありませんでした。近くで見る加波さんはどこかやつれたように見えました。びっくりして顔を上げると、目を赤く腫れた二つの眼がユカちゃんを捉えていました。
「ねえ。……わたし、ひどいことしたわ。倉敷さんがやった証拠なんてどこにもないのに、名指しで非難したりして、本当にごめんなさい。給食費はほかのだれかが盗んだんだわ。まだ見つかってはいないけど、もういいの。とにかくわたし、謝らなければならないわ。わたしが間違ってたわ。ねえ、倉敷さん。もう遅いかしら……本当にごめんなさい、ねえ、ごめんね、許してほしいの……」
加波さんは、机に突っ伏すと大きな声で泣き始めました。クラスのみんなは驚いた目で、ふたりの方を見ていました。たくさんの目が注がれているのを、ユカちゃんは肌で感じました。なんだかいつもとちがう感じでした。ふたりを見つめる視線は、糾弾するまなざしから毒のないものに変わっていったようなのです。なぜって被害者であったはずの加波さんが、加害者であるはずのユカちゃんに向かって許しを懇願し、泣いているのですから。事態は明白でした。つまり、ユカちゃん本人にもどうしてだか分からないままに、身の潔白が証明されたというわけです。
次の日から加波さんは学校へ来なくなりました。風邪をひいたそうですが、それが何日も続くと、みんなは好奇の思惑からなにかあったのではないかと噂しだしました。加波さんが姿を消したことで、離れていた女の子たちはまるで自分たちが強制から解かれたように気おくれもなく、ユカちゃんと普通に会話をするようになりました。
「あなたが犯人じゃなくてよかったわ」と女の子が言い、「わたし本当は信じてたのよ。だけどあの雰囲気じゃあね、言い出しづらくって」と別の女の子が言いました。
ユカちゃんは周りの人間が以前と同じように接してくれるのが分かって、うれしくなりました。休み時間や給食の時間に、わざわざ他人と目を合わさないように視線を下げる必要がなくなっただけでも、随分と気が楽になりました。硬く凍った緊張が、リボンをほどくようにゆるんでいきました。友だちと会話していると、驚く速さで時間が進んでいきました。止まったように思えた時計の針は、ふたたび息を吹き返したのです。みんなが以前と同じように振舞うのを、ユカちゃんは快く受け入れました。その方が楽しいし後腐れもないように思えた、というのもありますが、そんな理由を頭で考えることなしに、自然と元の生活に戻っていったのです。そうしていると給食費のことやアカクビさんのことは、それがまるで間違いであったかのように、頭の片隅の暗がりへと押し込まれていきました。
その夜、好きなアイドルが出てるバラエティ番組を母親と居間で見ていたとき、宿題にまだ手をつけていないのを思い出しました。時計を見ると九時半です。さっさとお風呂に入らなきゃ、とユカちゃんはテレビを惜しみながらもソファから立ち上がりました。服を脱ぎ、洗濯カゴに衣服を放り込んだとき、ふと違和感を感じました。しかしそれがなにかすぐには分からず、ユカちゃんは湯を張ったバスタブに浸かりながら、それを考えました。お風呂に入ると、全身がポカポカしてきて気持ちよくなりました。そしてなんとなく、さっき脱衣所で見たシーンがはっきりと映し出されるのを見ました。鏡に映った自分の顔に黒いモヤがかかっている、そんな光景です。居心地の悪い視線を感じました。ユカちゃんはふと不安になり、湯舟から立ち上がり、湯気で真っ白に曇った大きな鏡に向かい、表面についた蒸気を指の腹で拭いました。そこには心配そうなユカちゃんの顔が映っていました。黒いモヤはどこにもありません。どうやら見間違いだろうと、ユカちゃんは火照った頭で結論づけました。
しかし、それがどうやら見間違いや錯覚ではなかったことが、だんだんと明らかになっていきました。
一瞬のことなのですが、ユカちゃんが意識せず鏡を視野に入れると、黒いモヤが顔を隠しているのです。ユカちゃんはあちこちでそれを体験するようになりました。家の洗面台の鏡にとどまらず、商店街のショーウインドウや、学校のトイレなんかでもそれは起こりました。まじまじと鏡を見たときには消えているのですが、フッと視界に入ったときなんかは、黒々とおぞましくふつふつと煮えたぎるようなモヤが鏡に映った自分の部分を占めているのです。黒いモヤに覆われた自分が視野に入ると、それが自分の姿ではなく別人のものであるかのように思えました。視野の片隅で起こることとはいえ、こう何回も何回も起こると、見間違いであるなどと判断することはできなくなり、ユカちゃんは鏡がある場所を横切るとき、得体のしれない恐怖心からできるだけ視線を外して、早足で歩きました。血の気が引くような、そんなことも何度かありました。
そしてそれと並行してもうひとつ、変なことが起こり始めたのです。
夜、布団をかぶって眠りにつくとき、ユカちゃんは以前のように嫌なことを考えなくても済むようになりました。クラスメイトからの冷たい視線や、自分がなにを言っても無視されることの恐怖で心がいっぱいになり、眠気を妨げていたのですが、もはやユカちゃんに心配することはなにひとつなく、ベッドに横になると、すぐに睡魔がユカちゃんの手をひっぱりました。
夢のなかでユカちゃんは、どこか狭くて暗い場所にいました。縦に伸びる細い明かりがうっすらと見え、そのほかに視界に映るものはありません。
夢のなかの自分というものは、夢を見ている自分の意志とはちがう力で動いています。だからユカちゃんが、そうしようと思ったわけでもないのに、からだが動きました。それは奇妙な感覚です。容れ物のなかに自分の魂が収まっているはずなのに、その容れ物は自分の魂の言うことを聞かないのですから。そうしてユカちゃんの意志とは関係なく、ユカちゃんのからだは動き、その縦にほっそりと切り取られた光へ、手を伸ばしました。内側から扉をひらくと、部屋に射し込む青白い月光に照らされ、ユカちゃんのいる場所が、衣服の吊るされたクローゼットだったことが判明しました。そこはユカちゃんの部屋と同じくらいの広さで、花柄の壁紙が貼られていて、サンリオのキャラクターがあしらわれた小柄な勉強机の上には、赤いランドセルが無造作に放られていました。ランドセルの蓋はあいたままで、数冊のノートやプリントがそのなかからはみ出しています。
ユカちゃんはクローゼットから降りると、ベッドに横たわる影に近づいていきました。視界が前髪で隠され、思うように見ることができません。歩くと、ぐしょぐしょに濡れた靴の感触が、気持ち悪く伝わってきました。ユカちゃんは、(とはいっても、ユカちゃんの意志とは独立したユカちゃんのからだが、という意味ですが、)ベッドに横たわる人影の前まで来ると、立ち止まって屈みました。その人影を上から覗きこんでいるのです。窓の向こうの月が雲に遮られて、その顔を見分けることはできません。ユカちゃんは屈んだ姿勢のまま、腕を伸ばし、その子の首にさわりました。卵を包むように、やさしい手つきで。それから驚くほどの力が加わりました。ユカちゃんが今まで出したことのないような、筋力が引きちぎれるほどの強い力がユカちゃんの両腕にみなぎり、その子の首を一気に絞めあげていきました。ユカちゃんは怖くて、すぐにでもその場を離れたいと思いましたが、からだはまったくユカちゃんの気持ちを無視して、首の骨を折ってしまおうと際限ない圧力をかけていきます。ユカちゃんは泣いてしまいそうでした。
怖い、怖いと、そればかり思いました。
その子の首の手をかけた部分が赤みを帯び、顔は赤紫に腫れあがっていきました。そのとき雲が流れ、月の光がゆっくりと動いたのです。その顔はユカちゃんの前に徐々にではあれ、はっきりと浮かび上がりました。甲高い悲鳴が鼓膜を突き破るように聞こえました。それはすぐ近くから聞こえました。というのも、ユカちゃんはその子の顔を目の当たりにするや、激しく絶叫していたのです。
ハッと目を覚ますと、窓の外はまだ暗く、ひっそりとしていました。
窓を開けると、汗でぐっしょりになった髪のあいだを乾いた風が吹き抜けました。両手をひらいたり閉じたりすると、まだ首の骨にふれた感触が残っています。柔らかい肉の下に、ゴツゴツした骨の連なる感触です。しかしその相手の表情はどうしても思い出せませんでした。ユカちゃんは窓に映った自分の顔を見つめました。ユカちゃんの顔は黒々としたモヤに隠されて、いまどんな顔をしているのか、読み取ることはできませんでした。
授業が終わったとき、ユカちゃんは疲れていて、近くにだれかが立っているのに気がつきませんでした。授業の合間もほとんど集中力を欠き、うとうとしては、首を振って黒板の文字を追いかけようとするのでした。努力をしてノートを取っていたつもりでしたが、あとで見直すと判別できない文字だらけでした。みんなが帰り支度を始めるなか、ユカちゃんはひどくぼんやりとして、机の前にじっとしていました。毎晩のように訪れる悪夢を見そうで、目をつむることさえ怖くなってしまったのです。
「あの、倉敷さん?」
声をかけられると、ユカちゃんはびっくりして飛び起きました。それまで、近くに宇野くんが立っていることを知らなかったのです。宇野くんは背が低く、大人しい性格の男の子でした。話したことなど全然なかったので、ユカちゃんは不思議そうに彼を見つめました。
「ど、どうしたの?」
宇野くんは、こんな近くに来てまで話をするのを躊躇しているようでした。なにか思わしげな目つきで、机の端を見下ろしていましたが、やがてユカちゃんの顔をまじまじと見つめました。
「ちょっと話があるんだけど、いいかな?」
ユカちゃんは宇野くんの後に従い、廊下に出て管理棟の方へ歩きました。歩いてる途中、宇野くんは一言も喋らず、どこか思いつめた表情をしながら、口を結んだままでした。
「……今日はクラブ活動が休みだから」
宇野くんが立ち止まったのは、理科準備室の前でした。理科クラブに入ってるという彼は、ポケットから鍵束を取り出すと、扉をひらいてユカちゃんを招き入れました。
壁際には、授業で使ったことのある顕微鏡や、アルコールランプなどの実験器具が所狭しと並べられていました。一番奥のところには、全体の半分の皮膚がない人体模型が目を見ひらいて、ユカちゃんをギョッとさせました。
怖々とそれらを見ないようにしながら、内側から慎重に鍵をかける宇野くんにユカちゃんは訊ねました。
「それでお話ってなんなの?」
「うん」
宇野くんはきまり悪そうに頷くと、表面のクッションがすこし破れた丸椅子を勧めました。二人はプリントの積み重なった机の前で、椅子に腰を下ろしました。
「あの、こんなこと訊くのも変かもしれないんだけど、倉敷さんはなにか身に覚えがあるんじゃないかと思って」
ユカちゃんは黙ったまま、宇野くんの顔を見つめました。彼の口元は引き攣ったように動きながら、言葉を紡ぎました。
「なにか、最近……変なことが起こったりしてないかな?」
「変なこと?」
ユカちゃんは訊き返しながら、鏡に映る自分の顔に黒いモヤが重なることや、嫌な夢のことが脳に浮かび上がってきました。けれどそんなことを口に出すのは、突拍子もないことだと思い、なにも言いませんでした。
「別に、ないけど」
宇野くんは眉根を寄せて、真剣に考えこんでいました。カーテンの隙間から陽が射して、アルコールランプの球体が眩しく輝き、そのせいで一層部屋が暗くなりました。遠くで金管楽器の音が聞こえ、吹奏楽部が練習を始めるのがぼんやりと分かりました。宇野くんは息をゆっくりと吐きだすと、意を決して次のようなことを話し出しました。
「加波さんの調子がね、おかしいんだ……」
「え、加波さんが?」
「……そうなんだよ。うちは家が近くてさ、親同士も仲がいいものだから、加波さんのことはよく耳にするんだよ。このところ、ほら休んでるだろ。なにかあったのかなって母さんが、加波さんの母親に話を聞いたらしいんだけど……どうやら普通じゃないんだよ。これは内緒にしておいてほしいんだけどさ……」宇野くんは廊下への扉の方を振り向き、鍵がかかっているのを確かめました。「というのも、加波さんは一応先生の言うところじゃ、風邪ってなってるじゃないか。それもみんなに変な印象を与えないためだと思うんだ」
「ええ」ユカちゃんは目線を床の方へさまよわせながら、頷きました。「わたし、なにも言わないわ……約束する。それで……どうしてるの、加波さんは? 変ってどんな風に?」
「ああ」宇野くんは右手の親指の爪を左手の親指の腹でこすりながら、浮かない声色で続けました。まるで彼自身、起こってることを信じられないといったふうにです。「なんていうか、加波さんじゃないみたいなんだよ。彼女ってさ、ほら勝ち気で明るい性格だったじゃないか。負けず嫌いだし、自分を曲げないところがあるっていうかさ……、そうだったろ? だけど、今はそうじゃないんだ。ずっと自分の部屋に閉じこもって、時々母親が入っていっても、ずっと布団をひっかぶって泣いてるらしいんだよ。なにかに怯えてるみたいなんだ。それで母親が理由を聞いても、まともに会話できないらしい。ずっとガタガタふるえてるそうだよ。僕もさ、昔からのよしみだからさ、心配になって加波さんとこの母さんに頼んで、一度だけ電話をつないでもらったんだ……やっぱり変なんだよ。受話器越しにも分かるくらいに声のトーンっていうのか、調子がちがってるんだよ。そもそも会話になってないっていうか……僕を僕だと認識してるかも怪しいくらいなんだ。それでもいくつか話題を振ってみたんだ。学校であったことを話したり、家でどうしてるか訊いたりさ。けど返ってくるのは『ああ』とか『うん』とかで、それもすぐに黙り込んでしまうんだ。それまでの加波さんなら信じられないことだろう? 変だなと思って、耳を凝らしていると、なんだか小さい声でぽつぽつと加波さんの声が聞こえるんだよ。それがさ……徐々に分かってきたんだけど、しきりになにかに謝ってるんだよ。……ごめんなさい、ごめんなさいって呟いてるんだ。なにについて謝ってるのか訊ねてみたんだけど、まるで要領を得なくてね……。だけど一、二度はっきりと聞こえたんだ。加波さんがだれに向かって謝っているのかさ。分かるかい? 僕だって信じられなかった。でもね、聞こえたんだよ。加波さんはきみの名前を出してたんだよ。信じられないだろう?
――ごめんなさい、倉敷さん。ごめんなさい、ごめんなさい、もう二度としませんから、ゆるしてください、ゆるしてください。
ってこう呟いていたんだよ」
宇野くんは言い終えると、ゆっくり不安げな視線をユカちゃんに投げかけました。そのときユカちゃんは返事をするのも忘れてました。というのも、鍵をかけていたはずの扉がすこしひらいて、二つの目が部屋を覗きこんでいるのが見えていたからです。長い髪をしたセーラー服の女の子でした。その子は扉に両手をかけたまま、宇野くんが話をしている間中、横向きに顔を突き出して、宇野くんの背中越しにふたりのことをじいっと見つめていました。
「……あの、宇野くん」
「ん、なんだい」
ユカちゃんが扉を指し示すと、素早く振り返りました。けれど、そのときにはすでに扉は固く閉ざされ、何者の姿もそこには認められませんでした。
――くふっ、と押し殺したような笑い声が聞こえ、ぞわぞわっとユカちゃんは、全身が総毛立つのを感じました。
「倉敷さん」騙されたと思ったのかやや苛立たしげに、宇野くんが向き直って言いました。「きみは給食費のことで加波さんから責められていただろう?」
カーテン越しの夕陽を吸い込んで、彼の目はギラギラと輝いていました。吸い込まれそうな目線に、ユカちゃんは黙ってその声を聞いていました。
「……それでなにかしたんじゃないか?」
その日の晩も、翌日の晩も、ユカちゃんは同じ夢を見ました。クローゼットの暗がりから部屋に降りて、ベッドの上の女の子の首を絞める夢です。不気味な内容だけに、『こわい』とか『いやだ』とかそればかり思っていましたが、ふとあるとき自分のからだに起こってる異変に気がつきました。いまや映画のスローモーションを見ているかのように、ぼんやりと自分のからだが動くのを意識しているような、そんな具合でした。どんなに強く願っても、腕や脚は意志と関係なく動くので、ユカちゃんは一種の無気力状態になっていたのです。
……これはわたしじゃないんだ。
そう思うと、気を楽に持つことができました。
クローゼットの戸を内側からひらき、ぐしょぐしょに濡れた上履きを踏み鳴らしながら、”わたしじゃないわたし”はベッドに近づいていきます。月の光が、横たわる女の子の首すじに絡みつく色濃い痣を浮かび上がらせます。ほっそりとした”わたしじゃないわたし”の手が、すっと伸びていき、確かにドクドクと脈打つその白い首にあてがわれます。”わたしじゃないわたし”の目がカッと見ひらかれ、その光が獰猛に輝くのが分かります。見えていなくても分かりました。長い前髪の隙間から見える光景に初めは嫌悪していたユカちゃんも、いまやこれが当然行なわれるべきこととして、それを見守っています。
――”わたしじゃないわたし”は首を絞めあげるべきだし、ベッドに横たわる女の子もまた首を絞めあげられるべきなんだ……。
そのとき月の光を遮る雲がサッと動いて、部屋は青白い光で満たされました。赤いはずの痣は黒い縄の痕のように変色し、女の子の表情が曇りなく鮮明にユカちゃんの前に現れました。
怯えでいっぱいの瞳がこちらを見て、固まっていました。目のふちに濁った涙が溜まり、小鼻がヒクッと膨らんでいます。久しぶりに見た加波さんは、別人のようにやつれきっていました。
”わたしじゃないわたし”は、万力を締めるようにギチギチと腕に力を入れていきます。加波さんの顔は上気し、口がぱくぱくと動いて白く細かな泡を吹きだしています。それはなんていうか、カニみたいに見えました。ユカちゃんは大きな口をあけて笑いました。まるで愚かしい存在を見下すように、にっこりと首を絞めながら笑ったのです。いい気持ちでした。とてもいい気持でした。殺すことができる。思い通りにできる。もっと気持ちよくなれる。もっと気持ちよくなれる。目の前の命を掌握した、という支配感が脳の奥で火花となってバチバチと弾け、ユカちゃんは口元をだらしなく歪ませながら、体重をかけて、指先や両腕に力を乗せていきます――。
自分の引き攣った笑い声を聞いて、ユカちゃんは飛び起きました。
夢のなかの感触がありありと残っていました。自分が加波さんの首を絞めながら、笑っている光景を思い出し、ユカちゃんは奇妙な考えを抱き、ゾッとしました。
どうしてわたしは笑っていたのか、どう考えても分かりませんでした。あのとき笑っていたのはわたしだ、とユカちゃんは絶望した心で思いました。もはや”わたしじゃない”と、傍観してはいられない気がしました。
ユカちゃんは放課後を待って、宇野くんを呼び出しました。昨晩の夢があまりにも鮮明に焼きついていました。殺してしまえ、という思いに快感を覚えた自分を認めるわけにはいきません。それはあまりに不気味な光景だったのです。
ユカちゃんは訥々と話し始めました。
加波さんの嫌がらせに対して、アカクビさんを呼ぼうとしたこと。けれどトイレにその姿を見せなかったこと、加波さんが休みだす前に謝ってきたこと、黒いモヤのこと、妙な夢を見るようになったこと……。
宇野くんは静かにユカちゃんの話を聞いていました。聞き終えると、彼は肩をすくめて息を吐き出しました。
「僕には兄貴がいるんだけど、その友だちから聞いたことがあるよ。確か……いやでも変だな……」宇野くんは五ミリほど眉根を寄せると、確かめるようにユカちゃんに訊ねました。「結局、倉敷さんはトイレでアカクビさんに会わなかったんだね?」
「ええ」ユカちゃんはうなづきました。「噂だと髪の長い女の子を見つけることになるって聞いていたんだけど」
宇野くんは細い腕を組んで、しばらく黙りこみました。理科準備室の埃っぽい空気が、カーテンの隙間からうっすら射し込む陽の光にキラキラと反射していました。人体模型はじっと直立し、面前の壁を眺めています。その首はいまにもこちらに回転してきそうで、ユカちゃんは目を逸らしました。
「おそらくだけど、倉敷さんは失敗したんだと思う」宇野くんはぽつりとつぶやきました。
「えっ? でも、そしたらあの夢は……?」
宇野くんは記憶の糸をたぐるようにゆっくりと喋りました。
「アカクビさんの話はこうだったはずだよ。管理棟三階の隅にある男子トイレに、だれにも見られないで入って個室の鍵を内側から閉める。手鏡の鏡面に混じりけのない塩を塗って、それを素手で掬い取った便器の底の水で溶かしていく。個室の扉に手鏡をかざして、頭にアカクビさんの姿を思い浮かべながら、彼女の名前を七回唱える。彼女の姿だよ、男子たちに暴力を受けて死んでしまったかわいそうな女の子だ。セーラー服の女の子は前髪で顔を隠し、口元には真っ赤なくちびるが笑っている。汚水を含んだバケツを頭上から浴びせられたせいで、全身ずぶぬれだ。背は高くなく……ちょうどきみくらいだよ。そして首には強く絞められた痕がある。それは色濃く残っていて、まるで呪いの首輪を嵌められているみたいに見える。これは一連の儀式なんだ。ひとつの行程も欠けてはいけない。見落とさず、間違いなくこの動作をこなすことによって、あの子の側に近づくんだ。こういうのはポーズの問題なんだ。自分があの不幸な女の子の”側にいる”ということを示すんだよ。もしかしたら、あれは自分の身代わりだったかもしれない。あるいは自分が彼女の代わりに死ぬことになったかもしれない。そうやって近づいていくんだ。アカクビさんの領域に入っていくんだよ。アカクビさんは、相手のことをすっかり認めなければ姿を現さないからね。一連の儀式はこわばった自分の意識をほどいて、徐々に彼女へと心をひらいていく動作なんだ。それを念頭において、決して蔑ろにしてはいけない。すべては彼女に身を捧げるための過程であるということをね。目をつむって助けてください、と三回唱える。目をひらく。それから扉をノックする。二回、そして四回……」宇野くんはそこまで言うと、鞄のなかからペットボトルを取り出し、喉を潤しました。「彼女の気配が充満してくる。声がする。姿が見える。アカクビさんはきみを味方だと知って、頼みごとを聞いてくれる。そういう話だった。そうだね?」
「わたし、塩なんて持ってなかったわ……それに、そんなに順序だてて出来てたかな……」ユカちゃんは呆然として言いました。怯えによって声がすこしふるえて聞こえました。
それを聞くと、宇野くんのにきび顔が歪みました。まるで最初からそのことを言いたかったかのように、彼はしかつめらしい表情で神妙な物言いをしました。
「それじゃあ問題はそこにあるんだ。倉敷さんがその一手順を怠ったがために、儀式を完了させなかったがために、アカクビさんはきみを味方だとは確信しなかったんだ。いたずら好きの、冷やかしの連中だと見なされたのさ」
「そんな」ユカちゃんは顔を蒼白にして、ほとんど叫びかからん勢いで訊ねました。「けど、それなら……失敗したというなら、アカクビさんはどこにいるの? どうして夢になんか出てくるのよ。アカクビさんはだれかを恨んで、殺してくれるんでしょう? そういう存在だって聞いていたのよ」
「ねえ、倉敷さん……」宇野くんはじっとユカちゃんの目を覗きこみました。「アカクビさんと呼ばれる女の子は、確かに神さまや悪魔と類されることもあるけど、決して全自動の機械なんかじゃないんだよ。分かるかい、倉敷さん? 彼女は生きている。生きた存在としているんだよ。ねえ、彼女は生きているんだよ。きみのそういった傲慢さが彼女を怒らせたと、そう考えるべきなんじゃないのかい?」
ユカちゃんは喉を詰まらせました。血の気が引き、視界がグラグラしました。机に手をつき、息を吐き出すと、廊下へ通じる扉の影になにかがいるのが、目の端で分かりました。心なしかそれが赤い色をしているように感じました。くふふ……と声がしました。ユカちゃんはそちらに向かないようにして、宇野くんに訊ねました。
「つまり、それって……敵だと思われてるってことかしら……わたしも、アカクビさんに?」
「倉敷さんの話を総合すると、そうかもしれない」宇野くんは背後の赤い影には、まったく注意を払わず、言いました。
「もう助かる手立てはないの?」
「いや、そこまでは……」宇野くんは決まり悪そうに首を振りました。「けれど調べてみるよ。加波さんのことだってあるし、僕だって協力したいんだ。できることなら、アカクビさんからきみや加波さんを引き離してあげたい。兄貴に連絡してみるよ。もっと詳しいことが分かるかもしれない」
お風呂に入りながら、ユカちゃんは加波さんに連絡するべきだろうかと悩んでいました。
いま加波さんはどういう状態なのだろう……宇野くんの言ってたことは本当なのかしら……それになぜ加波さんはあのとき、わたしに謝ってきたのだろう……。
ユカちゃんは今までのことをひとつひとつ思い出し、指先でなぞるように確かめていきました。
「アカクビさんは、加波さんのところにいるだけではないのだわ……」
女の子の血だらけの生首が頭に浮かんでき、ユカちゃんは寒気を感じて、湯のなかにからだを沈めました。
――その女の子はクローゼットから加波さんを窺うばかりではなく、わたしの家にも隠れ潜んでいるかもしれない。
ユカちゃんは身を固くして考えました。
家の梁や柱の影や押し入れから、わたしをじっと見ているのかもしれない……。長い髪のあいだから見ひらかれた充血した瞳……、ぐじゃぐじゃと鳴る濡れそぼった上靴……、くふふっ、という押し殺したような笑い声……。
電話をかけると、加波さんのお母さんは大変喜びました。しかし加波さんに取り次いでもらえるかを聞くと、口ごもりました。数秒の沈黙が受話器越しに伝わってきて、宇野くんの言う通り普通じゃないんだ、とユカちゃんは思いました。
「ええ……」加波さんのお母さんは言いづらそうにつぶやきました。「まだ調子が悪いんで答えてくれるか分からないけど、とにかく聞いてみるわね。あの子だってお友だちと話すことも必要ですものね。……ああ、ずっとこうなんですよ。食事もろくにとってくれないし、妙に虚ろな顔をしてしまって、生気がないというか……なんていうか、母親としてこんなことを言っていいのか分からないけれど、あの子じゃないみたいっていうか、わたしどうしたらいいか……」
ためらいながらも「ちょっと待っててね」と、加波さんのお母さんが言い残すと、保留音が鳴りました。牧歌的なメロディのオルゴールです。それがやけに空々しくユカちゃんの耳元に響きました。二十秒ほど経つと最初に戻って、曲が繰り返されました。それが何週かしたときに、受話器越しに湿っぽい吐息がかかったのです。オルゴールが消え、ザラザラという生身の音が聞こえました。
加波さんだ、とユカちゃんは思い、受話器の向こうに話しかけました。
「加波さん、加波さんなのね? ねえ、どうして学校に来てくれないの? みんな心配しているのよ。なにか困ってることがあれば教えてちょうだい。きっとみんな力になってくれるわよ。そうよ、だって加波さんはクラスのみんなに好かれているんだもの。ねえ、どうなの? それほど元気がないのかしら?」
ユカちゃんは息を弾ませながら訊ねました。しかし受話器からは同じように、ザラザラとした吐息のぶつかる音が聞こえているばかりで、これといった反応はありません。それからもあれこれとユカちゃんは話しかけてみましたが、依然として向こうにだれかがいるのが分かるばかりで、そこからは頼りになる言葉も態度も読み取ることができませんでした。
しかしユカちゃんが諦めて電話を切ろうとしたとき、ノイズのなかから微かに声が、加波さんの肉声が聞こえた気がしました。その声は遠い場所から話しているかのように小さく、それにひどく掠れた弱々しいものでした。これは加波さんなのかしら、とユカちゃんは訝しみました。
「加波さん? 加波さんなのね!」
「あの……ね……倉敷さん……」声が発せられると、ザラザラという吐息が一層勢いよくなりました。ユカちゃんは一言も聞き逃さぬようにと、息を止めて、耳の内側に強く受話器を押し当てました。「どうして……わたし……あんなこと。女の子が見てるわ……」
「どうしたの? 何を言っているのよ!」
ユカちゃんは必死に声を張り上げましたが、こちらからの反応など微塵も聞こえないように、加波さんは喋っています。まるで壊れたテープレコーダーみたいな感じさえしました。
「こっちを見てるの、ずっとよ。ねえ、倉敷さん、あのときはごめんなさいね……ぜんぶわたしのせい……でしょう? 女の子がね……教えてくれたわ、とっても、とってもやさしいのよ……学校に行くとね、いつも仲良くしてくれるの。もう、あなたのところには行けないけど……倉敷さんにひどいことしたの、本当に悪いと思っているわ……ねえ、こっちを見てるわ……わたしたちとっても仲良くなったのよ……」
「女の子ってだれなの、教えてよ。わたしの知らないひと?」
「……ごめんね、うまく言えない、すごく苦しいの……倉敷さんのこと、考えるとね……消えればいいって、思うくらいよ……ごめんなさい……ごめんね、もう行かなきゃ……」
電話はそこでぷつりと切れました。最後の方は、確かに聞き覚えのある声でしたが、どこか虚ろで、生気に欠け、加波さんが話しているのでないみたいでした。
ユカちゃんは電話を置いてからも呆然と立ち尽くしておりましたが、強い風が窓を叩く音で我に返ると、ゾッとしながら、
――もうアカクビさんは加波さんに憑りついてしまったのだ、
と思いました。
――加波さんが言っていた「学校」とはどこのことなのだろう……まさか、実際にこんなタイミングで転校とは考えにくいし、第一それなら学校の先生に伝わっているはずだもの……。
ユカちゃんは両親のいる居間の明かりを横目に階段を上がり、ふらふらと気の抜けた様子で自分の部屋に行きました。いつもであれば、テレビを眺める両親のもとに加わって一緒にお菓子をつまむのですが、そんなことをしている心の余裕はとてもじゃないけど、残ってなかったのです。電話をしたことで、余計に不安の種が増えたようなものでした。もしかしたら加波さんは本当に殺されてしまうかもしれない、とユカちゃんは胸を疼かせました。そうなったらわたしのせいだ、と過去の行動を悔やみました。どうしてあんなことをしたんだろう、と反省しましたが、その理由は明白でした。あのまじないをしたのは、興味半分でのことでした。アカクビさんを召喚する一種のまじないを、ユカちゃんも心の底ではきっと信じていなかったのです。
……だから、した。
そんなこと最初から分かっていました。ただその儀式をすることで、結局なにも起こらなかったとしても、憂さを晴らしたかったのです。「アカクビさんと呼ばれる女の子は、実際に生きているんだよ」という宇野くんの声が、耳の奥にこだましました。けれど、どうしてそんなことが分かったでしょう? しかしもうすべては嘘偽りなく始まってしまい、現在進行しているのです。
とにかく宇野くんに明日訊ねてみよう、宇野くんなら力になってくれる、決して自分ひとりではないのだ、そう思うと、ユカちゃんはちょっとだけ楽になりました。非常に彼が頼もしい存在として見え、そう思う根拠は乏しいものであるにもかかわらず、心にはゆるやかな温度がさざ波のように広がっていくのでした。いまアカクビさんがどこでどうしているのかも、餌食となりつつある加波さんがどうなってしまうのかも、そしてユカちゃん自身の安全でさえ、宇野くんの手に託そうという気になっていたのです。
いずれにせよ、その夜にユカちゃんが見た夢は、そういった楽観を促すようにも、反対に釘を刺すようにも考えられるものでした。
暗闇の奥で、縦の筋に切り取られた光が見えました。
クローゼットのなかにいるんだ、と思いました。もう何回も経験した夢です。
自分はこれから、クローゼットから這い出て、青白い月の光に照らされ、ベッドに横たわる加波さんの首を絞める。痣に痣を描き加えるように。黒を黒で塗りつぶすように。力を入れれば、からだに気持ちのいい波が満ちていくのです。まるで本当にこの手で加波さんを殺すことに快楽を感じているかのように。
しかし、今回は感じたことのない妙な違和感がありました。カーテンの隙間から冷たい月の光が射し込んでいて、同じ光景のように見えるのですが、ベッドや机の位置が微妙に変わっているように見えたのです。それに今までの夢にはなかった絨毯が、フローリングの上に敷かれていました。
ユカちゃんはそれに構うことなく、ぐっしょりと濡れた上履きをペタペタと鳴らしながら、ベッドへと向かっていきます。いまや女の子の思想は、このからだを通して、頭や心に染みわたるように伝わってきていました。ユカちゃんは一刻も早く、喉骨の感触を楽しみたいと思いました。少しでも空気を吸おうと、金魚みたいにパクパクとあける口からだらしなく涎が垂れ落ち、宙を睨む目玉が光を失って真っ黒に変化するのを見ると、快楽はどんどんと増していくのです。楽しくて、楽しくて、ユカちゃんの心は抗いがたい幸福感に満ちていきました。指から全神経へと伝播していく感触を求め、ユカちゃんは布団がこんもりと山をつくるベッドへと、近づいていきました。絨毯の上を歩くと、ペタペタと床を踏み鳴らす音は吸い込まれて、聞こえなくなりました。どこかで潮の流れる音が聞こえている気がしました。それにドクドクと脈打つ、自分の心臓の音も。
加波さんは恐れをなしてか、頭の上から布団をかぶっているようでした。ユカちゃんは、その上に屈みこむと、胸の高鳴りに後押しされながら布団の端をつまんでそっとめくろうとしました。
そのとき、ユカちゃんの指がふれるよりも先に、布団が勝手に勢いよくめくり上がったのです。布団の下にひそんでいた人影が、がばっと起き上がり、大声で叫びました。
――逃げろ、先生が来るぞ!
その声を聞いた途端、女の子のからだは硬直し、動かなくなりました。時が止まったようでした。中にいるユカちゃんの心臓にまで強い衝撃が、まるで鋭利な刃物で内臓が抉り出されるかのように、刺し貫かれるように響きました。
青い月の光のなかで、”わたしたち”と対峙していたのは、加波さんではなく――宇野くんでした。宇野くんはカッと目を見ひらき、全身をわなわなとふるわせながら、あからさまな敵意を見せつけていました。宇野くんは手に握りしめていた塩を、殴りかかるように”わたしたち”へと投げつけました。
「消え失せろ、化け物め!」
女の子の心で強烈な情念が湧きあがり、その気持ちはあふれるように内側へと流れ込んできましたが、ユカちゃんがそれを感じるよりも前に、女の子のからだごとその存在が溶けだしてしまっていました。炭酸が泡となって消えるように、からだが透き通り、ユカちゃんと同化していた力といったものが、急激に存在をなくしていったのです。
ぷつん、と糸が切れたみたいに視界は抜け落ち、いきなりすべてが闇と化し、なにも見えず、なにも聞こえない沈黙のなかに放り出されました。それは完全な孤独でした。光がすぐ隣りにありそうな気配が伝わるのに、絶対にそこには辿りつけないのです。それは絶対の静寂、完徹された滅亡、宇宙レベルに高水準の独房でした。生きているなら死ねば終わるわけですが、そこには生の輝きもありませんでした。輝くものはおろか、動くものさえありません。あらゆるものに宿っているはずの可能性は、あらかじめ陰険なやり方で叩きつぶされ、希望をかつて見た者は目を抉り出され、祈りをかつて聞いた者は耳をハサミで切り取られました。そこには明度もなく、高低差もなく、罪や罰もなく、ただ限度のない懲役、際限のない闇が口をひらいていました。無気力と無抵抗、そして枯れてしまった涙、日の目を見ることなく摘まれてしまった生命、そういったものがひしひしと感じられました。それらの空気の粒子は、互いに関係し、ひとつの絶望的な流れによってこの暗闇を満たしていました。それは理由のない破壊衝動、すべてを無意味へと強引に分解してしまう力、氷点下に冷えきったままでふれたものを一挙に火傷させ、二度と喜びを感じられなくなるまで内破してしまう、そんなぎっしりした混沌の、なにも存在することを許されない自己崩壊的な沈黙でした。
その状態がどのくらい続いたかは分かりません。
ハッとして、身を起こすと、ユカちゃんは自分の部屋にいました。外はまだ暗く、時計は午前三時を過ぎたところでした。宇野くんは対処法を知っていたのだ、とおぼろげな頭でユカちゃんは思いました。そうしてあの女の子、アカクビさんを追い払ったんだ……。
喉から大きな息が洩れました。これで助かる、これで解放される、と快癒への望みが波となって胸の内側に打ち寄せていました。
……しかし、どこかであの濡れた女の子の姿がちらつくのも事実なのです。解き放たれたい、関係を断ち切りたい、と頭では思ってはいるのに、どうしてか彼女の姿が大きくなって、消えようとはしないのです。
その姿は、小さく、頼りなく、残酷な暗闇のなかでひとりぼっちでした。
浅い眠りから目覚めても、ユカちゃんは夢の余韻に包まれたままでした。
土曜日で学校がなく、普段ならだらだらとテレビを見たり、犬を散歩に連れ出したりするのですが、その日はちがいました。息の詰まるような、そわそわした落ち着かない気持ちが、ユカちゃんのなかに充満して、なににも気を向けることができなくなってしまっていたのです。そのくせ頭はひどく凍りつくほど冷静で、まるで心臓やからだを張り巡る神経が、頭にだけは届いていないような、そんな感じでした。
宇野くんに電話をすると、午後には会えるとのことでした。
受話器を置きながら、なぜ宇野くんに電話をかけたのか、一体なにを喋ったのか全然覚えていないことに気がつきました。怖い、とユカちゃんは思いました。しかし次の瞬間にはそのことも忘れ、とりとめのない空想に溺れてしまうのでした。
その間どうやって過ごしたのか、ユカちゃんには分かりませんでした。気がついたら、宇野くんの家の前にいて、それでいまはどうやら午後なのだと、ユカちゃんはまるで夢のなかをさまよっている心地のまま、インターホンを押したのです。
宇野くんが現れ、二階にある彼の部屋に通されました。ユカちゃんが口火を切るのも待たずに、宇野くんは話し始めました。なにやら彼は興奮しているらしく、一刻も早く自分の話を披露したくてたまらない様子でした。
「本当は月曜になったら、学校で話そうと思っていたんだ。今日は土曜日だろう? だから月曜まで待って、この重要な話をきみに、倉敷さんに打ち明けようと思ったわけさ。けれど僕としてはね、すぐにでもきみに伝えるべきなんじゃないか、という気もしたんだよ。そんな折にきみからの電話があった。あの口ぶりからすると、倉敷さんからもなにか伝えたいことがあるようだね? とにかく丁度いい機会だと思ったんだよ。お互いにとってね」宇野くんは一気にまくしたてました。いつもの控えめな性格の彼とは別人のように、彼は自らの昂りを抑えようともしませんでした。ぞくぞくっ、とユカちゃんは、背骨を通る神経の弦がふるえるのが分かりました。
「ついに、ついにだよ」宇野くんは勢い余って叫びました。それから自分の声の大きさに初めて気がついたように、それを恥じ入るように、ボリュームを絞るようにコホンと咳をしました。そうした努力にもかかわらず、宇野くんの声のトーンは、彼が言葉を継ぐにつれ、次第に上がっていくのでした。宇野くんの目はギラギラと輝き、前髪は汗で額に張りついていました。「現れたんだ。つい昨晩のことだよ。あの女の子だ。赤川ナオミだよ」
「赤川ナオミ?」ユカちゃんは吃驚して、訊き返しました。
「そう、それが彼女の……つまり、アカクビさんの話のモデルとなった女の子の名前だよ。実際にいるって言っただろう? 兄貴伝いに聞いたんだよ。あの首に真っ赤な痣がある女の子。男子からの悪戯が原因で死んでしまった可哀そうな女の子。僕は見たんだ。この目でしっかりと見たんだよ。まさにね、首のこの部分にね」宇野くんは顎を反り返すと、自分の喉の一部を指し示しました。「あったんだよ。クレヨンで塗りつぶしたみたいな、聞き及んでいた通りの、いやそれ以上だったな。とうとう加波さんでは飽き足らずに、僕のもとにまで訪れたわけさ。全然怖くなんかなかったね。ううん、なんて言ったらいいだろう? 普通の奴なら洩らしてしまうところさ。なんの行動もとれずに、餌食にされていただろうね。僕だって例外じゃない。なにも知らなければ、なんの情報も持っていなかったら、ひどく怯えて、おちおち目も開けていられなかったにちがいないよ。わんわんと泣きだしてもおかしくなかった。でもね、その直前にね、僕は兄貴に電話して色々仕入れてたんだよ。いわば、間一髪と言えるかもしれないね。もうその準備を整えて、先回りしていたんだ。赤川ナオミは……すなわちアカクビさんは、事件に関係した人間の居所を渡り歩くっていうじゃないか。復讐のためにね。知っていたかい? 復讐の悪魔なんだよ、アカクビさんっていうのは。恨みと怨念を燃料とする霊体なんだ。そもそもアカクビさんの話っていうのは、いじめを受けて、それが原因となって死んだ女の子が正体なんだって、言われてるわけだけどさ」宇野くんはここでだけ、はっきりと意識的に声をひそめました。「もうほとんど実体は残っていないんだよ。赤川ナオミの皮をかぶってはいるけど、その内側には復讐の念しか残されていない。だから相手がどのような人間であろうと、関係がない。見境がない。えてして悪霊というのはそういうものなんだよ。本来あったはずの性格が、他人の無理解によって歪められ、固められ、ついには悪霊そのものになり果ててしまう。でも……どんなものにも弱点はある。悪霊にしたって同じさ。弱点がある。もはや当人が記憶していなくても、今ではまったく持ち合わせないような性質のことだとしても、やはり弱点は弱点なんだよ。ねえ、分かるかな? それは霊体を存在させる、目には見えない糸のようなものなんだ……」
熱心に口を動かす宇野くんのうしろから「……くふふ」と声がしました。押し殺したような笑い声です。ベランダのところに血だらけの女の子が立って、窓越しにユカちゃんと宇野くんとを見つめていました。心なしかユカちゃんには、その女の子が自分になにかを訴えているように思えました。その思いというか念のようなものが、真っすぐにユカちゃんに流れ込んできました。どうすることもできませんでした。なされるがままに、ユカちゃんはそのエネルギーの奔流を受け止め、ぼんやりとしました。ぐらっと視界のフレームがずれる衝撃がありました。幾分、視界が曇ったような気がして、軽く首を振りました。空に浮かぶ綿雲が、箒で払われたような心地でした。ユカちゃんの心には、すこしの疑念も残りませんでした。むしろすっきりしたとさえ、感じていたのです。ユカちゃんは、ベランダに向かって軽くうなづいて見せました。もちろん宇野くんには気づかれない隙を狙ってです。
「”先生が来た”という言葉にはね」うしろの存在には注意も払わずに、宇野くんは話を続けていました。「赤川ナオミにとって尋常ならざる意味が含められているんだよ。兄貴とか兄貴の友だちとかに当たって、ようやくそのことを教えてもらったんだ。人けのないトイレに連れ込まれ、男子数人に首を絞められていた赤川ナオミが、そこで最後に聞いた言葉ってなんだと思う? それは緊張と好奇心に興奮していた男子たちを、一気に現実に冷めさせる唯一の言葉だった。”先生が来た”と知るやいなや、男子たちは蜂の巣をつついたみたいに逃げ出し、やっとのことで赤川ナオミは悪夢から解放されたんだよ。それが死んで二十年余り経った今でも、アカクビさんの魂にしっかり根づいているのさ。結局赤川ナオミは、その事件がもとで死んでしまうことになるけれど、自分に降り注いでいた、いつ終わるとも知らない、理不尽な暴力や辱めが、そのとき”先生が来た”という声を聞いたときに終わったんだ。
赤川ナオミは悪夢の終わりを、その宣告を、どのような気持ちで聞いたのか? そんなの推し量るまでもないじゃないか。”先生が来た”という言葉は、赤川ナオミにとっては、天からの救済の知らせだったんだよ。間違いなくね。だから復讐の霊体となった今でもその台詞を聞くと、霊体のつなぎ目がほころんで、アカクビさんのその存在自体が薄れるというわけなんだ。
昨晩、アカクビさんが僕の顔を覗きこもうとしたとき、僕は思いきり大声を出して”先生が来た”と言ってやったんだが、成功さ。アカクビさんの動きが止まった。実に恐ろしい顔が苦痛に歪んでいくのが、実際のところ滑稽に見えた。生塩も用意していたんだ。倉敷さんが儀式の際に忘れていた海水系の塩だよ。それがとどめとなった。あっけなかったな、はっきり言って。これで加波さんだって、僕の方を向いてくれるだろうよ。もう怖くなんかないよ。ちっとも怖くない。何度現れたって同じさ。所詮はいじめられっ子だよ。浅はかなもんさ。むしろ退治したことに誇りを覚えてるくらいだよ。はっきり言って、僕はもう一度その瞬間を体験したいよ。悪霊は殺さなくちゃならないんだ。害虫と同じだよ。つけ上がる前に叩き潰しておかなきゃ。それが赤川ナオミにとってもいいはずだし、それをしてあげる僕は感謝されてもいいくらいだよね……」
ユカちゃんは熱い衝動が頭の血管をたぎらせるのを感じ、思うより先に行動していました。夢のなかにいるみたいでした。自分が二つに分かれていて、一方は眠っているみたいに水の上にじっと立って、なりゆきを見守っているだけなのに、もう一方は激しく燃え上がり、冷たくて鋭い憎悪を爆発させているのです。ユカちゃんは自宅の台所から持ってきていた包丁を、パーカーのポケットから勢いよく抜き出すと、宇野くんのお腹にあてがい、一気に刺し込みました。刃先はズブズブと飲み込まれるように、宇野くんのなかに入っていきました。包丁自体はすんなり入りましたが、その周りでぶちぶちと色んな管がちぎれていく音が聞こえてきます。宇野くんは、なにが起きているのか信じられないといった顔で、ぽかんと口をあけていました。自分のおなかがぐちゃぐちゃになっているのに、それを分かってないように見えました。二本の腕が中空で止まったまま、微かにふるえているくらいです。ですが、それも一瞬のことにすぎませんでした。一気に宇野くんの顔は真っ青になり、水っぽい血を吐き出すと、ビクビクとからだを痙攣させたのです。さきほどまで、あれほど長広舌をふるっていたのが、嘘のようでした。電池の切れかけたロボットみたいに、人間ではないもののように、宇野くんは見えました。
ユカちゃんは包丁の柄を握る手にちからを入れ、宇野くんのなかから引き抜きました。宇野くんは前かがみになり、ゴボッと粘度のある赤黒い血を吐き出しました。宇野くんの頭が自立することができずに、ユカちゃんの方へ傾いてきます。だからバランスを取るために、包丁を今度はもっとうえのみぞおちの辺りに、刺し込みました。ズズッとなにかを引き摺るような音が聞こえました。
――宇野くんなんて死んでしまえばいいんだ。こいつのせいで、こんなしょうもない連中のせいで、赤川ナオミは辱められたんだ。
ユカちゃんは絶望にも似た怒りをたぎらせ、宇野くんを何回も何回も刺しました。自分が自分でない、妙な感覚でしたが、怒りの奔流に身を任せるのは気持ちのいいものでした。刺しては抜いて、抜いては刺しました。早く死ねっ、早く死ねっ、と口からこぼれました。そうしていると赤川ナオミの気配を、近くに感じることができました。気持ちいい、とユカちゃんは思いました。気持ちいい。とっても気持ちいい。体勢を崩し、ぐずぐずに血を噴くサンドバックみたいな宇野くんの背後に、赤川ナオミが立って一部始終を見下ろしています。ユカちゃんは轟轟と燃える火柱となって、何度も宇野くんにぶつかりました。ゆるせない、という思いが全身にたぎり、肌に接する空気を溶かしてしまうほど、脳とからだが沸騰しているのです。
――ゆるせない、本っ当にゆるせない。ちっぽけな快楽のためにこの子を苦しめ、痛めつけ、傷ものにした男どもだ……遊び半分で女の子の首を絞め、ゲラゲラと卑猥に笑うような、そういう男どもをのうのうと野放しにしておけば、また悪事に手を染めるに決まっている……そいつらはいずれ女のひとや子供を凌辱し、強姦し、吊るし上げる大人になる……決まってるんだ……宇野くんなんか死んだほうがいい……放っておくわけにはいかない……実際には手を下していないだけで、やっているのは同じなんだ、卑劣なんだ、赤川ナオミに塩を投げつけ、その存在を消すことを楽しんでいるような犯罪者なのだから、死んで当然だし、死ぬべきだ……本当に死ぬべき連中というのがこの世にはいる。それも大勢。そのなかの一部が、この子の人生を巻き込んで台無しにした、してしまった。宇野くんは死ぬべきだ、ゆるせない、絶対に死ぬべきだ、本当にゆるせない……。
ユカちゃんは気づくと、肩をふるわせて泣いていました。
快感のために涙が出たのは、これが初めてでした。
目の前には、大きな血だまりができていて、その真ん中に黒くなった宇野くんが倒れています。宇野くんは学校で見かけるときとちがって、からだの色んなところから黒い血を噴き出し、汚物にまみれています。臭かったし、なんていうか気持ちの悪い化け物みたいでした。
ユカちゃんは、じきに冷静さを取り戻していきました。絶頂の気配が薄らいでいくのが、名残惜しく感じられました。手の甲で涙を拭うと、きょろきょろと、いまや愛おしささえ感じる赤川ナオミの姿がないかと、目で探しました。すると彼女はなにやら勉強机のそばに立って、その上にある白い紙片のようなものを見ておりました。ユカちゃんが隣りまでいって、メモを取り上げると、そこに記されていたのはアカクビさん、つまり赤川ナオミに関してのことです。おそらく宇野くんのお兄さんやその友だちから聞いたと言っていた、その”情報”なのでしょう。読んでみると、そこには『アカクビさんを呼び出す方法』や、『標的へ憑りつかせる仕方』、あるいは『憑りつかれたときの対処法』などが、箇条書きにまとめられておりました。実際宇野くんが取った対処法も、そこにきちんと載っています。しかし、ユカちゃんはもっと気になる部分を、メモの下の方に見つけました。『赤川ナオミを救う方法』とそこにはありました。
ユカちゃんは、そんな方法があったんだ、と驚くと同時に、救う方法を知っていながら、あくまで『退治』をしようとしていた宇野くんに、ふたたび怒りが湧いてくるのを感じました。
ユカちゃんは腹いせまぎれに、ポケットのなかからクシャクシャになった紙封筒を取り出すと、机の横のゴミ箱に投げ込みました。封筒にはいつか加波さんから盗んだ給食費が手つかずで残っていましたが、ユカちゃんにとってそれはもうどうでもいいことだったのです。憎くて憎くてたまらなくて盗ったものでしたが、その気持ちも失せていました。ユカちゃんの頭からは、加波さんの存在そのものが希薄な、興味のないものになっていたのです。
「……みんな死んじゃえばいいのに」
そう呟いて、急いでユカちゃんは宇野くんの家をあとにしました。
土曜日の校舎は、職員室の明かりが点いてるだけで、ほとんど真っ暗に沈んでいました。
ユカちゃんは、職員用通用口から音を立てないように忍び込むと、靴を手にぶら提げながら、靴下越しにひんやりとした廊下の感触を味わいました。
ごわごわしたセーターが素肌にふれるたびに、チクチクとした不快感を感じます。血で汚れたシャツの代わりに宇野くんの部屋から拝借したものでしたが、どうして男の子っていうのは、このような肌触りの悪いものを身につけられるのだろう、とつい考えてしまいます。
途中だれとも会うことなく、三階まで階段を上がり、廊下の奥にある男子トイレへと辿りつくことができました。スッ、スッ、と床をする自分の足の音以外はなにも聞こえません。ユカちゃんは、窓から入り込むかすかな明かりの届かない真っ暗な闇が、あらゆるものを包み込んで、溶かしてしまうみたいに感じました。長い廊下の闇のなかに見知った顔が、浮かんでは消え、浮かんでは消えていきます。加波さんや宇野くん、それに担任の藤崎先生の顔、クラスの女の子たちの顔……。そこには馴染みのないはずの男子たちの顔もありました。それら多数の顔たちは一切の闇のなかで、ユカちゃんの方を見、口を動かしてなにかを喋っておりました。しかし、窓の外の木々をゆらす風の音がわずかに聞こえるくらいで、彼らが一体なにを言っているのかは分かりませんでした。
トイレのドアは、水槽に沈んだ石のように重たく、鍵がかかっているのかと思われましたが、体重をかけると、扉はギイッという軋みを立ててひらきました。まるで内部が真空状態になっていて、外側のものを吸い込むような感じです。ユカちゃんは、内側に身をすべりこませ、静かに扉を閉めると、一面黒く濡れたような陰気なタイルを踏み歩き、一番奥の個室に入りました。
普段使われているのが嘘のように、非人間的な冷たさが辺りを覆っていました。
個室の錠を内側からかけると、ユカちゃんは鞄のなかから必要なものを取り出していきました。しんと静まり返り、窓から青い月光だけが射し込んでいます。引き返すことはできない、と強く感じ、ある種の恐怖心がユカちゃんの手を止めようと立ち上がっていきましたが、赤川ナオミのイメージに抱かれたような安心感が勝りました。ユカちゃんはゆっくりと手順を誤らないように、手鏡や細長い赤い布やジップロックにいれてきた生の塩などを、タイルの床に慎重に並べていきます。
廊下をだれかが通る音がして、ユカちゃんは身を強ばらせて構えましたが、その音はしかし、トイレまでにはいたらず、階段に戻り、上か下かに行ったようです。おそらく宿直の先生が見回っているのだ、とユカちゃんは思いました。
床に置かれた手鏡を覗きこむと、闇のなかにぼおっと顔が浮かんでいます。
中心に向かって黒いモヤが渦を巻いていて、そこに映る像ははっきりと定まりません。ユカちゃんは袋から塩をつかみ出すと、手をすぼめて鏡面の上にサラサラとゆっくり落下させていきます。
焦ってはいけない、とユカちゃんは自分に言い聞かせました。
ゆっくり時間をかけて、慎重に落ちていく肌理の細かな生塩の流れを見守ります。すでに塩は鏡面に小高い山をつくって、手のひらには汗でくっついた少しばかりの塩が残っているばかりです。口をあけて息をすると、まわりの臭いが強く感じられ、ユカちゃんは眉をしかめました。汚い、胸の悪くなる臭いです。ユカちゃんは悪臭から逃れるように、右手の底に付着した塩を顔に近づけ、舌先で掬うようにして舐めとってみました。すると口腔の水分に塩がこびりつき、ユカちゃんは余計苦しそうに噎せることになりました。
便器の水は月光の反射を受けて、真っ暗ではありませんが、底が見えず、その水面は硬い鉱物のように見えます。呼吸をやめ、息を飲み込んで、口先にあてがっていた右手をそのなかに差し入れていきます。水ではない、ドロッとした感触が走り、ユカちゃんは大きく身震いをしました。あえてなにも考えないように、とユカちゃんは強く思い、ドロッとした液体をつかむと、塩の盛られた手鏡の上にチョロチョロと流し込みました。細かな塩の粒が化学反応を起こして溶けていきます。濁った水が鏡面をふちまで流れていきます。それはまるで異なった世界への入口みたいに夜の底で光っています。
ユカちゃんはべとついた手を服の裾で拭うと、手鏡を持ち上げました。
――アカクビさん、
喉が渇いて、舌がざらついています。
鏡面には黒いモヤがゆっくりと漂って、その奥を隠しています。
――アカクビさん、
ともう一度。
赤川ナオミの姿が胸のうちで、おぼろな像をとっていくのが分かりました。
自分のものとは思えない、聞き慣れない響きがひとりきりの個室にこだましました。
七回唱えたところで、
あっ、とユカちゃんは思いました。
黒いモヤのなかに白いセーラー服の女の子が映っているのです。
……くふふ。
もう何十回、何百回と聞いた、彼女の押し殺した笑い声が聞こえました。赤川ナオミが長い黒髪のあいだから、猫のように鋭く光る目を向けています。それはとてもはっきりと分かりました。彼女の輪郭が次第に色濃く、明瞭に鏡面に映っていくのを感じながら、目をとじて「たすけてください」とユカちゃんは声に出し、目をひらくと、個室のドアをコンコンと二回、それから四回ノックしました。
小さな鏡のなかで、モヤが徐々に薄くなっていきました。隠されていたモヤの背後から、女の子の姿が浮かび上がってきます。かつて不幸を一身に背負わされた女の子、赤川ナオミ。彼女が目の前に出現するのを見ると、ユカちゃんは無性に泣きたくなりました。この女の子はなにも知らないのだ、と思いました。綿毛を揺らすゆるやかな風のことも、この地上にあふれる光のことも、街中に流れる騒音のことも。いたるところで交わされる怒号や叫声のことも。なにも知らずに、なにも知らないままに奪われたのです。閉じ込められたのです。狭量な教室の暗く湿った空気のなかに。光すら射しこまない窓の墓場に。そういったことを思うだけで、胸がとても苦しく、狂おしいほど愛おしさでいっぱいの嗚咽が喉を突いて、ユカちゃんは思わず両手で、手鏡の柄をきつく握りしめていました。
……宇野くんはバカだ。宇野くんはゴミだ。赤川さんの首を絞めた男子と同じだ。彼女のことをひとりにして、置き去りにして、狭いところに押し込めて、そのうえ彼女の存在を消そうとした。
……赤川さんを憎しみに引き渡したのは、そもそも男子たちの方ではないか。一時の気まぐれや悪意にそそのかされて、彼女を傷つけたのはあいつらなんじゃないか。だれひとりとして、赤川さんの孤独を分かろうとしたものはいなかった。だれも自分ひとりの恐怖や保身から、彼女に手を差し伸べようとはしなかったんだ。
宇野くんから癪にさわる英雄談を聞かされたときから、ユカちゃんの心は決まっていたのです。ベランダの女の子の顔が、悲しみに歪んでいるのを見たときから決まっていたのです。赤川さんのか細く、耳の内側に絡みついてくる声が聞こえてきます。
「くふ、くふふ……やっと、会え、た、ね」
真っ暗い空間で、手鏡が壊れたテレビ画面のように鈍く光ったかと思うと、その中心からパリパリと亀裂が走り、勢いよく鏡面は砕けました。手鏡に映っていた女の子の声は、いまやすぐそばで、ユカちゃんの後ろから聞こえてきます。
振り返ると、壁に背をつけて、気ままに腕をさすり、片足をあそばせている赤川ナオミがいました。
「うん……やっと会えた」
ユカちゃんは立ち上がることさえできずに、呆然と彼女を見上げていました。はじめて赤川さんと向かい合えたことの嬉しさに、胸の奥がしめつけられ、瞼からあふれる涙がほろほろと頬のふちを落下しています。夢のなかで何度も描いた姿、そのままでした。夢のなかで何度も感じたからだ、そのままでした。見えずとも身近に感じていた肌感覚の持ち主が、その実体が、目の前にあるのを思うと、なんだか切なくて苦しくて、たまらなくなりました。
「……くふっ、怖く、ないの、あたし、のこと?」
獰猛な輝きを宿した赤川ナオミの目が、暗闇のなかで赤く光っています。
「アカクビさん……いいえ、ナオミさん。あなた、まだ許せないのね?」
「……くふふ。なにを言って、るのか……分か、ら、ないわ」
「男子たちのこと。先生たちのこと。許すことができないから、ずっと一人で、前よりもっと孤独になっているのでしょう? だれの声も届かない場所をずっと歩いているのでしょう?」
「……くふっ、どう、し、たの? 怯えて……いるの、ね」赤川さんは妖しく微笑みました。
「あなた、長いこと、ひとりだったんでしょう」
ユカちゃんの声は掠れていました。
ひどく聞こえづらかったかもしれません。それでも赤川さんは笑って見ていてくれました。それに勇気をもらい、ユカちゃんは胸にたまった空気を言葉とともに吐き出しました。
「ねえ、赤川さん。わたしが……それならわたしが居場所になるよ。あなたの居場所に。聞こえる、赤川さん? わたし、あなたのそばにいるのよ。近くに感じるの。赤川さんは感じる? 聞こえる? わたしの姿が見える? そばにいるのよ。あなたを感じているわ。ねえ、もっとこっちに来て。許さなくていいわ。もう許そうとしなくていい……。ほかのだれも関わりのない場所で過ごしましょうよ。わたし、心の底から許すわ。あなたが何一つ許せなくても、あなたを許すわ。ねえ、聞こえるかしら。あなたの居場所になりたいのよ……」
ユカちゃんの手は宙を横ぎり、憎しみや殺意の塊と呼ばれた女の子に宿る、まだ消えていない温度のもとへ向かいました。
「……くふっ、いっぱい、喋る……のね」赤川さんは手を広げました。
喜びを分かちあう存在がはじめてできた幸福感に押しつぶされそうになるユカちゃんに、ちっぽけなからだが覆いかぶさってきて、確かな重量を感じることができました。強い光をたたえる三白眼、汚水の臭い、骨と皮ばかりの小さなからだ……。赤川さんが上から抱きしめるように両手を広げて、ユカちゃんの視界を隠しています。タイルの暗がりから赤い布が消えていることに、ユカちゃんは気がついていません。
気を失うまでのほんの一瞬、熱をもった彼女の声がユカちゃんの耳元をくすぐるように聞こえてきます。
……ほんと、馬鹿な子ね。
翌日、倉敷ユカ(十一)が三階の男子トイレで首を吊っているのが、男子生徒によって発見されました。
首には痛ましい赤黒い痕がはっきり刻まれているにもかかわらず、その表情はあらゆる死体がそうであるように、どこか穏やかそうに見えました。
(了)