問四 芽野田
翌日。僕が教室に入ると、何やら好奇心に満ちた眼差しがこちらに向けられた。
「?」
誰とも目を合わせないようにしながら、自分の席に座る。少し後ろの方で女子の小さな話し声が聞こえた。
「ねえ。小山くんなんだけど……」
「聞いた聞いた! 足はもう……」
「残念よね、期待されてたのに」
嘲笑の混じった声が耳に響く。
ああ、それか。
僕は隣に置いた杖を見ながら思い出した。
走ることはできない。
医者ははっきりとそう言った。
『足の状態自体はほぼ回復しています。ですが、問題は痛覚です』
事故の影響で、右足の痛覚がイカれてしまったらしい。辛うじて歩行はできるが、陸上競技をすることは、ほぼ絶望的だった。
いつもなら体育祭やインターハイの後は数人から声をかけられるのだが、今日は誰一人僕に話しかけようとはしなかった。
が、予想していた通りではある。
走ることでしか存在意義を示すことができなかった僕は、これから徐々にクラスから忘れ去られてゆくのだろう。しかし、まあ。走る事しか取り柄がなかった僕が一番悪いのだ。陸上以外にも努力をすれば、何らかの部分で秀でたものが出るだろう。
それに僕は別の点でも少し安堵していた。それは例の花瓶事件である。どうやら本当に落下事故で処理されているらしく、僕が花瓶で殴られたんじゃないか、と言った憶測や説は流布していないようだった。足を痛めたことよりもそちらの方が僕は気にしていた。
ちなみに、白浜は澄ました顔でいつものように教室の隅に静かに座っていた。昨日の口ぶりや態度を見た後だと何故か少し滑稽に見える。あいつ本当は友達が欲しいんじゃないだろうか。
「ホームルームするよー」
扉を開けて入って来た担任を合図に、各々が席に着き始める。今日は確か体育が四限目にあったな、なんて考えていると名簿を開けていた担任の顔がふっと不思議そうに上がった。
同時に、クラス全員の視線が教室中央に注がれる。
「どうした芽野田、手なんか上げて」
可笑しそうに尋ねる担任に、芽野田は真剣な表情のままこう言った。
「皆さんにお話したいことがあります」
なんだいメノちゃん! と、男子の一人がヤジを飛ばす。メノ、は芽野田のあだ名である。いつもの彼女ならにこやかに返事をするのだが、今日の彼女は違った。
「小山くんについてです。皆さん、小山くんが隣のクラスの温海くんの妨害によって怪我したことはご存知ですよね」
芽野田の問いかけに、うんうんと頷く者もいれば、興味を失くして隣の人と話始める者もいる。そして大半のクラスメイトは温厚な芽野田が少し怒気の含んだ声を出していることに驚いていた。
「あの後、小山くんは玄関で倒れているのが発見され、病院に搬送されました。原因は花瓶が落下したことによる事故だと先生方はおっしゃっていましたが……先生、もう一度確認します。それは本当ですか」
何言ってんの、メノちゃん。と先ほどヤジを飛ばした男子生徒が呆れた声を出す。皆、口には出さないが似たような気持ちを芽野田に向けているようだった。
それは担任もまた、同じようだった。
「おいおい芽野田。珍しくハキハキ喋ると思ったら…………一体何を言っているんだ?」
「お尋ねした通りです。本当に小山くんは花瓶で頭を打って意識を失ったんですか?」
頬を仄かに上気させて、芽野田が尋ねる。おい、小山はどうなんだよ。と後ろから小声で男子生徒に聞かれたが、僕は無視した。僕自身、それはよく分かっていない。
「芽野田。そんなことで時間は取りたくないんだが……そうだよ。小山は花瓶で頭を打ったんだ。な、そうだろ? 小山?」
「……覚えてないっす」
急に尋ねられ、反射的に不機嫌な声色で返してしまう。だが、それを証拠と言わんばかりに担任は芽野田に言った。
「ほら、小山も自分のことを大っぴらに言って欲しくなさそうじゃないか。さ、それはまた俺に後で話してもらうとして、そろそろ点呼してもいいか?」
じゃあ安藤。と担任が一人目を呼ぼうとした時、芽野田が黙ったまま机を叩いた。
ばんっ。
乾いた音が教室に響き、担任の声が止まる。
「私見たんですよ」
それは先ほどよりも、冷めた、少し恐ろしい声だった。
「白浜さんが、小山くんを花瓶で殴るとこ」