問一 花
記憶に新しいバラの匂いで、そして僕は目を覚ました。
配線の切れた家電のようにしばらく僕は呆然としていたが、やがてここが病院であると気づいた。石のように重い体と上手く結べない思考。作られたような静けさの中で、僕は不意に大きなあくびをした。
眠気のまま瞼を閉じても良かったのだが、どうもこの枕は合わないらしく眠りにつくことができない。強制的に意識を飛ばされていた先ほどと違って、ぼんやりとしたまま僕は病室の壁を見続けた。
見知った顔が現れたのは、それから二時間後のことだった。
カーテンから覗かせた顔は少し不安げで、目が合った瞬間、彼女はほっとした表情を見せた。
「こ、小山くん。だいひょうぶ、や、大丈夫?」
青いジャージの袖を口に当てながら陸上部のマネージャーである芽野田香澄は、小さな舌を嚙みながら尋ねた。
「…………噛んだな」
「か、噛んでないよ」
「………………まあ。僕ならだいひょうぶだよ」
少し口角を上げながらそう言うと、芽野田は「……もう」と怒ったように視線を逸らした。
僕と親しい人物は家族を除くとほぼいない。お見舞いに来てくれる友人も芽野田ぐらいだろう。彼女は小学校からの幼馴染で、日々無気力に過ごす僕と違い、芽野田は学校で人気を得ている。そんなスクールカーストの違いがあってか、中学、高校ではほとんど人前で話すことはなくなった。いつの間にか呼び名も苗字になっていた。
「頭……」と、芽野田が少し背中を曲げて僕の頭に巻かれた包帯に触れた。体育祭からまっすぐこちらに向かったのか、袖や胸の辺りが砂で少し汚れていた。
「リレーはどうなった?」
僕は取り敢えず一番気になっていたことを彼女に尋ねた。
「…………」
「そこで黙っても意味ないよ」
「…………あ、アンカーにバトンが回った時にはもう」
「でも僕だったら逆転できただろ?」
目線を合わせないまま僕がそう言うと、芽野田は黙ったまま俯いた。僕のような人間がクラスメイトに多少認知されていたのは馬鹿みたいに速い足のおかげだった。昔から走ることが好きで三歳の頃から父の後を追ってこの町を駆け巡っていた。それがあってかスタミナと脚力は図抜けたものが手に入り、唯一の成功体験として僕の自信を支えていた。
その自信の根源は今日、徒競走中の事故によって埋め立てられた。インターハイでも、公式大会でもなく、たかが学校行事の最中に。
「座っていい?」
僕が頷くと、芽野田はベッドの横にあったイスに座った。彼女は僕の顔を見たまま何も言わず、僕も宙を見たまま何も話さなかった。
「先生はしっかり休めって言ってた。騒ぎを起こした子も……また謝りに来るって」
謝る? へぇ。と僕は心の中で嘲笑した。彼が謝罪を口にしたところで僕の足が完治するのなら、もちろん喜んで聞き入れただろう。しかし、それが夢幻である現実世界で生きている内は到底、彼を許すことなどできそうになかった。
芽野田はあの後保健室へ向かおうとしたらしく、その道中で倒れている僕を発見したらしい。僕はバラバラになった花瓶の残骸を顔にまぶして倒れており、靴箱に置いてあった花瓶が偶然落下した事故として処理されたと彼女は言った。
勿論。あれは単なる落下事故でないことは芽野田も分かっていた。靴箱の上に都合よく花瓶が置いてあるはずがない。しかし、例年入学者数が減っている私立高校で殺人未遂など廃校へ追い打ちをかけるようなものだ。学校が隠蔽に走るのも必然的なことと言える。
「私、絶対に犯人見つけるから」
普段なよなよした口調の彼女が珍しくはっきりと言った。唇を噛み、強く見開かれた瞳は涙で少し潤んでおり、意思の強さがにじみ出ていた。
しかし正直なところ、僕には大方犯人は目星が付いていた。最後に映った白い髪。あれは間違いなく白浜の髪だった。動機は靴跡のついた学生証を見られたことだろうか。クラスメイトを花瓶で殴ってまで守りたいプライドが、彼女を暴力に誘ったのか。美人でもさすがにドン引きだ、と僕は思った。
泊まると言い出した芽野田を病室から追い出した後、僕は一人であの時の記憶をもう一度思い出した。不良少年に徒競走の最中ちょっかいを掛けられたことで保健室に担がれる。保健室を出て、陰鬱な気持ちで居たところを何者かに玄関で殴られたことで病院へ運ばれる。いささか今日の自分は不運すぎやしないかと包帯に巻かれた頭を僕は抱えた。
その時。頭から手を放した左手の甲に何やら文字が書かれていることに気づいた。初め、芽野田が書いたものかと思ったが、僕は目を覚ましてから一度も左手を毛布から出しておらず、おまけに彼女はずっと僕の視界に写っていた。故に文字の主は彼女ではない。
ヨレヨレの字ではあったが、解読するのにそう時間はかからなかった。
『ダレだ?』
疑問か、自問か。書かれた記憶がないことは、花瓶で殴られた後に残されたものだと裏付けている。白浜が書いたものだと考えるのが最も可能性が高い。しかし彼女はなぜ、わざわざこんなものを残したのか。ダレだ? と、何故自分を尋ねるような質問をするのか。
ぼんやりとそれを眺めたまま、僕はまた瞼を閉じた。今度はどういう訳か深い眠りが、徐々に徐々に僕を覆った。