良く見える夜
通っていた高校には本校舎とは別の町に学舎があり、海沿いの田舎町に建てられたそれは夏季休暇などの期間中合宿所として用いられることが慣例となっていた。
長期休暇中における課外学習、および自由時間には海に遊びに行くことも許可された。昔の生徒たちには友人とともに過ごせることもあって好評の夏合宿であったようだが、時間や集団に束縛されることを厭う現代っ子からは「学舎じゃなくて監獄」と揶揄されていた。
学校が所有する宿泊施設ゆえ、学年を挙げての勉強合宿以外では部活の練習合宿に用いられることも多かった。幼いころから酷い近眼で、眼鏡が無ければロクにものを見ることのできない自分が所属していたのは写真部だった。目の悪い自分でもレンズを通しさえすれば、鮮明に世の中の景色を切り取れることにあこがれを抱いた……というのは建前である。
文化祭における作品展示という一応の目標を掲げてはいたものの、ある程度自由に過ごせる写真部の練習合宿は部員たちに好意的に受け止められていたのだった。
顧問の老教師が温厚かつ融通の利く性格であったことも手伝い、我々部員は一学年全員を収容可能な学舎を少人数でのびのびと使い、過ごせたのである。昼間は周辺の海辺に出て、波飛沫打ち寄せる磯にレンズを向ける格好だけ取っていれば部活動としての体裁は立った。
自分たちが最も楽しみにしていたのは夜である。子供っぽい振る舞いを全力で楽しめる男子校の常として、そして写真を趣味とする同好の士として、我々は一様に夜間の学舎内を心行くままに探索できる稀有な状況をこそ至高と断じていたのだ。
その日も夕焼けに染まる空を窓外に見上げながら、近場の業務スーパーで購入してきた弁当をそわそわとかきこんで夜を待つ一同の姿があった。合宿用に使われる学舎ゆえに食堂や厨房は存在したが、少人数の部活しか利用しない時期は生徒側が自前で食事を準備するのが常である。
即興で作った怪談などを喋り合いながら各々自前のカメラを弄っている間も、皆に笑顔は絶えなかった。ただ暗くなった建物の中を歩き回る事の何がそこまで楽しみだったのか、今思い返しても明確な理由は浮かんでこない。
いちおう定められた消灯時刻、顧問の教師が蚊取り線香の匂いとともに顔を出し、彼の足音が職員用の部屋の方へと去っていった後は、夜明けまで我々の自由時間だ。形だけは部長として任命された先輩が皆を呼び集め、今宵の企画について話し始める。
「この学舎の最上階、北側の廊下の端に人形を置いてきた。それを撮影して戻ってくるんだ。」
夕食時、彼が遅れて姿を見せたわけである。その後全員で合宿中の中高生の定番、トランプの大富豪を行って肝試し撮影へ向かう順番を決める。そして一人ずつ、カメラと懐中電灯を手に部屋を出て真っ暗な廊下へ出ていくのだ。
当時デジタルカメラは普及してはいたものの、高額なデジタル一眼レフカメラを所有している学生は居なかった。一眼レフ自体がとても小遣いでは手の出せない代物であり、部員はおしなべて部が貸し出している、あるいは親から借りた古いフィルム一眼レフを所持していた。
すなわちフィルムカメラでは写真屋に行って現像を済ませるまで、何を撮影したのか見ることは出来ないのである。合宿終了後に各々が写真を持ち寄り、一枚ずつめくって怪しげな影を見つけては歓声をあげるのも楽しみであった。
順番が来た部員以外は車座になってカードゲームを続け、バタバタと走って脂汗を流しながら帰ってくる部員を迎えては次の順になった者が廊下へ出ていく。やがて順番が回ってきた自分は、仲間たちから怖がりを冷やかされながら部屋を出て行った。
雰囲気を楽しむ心づもりは十分に備えていたのだが、なにぶん幾度かの合宿を通じて慣れ親しんだ学舎の中である。消灯された館内は緑色に人型の描かれた避難誘導灯によって温かみ無く照らされている以外、何ら昼間と異なる点はない。合宿終了後の楽しみに備え、道中の廊下や真っ暗な教室の中などにレンズを向けてシャッターを切りつつ足を進める。
初めて参加した時はもう少し雰囲気を味わえたのだが、と多少の無念を感じつつも階段を上り、最上階の廊下の突き当りへとアッサリ到達する。そこには確かにおどろおどろしく髪を振り乱した人形が置かれていたが、どこかの量販店で購入してきたジョークグッズの類であることは真新しさからも窺い知れた。
古い一眼レフにフラッシュが内蔵されていることは稀であり、自分の所持していたカメラも例によって装備されていない。懐中電灯の光を下から当たるように工夫しつつ、人形を中央におさめてシャッターを切り、フィルムを巻き上げる。さっさと帰ろうと振り向いた自分は足をもつれさせて転んでしまった。
まず心配したのはカメラである。自分は部から借用したカメラを使っており、衝撃でレンズの光軸が歪めてしまっては破損させてしまったことになる。懐中電灯で前を照らしながらファインダーを覗き込んだが、こう暗くては正確に見えているのか判断できない。
周囲の暗さより何よりも、部の備品を壊してしまった懸念に怯え、自分は足早に皆の待つ部屋へと帰ることにした。行きと帰りで同じシーンを撮影し、何か奇妙な変化が起きていないか見る……だなんて腹積もりもあったのだが、今はそんな気分になれない。
階段を駆け下り、足早に廊下を渡って戻って来た自分が息を切らしているのを見て、待ち構えていた仲間たちは笑い声をあげた。どうやら、恐怖のあまり走って帰って来たものだと勘違いされたらしい。
「焦りすぎ、焦りすぎ。」
「お前、初めてじゃないだろ。」
「いや、違うんだって、カメラ落としちゃってさ。壊れてないか、明るいところで見たくって。」
彼らはまともに取り合わず、トランプゲームを続けている。予定通りなら自分の次に肝試しへ向かう部員を急かすところだったが、それどころではない自分は手近な机の上にカメラを置き、慎重にレンズを取り外す。内部に歪みが無いか、ヒビが入っていないかと入念に確認するため、眼鏡を押し上げようとした自分の指は顔に直接触れた。
自分は眼鏡をかけていないのである。
状況がまるで飲み込めなかった。手元にあるカメラをハッキリと見ることができるのは、分かる。が、多少離れてしまった対象がぼやけて見えてしまうはずである近視の自分が、ここから友人たちの顔をハッキリと見ることができているのはどういうことなのか。部屋の隅々まで、くっきりと見えている。
現状を正確に把握してしまうことを恐れるように、自分は一度分解したカメラにレンズを組み込んだ。次に向かうべき部員を送り出さぬままにカードゲームを続けている仲間たちに向かって、軽く声をかける。
「ちょっと、メガネ落としてきちゃったみたいだから。取ってくる。」
「おう。」
返答はあっさりしていた。背中に冷や汗が走るのを感じながら廊下に出て扉を閉め、真っ暗な廊下を再び歩き出す。暗い中では裸眼であろうが眼鏡を掛けていようが大して見え方に変わりはない。一応は何も踏みつぶさないように足を極力持ち上げないように歩を進めていたが、眼鏡を紛失した場所の心当たりならばある。
やはり、あの人形を撮影した後、転んでしまった場所にそれは落ちていた。ついでに、懐中電灯も。
真っ暗な中、今まで自分はどうやって行動していたのだろう。多少は非常灯に照らされていたおかげだろうか。深く考えるのはやめ、眼鏡を掛けて懐中電灯を構え、今度は慎重に元の部屋へと戻っていく。暗い中でも周囲の教室、階段を下りる回数を確かめ、改めて戻って来た部屋の扉を開ければ仲間からの苦情が飛んでくる。
「遅いぞ、何してたんだ。」
「次が待ってるんだから。部長が行く頃には夜が明けちゃうだろ。」
「ごめんごめん。」
自分を押しのけるようにして、肝試し順を待っていた部員が廊下へと出ていく。彼らが間違いなく自分の仲間たちであることを確認しつつ、眼鏡をはずしてみた自分の視界はしっかりとボヤけていた。
その経験以降、急に自分の視力が改善するなどといった現象には見舞われていない。そんなことはあり得ないし、あれは現実ではなかったのだろう。どうやってそこへ紛れ込み、現実へと戻って来れたのか、今となっては分からないが。