母と違う
懐かしい子供時代の記憶がふと浮かび上がってきた。とはいっても、幼い時期のものではない。恐らく中学生頃の俺、もはや子供ではないと自負しつつも、なお親の顔色をどこか窺いつつ過ごしている、思春期に踏み入る前段階の時期である。
中学に入って背が伸びる男子の常として、俺の身長はその頃すでに母親を追い越していた。もとより、母は小柄だった。彼女の顔を見下ろす形でありながら、中学生の俺は母が繰り出す小言の奔流にビクついていたものであった。
その日は家族総出で実家の大掃除をしていたのだと思う。あちこちで家具を動かし、掃除機が騒々しく唸りを上げ、雑巾をバケツの上で絞っては水滴が跳ね、埃を被った様々な物品がドサドサと捨てられていく、あの大掃除の空気。
学校から出された宿題がひと段落した頃合いを見計らったようにそれは開始され、俺は相当に機嫌を損ねていたのだろう。ゲーム機もテレビモニターも片付けられ、部屋の隅にうずたかく積まれ避難させられた家具類の山に埋もれてしまった。珍走団よろしく爆音を上げる掃除機をゴロゴロと転がしつつ現れた母は、俺の手に不愉快なほど冷たい雑巾を押し付ける。
兄弟たちは手に手に箒やモップを持ち、こちらの気に障るほどに機嫌よく掃除へと従事していた。彼等は直前までゲームをして遊ぶことが許されており、掃除を済ませればまた遊び時間が保障されている。対して俺は、この労働が終わったところで尚も勉強机に向かって宿題の続きをこなさねばならない。
何たる理不尽。せめて大掃除の時間は自分だけ真面目に宿題へ取り組むという免罪符が罷り通るものだと考えていたのだが、一家総動員の労働へは例外なく参加せねばならぬらしい。
斯くなる過程を経て、俺は大いに不機嫌だった。盛大に溜息を吐きながらダラダラと床に座り込んで適当な場所を拭き、定期的に掃除機を響かせながら現れる母に拭き残しを指摘されては新たに溜息を吐いていた。掃除機は現在のようにスリムなスタイルではなく、重く嵩張るフォルムに粗末な車輪が備えられた、ただ引っ張るだけでゴロゴロガタガタと喧しい代物である。
家中の埃を吸って巡る掃除機と母が俺の背後に現れたのが幾度目のことだったか、その時は母からの小言が飛んでこなかった。やる気の無さを敢えて見せつけるかの如く、目に見えて汚れている箇所を避けて雑巾を窓にこすりつけていた俺は、何事も言われることのない状況に多少の不審を抱いて振り返る。あるいは、家族の別の誰かが掃除機を使っているのかもしれない。
そこには母がいた。反抗的な中学生だった俺の姿を見るたびに愚痴や叱咤を投げかけて来る彼女が、何も言わずこちらに丸めた背を向けて、ガラガラとうるさいローラーの付いた掃除機の吸入口をフローリングの床で往復させている。
そろそろ掃除の疲れが溜まり、いちいち小言を口にするのが面倒になってきた頃合いかもしれない。うるさく言われないのは有難いが、これ幸いとサボり続けていては事後の状況が悪化する。放っておかれた母の沈黙は疲れから不機嫌を示すものへと移行し、結局はこちらが何か働きかけない限り延々とだんまりを決め込むこととなるのだ。
「雑巾汚れちゃったけど。バケツ、どこ?」
母からの返事はない。これは、既に不機嫌を溜め込む段階へ突入していたか。今夜の晩飯の時間を居心地悪く過ごしたくないならば、何らかのフォローを行わねばならない。
敢えて残していた床の埃を拭き取りつつ、もう一度声を掛けようとした俺は違和感にはたと行き当たった。
母の身長が高いのである。一度気付けば普段の母との違いは明瞭であった。
腰の位置が、俺の胸のあたりの高さに来ている。今は背中を丸めて懸命に掃除機で床を擦っているが、すっくと背を伸ばせば確実に俺を見下ろすほどの身長になるだろう。実際の母は、俺の弟にも身長で追いつかれかけているほど小柄だったはずなのに。
そもそも何故掃除機を用いているにもかかわらず、幾度も同じ箇所を念入りに吸い続けているのだろうか。ガラガラ、ガラガラと掃除機を機械的に往復させ続けている、その動作を眺めていると急に怖くなってきた。
この人は誰なんだろう。服装は間違いなく先ほどまでの母が着ていたものだし、腕のたるみ具合も、後頭部で束ねた髪も、デカいクリップみたいな髪留めも、まるきり同じである。動きに合わせてチラと見える耳元も本物そのものだ。
顔は……確認できない。ずっとこちらに後頭部を向けている。俺には勇気が無かった。大声を出して、他の家族を呼ぶ度胸も無かった。自宅の中、眼の前に、家族の中に、明らかな赤の他人が存在するのである。不気味でないはずがない。
掃除機の音が止まる。ガラガラと床を往復していた、掃除機の吸い口も同時に止まる。俺は慌てて窓の拭き掃除に戻る。
背後に母の姿をした何者かが居る。ずっと居る。足音ひとつ立たないということは、あのまま動いていないのか。掃除機を引っ張って移動してくれることを願っていたが、コイツは身じろぎ一つしない。
ほんの小さく、衣擦れの音がした。振り返るのには多大な勇気を要したが、どうにか顔を後ろに向けた俺はそいつと目を合わせてしまった。奴は、こっちを向いていた。
「……。」
言葉は出せない。何も、驚いたってわけじゃない。その顔も、母と全く同じだった。この歳になれば親の顔より見た物は数多くあるが、少なくとも他人と見間違えるはずもない親の顔だ。だが表情が無い。単なる無表情とも違う。まるで、他人がその顔面を仮面のように被っているような感じ。
ソイツは口を開いた。間違いなく、普通の人間がそうするように、普通の人間に可能な大きさで口を開いただけだ。それだけのはずなのに、その動きはいかにも機械的であった。口の中は真っ暗だった。
「ああ……ああああ……あああああ……ああ……あああああ……あああああああ……ああ……あああああ……ああ……あああ。」
余りに太く、低い声。とはいえ男の声ではなく、母の声だった。俺たち男兄弟が何か悪さをするたび、母は女とは思えぬほどにドスの効いた声で叱ったものだ。もちろん、「あ」を連続して発声し続けることなんか今まで無かったが。
感じたのは恐怖というよりも、ただただ膨大な重さでのしかかってくる不安だった。ついさっきまで、普通に家の大掃除を家族総出でやっていたはずなのに。この家は、住み慣れた自分の家に違いないのに。母と全く同じ格好をした知らない奴が、眼の前にいる。俺以外の家族は何処に行ってしまったんだろう。
俺は窓をガラリと開けて、そのまま庭へ出た。アイツのうめき声は外に出ても微かに聞こえている。庭に放り出してあったサンダルを履き、街へと出ていく。
部屋着にサンダルの恰好で、不安を引きずったまま街を歩き回った。いつ、家に帰ればいいんだろう。今帰ったら、アイツがまだ居るんだろうか。掃除機を手に、あの窓辺で、同じ姿勢のままで。「あああああ」とか声を出し続けて。
中学生の身では、どこにも泊まれない。そもそも小遣いも持っていない。今から友人の家に向かおうかとも考えたが、どう説明したものか。不審者が家に入ってきたうえ、家族が行方不明だと伝えれば、警察を呼ばれるだろうか。大騒ぎになるかもしれない。
一旦自宅に戻り、中を覗くことにした。街中には普通に通行人が歩いているし、アイツがまだ居たらすぐに助けを呼べる。家の中がなおも静まり返っていれば、その時点で警戒することも出来る。
帰ってみれば家の中は、いつも通りに騒がしかった。普通に、俺の家族がいる。どうやらようやく大掃除が終わったところのようで、動かした家具を元の位置へと運び直している最中だった。俺は姿をくらまして掃除をサボっていたことを咎められつつも、重い家具を運ぶ手伝いに従事させられた。
その後は夕飯を食い、風呂に入り、兄弟たちがうるさく遊んでいる横で捗らない宿題をだらだらとこなし、灯りが消されて寝床に入る。常と変わらぬ生活。あの、母にそっくりなアイツは、いったい何者だったんだろう。
アレが夢だったらまだ安心できるんだが、アイツがいた家と俺が今いる家は同じものだ。ちょっとの間、外をうろつく時間を挟んだだけ。アイツは何故いたのか、逆に何故いなくなったのか、どちらにしてもサッパリわからない。
俺と同じ部屋の中、早くも鼾を立て始める兄弟たちの隣。ひとり寝付けずに暗がりのなかで目を開いていると、廊下を通り過ぎていく母の声が部屋の扉越しに聞こえた。
「あああ……ああ……ああああ……ああああああ……あああ……。」




