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夏に錆びた自転車

 夏の盛り、休暇中の子供たちは冷房の利いた屋内でゲームに興じるのが今どきの恒例となっているのだろうが、パソコンもゲーム機も家に無かった自分の子供時代における夏休みは、ただただ自転車で街を走り回るだけが時間の潰し方であった。


 行く当てもなく自転車を走らせ、日没までに戻って来れるギリギリの遠方を攻めたり、舗装が荒れてデコボコしている路面を全速力で漕いで子供なりにBMX選手気分を味わってみたり。体力と喉の渇きが許す限り、サドルに尻をつけることなく全力でペダルを踏みこみ続けて都会の夏の日々を過ごしていたものだ。


 当時は一家で集合住宅に暮らしていたのだが、そこの駐輪場は錆びかけたトタン屋根が張られただけのお粗末なものであった。自転車を乗り回す子供はそのアパートでは少なかったらしく、自分と弟の自転車以外に三台、合計五台が乱雑に停められているばかりであった。


 いずれも子供に与えられたままに手入れもされず、はねた泥や傷跡が残ったままの汚らしい自転車ばかりであったが、中でも一際に粗末な外見となっていた自転車のことが記憶に残っている。


 金属部分はことごとく赤錆びにまみれ、ボロボロになったスポークなどは指で押しただけで簡単に折れそうに見えた。この自転車が動かされているのを見たことは無く、ハンドル部分から駐輪場の壁を繋ぐように蜘蛛の巣が張っている。


 所有者は既に引っ越してしまい、この自転車はそのままに置き去られたのではないかと思われた。


 ある日、昼食を済ませた自分が蝉の声と日差しを全身に受けながら自転車置き場へと赴いた時、例の錆びついた自転車は無くなっていた。


 ずっとそこにあるのが常であったため自分は拍子抜けするような思いは覚えたものの、おそらく捨てられたのだろうとすぐに考え直した。あんな錆まみれの自転車を盗もうなどとする者は居ないだろうし、ましてや乗り回せる状態でもない。


 が、その日の夕方に戻ってきてみれば、その自転車は錆だらけの姿のままで変わらずそこにあった。


 流石に自分は驚いた、この自転車の所有者がまだ居たのだろうか。未だ、この自転車は使える状態にあるのだろうか。いったい何者がこの自転車を乗り回しているのか気になりつつも、積極的に確かめようとは思わなかった。


 その後しばらく、赤錆びまみれの自転車が動かされる日は来なかったが、一週間ほど経ったある昼に、またしてもその姿は消えていた。


 前回は自分が帰宅する前にその自転車は戻ってきていたが、場合によっては乗って帰ってくる持ち主と鉢合わせるかもしれない。好奇心は大いに刺激されたものの、自分はやはり感じていた不安に負け、以前より遅めの時刻に帰宅することとした。


 が、その夕方……すでに空からは薄暮の色も薄れつつあったが……街を走り回って自転車置き場へと戻って来た自分の目の前に、例の錆び自転車の姿がない。


 乗り回している所有者は、まだ戻ってきていないのだろう。あれだけ長きにわたって放置されていた自転車に乗っているのが何者なのか興味はあったのだが、自分が自転車を停め、ホイールにチェーンをかけて立ち去ろうとするその仕草は自ずから素早いものとなった。


 やはり、得体の知れぬその誰かと鉢合わせたくはないのである。しかし、自分が望まぬ時に限って、その錆びついたホイールが立てていると思しき擦れた金属音は近づいてきた。


 体が固まる。出来るだけそちらに顔を向けないようにアパートへ戻ろうとするも、例の錆び自転車とその持ち主は、一切もったいをつけることもなく正面から姿を現した。


 会ってみれば、それはごく普通の少年であった。自分と同い年くらいの、健康そうに日焼けした小学生である。来ている服も、肌の色も、髪型も、何らこれと言って違和感を抱くようなところはない。


 自分と同じく暑い夏の日を自転車で駆けまわって遊んでいたのだろう、暑さで紅潮した頬には汗を拭い取った跡があり、傍を通り過ぎる際には彼の熱い呼気の匂いが嗅がれた。


 どこからどう見ても、普通の、生きている人間であった。まるで幽霊にでも遭遇するのではないかとばかりに緊張していた自分は拍子抜けして、その少年がタンタンと足音を立てて金属製の階段を上り、アパートの一室へ姿を消すまで見送っていた。あの部屋だって、空き室というわけではない。


 それにしても、あんな状態の自転車が無事に走るものなのか。自分はそう考えながら錆まみれの自転車に近づいていき、改めてしげしげとそのパーツを眺め始めた。


 が、ここで気付いてしまったのだ。その自転車と駐輪場の壁の間に、蜘蛛の巣が張られたままであることを。


 糸が一本や二本掛けられている程度の騒ぎではない、しっかりと目の詰まった網、蜘蛛の糸が縦横に張り巡らされたそれはずっと前からそこに掛かり続けていたかのように微風に吹かれていた。


 自分が今目にしているものを認識しきれぬまま、後輪のギヤにチェーンが掛かっている所へ目を向ける。完全に錆びついたそれが、やはり動くとは、それも街中での走行に耐え得るものだとは、とても思えなかった。


 それから後、自転車が動かされている様を見ることは無く、あの所有者と思しき少年と会うこともなかった。錆まみれの自転車はその次の年、廃品回収の業者にあっさりと担ぎ上げられてトラックの荷台に放り込まれ、排気ガスだけを残して持ち去られてしまった。


 自分は錆び自転車が置かれていた場所へ行ってみた。引きちぎられた蜘蛛の巣だけが、その端が掛かっていた自転車のハンドルを失って垂れ下がり、そよ風の中で吹かれていた。

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