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蝉が静まるとき

 ふと訪れる無音状態に覚える不安は、蝉のやかましく鳴き喚くこの時期にいよいよ増してくる。


 とはいえ、子供の頃から都会で過ごしてきた自分は全くの無音に遭遇する機会になかなか恵まれない。昼間は言わずもがな、深夜から明け方にかけても街はありとあらゆる類の音、そして光に溢れている。


 無駄にやかましく響くバイクや車のエンジン音。それが駅前で止まったかと思えば、ガヤガヤとコンビニの前でたむろし始める若者たちの騒ぎ声。救急車のサイレンは少なくとも毎晩聞かぬ日はなく、深夜でもお構いなしに長大な貨物列車がレールに金切り音を擦りつけながら走り去っていく。


 「眠らぬ街」というものが、この外出が自粛される今のご時世においても珍しくもなんともない存在であることを、都会の人間たちは毎朝眠り足りぬ目をこすりながら実感するのだ。


 では田舎はと言えば……これは場所にもよるであろうが、付近に田畑の広がる一帯などは夜の静寂など期待すべきではない。街灯のまばらな、あるいはまったく存在しない暗闇の中から、夜通し合唱を続けるのは蛙の群れである。


 ケロケロ、ゲコゲコと童謡のように大人しく奴らは鳴いてなど居ない。敢えて字に起こせばシャーシャーシャーと、大音量でホワイトノイズを垂れ流し続ける。母親の実家に泊まった子供時代、田舎の夜はなんと騒がしいものかと驚嘆したものだ。


 話は逸れたが、それだけ音に溢れた現代においても、何かしらの偶然に静寂を体験することはある。蝉がそこかしこで鳴き声を立て続ける、夏の日においても。


 蝉の鳴き声は夏の昼間を音で埋めつくす代表的存在であるが、彼らにも鳴きやむ瞬間というものはある。それも不思議と一斉に、同時にピタリと鳴きやむのだ。


 これはセミが鳴くに適した気温帯から外れたためだとか何とか説明されるが、聞いている通行人たちにそのような事実はあまり関係ない。聴覚的な暑苦しさが取り除かれたと一息つく人間もいるかもしれないが、自分はその瞬間に身体をこわばらせている。


 この反応には、幼い頃の記憶が関わっている。


 夏の盛り、自分は子供用の自転車を漕いで街の中をやたらとあちこち走り回っていた。家にゲーム機などもなかった当時、夏休みにやることと言えば宿題以外には何もない。することが無いので、行く当てもなくウロウロするだけが暇つぶしの方法であった。


 あの経験は唐突に訪れた。車の往来が激しい大通りを逸れ、駅からも離れた公園へ向かう最中のことである。


 歩道沿いに植えてある街路樹は、その根で舗装のアスファルトを押し上げて表面に不規則な凹凸を作っていた。車両の通行に支障をきたす車道は綺麗に舗装工事が行われていたものの、歩道のほうは放ったらかしである。


 が、子供が自転車で遊ぶには絶好のポイントであった。まるで自分がオフロードを駆ける選手になったかのような気分で、その不規則に歪んだ歩道を自転車に乗って走り抜けるスリルは何物にも替え難かった。


 街路樹に取り付いて鳴き喚いていたセミの群れが、一斉に鳴きやんだのはその時である。


 一瞬にして、世界には静寂が訪れた……ように感じた。実際は、手元でガタガタと音を立てる自転車や、遠くから車のエンジン音が響いていたのだろうが。


 自分は一本の街路樹の傍を通り過ぎるところであった。セミが全力で合唱を続けていたときには大音量に掻き消されていたのか、その声は話している途中から聞こえ始めたようであった。


「……ったって、わからないよ……」


 そこそこスピードを出して自転車を漕いでいた自分が聞き取れたのは、それだけである。ブレーキを駆け、そっと背後を振り返るも、街路樹の下に誰かが立っているなどということはない。


 誰かが裏に隠れられるほど太い樹でもなく、その場から去っていく足音も聞かなかった。確かにその声は、誰も居ない、隠れる場所もない地点から聞こえたのである。


 自分はそっと自転車を出し、その日は早めに帰った。


 別にあの場所がいわくつきであるなどという噂はなく、道端に花が手向けてあるだなんてこともない。もしかすると、自分の気付かぬ場所で会話をしていた誰かの声が、耳元近くで聞こえたかのように錯覚しただけかもしれない。


 が、あの経験以来、自分は蝉の鳴き声がふいに止まる瞬間、聞こえぬはずの何者かの声を聞かされるのではないかと身構えるようになったのだ。

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