抜け駆けの仲間
毎夜蒸し暑いこの時期には、子供の頃に泊りがけで行ったキャンプを懐かしくも恋しく思い出す。学校の行事だったか、地域の児童会でのことだったか、今となってはハッキリ覚えていない。
子供は何のためにそこへ向かったか、などいちいち意識などしていない。印象に残っているのは昼間友人と走り回って遊んだこと、そして夜間になっても寝床へ追い立てられることなく屋外を歩き回れる非日常的興奮ばかりである。
その宿泊施設は夜の星空の美しさも売りにしていたらしく、同じ施設内に大型の天体望遠鏡を収めたドーム型観測所も備えていた。夜になってその望遠鏡を覗き込むことを大人たちはキャンプのメインイベントとして定めていたようだが、我々子供が魅力を覚えていたのは深夜まで公然と起きていられるという一点に尽きた。
日が暮れて宿泊施設での夕食を済ませた後、引率の大人に連れられて自分たちはその観測所へ向かった。宿泊者向けに望遠鏡での天体観測体験が予定されていたものの、山の天候は気まぐれである。日没の頃から集まり始めていた雲は薄暮の色が去るころには空全体を覆い尽くし、星など一つも顔を出していなかった。
おまけに山間部特有の濃霧まで立ち込め始めたことで、観測所のドームは閉じられたまま、湿気に晒すことなど御法度な望遠鏡がその夜使用されることは無かった。
悪天候時のために予定されていたのであろう観測機材の紹介や、その施設で撮影された天体の写真などの披露が施設の係員によって開始された。が、そんな退屈なものを、おとなしく聞き続けている子供などそう居ない。
全員で居並んで説明を受けている間こそ、集団から外れる者は居なかったが、退屈した子供らから私語が絶えることは無い。その後、係員の案内に従ってゾロゾロと移動していく中に紛れ、行儀の悪い数名は集団から抜け出して行った。自分も、その一員である。
引率の大人の目を盗んで集団行動から離れた我々は、なるべく音を立てぬよう、声を出さぬようにお互い目配せし合いながら観測施設の扉を開いて外に出たのだが、そこに待ちうけていた光景に思わず歓声を上げてしまった。
満点の星空などが見える環境からは程遠く、空は厚い雲に覆われ、眼の前は濃霧に閉ざされている。その濃霧自体が、都会っ子の自分たちにとってはあまりに珍しく、その中へと踏み込んでいく興奮からこみ上げてくる笑いをおさえきれずにいたのである。
キャンプ施設の敷地内には足元だけを照らすライトが随所に設置されていたが、それも最も近くにあるものばかりがボヤけて見えるばかりで、そこから一つでも離れている照明となれば散乱して仄かとなった光が浮かんで見えるのみであった。
まさに雲の中に入ってしまったかのごとき状況。大人たちによって予定されていた天体観測会というスケジュールを、完膚なきまでに否定している痛快さも手伝って、自分と友人たちは興奮のままに濃霧の中へと駆け出して行った。
濃霧の中で方向感覚を失いかねない、などという危惧を子供が覚えることは無い。その時の我々は、真っ白く濁った空間の中へ突入していく面白さだけを求めて足を動かしていたのである。
歓声をあげては引率の大人たちに聞きとがめられる恐れがあったため、やはり口を閉じてはいたものの、パタパタと軽い足音は自分のものも含めて濃霧の中でリズミカルに響いていた。走る方向には迷わなかった、濃霧を貫通してぼんやりと届く照明の光を辿っていけば、宿泊施設の方へと帰れるのだから。
子供たちが友人とともに走り始めれば、それはすなわち競走になる。観測所からの距離は大したものでもなかったが、大人にバレることなく真っ先に帰り着いた者が勝ちだ、との暗黙の了解が周囲で響く靴音と共に交わされた。
自分は足を早めた。濃霧の中、視界が利かない中で何かに蹴躓くのではないかと躊躇したが最後、この競走は負けになる。宿泊所の寝室で待ち構えていた友人たちに冷やかしとともに出迎えられ、デコピンか何かの罰ゲームを食らわされるという屈辱を味わうことになってしまう。
背後から接近してくる足音に急かされつつも、おそらくまだ誰によっても開けられていない扉に飛びつき、宿泊所の中へと駆けこむ自分。大人に目撃されれば確実に注意を飛ばされるであろう速度で廊下を駆け抜け、いち早く寝室へと飛び込んだ。
ベッドの上で寝転がって荒い息を整えつつ、友人たちの到着を待つ。これで抜け駆けは俺が優勝だ、遅れてきた奴に何を言ってやろうか。
……が、その後に続いて入ってくるはずの友人たちが来ない。ベッドから起き上がった自分は扉を開け、廊下に顔を出して左右を見回した。やはり誰もいない。
この際、考えられる可能性としては二択である。まず、一着で辿り着いた者を見た二着以降の奴が、示し合わせて姿を隠しているというもの。最初に到着した奴が遅れて来る筈の連中が来ないことを不審がって探しに行ったが最後、何食わぬ顔で連中はゴール地点に入り、居座るのだ。
二つ目は、そもそも俺に勝てないと見た連中が、その場で踵を返して真面目な集団行動へと戻っていったというもの。これは卑劣ながら効果的な手だ、何せ引率の大人に不真面目な子供が居たことを密告することが可能なのだから。自分たちは関係ないように振る舞って。
一つ目の可能性を考慮し、友人を探しに行くフリをしては急いで寝室に戻るなどしてみた自分であったが、それでも後から走って来ていたはずの友人たちは表れない。では、二つ目の選択肢を奴らは取ったのだ。集団行動から抜け駆けしたのが一人だけであるような顔をして、大人にチクるつもりなのだ。
しかし……さらに自分は考えた。俺と一緒に抜け駆けした連中がどう行動したのであれ、この寝室で待ち続けるべきではないか。仮に俺が抜け出したことを大人に告げ口されても、もはや今から戻ったところで遅い。全員が帰って来た時、寝床の中で具合が悪いフリをすることだって可能だ。
そう考えた自分は、結局寝床の中で持参した漫画を捲りつつ、皆が観測所から宿泊設備へと帰ってくるのを待つことにした。
引率の大人たちの声とともに、賑やかな一団が帰って来たのは数分も経ったあとのことである。俺は慌てて漫画本をカバンの中へ片付け、具合の悪さを演出するためにわざとらしくしかめっ面を作ってシーツを被っていた。
皆と共におらず、いつの間にか姿をくらましていた自分を目にした引率係は驚くと同時に安心したようであった。やはり先ほど抜け駆けした連中は一緒になって帰ってきていたが、奴らもキョトンとした表情を浮かべている。
大人たちが去った後であれば、そのような演技をする必要もあるまいと改めて先ほどの話を振ったものの、やはり彼らはすっとぼけ続けている。最初から集団行動を抜け出したのは一人だけで、自分たちはそのような事をしていないと主張し続けるのだ。
示し合わせて集団行動から抜けた時、お互いに顔はハッキリと見合わせている。そうでなければ、自分は誰に誘われて濃霧の屋外へ抜け出したことになるというのだ?
いくら繰り返しても、連中はしつこく否定し続ける。そんなにも口裏を合わせてこちらを仲間外れにすることもあるまい、と不服に感じた自分は、そのキャンプが終わるころには彼らと多少不仲になってしまっていた。