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戻れない滑り台

 親に手を引かれて街へ出かけるほどに、幼い頃の夢である。幼稚園だったか保育所だったか、友達の家で見かけた小さな滑り台付きの室内ジャングルジムを一目で気に入った自分は、幼児の常として親の懐具合も鑑みることなくそれを母親にねだっていた。


 上等なものは目玉が飛び出るような値段のするその遊具、そしてママ友たちの前で母は困り顔すら見せずに


「お誕生日になったら、考えてもえぇよ。」


 と涼しく返していたように思う。自分の誕生日はそれから数か月後のことであり、幼児の記憶力では軽く忘れてしまうだろうと彼女は判断していたのである。今にして思い返しても、母は強かな人であった。


 子は親の注文通りにはならぬもので、自分は執念深く遊具のプレゼントを待ちわび続けていた。それから数か月たった誕生日には学習マンガの類が数冊用意されていただけであった。自分よりももっと幼い弟はマンガ本だというだけで内容を吟味もせず勝手にペラペラとめくり始めている。


 親からの贈り物に感謝の念を抱くなど我儘な幼少期には思いもよらぬことで、自分は泣き喚き、さすがに困り顔の両親を置いて不貞寝してしまった。


 その夢はそんな晩に見た。あまりに滑り台の遊具で遊びたかったのであろう自分は、翌朝目覚めたつもりになって顔を上げた。布団にも入らず、リビングに敷かれたカーペットに寝転がっていたままの自分が起き上がると、なんと目の前に滑り台の遊具が用意してあるではないか。


 それも、かなり大きい。屋内用の子供向け遊具の規模ではない。大きな公園などでたまに設置されている、チューブ状の中を滑り降りていく形式で、ちょうど床の高さに入口がぽっかりと口を開いており、その先はなだらかなカーブを描いて下へと向かっている。


 自分は喜び勇んでプラスチックの曲面に腰かけ、中へと滑り降りた。内部は柔らかな繭のような形状になっており、プラスチックの壁を通してクリーム色の外光が優しく差し込んでくる。


 柔らかな光に包まれるその球状の空間に、弟も歓喜の声を上げて滑り降りてきた。寝る前は字も読めないマンガ本に夢中になっていた癖に、この弟は目の前にある面白そうなものにすぐ飛びつくきらいがある。


 が、今は自分もこの新たな遊具に満足している。滑り台と同じ材質で出来たこの球状の小部屋は、壁をよじ登っては床へと滑り降りる遊びをどこででも楽しめた。自分と弟は柔らかな壁を駆け上り、そしてなだらかな壁面を床に向けて滑り降り、を延々繰り返しては喜声を響かせた。


 とはいえ、幼い弟は同じことを繰り返す遊びにすぐ飽きてしまったようであった。先を見れば、この小部屋から更に下へと降りる滑り台が続いている。弟はその先に更なる遊びが待ち受けていると信じ込んでいるように、躊躇なく下へと滑り降りて行った。


 つられるように自分も続こうとしたが、妙な予感がよぎった自分の脳は足を止めさせた。まず振り返り、自分が先ほど滑り降りてきた入口を見上げ、その先に見慣れた自宅リビングの天井が覗いているのを確かめ……よじ登って戻ろうと試みた。


 が、戻れない。柔らかいプラスチックで出来たこのチューブ型滑り台は、いくら転倒して頭をぶつけようとも怪我をする心配など無かったものの……幾度よじ登ろうとしても、優しく傾斜する滑り台には足掛かりなどなく、一定の高さ以上は登れず下まで降ろされてしまう。


 変わらずプラスチック越しに外の光はにじみ込んでいたものの、自分は妙な事実を思い出してしまった。自宅のリビングがあるのは一階であり、そこから下へ滑り降りるとすれば地下しかない。そして、我が家には床下収納こそあれ、そこまで大きな地下室など無い。


 弟はずっと下の方まで滑り降りていったのか、キャッキャッと楽し気に笑う声がチューブの中を反響して届いて来る。自分はそれ以上滑り降りるな、と声を出しかけて、やめた。自分たちが家の中に戻れない状況にある、と幼い彼に知らせては手の付けようがないほど号泣するだろうし、何よりも自分自身がその事実を認めたくなかった。


 きっと、父さんと母さんが何ほどのことでもないかのように助けてくれる。子供向けの遊具の中にはまって抜け出せない、微笑ましい日常の一幕として片付けてくれる。


 が、両親は一向にその存在を見せなかった。外から差し込んでくる光の強さからしても、まだ昼間のはずだ。父はまだ仕事から帰ってこないだろうし、母は買い物に行ってるんだろうか。自分は保育所に連れていかれるはずだが、泣き疲れて熟睡していたせいで家の中に寝かされっぱなしになったのだろうか。


 遥か下の方から弟の泣き声が聞こえ始めた時、外壁に濾されて入り込んでくる外光は暮色に染まっていた。いや、一階よりも下へと滑り降りたのだから、日の光が入ってくるのもおかしなことなのだが。夕暮れ色に包まれたプラスチックの繭の中で、自分は絶望的な気持ちでうずくまるほかなかった。


 弟はきっと腹を空かせているのだろう。考えなしに滑り台を降りて行った結果、家の中に戻れなくなっていると今さら気付いて泣き喚いているのだ。自分にはどうすることも出来ない、自分だって助けを待つほかないのだから。


 毎日見慣れているにもかかわらず、今や懐かしい家の天井を滑り台の奥から見上げ、自分の目にも涙が浮かび始めた時、ガチャリと玄関の鍵が開く音がした。


 きっと、母が帰ってきたのだ。スリッパの足音と共に、ガサガサとビニール袋の音を立てているので容易く分かる。台所のテーブルに買い物袋を置いた音がした後、待ちに待った母の顔が滑り台の入り口から覗いた。


 自分はどうにか流れかけていた涙をこらえ、満面の笑みで彼女を迎える。やっぱり、母は何ら緊迫感のない笑みを浮かべ、いつも通りの調子で話しかけてきた。


「お父さんが買ってきてくれた滑り台、面白い?お母さんもそっち行くよ。」


 こちらが制止する声を出す暇もなく、母は一度降りたが最後二度と這いあがれない滑り台を、楽しそうに降りてきたのであった。


 そんな夢から覚めた自分は、よほど顔色を失っていたらしい。心配そうに体温計を脇の下に挟ませられている自分の傍らで、弟はやはり兄にプレゼントされたはずのマンガ本を無邪気にめくっては次々と床へ放り出していた。

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