酷暑のうつつ
懐かしい昔の夢を見た。自分は夏の盛りの体育倉庫の中へ、錆びかけて重い金属の引き戸を開けて踏み込んだところであった。
そこに居た自分が小学生だったか、高校生であったかは判然としない。いま鮮明な意識で思い返してみても、進学するごとにサッカー部へ入ると定めていた自分のいつ頃の記憶だったのかはっきりしない。
ともあれ、これから始める練習のため、自分はボールを収めた金属製の篭……その下にはキャスターが備えられており、ゴロゴロと車輪を転がして進めるはずが錆びついてしまって、ほぼ力尽くでなければ引きずっていけない代物……を倉庫の外へと持ち出すところであった。
部活の先輩たちをグラウンドで待たせている。自分は可能な限り速やかに、あの重いボール篭を掴んで倉庫から引っ張り出してこなければならない。
が、その違和感は倉庫へと入った途端に覚えた。常に淀んでいる体育倉庫の空気は真夏ということもあって蒸し暑かったのだが、そこに不自然なまでに汗臭さが混じっていたのである。
自分が真っ先に憶測を立てたのは、友人によるイタズラの可能性であった。埃を被った蛍光灯ひとつしか照明のない体育倉庫の中、こちらの不意を突いて驚かそうと隠れ続けているのだろう。蒸し暑い屋内で、汗まみれになってご苦労なことだ。
が、倉庫の奥へ踏み入るについてさらなる臭気が押し寄せてきた時、自分はその憶測を訂正せざるを得なかった。これは汗の臭いではない、動物の臭いだ。
自分が動物の臭いを嗅ぐ機会と言えば動物園、あるいは牧場へ向かった社会科見学ぐらいのものであったが、一般人には嗅ぎ慣れないあの独特な臭気は人間に出せるものではない。
野良犬か野良猫でも入り込んだのだろうか、と足を止め、耳を澄ませた自分のもとへ、はたして動物の呼吸音と思しき息遣いが聞こえてきた。
が、その数が妙に多い気がする。満足な灯りの無い倉庫のなか、ハッハッ……といずこかから聞こえてくるその呼吸音の源を見出した時、自分は声こそ上げなかったものの身体が固まった。
サッカーボールやハンドボールの球が詰め込まれている、あのボール篭の中身がうごめいているのである。薄暗がりの中でよくよく目を凝らしてみれば、それらの表面は全て毛皮で覆われていた。
目の前の状況が呑み込めないままではあったが、自分の足はゆっくりと近づいていく。この場に用が無いのであれば気味悪さのあまりそっと踵を返したのであろうが、グラウンドへとそのボール篭を引っ張り出すのが自分に課せられた役目なのだ。
呼吸音を立てているその毛皮で包まれた球体のひとつをおそるおそる自分が持ち上げると、表面に一体化した犬の顔がこちらを向いた。
それは確かに犬の顔であり、本来の犬の体表と全く同じ毛皮で覆われ、爪と肉球が付いた四肢も犬のものに違いなかった。ただ、持ち上げた重さ大きさはサッカーボール程度にすぎず、触れる感触もパンパンに空気を入れて膨らませたボールそのものであった。
その球体の犬は自らの身体がそっと抱き上げられた感触に抵抗する気が無いのか、だらしなく目じりを下げて口を半開きにし、舌を出してこちらを見つめていた。内部に空気が詰まっているかのごとき胴体を撫でてやれば、嬉しそうに尻尾を振った。
籠の中から、クンクンと鳴く声がいくつも上がってくる。見れば、他の犬たち……本来ボール篭に押し込められているボールよろしく、球状であるが……も、撫でてもらっているこのボール犬を羨ましそうに上目遣いで見上げているのだ。
可愛らしい。球体と化した犬が、サッカーボールの代わりに詰め込まれているという異様な状況であったが、自分はこの奇妙ながらも撫で心地の良い生物たちに癒しを感じていた。
体育倉庫から帰ってくるのが遅い自分を、急かしに来た先輩の声が聞こえなければ、そこでいつまでも柔らかで温かな犬の身体を撫で続けていたかもしれない。
「おい!遅いぞ、さっさとボール出してこい!」
狭苦しい倉庫内を反響して響き渡った先輩の怒号に、自分は思わず普段ボールを扱っている時のように、手に抱えていたボール犬を篭の中へと放り込んでいた。呼吸する球体たちは互いに弾んでぶつかり合い、当然のことのように悲鳴を上げた。
「痛いっ。」
あまりに唐突に、そして自分のすぐ身近で上がったその声が、自分の喉から出たものではないことを理解するのにもしばらく時間がかかった。当然ながら、ぶつかり合っているのはボールたちであり、痛みを訴える立場にあるのはボールに相違ない。
が、ボールとなって篭の中に放り込まれているのは犬である。犬が果たして喋るだろうか……いや、そもそもこの体育倉庫内に収められているのは単なるサッカーボールやハンドボールだけのはずなんだ。生き物がこんな形で雑に保管されているわけがない。
自分が極度の混乱の中にあるのではないか、とぼんやり気付き始めた自分は改めてボール篭の中身を見る。そして納得した。
籠の中からこちらを見つめ返してきた目は人間のものであり、先ほどまで犬たちだったはずのボールは全て人間の顔を持ち、人間の肌や毛髪でその球体の表面が覆われていたのだ。
「痛い」
「重い」
籠の下の方に押し込められている者からは、そのような声も聞かれた。体育倉庫の外では、先輩が苛々と足踏みの音を響かせている。早くこのボール篭を引っ張り出し、自分が準備を送らせてしまった理由を見せなければならない。これを見れば、先輩も驚くだろう。自分が叱られる謂れはない。
ボール人間たちの詰まった篭を倉庫内から引っ張り出そうと力強くその縁を掴んだ時、自分の指には幾本もの髪の毛が絡まった。ぐっと握る力を強めれば、その髪の主と思われるボール人間から悲鳴が上がる。
「痛い、痛い痛い痛い痛い!」
底の方からはもはや声ならぬ絶叫が上がり続けている。ブチ、ブチ、と何かがちぎれる音は髪の毛がキャスターに絡まったまま、引っ張られていくからであろうか。自分がボール篭を引きずって倉庫外へと渾身の力で向かうごとに、眼の前の状況は阿鼻叫喚の体を示し始めた。
倉庫の扉で待っている先輩と目が合う。彼は驚いているかと思えば、意外にも苦笑していた。
「なんだ、そんないかにも重そうに引っ張って見せやがって。」
実際に重いのだ、ボール人間たちが立てる叫び声は耳をつんざくばかりだし、連中の髪の毛は篭を握りしめる指に絡みついて握る力を入れづらいし……。
これ以上待ちきれぬとばかり、先輩はボール篭の中に手を突っ込んで二つを両脇に抱え、一つをドリブルしながらグラウンドへと駆け出して行った。彼が扱っているものはどう見ても単なるサッカーボールにしか見えなかったし、ボール篭の中身はサッカーボールだけで満たされていた。
蒸し暑い倉庫の中で、熱気に頭をやられたんだろうか。サッカーボールの篭をどうにか所定の位置まで引っ張ってきた自分は、汗だくの顔を見せて給水の許しを得、自分のバッグからスポーツドリンクを取り出してキャップを開けた。
その指に、無数の細い糸が絡みついた後のごとく、赤い跡が幾筋も走っていた理由だけは今なお判然としない。