女神様の希望と元農民
なんだかゆっくりと上に吊り上げられているような感覚がする。
重い瞼を何とかして持ち上げると、そこにはガタイのいい、頭に角の生えた大男が巨木にもたれかかっていた。
その大男の特徴は、胸部の砕けた鎧と腹部に刺さった黒いナイフ。
……どこかで見たことあるような。
というか、どこかでとか誰がではない。
意識が途切れる前にリィリスという女性に刺された、魔王の姿であった。
転生初日にこんなことになるなんて、運がないというのだろうか。
宙を浮いて自分自身の身体を見ているということは、もしかしたら意識体と実体が離れてしまったのかもしれない。
どうすればいいのだろうかわからず途方に暮れる。
はっきり言ってしまえばこのまま死んでしまっても俺としては構わないのだ。
でも、ここで死んでしまったら女神様との約束を反故にしてしまうのでは無いだろうか。
それだけが気がかりだった。
……ん、めがみ、さま?
女神様という単語を思い出し、そこからある言葉が呼び起こされる。
『目覚めたのなら伝えてくれれば良かったのに』
外れてもともとだ。
試してみる価値はある。
……女神様! 女神様はおられますか!?
――よかった、つながった! ごめんなさい、こちらからも何度か意思の疎通を図ろうとしたんだけど、なんでかそっちとつながらなくて……今どういう状況なの!?
外れずに当てることができた。
どうやら俺にはまだ運が残っているらしい。
簡単に女神様に現在の置かれている状況を説明する。
――それは、まずいことになったわね。それに、こっちでも大変なことが起こっているの。
……その、大変なことというのは、何でしょうか?
――ええと、言いにくいんだけど、天界からあなたの世界にあんまり干渉できないの。できるのは、今みたいに肉体から精神が離れている状態か、もしくは就寝時の無意識の時だけ。こんな状況初めてで、私もどうしたらいいかわからなくて……
そういうと女神様は応急処置として、時間停止と詠唱し肉体の状況を、今のそのままの時間軸に固定させた。
天界から介入できるのは世界の理である時間の操作、それしかできず、回復などはできないとのこと。
結局、女神様に相談する前の状況から変っていない。
女神様に何もできないということは、俺にできることはないのだろう。
――いえ、あなたにできること、あるわよ。
……さらっと人の心を読むのやめていただけませんかね?
――え、あなたが思ってること、この状態の時は全部私に筒抜けよ。
……さらっと怖いこと言わないでもらっていいでしょうか……?
――そ、れ、よ、り、も! まずはあなたはあなたのことを考えなさい! 突っ込んでる暇なんてないのよ!
耳をつんざくような大きな音が響く。
顔が伺えず表情を見ることができないが、怒っているような感じがする。
――いい、今から言うことを驚かずに聞いてちょうだい。まず、あなたはその世界の魔王に転生することはできました。でも、その体のもともとの持ち主だった、ゲェナ・ェル・サタァーンの意識が滅びる際に魔王の力が体の奥底に封印されてしまったの。だから、魔王の常時発動スキル『ゼロへの回帰』、えぇと、簡単にいうと、あった事象がなくなるっていうものなんだけど、ええっと、そういうのを知らないあなたになんて説明したら……
女神様はわかりやすく話そうと、いろいろ骨を折ってくれているようである。
実際、俺には女神様が何を言っているのかはわからない。
さっきの『時間停止』だって、何が起こっているのかよくわかってはいないのだ。
でも、そんなに良くしてもらっているからこそ、すごく不思議に思うことがある。
……な――
――なんで見殺しにしないか、でしょ? 筒抜けだって言ってるのに。
……はい。魔王というのは、世界に仇名す敵。それは、俺の数少ない神学の心得でも知っています。女神様の立場からしても、同じのはずです。このまま見殺しにすればすむ話、なのではないのですか?
女神様に、今まで抱いては忘れようとしてきた疑問を投げかける。
一呼吸置くように間を開け、再び女神様は話し始めた。
――ええ、あなたの言う通りよ。このままあなたを見殺しにすれば、世界は助かるかも、というか、助かります。でもそれは、魔王を見殺しにするんじゃなくて、あなた、つまり、転生した何の罪もない人を殺すということ。それは、あってはならないのです。
……では、わざわざ魔王なんかに俺を転生させる必要はなかったのでは?
――それは……ええ、そうね、その通りよ。でも、あなたを魔王に転生させたのには理由があるの。それは、あなただったら私が望む世界、魔族も人族も、その他の種族も全部が幸せに暮らすことのできる世界が作れるんじゃないか、そう思ったの。
魔王でなくてはいけなかった理由、その他一つ一つ、女神様は丁寧に答えてくれた。
それでも、やっぱり最後に一つ、気になることがある。
……なんで俺だったんですか?
――それはっ……これから言うことは、今まで喋ったことと違って確証を持って言えることだからよくきいてほしい。あなたの魂には『シアワセの種子』というものがそなわっているの。これは、人だけではなく世界全体を幸せにすることができる可能性を秘めたものなの。
女神様はその、『シアワセの種子』のことについて詳しく教えてくれた。
簡単に要約すると、出現することがほぼなく、神々でさえその詳細は知らず、ただこの種子が発芽すると、それが芽吹いた世界はなにがあっても幸せになる、とのこと。
にわかには信じがたいことであるが、そんなものが俺の身体に眠っているらしい。
……だからあのとき、女神様は私に交換条件を出したのですね。
――それは断じてないっ! 私は、ただ、あなたがあまりにも悲しそうな、今にも消えてしまいそうな、そんな顔をしていたから、あなたに負い目をしょわせないためにそういったの。
……そう、ですか。
神様にここまで言われたら、覚悟を決めるしかないだろう。
それにここで折れちゃ、信仰に熱心だった娘にも顔向けできない。
なんたって、いま相対してるのは、ミルゥが信じていた神様なのだから。
――いやだ、というならしょうがないわ。でも――
……女神様、人が悪いですよ。いや、女神様は神様だから、神が悪いですか? 心が読めるんだったら、俺が思ってること、もうわかってますよね?
――ほんとに、いいの?
……いいんですよ女神様、いや、ナァスタト様。覚悟がぶれないうちに、いま、この状況を打開する方法を一緒に考えましょうよ。
――っ! ええっ!
ナァスタト様は彼女が知っている限りのことを教えてくれた。
詠唱というもの、スキルというもの、ありとあらゆることを教えてもらった。
――最後に、これだけ伝えておくわ。あなたがここで死んだとしても、私はあなたを何としてでも天界に連れ帰るから、安心してほしい。
……わかりました、ナァスタト様。それでは、できる限り頑張ってきます。
そう女神様に言い残し、意識を覚醒させるための準備をする。
すると、目の前の大男の時間が元通りに戻る。
ナァスタト様が教えてくれた実体に戻るコツは、意識を対象物に向けること。
そして、その中にいる自分を思い描くこと。
俺は巨木にもたれかかる大男に視線を合わせ、思いを巡らせる。
すると、意識がすぅっと吸い上げられていくような感覚がして、意識が途絶えた。