赤の証言
死神について、何か少しでも考えたことはあるだろうか。
黒いフードを目深に被り、顔は醜く骸のようで、大きな鎌を携えて人の命を非情に奪う、恐ろしい化物。
多くの人間がそんなイメージを持っていることだろう。だが、この話にはその前提では成立しない点が数多く存在することを念頭に置かなければならない。
これは俺の昔話だ。虚言の様な物語ではあるが、勘違いしないで欲しいのは、全てがノンフィクションであるということだ。
馬鹿な俺の、過信とエゴに塗れた人生。これからそれを語るにあたって重要なもの、それは、黄色いあいつだ。
真面目な奴だ、と思った。初めてそいつに抱いた印象がそれだ。といっても遠く昔、幼稚園の頃だったか。俺含め多くの奴がきちんとやらずに投げ出してしまうような、片付けやら手伝いやらをバカ真面目にこなす。俺はそれを遠目に見ていた。そのくせあいつはどこか抜けていて、言葉を話すのも下手で、どこか危うい。安定感のない足取りで重そうなものをよたよたと運ぶものだから、当時幼かった俺でも手を貸さずにはいられなかったことを思い出す。
これが「黄」。その後の俺の人生を大きく変える事になる、そんな人間だった。
なんやかんやで仲良くなって、そのうち幼稚園以外でも遊ぶようになり、一緒に成長して色々なものが見えてくるようになるにつれて、改めて「黄」の危うさを実感することが増えた。まず、「黄」は人を疑うことを知らないお人好しで、見知らぬ中年男性に着いて行きそうになったことが何度もある。その上ぼんやりしているからか単に運がないのか、交通事故や事件に巻き込まれそうになる事も非常に多い。他にも、踏切で線路に足がはさまったり、階段を転げ落ちそうになったり、自転車のブレーキが効かなくなったりなど、挙げていけばキリがない。
極端な不幸体質とも言える「黄」は、それでも無傷で笑っていた。いつも側にいた俺の方が怪我が多いくらいだ。正直、俺がいなければ死んでいたような事件だってあるだろう。「黄」が事故に巻き込まれそうになる度にそれを庇って増えていく傷は最早日常と化し、周囲も自分もほぼ気に留めない程当たり前になってしまっていた。
小学校に上がってからも俺と「黄」の関係には何も変化は起こらず、ただ悪化していく「黄」の不幸体質と増えていく俺の生傷以外に目立って変わった点はなかった。
が、しかし、目敏いのが一人。
「あいつから離れた方がいいんじゃないの」
そんな声が聞こえた。見ると、「黄」が誰かに話しかけられている。別に俺は仲良いわけじゃないけど、クラスでも中心的な存在で、目立つし、明るく、友達も多い。一言で言うと、目立ちたがり。そんな感じの印象の奴。
返答に困った様子で視線をそわそわと移動させながら黙っている「黄」は、視界の端に俺を捉えると、小さく息を飲み込んだ。俺はわざと不機嫌な空気を醸しながら近付いて、静かにそいつを威圧する。
俺の「黄」に勝手なこと言ってんじゃねぇ。
そいつは素直に謝ると、しばらく黙った後にこんなことを言い出した。
ねぇ、オレもこいつのこと見てていい?
こいつが「青」。視野が広く周りによく目が行き届く。思っていたよりもいい奴で、空気が読める。そして「青」のおかげで多くの事件事故が回避可能となったのは大きかった。「黄」が危ない目に遭う頻度が少なくなっていくにつれ、俺の怪我も減っていった。あまり社交的ではなかった俺たち二人にとって、明るく外向的な「青」は友達としても大きな存在となっていった。俺らの他にも友達がたくさんいた「青」であったが、次第に俺たちと一緒にいる時間が増えていったところを見るに、「青」も俺らに心を許してくれたのだろう。妙な所から繋がった縁ではあるが、それはそれでよかったのかもしれない。
そんな中俺たちは同じ中学に上がった。「青」が紹介したい奴がいるというのでついて行くと、眼鏡をかけた大人しそうな奴が階段の下で待っていた。何度か「青」からそいつの話は聞いたことがあった。どうやらそいつも「青」を介して俺らのことを知っていたらしく、友達になりたいとの事だった。
それが「緑」。温厚で優しく、お人好しで穏やか。「緑」は俺たちの仲をより潤滑にしてくれた。仲間内のバランスを保つのに、「緑」の存在はありがたかった。
嫌なことでも断れず、何でも苦笑いで済ませてしまう「緑」が面倒な奴らに絡まれた時は、俺と「青」でそいつらをしばきに行ったりもした。
「緑」はただただいいやつで、俺らはそれにたくさん甘えさせてもらって、そして「緑」も俺らにはわがままを言うようになって。
その関係の中には付き合いの短さなんか全く関係なくなっていた。
こうして、足りないことを補い合い、「黄」を不幸体質から守るとともに、バカやって楽しむ仲間が完成した。四人で完全だと思える仲間になったのだ。もうほとんど「黄」が事件や事故に遭う事はなくなっていたし、俺は怪我をしなくなっていた。喧嘩もしたが、しばらくすれば元通り。休日でも毎日のように顔を合わせるような仲。「黄」も心底楽しそうだった。俺はそれだけで満足だった。
そのまま高校に進学した。なにも変わらなかった。それなりに青春してたと思う。
楽しかった。俺にとって一番大切なことを、つい忘れてしまう程に。
それは二年の夏だった。
「青」は部活の遠征、「緑」は家族で旅行。夏休みの序盤、俺と「黄」以外がそれぞれの用事でいなかった日のこと。
朝から目的もなく「黄」の家に行く。暑さに辟易していた俺は、同じく扇風機の前でぐったりしていた「黄」に、コンビニにアイスを買いに行こうと提案した。真上から照りつける太陽にぶつくさと文句を漏らしながら歩いてコンビニに向かい、二つに割って食べるアイスを割り勘して店の外に出る。一緒に買ったサイダーの缶を開けそのまま勢いよくあおる「黄」を横目に、駐車場でふたつに割ったアイスの片割れを、「黄」に手渡す、手渡そうとした、まさにその時。その瞬間だった。
突然目の前の空間が歪んだように風景がゆらめき、なにか得体の知れない力が俺を突き飛ばした。
隣にいた「黄」を巻き込んでそこから少し離れた場所に転がった俺が次の瞬間目にしたのは、数瞬前まで俺たちがいたところを猛スピードで通過して店に突っ込んでいく小型車だった。
小さなつぶやきが、大きな騒音に紛れて聞こえた。聞き慣れた声がどこか遠くで。
俺はその声が「黄」のものであるのに気がつくことにしばしの時間を要した。
「誰なの?」
空中の、ゆらぎ。風のように形のないもの。蜃気楼のようなそれに、「黄」は大真面目に問うているのだ。その正体を。何も無いはずの場所に、でも確かにいるらしい誰かと、目を合わせながら。
幸いのこと俺にも「黄」にも怪我はなく、昔から慣れた手順を踏んで、家に帰る。どうやらあの車は老人の居眠り運転だったらしい。危ない所だった。俺の死角から飛び出してきたその車。下手すれば二人とも死んでいただろう。
本当に久々のことだった。ただ、あの空間のゆらぎは何だったのだろうか。俺にはただの空間の歪みにしか見えなかったあれは、「黄」にはいったい何に見えていたのだろうか。
「人がいたよ。男の人。知らない人だけど」
見えてなかったの?と驚いたような声をあげる「黄」に、俺は更なる説明を求める。
その男性に、「黄」は誰か、と問うた。にわかに信じ難いが、男性は自らを「死神」と名乗ったそうだ。もっと話をしたかったが、その男性は突然風のように消えてしまったらしい。馬鹿馬鹿しい話ではあるが、実際に起きた事であるし、第一「黄」は嘘が下手くそだ。その「黄」がここまですらすら作り話をすることなど現実的に考えてありえない。
怪奇現象やら幽霊やら、俺は一度も信じたことはなかったが、どうやらそれを改めなければならないかもしれない。
その日の夜、俺は死神について調べていた。
主に関東、首都圏でまことしやかに囁かれている噂。俺は聞いたことはなかったが、死神というのは実在するらしい、との事だった。そしてしばらくそのまま死神について何か手がかりや目撃情報などがないか探っていた俺は、ひとつ、気になる記述を発見する。
死神とは、寿命を迎える前に不慮の事故や病気、自殺などで死んでしまう人間を助けるための機関であり、決して人の寿命を悪戯に奪うような化物ではない。
不慮の事故。思い当たる節はたくさんある。今日、俺が見たゆらぎ、「黄」が見た男性は、このことではないだろうか。
もしかしたら今日だけではなく過去にも死神に助けられた経験があるかもしれない。まさかあれだけの数の事件事故に巻き込まれておいてあいつが怪我ひとつしなかったのは、実は死神の働きによるものだったのだろうか。
遠い昔についた右腕の擦り傷の痕を撫でる。もしかしたら俺は、俺のあの怪我は全て、回避可能だったのかもしれないと、そう考えてしまう。俺は、あいつを守っていたつもりだった。昔から、こいつは俺がいないと死んでしまうからなんて。だが事実はまるで違ったのかもしれない。俺は、「黄」を守るつもりで、事実守れているつもりで、でも、ほんとのところは確実に、俺は役不足で、今日のようなことがまた起こってしまえば、あいつは、あいつは。
今の俺には守りきれない。そう悟った。そして、どうしようもなく腹立たしくなった。俺は何をしていたのだろうか。
そもそも限界があったのだ。俺だけで人ひとり守りきるのがどれだけ非現実的か。
俺は絶望した。俺の生きている理由そのものを、その事実が否定していた。
電話が鳴った。「黄」からだ。普段滅多なことでは電話などしてこない「黄」。
「会って、話したい。「赤」、今どこにいるの」
近場の公園に走る。深夜で、人はいない。久しく訪れなかったそこは、気づかぬうちにすべてのものが小さくなっていた。その中の、低いブランコに腰掛ける「黄」。ゆったりと歩み寄り、声をかける。
俯き加減で揺れていた「黄」は、俺の声にはっと顔を上げ、小さく息を飲み込んだ。早かったね。来ないかと思った。そう言ってへらりと笑って、「黄」は軽く地面を蹴る。軋んだブランコから悲鳴のような音が微かに漏れた。
俺も隣のブランコに腰掛けて、ほんの少しそれを揺らす。どうしたの、「黄」。珍しいね、お前が呼び出すとか。
「黄」は、少し笑って、言った。
「「赤」、「赤」のこと、おれたくさん知ってるけど、いっこ、聞きたいことあんの。きいて」
「死神が、今日の夜ね、おれんとこ来たんだ。それで、おれに言ったの。死神にならないかって。ね、「赤」。おれ、」
言いかけたところで、思わず立ち上がってしまった。
「なりたいの、お前」
目を泳がせる「黄」。こいつは嘘が苦手だ。冗談や誤魔化しも不得手なはず。昔からそうだ。そうやって目を泳がせて、困ったように笑うんだ。
そんなお前が、お前を、俺は、俺が、お前、には、
「俺がなる」
お前じゃなくて、俺が。これは完全に俺のエゴだ。しかし収めることなどできなかった。俺が、お前を守ってやる。俺以外に、お前が、とか、そんなん考えるだけでイラつく。人間の俺がこいつを守りきれなくても、死神の俺なら。そうだ。他の奴がわざわざやらなくても、俺がやればいいだけの話だ。今までもずっとそうだったんだから。
「黄」は黙ったままだ。音を鳴らす木の葉。深夜だというのにぬるく不快な風。
そして、やっと口を開く。
「「赤」は、おれのために、死神になるの」
その声は震えている。「黄」は下を向いているため、どんな顔をしているか窺い知ることはできない。
「そうだよ」
俺には「黄」の考えていることを理解しきれていなかった。
翌朝、「黄」から送られて来たメールには、詳細な情報が長々と記載されていた。そしていつものように、俺は「黄」の家に向かう。メールのことも話したいし、他のことも話したかった。
「青」と「緑」にはどう説明すればいいだろうか。あいつらも友達だ。でも、巻き込むわけには。
結果、何も話さないことに決めた俺のことを、きっとあいつらは恨むだろう。それでいいのだ。全部俺のせいでいい。
早いうちに全てを終わらせてしまいたい。「青」は嘘が嫌いだし、「緑」は優しすぎる。バレる訳にはいかない。そのために俺は、この夏中に決着をつけることにした。「黄」もそれに同意する。しばらくして、ねぇ、本当にいいの、と「黄」が不安げに俺に問う。いいも何も、俺が望んだことだ。「黄」は押し黙ってしまった。俺は構わず考える。できるだけ、穏便に、迷惑がかからないよう片付けたい。こいつに何かあっては一番いけない。
もうすぐ「青」と「緑」が帰ってくる。悟られないようにしなければ。
それからしばらくの時が過ぎた。
「青」と「緑」はそれぞれ帰ってきて、暇ができてはいつも通り俺の家や「黄」の家に集合する。
いつ俺が死神になるかは、こないだの死神の匙加減。つまりは予測が立てられない。だが「黄」曰く夏中にという要望は聞き入れられたらしいので、おそらく夏休みが終わるまでには間に合うだろう。
「「赤」どした、お前今日なんも喋んねえじゃん」
「青」がおどけて、起きてる?なんて俺の目の前で右手をひらひらと振った。
俺はいつも通りに起きてるよと返す。「青」は笑って、そっかと言った。こいつはこの瞬間、何を考えているのだろう。俺の何倍も人の顔色を伺うのがうまい「青」。そして俺の何倍もそれに対応するのがうまい「青」。
その笑顔の裏で、何を考えているのだろう。俺にはわからない。
そして、意外と言ってはなんだが「黄」が思ったより平静を保ってくれていて助かった。以前「緑」にいたずらを仕掛けた時の挙動不審なあいつの様子を思い出す。
唐突に吹き出した俺に「青」は驚いたようなリアクションを取って、また笑った。
八月の中盤。午前中。十時半くらいだっただろうか。ついにその時はきた。
「黄」から電話がかかってきた。死神から連絡がきたそうだ。今日中に、とのことだった。
なんとなくそんな気がしていた。なぜなら先ほどから視界の端を謎の歪みが忙しなくうろうろしていたからだ。幸いなことに今家には俺ひとり。「黄」を待つ。
しばらくして、インターホンが鳴った。ドアを開ける。
そこには「青」が立っていた。
待て、なんで、「青」は部活があるんじゃ、
「「赤」。何隠してる」
部活のジャージ姿の「青」は、静かに問う。すると後ろからひょっこりと「黄」が顔を出した。口パクでごめんと言うのが読み取れた。何かを失敗したらしい。とりあえず「青」と「黄」を家の中に招き入れ、冷蔵庫から麦茶を取り出す。今日も外は暑かった。
「「青」、隠し事をしてたことは謝る」
「や、それは別にいいけどさ。オレはお前らが何しようとしてたのか知りたいだけだし」
「青」は麦茶を勢いよく飲み干して汗を拭った。にしても暑いな、なんてわざと明るく振る舞う「青」。その口元の笑顔は「青」が他人の警戒心を解くために自然と身につけたものだ。内心では色々な疑問やら憤りなんかが渦巻いているだろうに、「青」はそれを微塵も表に出さない。その視線が俺を熱量を持って貫いている。
「お前を巻き込みたくなかった」
目を細める「青」。首を傾げ、何に、と短く問う。
お前といるのは楽しかった。お前はすぐに調子に乗るし、若干ズボラで、だらしなくて。そのくせ人一倍顔色伺うのが上手くて、嘘にも敏感で、誰にも嫌われないような、そんな立ち回りが得意で。人付き合いの苦手な俺と「黄」は、そんなお前に随分と助けられた。
「恩を仇で返すようなことしてごめん」
「・・・は?なん、なんで今そんなこと、仇って何、お前ら、何しようとしてんの」
それは、そうだな。ごめん、説明できない。でももういいんだ。
「青」の上体が突如芯を失ったようにゆらりと倒れる。意識を失いかけた絶望的な色の目がこちらを見ていた。ごめんな。「青」はしばらく寝ててくれ。
「黄」は少し慌てるような素振りを見せたものの、ソファに倒れ込んだ「青」が静かに寝息をたてているのを確認すると徐々に視線を俺に移動させ、そして不安そうに俯いた。
「風呂場行こう。死神いる?」
「…いる。さっきから部屋の隅に立ってる」
「黄」は、小さく息を飲んで、俺に問う。
「ほんとにいいの、「赤」」
俺は頷く。そんなん、今更だろ。
「黄」はまた俯いた。震えている。
だが次に顔を上げた時には、その目がまっすぐに俺を捉えていた。
「行こう」
蛇口は開けっ放しで、だいたいその高さの八割くらいに水面があるバスタブ。
「「黄」、血苦手だろ。見てなくていいよ」
「やだ。見てる」
「黄」は脱衣場と風呂のタイルの狭間に立ってこっちを見ている。
俺は右手で小型ナイフを弄びながら「黄」と向かい合う。水音がただ虚しく響いている。彩度がモノクロに振った小さな空間でひとり色をもつ俺に、「黄」は言った。
「「赤」、おれのこと、すき?」
泣きそうな笑顔。声が反響する。
俺はいつも通り、俯き加減のその頭を軽く撫で、髪を梳いた。少しかための直毛。
「ちょっと今更じゃない?」
そう答えて俺が笑うと、「黄」は俺の手をそっと掴んで、小さな声で、ちゃんと言ってよと呟いた。
おれの存在する意味は、お前を守ることで、俺の一番幸せなことは、お前が笑っていることだ。
まじめで、いい奴で、少し抜けているお前。
「そんなお前が」
俺は大好きで。
ずっと憧れていたんだ。
「じゃあ、また」
「またね、「赤」」
直後、鮮烈な痛み。泉のように湧き出る赤。そのまま湯船に突っ込めば、それは水中に煙のように広がった。
手首が熱い。頭が妙に冴えていて、風景はその輪郭を強く浮き立たせていく。
そして違和感。
だが、その正体は、俺が見つける前に、相手から姿を現した。
「黄」の笑顔。笑顔?
いつだって透き通っていたはずの「黄」の目が今、酷く濁っているように感じられた。
「「黄」?なに、を」
紅い頬。何故か興奮した様子の「黄」。大きく息を吐いた「黄」は、音にならない台詞を吐いた。無論、俺には聞き取れなかった。
気づけば冴え渡っていた頭は鈍くノイズが入るようになっていて、身体は冷え切り、手首だけが熱い。目が霞み、風景がぐらりと歪んだ。
「青」の声がする。起きたのか。
どうやら俺に駆け寄って、何やら叫んでいるようだ。悲痛な響きがする。ききとれない。
大量の血の海に意識を流して朦朧とする俺。
いつしか痛みもなくなって、視界も霞みきって何も見えなくなった頃に、磨りガラスを背景に佇む人影が俺を呼んだ。
死神はこいつかと何故か酷く納得したのを覚えている。そして俺がどれだけ愚かであったかをその瞬間思い知った。
俺は何も知らなかった。先導していると思っていたのは俺だけだったのだ。
自分の馬鹿さに呆れて笑いが零れてきたが、「黄」のことを考えると、それでもいいかとすべて受け入れる気になれた。
「黄」は、もう俺に守られなくてもいいんだ。
ノイズはいつしか透明となり、恐らく完全に事切れたであろう聴覚がブツリと断線する。
身体が酷く軽くなり、その感覚に慣れずバランスを崩す俺に、死神は笑いかけて何か言葉を口にした。細かいことは覚えてない。
それからしばらく記憶は飛んで、何故か今、俺はデスクの前に座って天井を仰いでる。
一度死んでから、俺の記憶はずっと空中に浮いたまま不安定だ。今日みたいに色々思い出すこともあれば、全く何もわからない日もある。鬱陶しく目にかかった前髪が赤く透けている。頭を降って払い除けると、どうやら視界の端にはこちらをのぞき込む誰かがいたらしい。そいつは俺の手をひき、一言。
「なにしてるの、「赤」」
ふとしたきっかけでいとも簡単に忘れていく夢のように、今まで考えていたことなどすぐなかったことになった。
すぐに忘れる夢なんて所詮どうでもいいものだ。俺は身体を起こしてその声に応える。
「寝てた。ごめん、「黄」」
俺はそれでも、こいつのために。