彼女を射止められそうにないけど、それでも弓を引く
一.
部活に出ない日は、六時間目の授業が終わったらすぐに教室から出たい。でも、度々サボって帰るところを見られるのは気まずいので、いつも彼女が先に出て行くのを、待たなければならなかった。クラス内に、弓道部員が僕のほかに一人しかいないと結構やりづらい。何人かに紛れ、「あれ、そういえばあいつ見てないな」、くらいの扱いだと気楽でいい。なのにどうして、よりによって部の中で一番ヘビーなヤツと同じクラスになってしまったのだろう。高校二年になった新学期初日などは、思わず、「うわ! いる」と声を上げそうになった。
「檀弓 萩」
一文字、読みが“は、ぎ”、はぎ!? 自己紹介で黒板に書かれた名前の内、この名前だけは何度も繰り返し読まずにはいられなかった。
同じ部活なので一年の頃から檀弓のことは知っていた。高校入学以前からの弓道経験者で、なるべくして最初から部のエースになった強烈な女子だ。部内での彼女の呼び名はたいてい「まゆみ」であり、名字でしか覚えていなかった。一部の女子だけが「おはぎ」と呼んでいた。この「おはぎ」は、あんこに包まれたおはぎであって、彼女の弁当におはぎが入っていたことがあったとか、学校帰りにおはぎを買い食いしていたのを見つかったとか、名前の読みとは関係のない理由で付いたあだ名だとずっと思っていた。一年もたって改めて自己紹介を聞くまで、いかにアホな思い込みをしていたことか。
そして思う。女の子に名前を付けるなら、「さくら・はるな・かんな」とか、華のある麗しい字なり音なりを選んでもよさそうなものを、「はぎ」って……。どうして親はこの名前にしたのだろう。確かに萩も花だけど、派手さのない控え目な花だった気がする。
そんなこととは無関係に、「華の有る無しなんか気にして弓が引けるか!」と言わんばかりの戦績――個人戦なら優勝争いは当り前――がその人を物語っていた。僕が自己紹介をした時には、かろうじて弓道部員だと言った。順番が彼女の後だったら帰宅部と言っていたかもしれない。
やっと彼女が教室から出て行ってくれたので、僕はチャリを走らせて自由に帰ることができる。教室でも部活でも自分の存在感はなるべく薄くなるように努めている、と言うよりは、僕の性格的に自然とそうなってしまうらしい。彼女は、僕が同じ弓道部員であることを全く意識しないわけではないだろう。しかし、同じクラスになって二ヶ月近い今でも、声をかけ合って一緒に部活に行くこともないし、全くこちらを意識しないように見えるところがあり難い。と、二年になってしばらくの間はそう思っていた。
月火水は真っ直ぐ帰宅し、木曜日になってやっと放課後に弓道場へ行こうという気分になる。その週もよくあるパターンをたどっていた。半ばやっつけみたいな感じで部活に出る。サボってばかりいると、競技で四射中、的中が二をやっと超えるアベレージすら維持できなくなる。それよりも、もっと致命的な問題として、筋力が落ちて自分の弓が引けなくなってしまうのだ。やる気を振り絞って来ておきながら、一年生に交ざって初歩的な練習をするとなると、出て来たことを後悔しつつやることになりかねない。
当然のように、一年生への指導は彼女が中心になってやっていた。大半の一年生部員は、弓道場へ行くことは彼女に教わりに行くようなものだと思っているだろう。既に去年の時点で、僕や他の一年生部員にとってもそうだったのだから。
彼女が新人戦で優勝した時には、
「優勝祝いとか、プレゼントした方がいいんじゃねえの?」弓道部で一番態度が軽々しい三田が言った。
「プレゼント? お前そんなこと考えるんだ」僕が驚いて三田に言うと、
「いや、誰か羽飾りの付いた兜、プレゼントしてやったらちょうどいいんじゃねえの?」と、手の平を左右の耳の上にあててニヤニヤしながら言った。
「似合うかも。でも、あれは弓じゃなくて槍だからなあ」ニヤニヤを返した。
部の男子の間では、彼女のキャラクターはでき上がっていた。この時は「ワルキューレ」。つまり、武器を振るって著しい娘、という若干の恐れと敬意が混ざり合った、癒しや萌え要素がほとんどないキャラになっていた。
日本史の授業が鎌倉幕府の辺りに来れば、「巴御前」と言われた。鎧・鉢巻・弓を身に付けた姿は特に彼女を連想させ、「檀弓御前」とか「巴ちゃん」ともあだ名された。世界史の授業で、十九世紀のインドについて教わった頃は「ラクシュミー」と、彼女に聞こえないように裏でささやかれた。
「――絶対似てるよ。昨日連ドラ観なかった?」と三田が言った。
「誰のこと?」
「巴ちゃん。茶髪にしたらヒロインそっくりだろ」
「茶髪とか、するのかなあ?」
「髪はともかく、似てるだろ」
「似てるっちゃ似てるかな」と適当に答えた。
バスケットでも体操競技でも、どのスポーツをやっていたとしても不思議ではない、細身だがやせ過ぎでない体型。白い衣に黒の袴か、白いブラウスに紺のスカート、どちらかの印象しかない。そして、いつも背筋が真っ直ぐで姿勢が綺麗だ。彼女がそれなりの服さえ着たら、ドラマのキャラクターのようにとても絵になるだろう。
三田達と「巴ちゃん、巴ちゃん」と言いながら彼女の噂話をすることがあった。その時ふと振り向くとすぐ側に彼女が立っていて、それまで一度も見たことがないような険しい眼差しとぶつかった。ドアクローザ付きのドアが音もなく閉まるように、振り向けた顔を静かに元に戻すしかなかった。
思いきりチャリのペダルを漕ぎ過ぎて、軋むような音がペダルの軸から鳴っている。登り坂というほどではない、緩やかに傾斜した道を走り続け、目的地に向かっている。ずっと前から行こうと思ってはいた。近場ではないため、天気や部活をサボれるタイミング、自転車を漕ぎ続ける気力などがうまく重ならないと行けない場所だった。
前日に、通過する交差点や目印になる建物を一つ一つたどりながら地図を見て、道のりは覚えた。意識的に足に力を込めて勢いよく走る。でも、ママチャリと大して変わらない僕の愛車はスピードが出ない。
そもそも僕の家から学校までは、自転車通学ができるような距離ではなかった。にもかかわらず、突如思い立って電車通学をやめ、チャリで通い始めて一年になる。当初の理由は、運動になると思ったことと定期代が浮くこと。家が近くもないのに強引にチャリで来るヤツなど一人もいない。でも、チャリの方がいいと確信するには二つも理由があれば十分なのだ。
おかげで、浮いた定期代の一部を小遣に加えてもらったり、度々自分でパンク修理をして、自転車屋並みにパンク修理ができるようになったりした。
やっと高麗川を通過して巾着田一帯に入った。夏服のズボンが汗で太ももにベッタリはり付いている。駐輪場を探してウロウロしている内に、やっと案内板に行き当たった。
高校進学と同時にこの土地に引っ越して来る以前は、世の中というものは基本的に真っ平らで、山は遥か遠くに灰色に霞んで横たわっているものだと思っていた。利根川や江戸川に近い平地に住んでいたのだから、自然とそう思うようになったのだろう。
今は、通学途中山の緑に目を向けるだけで、幾つかの種類の違う木から成っていることがわかるくらいに山を身近に感じる。平坦な田畑ばかりではない起伏のある山や川から成る地形を、図面で見るだけではなくじかに足を運んで体感することが、インドア派の僕にとって意外にも楽しかった。
初めてこの土地全体の航空写真画像を見た時には、人工的なもの、環濠を真っ先に連想した。不思議なくらいに整った円形だった。名前である巾着のイメージに対してギャップがあり、ずっと気になっていたのだ。
実際に見ると、円を描いて流れる川に囲まれた土地は想像よりも広かった。川の流れに沿って歩かなければ、真ん丸に湾曲した流れの様子、広さや深さがよくわからない。そう思いながら円の内側を眺めていると、巾着田にある資料館を思い出した。閉まる時間が案外早かったはずだ。川の流れが巨大な湾曲を抜ける位置まで行き資料館を探すと、それらしい建物があった。景観を邪魔しないと言うこともできるが、うっかりしていると通り過ぎてしまいそうな佇まいだった。
廃屋を思わせる扉を開けて中に入る。館内は閑散を通り越し、全てが止まっているかのようだった。無人なのかと思っていると、「ああ、今」と言って職員が姿を現した。彼が客である僕をみとめることによって、たった今店が開いたらしい。
千年以上前、設置された当時の高麗郡高麗郷の様子が知りたい。手がかりになりそうなものを探した。瓦や土器の破片はあるが、これだけではほとんどイメージが浮かばない。かつては関東とその周辺から多くの人が集められたのだから、その集団のエネルギーを感じられるもの、巨大な円形を造った何ものかが見たかった。
稲作、茶、養蚕、国内であればたいていの民俗資料館にもありそうな展示をたどっていると、民家の神棚を移設した展示があった。神も仏も一緒くたで、付箋だらけの教科書みたいにびっしりとお札が貼られている。その中に、妙な絵入りのお札があった。狐に似ているが、真っ黒で口が開いている。神々しくて有り難いと言うよりは、むしろ禍々しい印象が際立っている。“大口真神”。狼信仰があることは知っていたが、実際に神様として奉った形を見たのは初めてだった。黒一色の狼は、まるで絶滅種を示す印のようだった。もし、今でも狼の遠吠えを聞くことができたら、ずっと昔のこの土地の人々の感じ方を知ることができるだろうか。
二階に上がった。狼の影など全くない、平穏な農村の生活を説いた展示がひっそりと並んでいた。
川魚漁の資料を見ていると、背後から呼び止められた。振り向くと髪も髭も白い老人が真後ろにいて、何かを渡そうと差し出していた。そして、奇妙に湾曲した木のようなものを更に突き出しながら言った。
「手に取ってみな。ほら」
「これは、何……ですか?」
「昔の高句麗の弓だよ。一番良く飛ぶ弓だ」
「弓……ですか?」
僕はその弓を受け取った。弓というよりは、壊れた籐製の蒲団たたきみたいだ。とても一番良い弓だったとは思えない。ただ、相当古びた感じで、実際千年位前のものに見えないこともない。弓の特徴を探そうと、筈から筈までじっくり見た。「これは高麗郷のものなんですか?」と聞こうとして顔を上げた。もう老人の姿は見当たらなかった。
戦や狩りについての展示はどこにもないはずだった。これが本物だとしたら、やたらと触ってよいのだろうか。急いで一階へ降り、事務室の職員にたずねた。
「あの、上の人がこれを……」と言いながら弓を見せた。
「上の人? それは何ですか?」、彼は眉一つ動かさずに言った。
老人を追うべく外へ飛び出した。市民の郷土史家、高麗郷に代々住んでいる地元の人、一体何なのかはわからないけど返さないといけない。外へ出て辺りを見回した。建物の裏へ回り、巾着田の方へ渡っていないか姿を探したが見当たらない。もう一度中に入ろうとして表側に戻ると、扉は施錠され、扉の窓にカーテンが引かれている。もう閉館時刻を回っていた。僕は曲がった弓を握ったまま、しばらくその場でさびれた建物をぼんやり見ていた。
由緒ある弓。資料館で僕に弓を渡した老人は、そんな話をしていた。仕方なく家に持ち帰ったもののどうしてよいかわからず、当面僕の部屋のクローゼットにしまい、そっとしておくことにした。
自分で調べれば、この短い弓がどんなものなのかわかると思っていた。でも、日本史・世界史どちらの教科書にもそれらしい弓は載っていない。資料集の隅にでも載っているのではないかと思って探してみた。どの資料集も、普段から授業の合間に好きでよく眺めていて、載っているかどうかはだいたい見当が付く。が、一旦開いてしまうと余計なところにまで見入ってしまい、最初の目的を忘れてしまう。数十キロある鎧を着けた鎌倉時代の武士が、刀や弓をかまえている。対して、軽装備の蒙古側の兵が短弓を引いている。一目でわかる異民族同士の戦の絵が載っている。
どちらの側も長い年月をかけて淘汰された結果、優れた武具が残ったのだとは思う。日本の長弓と蒙古の短弓、海の向こうとこっちでここまではっきりと別れたのが謎だった。
海外から進んだ技術がもたらされたこと、武士の形ができあがる前であったことから考えても、八世紀の高麗郷に限らず、もっと広く短弓が使われていてもおかしくはない。モンゴル帝国征服地の広さを見ても、短弓は他の武器に勝るとも劣ることはなかったはずなのだ。
教科書になければ、とりあえずインターネットで検索するしかない。短弓の検索結果は、“貊弓”の表記でなぜかゲーム関係のサイトが多い。さらに“貊弓”で検索すると、『三国志魏書 高句麗伝』からの引用で、貊(高句麗)の好弓という意味の記述がいくつかのサイトに見つかった。歴史書にあるのはこれぐらいだった。
資料集に載っている芸術品のような重籐の弓を見る。そして、曲がりすすけた手元の貊弓を見る。いつ頃どのように使われていたのか、漠然としていて想像するのも難しかった。
一旦気になってしまうと、どうしても知りたくなる。あまり頼りになるとは思えないが、とりあえずヤツらに聞くしかない。やむをえず部活に出ることにした。
申し訳程度に行射した後、次の順番を待つふりをしながら三田と小寺をつかまえて、
「世界史の資料集見てたらさ、外国の弓ってほとんど短弓なんだな」と言うと、
「でも、アーチェリーは意外とでかいよな?」と小寺が言った。
小寺は普段付き合いがあるヤツの中でも、勉強・部活共に好成績の出せる数少ない人間だ。聞いたことをただ受け流すことはしなかった。
「アーチェリーは元々洋弓で、短弓の内だと思うな。高句麗も中国も短弓だよな」僕は腕組みをしながら言った。
「コウクリ?」
「あ、いや、朝鮮半島。モンゴル系とか。日本だけずっと長弓なんだよ。何でだろうと思って」
三人共的に背を向け、壁に向かい小さくなって話していた。
「みんなが同じ弓使ってないと、拾った矢が使えないじゃん」と三田が言った。
「お前は人の矢を拾って平気で持って帰るヤツだからな」
気付いているだけで過去に二度、人の矢を持って帰っておきながら全く悪びれない三田に言った。
「でも、敵が射た矢を使えるってことは、敵もこっちの矢を使えるってことだよな。良いのか悪いのかわかんねえ」と言う三田に、「必中」と僕も小寺も間髪容れずに返した。
「だいたい戦なんて、一射したら突撃があって後はめちゃくちゃだっただろうから、矢を拾ってる暇なんてないよ」と僕は言った。
頭にあるイメージの元になっているのはテレビで見た戦国物のドラマ映像なのだが、三田が言ったようなちまちました弓矢隊は描かれないのだ。
順番を待つふりが、すっかり練習放棄の雰囲気になる少し手前で、何となく三人とも的の方へ向きなおった。射座で構える者は、矢を番えた長い弓をより長く見せるかのように、手にした弓を上方に上げ打越している。様式とはいえ、大きく見せたい願望があるようにも見える。
再び一射して下がると、顧問の諸山先生の姿が見えた。しばらく前から来ていたのかも知れない。普段から頻繁に部活に顔を出す顧問ではなかった。一年生が自主的に基礎練習ができるようになってからは、弓道場にいても手持無沙汰にしているようだった。二・三年生に対し、いかに整った型で矢を的中させるかについて、先生が語れることはごく僅かだということは既にわかっていた。この学校に来るまで、弓道にかかわったことがなかったのだから仕方がないのだろう。
隅に置かれた用具カゴの中を整理していた諸山先生を見て、ふと思いついた。この人に聞いてみたら何かわかるんじゃないか? 歴史の先生だし、大学時代の専攻も歴史だったらしい。弓を置き、声をかけようと先生に近付いた。先生はちょうど、胸当てをお皿のように横にして、顔に近付けてじっと見ているところだった。すり足が身についている上に、声が小さかったのか呼んでも気付かない。もう一度呼んでみた。
「おおっ! 何だ! 萱間。来たのか」
先生はとっさに胸当てを体に押し当てて振り向き、ゆっくり胸当てを下げながら言った。
「…………」
「出てきたんだから、やる気を出していけ。な」
「あのー、弓のことなんですけど」
「うん。三年生に聞いてきなさい。ああ、檀弓でも教えてくれるだろう」
「いや、古い時代の短弓のことなんですけど」
なんだそれはといいながら、依然として驚いたような怒ったような顔をしていた。僅かに間があくだけでも、質問を引っ込めたくなってくる。弓道場で先生と話すのはかなり久しぶりだった。
「昔の高麗郷時代の弓について何か知りませんか?」
「高麗郷時代の弓? どこにあったんだ?」と、先生は使えなくなった矢を右手に持って小さく振り、左の手のひらを叩きながら言った。
「民俗資料館で見たというか……、多分木製の弓なんですけど」
「説明には何て書いてあった?」
「説明はないです。知らない人から渡されたので。貊弓っていうみたいです」
「バッキュウ? 日本の弓じゃないだろう」
「ええ。だからわからなくて。でも、高句麗にゆかりのあるいい弓らしいです」
一瞬先生の手が止まり、すぐにまた手を叩きだして言った。
「その弓は、昔高麗郷に住んでいた人が狩猟か遊びで的当てをするために、作って使っていた弓かもしれない」
もっともらしい答えにも思えたが、あまり頷く気になれなかった。
「引いてみたのか?」
「多分無理です。古すぎて。本当にいい弓だったら、歴史の教科書か資料集に載っててもいいと思うんですけど。でもなんでこの国は長弓一色になったんですかね」
「それは、日本の家はなぜ畳敷きなのか、と似たようなことなのかもしれないな」
「畳、――わからないです。結局、必要に応じてやっていったらそうなったっていう、大方のことはそんな話ですよね」
もう練習に戻ろうと振り返った。その時、先生が倍くらいの大きな声で言った。
「大方そんな話か? それで歴史がわかるのか?」
「えぇ……わかる、のかなあ……」
「確かに、遺物の発見によって歴史を知ることには限界がある。泥にまみれた極僅かなかけらから知るしかない。時代が古いほどそうだな。だからと言って、こんな仮説があります、と単に書けば歴史の教科書ができると思うか?」
「でも実際……」と言いながら体を少し後ろに傾けた。妙に顔が近い。背は僕の方が十センチは上だが、体も接近していて全体で圧迫される。先生はいきなり僕の道着の袖をつかんで言った。
「歴史はな、萱間、教科書にこれだけ書かれています、あとは何もわかりませんで終わりじゃないんだよ! 今はわからなくても、知りたいと思ったことは自分の手で掘り起こしてつきとめるんだよ! 歴史は途切れずに繋がっているんだから、わからないからその部分はないということにはならない。必ず全て積み重なった上に今があって、萱間がそこにいる。萱間も歴史の一部なんだよ。わかるだろ!」
グイグイ揺さ振られ、とばっちりで受けている説教か何かのようだった。僕は少し間が空いてから、はいわかりますと言った。先生はつかんでいた袖をやっと離してくれた。
あれ、次順番かな、と小さな声で言いながら、その場をそっと離れた。水を打ったような空気の中で、「歴史の先生だからさあ、ちょっと質問してみたんだ」と言うこともできず、誰も話しかけてこない。射位まで勝手に道が開けていった。
何も考えず、ほとんどなげやりに矢を離すと的中してしまった。その音の響きが恥ずかしい。いたたまれない空気が更に濃度を増していくようだった。
テスト勉強は、ギリギリで始めても日数に余裕があっても、うまくいく気がしなかった。家で勉強していると必ず気が散ってしまい、結局時間が無駄になるのだ。英語の勉強を始めたはずなのに、いつの間にか、貊弓を引いてみたらどんな感じだろうと考えていた。
僕は貊弓を天井に近い所に吊るしていた。湿気や、机の引出しを勝手に開けたりするお袋の手から貊弓を守るためだった。貊弓を取り、弦を張る形に曲がるように力を加えてみた。少しずつ曲げる毎に変な汗が体からにじみ出た。貊弓を引いてみたい気分よりも、貴重な物を壊してしまう恐怖の方が上回り、諦めて元の場所に吊るすことにした。
「今日もサボって帰るんだろ」、と言って荒樫が近寄ってきた。僕はゆっくり帰り支度をするふりをしながら、離れた一点を見るのに忙しかった。荒樫は、返事をしない僕の視線を遮るようにして、その先を追った。お前に卑しくない日はないのか、と言う言葉が喉元まで出かかった。視線の先には、立ち話をしていて、教室から出て行きそうでなかなか出て行かない彼女がいた。
「自分のペースってものがあるんだよ。弓道に自分なりの興味があんの」
「自分なりの興味? ……あぁ」
荒樫の目には色気しか映らないように見え、相手にせず帰りたくなる。でも実際に、彼女の動静を気にして教室内に留まらざるを得ないのだからしかたがない。
ほとんど皆が出た頃に教室から出た。階段を一階まで降りると、彼女と鉢合わせしてしまった。身を隠す物が何もなく逃れようがなかった。
「萱間君。三年生、体育館で進路指導のお話があるんだって。だから今日ずっと練習できるよ」
「……そう、だね」
すぐに帰ってのんびり過ごす予定は、たった今消えてしまった。彼女の顔を見ながら帰るなどとはとても言えなかった。彼女は弓道場に向かい先を歩いて行く。その後ろを歩く僕の気分は全くの空だった。
弓道場に入って行くと、目が合った者は転校生を見るような目で一瞬僕を見た。が、そんな空気にはもう慣れていた。弓と矢を取っていると、彼女が近くでこちらを見続けている。もしかして、ちょっと僕に気があるんじゃないかと思っても、努めてそしらぬふりをする。誰に言うでもなく、自分の弓が引きづらいなと言っていたら、彼女が僕に近付いてきて言った。
「萱間君、何か癖が直せなくて悩んでる所があったら言ってね。言ってくれれば見るから」
「へ? ……うん」
向こうから言ってもらえると気が楽だ。「見る」と言われても、肩が下がっているとか、今のは早気だなどと言われるぐらいだった。無難に的をねらえていても、全体的に不安定。まともに練習を続けていないということは、すぐにわかってしまうことだった。それでも、彼女は僕が部活をサボることには一切触れることもなく、毎日部活に出ている仲の良い部員のように接してくるのが意外だった。
矢取りに行ってくれと彼女に言われて安土側に動く。教室と弓道場では、彼女はまるで別人と思えるほどのギャップがある。彼女にとって、教室内での僕の存在感はほとんどないに等しいのかもしれない。
彼女に限らず、僕は女子から「カヤマクン」と呼ばれている。この呼び方、思い返せば、僕は十四歳の頃突然「萱間君」になったのだった。
呼び方が変わる前は、多くの場合呼び捨てであり、「君」や「ちゃん」が付けられることはまれだった。それが、ほとんど突然、衣更えの日に教室の景色がすっかり変わるように、女子達が断りもなしに僕のことを「萱間君」と呼び出した。気にはなったが、なぜ呼び方が変わったのか、なぜそのタイミングだったのかも未だにわからない。
二学期に入ると、夏休み中に彼氏や彼女ができたとか、もう別れたという話を耳にするようになった。去年の同じ時期も似たような様子だったのかもしれないが、あまり関心がなかったせいか覚えていない。夏の間の僕は、夏休みの課題をいかに少ない労力でそれなりの形にするか、いかにして部活をサボれる日を見出すかにひたすら頭を使っていた。もちろん、どこの男子高校生にもあるように、頭の中の一角を占領する、極めて理想的な女子との絡みが延々と続く妄想は、膨らみたい放題に膨らんだ。しかし、どんなに積乱雲のように大きく盛り上がっても、所詮は幻。蒸し暑さで消耗するような日々の生活に紛れて見えなくなり、理想を実現させるような行動をとることは一度もなかった。
それが、誰と誰が付き合っているという話を耳にする度に、ある一つのことが気になるようになっていた。部活中に何度も名前を呼ばれるせいでもないし、いつも帰り際に警戒して見ているせいでもない。その話に彼女がかかわっているかどうかを確かめなければ気が済まなくなっていた。何組の、何部のと噂される中に彼女の名前を聞くことはなかったが、決して無視できない問題として頭の中に割り込んでくるのだ。
そんな時は、荒樫のどんなことでも漁る特異な能力に頼るしかない。
「スゲーよな。あの男。一年の頃から『二股』ってよくからかわれてたけど。また彼女が替わったみたいだな」何気ないふりをして聞いた。
「替わったっていうか、元々付き合ってた、更に別の子が発覚しただけだよ」
「別の……、三人目!?」
荒樫は、こういうことに関しては僕の数倍詳しかった。それだけに、こちらの胸の内を察知されないよう気を使わなければならなかった。ヤツに知られてしまったら、学校中に拡散してしまいそうで恐ろしい。彼女とどこかの男子が絡むような話があると、できるだけ近付いて顔を突っ込みたくなるのだが、それとは真逆に振舞った。特に教室内では気分的に接近する反面、物理的には彼女から遠いままだった。
彼女のことが気になるならもっと部活に出よう、と思うにはそもそもハードルが高過ぎた。片や弓道部のエース。こっちは応援要員レベル。特に彫りが深かったりまつ毛が長かったりするわけではないが、色白の整った顔は、真顔で弓を引くイメージ一色であり、冷静な内面を連想させた。特に僕のようなヘタレに向けられる眼差しは、怖いと感じることも少なくない。身近にいながら、これまで恋愛の対象として見ることがなかったのは、こんな理由からなのだろう。
それでも、僕は衝き動かされた。野球のグローブの様な大きな手が、後ろから僕の両肩をつかんで強く押した。僕は右を向くことも左を向くこともできず、たったの一ミリでさえも後ずさりすることができなかった。ハードルが高かろうと構わず押され、彼女の前に突き出された。頭の中では、彼女は期待通りに振舞ってくれた。だが、本当にどんなことでも期待通りというわけではない。そんなことをしてはいけません、という自主規制のような感覚が働くのだ。彼女は一貫して凛々しいイメージで、男から見て媚びる様な態度を取ることはなかった。そこだけはそのままであって欲しいと思った。
教室内で席に着いていても、普段の空気と何も変わらないはずだった。僕が抱えている気持は、慎重に隠してはいても、そこから気持の悪い不安感が少しずつわき上がってくる。興味のない授業だと、ひどく長く感じられた。
そんな気分で過ごすようになって、もう四日が過ぎた。今日は彼女と直接向き合うチャンスがないから諦めて帰ろう、と思った途端気が楽になった。でも反対に、こんな埒が明かない悶々とした状態は一体いつまで続くのかとも思う。ただ、諦めてしまい以前の気楽な毎日に戻ろうとは思わなかった。諦めたつもりになったとしても、僕の両肩を後ろからがっしりつかむ大きな手が力を緩めてくれることはないのだ。
彼女を離れた場所から盗み見ては悶々としている内に、とにかく今日でけりをつけたい、結果はどうでも早く終わりにしてスッキリしたい気分になってきた。
彼女に話しかける場所は、邪魔が入らないように人気のない場所がいい。通う生徒が少なく校庭の隅にあるような所。結局弓道場しかなかった。よりによって、校内で彼女が最も隙のない女子になるような場で軟派なことを言い出したら、さすがに反感を買ってしまうかもしれない。それゆえにわずかな可能性にかけて、うまいタイミングがないかと待っていたのだ。望みの薄い算段は、開き直った行動を引っ張り出した。
もう彼女が弓道場に行っているのはわかっていた。何だか徐々に体がおかしくなってくる。胸を中心に、冷たい血が心臓に逆流するかのようなつらさを感じる。入口の三メートル手前まで来ると、ひどくえずいて空咳きがやたらと出る。のどの入口辺りが張り付き詰まってしまいそうで苦しい。咳込みつつ涙も滲んでくる。入口に背を向け、帰ってしまえば苦しさから開放されるのだということが一瞬頭をよぎる。滅入って潰れそうになる気分を、なんとか持ちこたえさせた。そして何よりも、そもそも諦めることを決して許さない、僕の両肩をつかみ続けるグローブのように大きな見えない手があった。
やっとの思いで弓道場に入って行くと、彼女が既に着替えて準備をしていた。他にはまだ二・三人しか来ていなかった。少し迷ったが、着替えずに彼女の所へ向かう。弓道場内では、僕が彼女と話していても特別視される心配がないことがせめてもの救いだ。今日諸山先生は来るのかなと言おうとしたが、息が詰まったまま言ったせいでほとんど声にならなかった。
「アッ。今日は来る日なんだ」
「……うん」極端にかすれた声で答えた。諸山先生は? と僕は頭の中にある筋書に戻ろうとした。
「最近練習来るようになったんだね」
「そう、だね。間が空くと意外と苦労するし。檀弓は家でも練習するの?」
「家で? しないこともないけど。なんで?」
「前に、家で行射できるって言ってたから」
「行射? それはお婆ちゃんの家だよ」
「そうだったっけ? でも、すごいよね。家で行射って。時代劇の武家屋敷でしか見たことないよ。お婆ちゃん、流鏑馬とかできるんじゃないの?」
「できないよ。全然違うもん」
彼女は手元を動かしつつ話しているが、だんだん怪訝な顔になってきた。
「でも、やってみたら案外できたりするんじゃないの? 馬にさえ乗れたら」と言って、僕は何とか流鏑馬の話を続けようとした。
「無理だよ。足元が動いてなくても簡単じゃないでしょ」と、彼女は手を止め、こちらに向き直って言った。
彼女と話している間、練習に出て来る部員はまだ増えていなかった。僕は自分でも意外なほど図々しくてしぶとかった。
「それがさあ! すごく真っ直ぐなんだよ。上体が。見たことあるんだけど。馬に乗ってるのに、床の上で行射してるみたいなんだよ」、と言ったがテレビでしか見たことがなかった。
「萱間君見に行ったことあるんだ。私も見に行ったことあるよ」
「え! ……小さい頃だったけど」とあわてて付け加えた。「とにかく馬がすごかったなあ。重量感って言うのかな。今度明治神宮の流鏑馬観に行くんだけど、観に行かない? 一緒に」と言い切った。
「観に行く? 私?」彼女は見開いた目で僕を見て言った。
僕は小さな声で「そう」と答えた。
彼女は僕の口元に視線を落として黙っていたが、
「いいよ。明治神宮なの?」と彼女は言った。
「あ、ああ。うん」
早く言いたいことを言って楽になりたい、とだけ思っていた僕には、その後の筋書がまるで頭になかった。ただ平然とした彼女の態度に、救われるような気分だった。
流鏑馬を観に行く日までの僕は、架空の世界を見ているような感覚がどことなくあった。自分で誘っておきながら、なぜ彼女がOKしたのかわからなかった。当日出かけずに家にいるイメージと約束が実現するイメージ、両方が頭の中にある。確かに約束はしているのだから、努めて現実にある具体的なものを考えなければならない。デートがうまくいく展開を考えるようにした。でも、結局行き着くのは、僕が彼女から嫌われずに済んだら上出来くらいの展開だった。
上手いメールの文を考えて、当日までに好感度を上げておけるなら、こんなにいいことはない。
僕 : 原宿の辺りとか行ったりするの?
彼女 : あんまり行かない。萱間君は?
僕 : 原宿は行かないね。池袋か新宿まで行けばたいてい間に合うから。
彼女 : 私もそう! 当日楽しみだね♪ 明治神宮って駅のすぐそばだよね?
僕 : 流鏑馬の場所までだいたいわかるから案内するよ。檀弓が原宿歩いてたらスカウトされるかもしれないよ。「モデルのお仕事しませんか?」って(笑)
彼女 : 絶対ありえなーーーい(笑)
本当にありえないこんなやり取りを想像していると、顔が勝手ににやけてしまう。彼女の本来のイメージがどんどんぼやけていった。
実際のメールのやり取りはほとんど必要最小限の内容だったので、本当に行くのかという意味の返信が来るほどだった。
流鏑馬当日になっても、なぜ彼女は……、といつの間にか考えていた。待ち合わせ場所は地元の駅だった。
待ち合わせ時間の二十分前に駅に着いた。彼女が本当に来る確率は五割くらいではないか、などと思いながら五分たつ毎に腕時計ばかり見てしまう。それでも彼女は本当に来た。「今着いた」という彼女からのメールを見たのとほぼ同時に現れた。短いコート・細身のジーンズ・長めのブーツ、彼女に素晴らしく似合っていた。
「間に合ったよね?」、と彼女は小走りで真っ直ぐこちらに近付きつつ言った。
「大丈夫、間に合うよ。池袋まで行ってから山手線で……」
顔を横に向けてこちらを見たまま歩いている彼女を見て、実直な添乗人になろうとしている自分に気付いた。とは言え、砕けた態度を取って付けるにしても、ないものは付けられないのだ。
まともに彼女を見ようとすると、私服姿で僕と二人でいることがとても不思議なことに思えた。なぜ彼女はOKしたのかという謎は、とりあえず今は考えない方がよさそうだ。ただ、彼女の似合い過ぎている服やブーツを見てから、また別のことが妙に気になっていた。
(彼女は馬に乗る気なのか?)
明治神宮はとても広く、流鏑馬の場所に行き着くまで少し迷ってしまった。
境内を歩いて行くと、空を覆うほどの木立が開けた先に芝生の広場があり、その一角に既に人だかりができていた。真っ直ぐ綱を張って馬場が仕切られてあり、的が立てられているのも見える。ちょうどアナウンスで射手が紹介されていた。僕も彼女も周りに比べると背が高かったので、なるべく人の邪魔にならずによく見える場所を探した。
僕達は、三つ立てられている的の一つ目が正面に見える場所に立ち、流鏑馬の開始を待った。
馬が走り出してから一つ目の的までは、馬の足の動きがよく見え、抑えた速さでとてもゆったりと走っているように見える。射手が目の前で一射しつつ過ぎてしまうと、後はとても速く流れるようだった。矢を番えて引く動作がほんの少し遅れただけで、続く的を射ることができなかった。的中すると、パーンと音を立てて素焼きの的が砕け散った。
「音がいいよね。一回でいいからあの焼物の的に中ててみたい」と僕が言うと、
「焼物!? 的中したら気持よさそう」と彼女が言った。
普段弓道部で使っている的は、黒くて丸い星が印刷された紙を貼った的で、何度も的中した後に貼り直し繰り返して使う。焼物の的は中れば割れてしまい、使うのは的中たった一度きり。勢い良く音をたてて弾ける破片の潔さ。使う弓が同じ長弓であること以外は、多くの点が弓道と違う。申し訳程度に頭を下げてきた弓道場の小さな神棚をふと思い出した。
三番手まで走り終え、全ての的を射たのは最初の射手だけだった。
次の射手を紹介するアナウンスが流れた。
「十六!? 高校生だ」と僕は言った。
「若ーい! すごいねー」と彼女も言った。
昔の元服に近い一番歳の若い射手だった。でもなぜか、若手だから中てられないだろうとは思わなかった。実際その射手は、事も無げに全て的中させた。
あの射手が一番上手いねと言いながら彼女を見ると、戻ってくる射手を一心に見ている。若い手練の射手は、特に大柄でもなければ競馬の騎手の様に小柄でもない。笠の下に、白く細めの顔が見えた。その様子は、古い絵巻にある武者像と重なって、なんだか嬉しい気分になった。聞こえてくるアナウンスや周囲の観客をなくせば、千年前の空間に戻せるんじゃないだろうか。
「あの格好してみたら? 多分似合うよ」と射手を目で追い続ける彼女に言うと、
「うーん、着てみたい気もする。でも、萱間君似合うよ。袴も似合うし」と彼女は言った。
「似合う? 本当に? あ……でも袴は、大体誰が着けてもそれなりに格好付くみたいだし……」
馬がこちらの正面に近付いて来ると、射手が着けた装束のつくりや色がよく見えた。弓道着のように薄手でシンプルなものとは対照的で、色使いや形に品格を感じる。おそらく、同等なものは弽ぐらいだろう。
射手が被る緩やかに反った笠を見つつ、その下の顔をもう一度よく見た。進行方向に向けられているはずの目は、こちらに向いているように見えた。僕は思わず後退りした。射手の目を見たまま下がると、突然背中を堅い物で強く突かれた。大きな木にぶつかったのだ。背中にひび割れた木肌を感じる。眩しいような感覚に襲われ、全ての感覚が遠くなっていった。
水色のシートの上で横になっていた。シートも背中も冷たい。ついさっきまで西日を正面から受けて暖かいはずだったが、会場の大半が日陰になっていた。周りが静かで、気になって見回すと、僕は馬場の中央手前にあるテント内にいた。流鏑馬神事は既に終わっていて、観客は皆立ち去った後だった。すぐに立ち退かなければいけないような雰囲気だったが、頭がボーッとなるがままにしていた。
「萱間君! 大丈夫なの?」彼女がすぐそばで膝をつき、僕を見ていた。
「……あぁ、多分。大丈夫」なぜかとっさに弱々しい声を出していた。
「いきなり倒れるから、すごいびっくりしたよ。ここまで運んでもらったんだけど。救急車呼んだ方がいいのかなって……」
「ごめんね。片頭痛かもしれない。いや、違う……」
彼女が真剣な目でこちらを見つめてくると、身を隠したくなってくる。
もう大丈夫と言いながら立ち上がろうとした。視界が揺れるような感覚がややあったものの、頭痛の様なつらさはなく、なんとか立ち上がった。
彼女がお茶でも飲んで休もうと言ってくれたので、原宿駅前へ向かうことにした。倒れたのが緑の中の広々とした場所だったのが不幸中の幸いだった。もし、街中の雑踏で倒れていたら、絶望感のあまり無理にでも立って帰ってしまったかもしれない。早くコーヒーを飲んで息をつきたい。
「また行きたいと思ってたお店があるんだけど。ミルクレープがおいしいお店。知らない? お店の窓がね、レトロな感じの木の枠になってるんだけど」自信ありげに彼女が言った。
「知ら……ない。駅から近いの?」
僕はきのうまでにネットで調べて覚えた情報をひたすら頭の中でたどった。メモを見ながら歩きたくなかったので、暗記していたのだ。喫茶店・カフェらしい店は調べればたくさんあったのだが、飲食店じゃないカフェもあって、結局まともに覚えてきたのは三軒くらいだった。
「うーん、どう歩いてお店に行ったのか思い出せない」彼女は独り言のように言った。
僕達は、わからない方向へ歩いていた。
近い店からのぞいてみて、よさそうだったらそこに入ることにした。
外側も内側も白一色で、床まで白い大理石風の店に入った。入口に置かれた小さなメニューで、かろうじてカフェだとわかった。黒いハンチングをかぶり黒いシャツを着た店員が席を案内する。テーブルも白く、立方体からさらに小さい立方体をくりぬいたようなソファーも白で、本当に何屋なのかわからない。アクセサリーか何かを出されて並べられそうな雰囲気だった。
メニューを開くと、全部英語で書かれていて、メニューそれぞれのイメージがよくわからない。「そんなの頼んだりするんだー」と言われたくないと思いつつ適当なものを探そうとしても、上から下まで「そんなの」ばかり並んでいるようにしか見えない。もう彼女は注文を済ませてこちらを見ていた。
「あの……ブレンドコーヒーと、これです」メニューを指しながら店員に言った。
「ブレンドコーヒーとチョコレートブラウニーですね?」店員が早口で言った。
「……はい」(ブラウニー? ってどういうの?)
彼女は、これで落ち着けるねと言いながら、色が濃い小さい苺のようなのがのったケーキを食べていた。本当にコーヒーを飲んだだけで大分気が楽になった。ただ、彼女と話をしてそれからどうしようという気分も落ち着いてしまい、沈んだままだった。話そうと考えてきたことがのどまで上がって来ては引っ込んだりしながら、彼女をただ見ている。ジロジロ見過ぎてもいけないので、鎖骨の辺りや頬の辺りを何気なく見ていた。
「白い」、思わず僕は言った。
「白い? 何が?」、と彼女は興味なさそうに言った。ケーキもコーヒーもなくなっていて、グラスの水を飲んでいる。
すごく白いねと言いながらさらによく見た。微妙に赤みが差した白い頬に、青っぽい縦の筋がある。静脈が透けて見えていたのだ。
今日顔を合わせた時から少し気になってはいた。何か余分な化粧でも付いているように見えたが、真正面から顔を見られなかったし、これまでも遠慮してしっかり顔を見てはいなかった。神宮の中とは違い、全面を白い物で囲まれた明るい室内にいるので、初めてよく見えたのだ。〝透明感のある肌〟よりも透明だった。
しばらく青い筋から目を離せずにいると、彼女もこっちを見続けた。
「それおいしい?」水を少しずつ飲んでいた彼女が言った。
形の潰れたチョコレートケーキもコーヒーも半分くらい残っていた。僕はおいしいよと言って、残りを一気に食べようとした。
「萱間君、弓馬の道に興味があるんだよね? 実際にやってみたいって入部したんじゃなかったっけ?」
「何の道? 弓馬の道?」
ほとんど忘れていたが、入部当初の自己紹介の光景と共に辛うじて思い出すことができた。恰好付けたことを言っていても、体面を取り繕うために後から考え出した理由だった。実際は彼女のような部員とは真逆の、だらけた理由で入部していた。それでも、入部当初の動機として半分くらいは本当だったのだ。
「私あの時すごいびっくりしたよ。そんなこと考えて入ってくる人がいるんだなぁって。弓道部でそこまで考えるって、多分ないと思う」
時々笑みを見せる爽やかな顔は普段通りで、彼女が皮肉を言っているようには見えない。
「何て言うか、イメージ先行だったから」
彼女に話そうと考えてきたことや、言えそうだったらいいたかったことが急に虚しいものに思えてきた。彼女が持っている僕のイメージは、物置にしまった古い教科書ぐらい埃っぽいものだった。今まで僕は、突拍子もないことを言う単に変わったヤツ、と思われていたらしい。
急いで食べたケーキがしつこく歯の裏にくっ付いていた。舌で舐めたくらいでは取れない。口の中に指を突っ込んだり舌を口の中で動かし続けたりするのもみっともないので、口をあまり開けないようにして水を注ぎ入れ、ゆっくり飲むしかなかった。
「萱間君」
「はい」
彼女が真っ直ぐ僕を見て呼んだので、思わず口を閉じたまま返事をした。気管の方に少し水が入った。
「嫌? 私」
彼女は憤りもせずに僕の目を見ている。僕は小刻みに顔を横に振った。圧力が上がって顔が熱い。恥ずかしいのか咳き込むのを我慢して苦しいのかよくわからない。水を飲みたいのにグラスを上げることができなかった。
「私が萱間君に教えたりするでしょ。練習中に。ああいうの、ウザイって思ったりする?」
僕は素早く水を口に入れ、たまっていたものを一緒に飲み込んだ。
「そんなことないよ」、と言って空になった彼女のグラスに目を落とした。
「授業が終わるといつの間にか帰っちゃうし。私のこと避けてるみたいだから……」
「避けてないよ。だって、あの……まぁ、途中で具合悪くなっちゃったけど、今日はこうやって、ほら……」僕は軽く口を隠しながら言った。
彼女は、心配するような疑うような目をしている。二人共押し黙ってしまった。
「コーヒーたの……」
「萱間君、去年はもっと練習出てたのに、出たくなくなる理由があるんじゃないの? 諸山先生にも言われてたの。クラスが一緒だから聴いてみてくれって」彼女が落ち着いた口調で言った。
“なぜ彼女は休日に僕と二人でいるのか?”
なぜも何もなかった。彼女がOKして以来、膨らみまくった巨大な妄想が一瞬で破裂した。
「ある段階から全く上達しなくなったんだよ。それでもやらなきゃいけないのはわかってる。檀弓は相当できるんだし、レベルアップとか練習とか気にしなくていいんだろうな」僕は氷が融けきったグラスをあおった。
「全然そんなことない。自分の実力に納得してないし」
どうやって彼女と一緒に帰ったらいいのだろう。
期末テストの一週間前になっても、さも余裕があるかのような気分でいたかった。まず、一夜漬けでなんとかなる科目とそうでない科目を分ける。下らないことのようでいて、結果に影響する作業だった。
保健は実際の授業が少なく、テストは年に一度だけなので、授業自体が出題ヵ所の説明みたいなものだった。大半の出題ヵ所はテスト直前に暗記することにして、生物の教科書と重複する所を授業中に覚えることにした。
先生は出題範囲の内、「心身の機能 性とその機能」を読んで合間に微妙な親父ギャグを言うだけなので、聞き流しながら用語を覚える。漢字を練習して覚えるのは、一年の時に一二度あった漢字の少テスト以来だった。〈腎〉などは書くまでもないが、〈勃〉は普段あまり見ない字なので繰り返し書いて覚えるしかない。
生物のテスト前に再度覚えるものなのだが、女性の性周期模式図を見ていると結構複雑で難しい。女だったら覚えやすかったりするのだろうか。二十八日周期一日刻みで、体温・ホルモン・卵・膜それぞれが連関して働く不思議な器官。前や隣に座っている女子を見ても、そんなタスクスケジュール装置のようなものが個々のサイクルで働いているようには見えない。今日はお腹が痛い、と女子同士で話しているのを耳にすると、どうもそうらしいとわかるぐらいだ。テストにも実生活にも全く関係のない、「避妊 生理的方法」の基礎体温を利用する方法などに限って、どういうわけかしっかり記憶することになるのだ。
毎度のことながら、決して広くはないテスト範囲に目を通してしまうと、実際の記憶とは無関係にもう十分覚えたような安堵感に包まれるようだった。
扱わないという暗黙の了解でもあるのか、教えるにはややこし過ぎるからなのか、「心身の機能――」の〈心〉の方が授業から切り捨てられていた。僕の天邪鬼はこういう部分が好物なので、すかさず食いついた。
欲求の発生から解決に向かう過程ということでは、僕の行動は〈退行〉の〈白昼夢〉が大部分なのではないかと思う。教科書の図式で示されるとごまかしようがなく、一番楽な経路を選んでいる自分がわかってしまう。空想癖は治まりそうもないし、僕に〈昇華〉なんてことができるんだろうか。そんな建設的で真っ当なことなんて思いもつかない。
今更ながらわかったのだが、いつも僕の両肩をつかんで押し、動かそうとしてきた大きな手には〈性衝動〉という名前が付いていた。でも今はすっかり鳴りをひそめていた。
たぶん、勉強や部活で優れた結果を出せる人、彼女のような人は、合理的に欲求を解決するとか昇華ができるんだろう。彼女も葛藤を抱えることはあると思うのだが、何かに悩んでいるような姿を見たことはなかった。
結局彼女との距離感は全く変わらず、その気持を知るよしもない。あの時もしこうだったらと想像することはあっても、無理な妄想に走ることはなかった。
一夜漬けに毛の生えたような勉強にもかかわらず、テストが返される直前までは、いつも実際にした努力の二割増の結果を期待してしまう。かといって期待ほど点が取れなくても、そもそもこなせばいいぐらいに思っているので、失望するほどのことではないのだ。ただ、百点もあり得ると予想していた保健が九十二点だったのが妙に悔しい。
「保健の点数が全教科の中で断トツだったんだけど」放課後荒樫に言った。
「保健? 勉強したんだ。なんとかなると思ってしなかったらさ、なんとかならなかった」
「授業でここが出るって言ってたじゃん。本当に出ただろ」
「保健は、俺はいいの。どっちでも。こんなの勉強して何の役に立つんですかって言うとさ、実際健全な心と体を持つ人がちゃんと保健を勉強した人ですって言ったりするんだよ。萱間は健全の人。俺は野生児だからいいの」荒樫は少し考えたりしながらはっきりと言った。
驚異の理屈を言うヤツだ。〈防衛機制〉の〈合理化〉をやっている。
「今日部活行くんだろ」荒樫が言った。
「ああ。今日は行くんだけど。たまたま。なんで? 行くって」
「がんばれよ」と言って荒樫は教室を出て行った。
燻っているエネルギーを部活に振り向けて、健全な高校生になろうという思いはなかった。以前、苦労しながら部活に打ち込んでいた頃は、余計なことを考えずに練習に集中していて時間がたつのを忘れるくらいだった。その頃の気分が少し懐かしくて、頼りないやる気ながら弓道場へ向かった。
練習中にふと気付くと、女子の方が多かった。本来男女比はほぼ同じなのだが、割とよくあることで、数えなくても胸当て率が高いのがわかった。彼女については言うまでもないが、この部は女子の方が真面目なのかもしれない。
僕が部活に出るようになって、また両肩への圧迫が強まってきた。練習をしていてもつい目が追ってしまうのだ。ほとんどの女子の場合、形式としての胸当てという印象が強い。が、金子は黒いゼッケンを着けているようには見えず、胸当てを着けないと本当に弦が引っかかって困るでしょうと言いたくなるほどで、どう見ても胸当てが内側から押されて隆起していた。
檀弓と違い、金子は一年の時から初心者同士横並びで練習してきたので、接するにしてもかなり気安いのがよくなかった。正面から顔を見合わせて対峙するのとは違う、息がかかるくらいの距離にいきなり近寄る状況を想像していると、本当になんとかなってしまうのではないかと思えるのだ。
こうなると、頭の中で急速に関係が発展してしまい、「二倍のクリームがのった新商品のカフェラテを飲みに行かないか?」というメールを金子に送ってしまった。
一日待った。返信は来なかった。部の連絡用アドレスで、いつも使っている方ではないのでは、と思いもう一日待った。それでも返信は来なかった。
「下手な鉄砲も数打ちゃ――」の心境になると慎重さがなくなり、部活中にきいてしまうことにした。
金子が安土の側にいる時に、矢取りを手伝うふりをして話しかけた。
「メール、届いてた?」僕は声を抑えて言った。
金子は一瞬驚いたような顔をして僕を見た。が、見たよと言ってすぐに視線を安土に戻した。頭の後ろで一つにまとめられた髪が大きく揺れた。僕はとっさに落ちてもいない矢を拾うふりをした。素っ気無い態度は、練習中だからあえてそうしているに違いない。少し間を置いてもう一度話しかける。
「メール、読んでるんだ。で、結局……そんなに興味ない、とか……」金子の横顔に向かって言った。
聞こえているのかいないのかわからない風で、金子はゆっくりと振り向いた。顎のない丸顔で、真ん丸に開いた目をしている。何も答えずにただ僕を見ているだけなので、替わるから行射にもどれば、と言いかけた。
「あの……」
「萱間君て、おはぎなんじゃないの? そうだよね?」と金子は言った。抑えた言い方のようだが、元々声が大きいので小声になっていなかった。
微動だにできない。
「なんで私の所にメールが来るんだろうって、よくわからなかったんだけど。おはぎとは行かないの?」と言いながら、あなた達のことは大方わかっているとでも言いたげな顔をしている。
このことは学校のどの辺りにまで知られているのだろう、と思った次の瞬間、荒樫の変に澄ました顔が目に浮かんだ。
デートしたことを秘密にしておいてくれとは頼まないが、わざわざ人に話していたとは思いもしなかった。檀弓と僕の仲は膨れ上がった妄想の延長みたいなもので、破裂してどんな可能性も消滅したと思っていた。
「おはぎ。どうなんだろう……」と僕は呟きながら、妙にひとごとのように思えた。
三年生の引退後、以前に比べれば部活に出る回数が増えた。心を入れ替えたつもりはないが、自然とそうなっていた。部活に出るようになると、教室から彼女と一緒に行くことも珍しいことではなくなった。
大会が当面ない谷間に当たるこの時期は、一年の内でもモチベーションが上がらない、気の抜けた雰囲気が漂っていた。部長になった彼女は、新たな役割のためにむしろその逆だと思うのだが、僕はやる気を探すのに苦労した。素直に上達したいという思いはあった。でも、より大きかったのは、三年生になった時、下手過ぎていたたまれず部に出られないという事態を避けることだった。
「萱間君、射初め来るでしょ?」弓道場へ向かう途中、彼女が言った。
「……行くんじゃないかなぁ」僕はかなりもたついて答えた。
「休もうと思ってた? でも去年は来たでしょ?」
射初めは、年始行事として行っている部内の競技会だった。大会やその予選に慣れるため、予選で使われる大きな弓道場を借り、公式に則り行っていた。でも、立派な弓道場を借りてやるほどの成果も望めないので、できれば休みたい。去年は直前までパスするつもりでいながら、諸山先生の圧力に逆らえず出たのだった。全く身が入らない状態だったので、ほとんど競技の内容を覚えていない。
「でもこの人数で、あの大きな弓道場って借りられるの?」女子部長にきいた。
「人数はいいの。少なくても借りられるの。来るの? 萱間君。確認しないといけないから」
「それって今日言わないといけないの?」
「萱間君、もしかして予備校の講習とかあるの?」
「ないんだけど。幸か不幸か。だから行くと思うよ。でも、あれなんだよね、三田やめたんだよね」
「そうなの、三田君。予備校に行くっていう理由なんだって」と言って、彼女は僕の顔をのぞき込んでいる。
我が校はガチガチの進学校ではないが、二年の二学期を過ぎると、「計画を立て受験と部活の両立――」や「受験の年、終わるまで遊べないと思え」のような文句を目にするようになっていた。
一年の頃から大学受験を意識しないわけでもかった。部活動と受験の成否には特に関係がないということは、部の先輩の状況からわかっていた。このままでもなんとかなるので特に状況を変える必要はない、と自分に都合よく考え、離れた場所から防護ネット越しに、のんびり相手を眺めるようにしてきた。「成果もあがらないし、お前はこの部には合わない。退部して勉強に専念した方がお前にとっても部にとってもよいことだ」と、なぜか誰からも言われなかった。
「やめないつもりなんだけど。一応」あんまり彼女が見てくるので仕方なく言った。
「練習、来てね」と彼女が言った。
柔らかい、そのまま見続けていたい顔だった。
弓道場にはまだ誰も来ていなかった。余計な苦労をしなくても、ここにさえくれば当たり前のように彼女と向き合える。
僕は、たった今彼女が見せた顔をもっと見たいと思い、部長の顔に変わりゆく彼女にあえてぶつかろうと思い立った。
「流鏑馬観に行った時、行けなかった店あったでしょ、ミルクレープのお店。ここに間違いないって所があったんだよ。行ってみない? ネットで見てたら行ってみたくなってさ。道順は覚えたし、どうかなぁと思って」
彼女は準備の手を止めたまま聞いていた。
「お店? あったんだ。行くって、私?」
「そう。行きたがってたみたいだったから。あと、あの日突然倒れたせいでなんか中途半端になっちゃったし」
「いいよ。そんなこと気にしなくても。ありがとう」
「ありがと……。でも誘っておいて迷惑かけたと思うし。古い弓のこととか、もっと話したいこともあったんだけど、入った店が変な落ち着かない店だったから……」
「そうかなぁ。普通のお店だと思ったけど。弓のことだったら今話してくれればいいんじゃないの?」
「弓のことは、どうしてもっていう程でもなくて……」
ただ彼女の顔を見るしかなかった。彼女も僕を見ているが、全く柔らかい表情ではなかった。
「話したかったのは、その……なんか二人で観に行って、こういう感じなのもいいよね、って言うこととか」
「…………」
「だから、部活とは関係ない所でコーヒー飲んだりするのって、なんかいいなぁっていう……」
「どういうこと?」
「俺はそう思ったんだよ」
「萱間君さぁ……」
「今じゃなくてその店で話そう。そこに行ってから」
「メールは?」
「直接の方がいいと思う。お互いにいい。そう! 占ってみよう。天意っていうやつ」
「おみくじとか、そういうこと?」
「違う! 射初めには出るから、その結果で行くかどうか決めよう。的中の数。期待の結果が出たら吉だから行く。悪い結果なら凶だから行かない。結果のラインを的中いくつにするか……」
「萱間君が皆中なら確実に行くことになるんだ。皆中はね……」
彼女は的の方に目を遣った。
自分の腕を思うと、彼女の手前もあってかなり迷った。
「三!」
「二」、ほぼ同時に彼女も言った。
「『三』なの」、とだけ言って彼女は後から来た部員の方へ行ってしまった。
彼女の「二」が読めなかった。巻藁に向かい、空いた穴や飛び出た藁を親指で押した。僕はその場で、いつまでも巻藁に向かっていた。
射初め前日の夜、貊弓を拝んだ。正月に鏡餅もお屠蘇も用意しない我が家には神棚もなかった。だから、拝んだと言うよりは、吊るされた弓の下で黙想したと言った方がいい。
今は曲がっていて乾いた木片のようでも、きっと切実な歴史を負っているに違いない。獣を射て生活を成したり、もしかしたら、人を射て人生を切り開いたりしたことがあったのかもしれない。大量生産されたカーボンの弓で女のために矢を射るのとは違う重みがきっとあるのだ。
普段であれば、大会に向かう際に緊張することはなかった。多少の緊張を感じても、それは審査員や他校の部員が多く集まる場に入っていくために生ずるものであって、競射に臨む緊張ではなかった。ただ、今日は違う。「あの程度の練習でこの結果は無難だよ」、と言って軽く流すことはできない。完璧なのはイメージトレーニングだけだった。
射位へと一歩進んでしまえば、身に付けた形と頭に刻んだイメージを崩さないようひたすら集中するのみ。
想いをめぐらせ過ぎて寝不足になったのがかえってよかったのか、雑念に邪魔されたり遅気に陥ったりすることがなかった。二射続けて的中した。
「よーし!」とこちらに向けて大音量で声をかけられても、反射的に僕を通り抜けて外野に散るように受け流す。半分は照れで、もう半分は、調子付いて腹の中で高まる「今日はいける!」、という気分を抑えるべく身に付いた習慣だった。
三射目で弓を引分けた瞬間、調子に乗った勢いも、それを抑える力も両方消えた。バランスしていたものを失った心持で的を狙うと、いきなり遅気に陥った。なかなか矢を放てず、プレッシャーを感じ僕は追い込まれた。
二.
「聞こえないのか? 早くやれ」
壱師は振り返った。声の主は語気が荒いだけでなく表情も険しい。もう何度か繰り返し呼ばれていたのだとわかった。長く物思いにふけっていたのだろうか。ほんの僅かの間気をそらせていただけのはずだった。乾いた石の広がる河原が眩しい。手にした弓矢はたった今取り上げて手に握ったかのように感じた。
答える代わりに即座に弓を構えたが、的の方を向いてもよく狙いを定めることができない。的を据えている川沿いの崖は木陰に覆われて暗かった。慌てて立て続けに矢を三つ放った。それらは全て向こう側の闇に突き刺さった。
「馬上だったら貊弓の方がいい」壱師は言った。
「そうだな」黨慮が答えた。
壱師は黨慮と交換した弓矢を使っていた。黨慮の祖母安都佐がムラで唯一高句麗の貊弓を持ち、それを模した短弓だった。黨慮は徴兵を考慮し、壱師の弓矢を使って長弓に慣れようとしていた。
「今日は俺一人で来た方がよかったか?」黨慮が言った。
「いや……、真っ白い大きな石を見ていたら目が眩んでしまったんだ。もう良くなった」と壱師は答えた。
「もうお前の親父が、弓を引いて遊んでいる暇はないとは言わんだろう。とっくに稲の収穫は済んでいるんだ」
黨慮は引いていた矢を放った。矢は的の真ん中に中り、竹を組んで布を掛けただけの的が硬い音を立てた。
「収穫が終わっても終わっていなくても、父にとっては何の違いもない。今日も鍬を担いで沼に行ったろう」
続いて壱師が放った矢は、黨慮と同じ場所に中った。炭で黒い印を描いた布はこもった音を立てた。
霊亀二年(七一六年)よりこの武蔵国に高麗の名を取った郡が拓かれ、既に四十年が過ぎていた。稲の収穫を目前にした田の中心に立つと、元は葦の湿地が広がる未開の地であったとは思えない程の豊穣を見渡すことができた。
壱師が鍬を与えられ稲作に加わり始めた頃には、直線で区画された田とその間を整然と流れる水が、このムラの景色をつくっていた。自分のムラを高みから初めて見下ろした時、その光景は壱師の目に強く焼き付けられた。一帯をぐるりと囲む川が、水面に現れる波紋にも似た真円に見えたのだ。水の流れや大地は自ずと綺麗に整った形を成す、と錯覚しそうになる程だった。
そんな無邪気な感慨をもってムラを見る目がある一方、開墾を始めて以来ずっと、疲労の末に萎縮した目でムラを見続けてきた者もあった。それらの者、長年小さな進歩を積み重ねてきた壱師の父真磐やその先代には、結果だけを見る者のような感慨は持ち得なかっただろう。
葦原に鍬を入れ、水路を掘り、自ら苦労して拓いた土地が青々とした田に変われば、大きな喜びを感じることもできた。だが、それは、家族が生きていく上で最低限必要な基盤の一部ができたに過ぎず、農民なりに満たされた生活が、より豊かなものに引き上げられたわけではないということも知っていた。真磐にとって、全ては開墾の為と言っても過言ではなかった。
公民が増加し分け与えるべき公地に不足が生ずれば、元々渡来してきたよそ者は住み着いていた土地であっても取り上げられる。ただ、未開の地を開墾し、新たなクニを造るのであれば、その公民として認められる。高句麗を逃れ、この国に渡った先祖を持つ真磐にとって明快な宿命であり、その境遇に対して微塵も疑問を持つことなどなかった。
ムラの姿が、移住前に先代が住んでいた土地と同様に整ってからもなお、開墾に心血を注ぐことには、真磐なりの理由があった。
真磐は里長である父を中心とした大家族の中で育った。開墾された一族の広い田地の中を、幼い頃駆け回って遊んだものだった。父の代までは税の免除を受けられたこともあり、徐々にではあっても田を広げ、収穫する米を確実に増やしているという実感があった。葦原に延々と伸びる根を起こしては断ち切る内に日が暮れても、山のような土を運び入れ、やっと数歩田が広がっただけでも失望することはなかった。我が里長の目を通して、高麗郡が一体としてクニ造りに向かう様子を知ることができ、皆も泥にまみれて生きていると常に感じることができたからだった。
この高麗郡の中で真磐は素直に成長し成人となった。この地に移された人々は、辺境に追い遣られたよそ者などではない。困難な事業を見事に成し遂げた。公地を拡大し公に寄与したという大きな自信を持つようになった。誇るべき高麗郡の民を自覚しつつ生きてきた彼は、自分の代から課税が始まっても先代の遺産に安住せず、更なる開墾の継続と向上を自らの使命としたのだった。
官の御達しによれば、以後拓いた田は私財として認められることになっていた。ゆえに、真磐は新たな広い田を手に入れるため、あえて本家から別れて葦の広がる沼地近くに居を構えた。
こう話し、母や兄等と沼や田の中で鍬を振る父はとても頼もしい。壱師は子供の頃思ったものだった。
父と同等の働きはできないまでも、壱師が田を耕し稲刈りをする限り、与えられた仕事は何とかこなすことはできた。だが、葦との闘いに多大な苦労を強いられた。葦の根はとても強く、何度も鍬を振り下ろさなければ断ち切れない。先に進み行く父を見つつ、一か所で延々根を起こしていると、体中に焦りが広がってくる。一日働いたにもかかわらず、人の背丈を越える葦の中で僅かにだけ拓いた足元を見ると、絶望感に襲われた。
引き抜かれ集められた葦の根を見て、これが全部食べられるといいな、と幼い頃に壱師が言って家族が皆で笑ったことがあった。病死した母がまだ元気で、一番上の兄が防人として西国に行く前だった。ふとそれを思い出し、父の顔色を窺った上で葦を刈り続ける父に話した。父は振り返りさえしなかった。風に吹かれて葦が騒ぐ音に遮られたのだろうか。この日の父は気が立っているようには見えなかったが、同じことをもう一度言う気にはなれなかった。
「川に行って来てもいいか? 朝、魚獲りの仕掛を入れたから取って来る」夕方になってから壱師は言った。
「仕掛? 誰の仕掛だ?」父は言い、起こした身をすぐにもどした。
「俺のだ。暗くなる前に行かないと、引き上げて来られない」心持声を張って言った。
風は大分弱まっていたので、父が背を向けていても聞こえないはずはなかった。壱師は手を動かし続ける父の返事を待った。夕映えが遠くの空に見え、葦の陰りが濃くなりつつあった。
刈り取った葦を束ねていた父は、立ち尽くす壱師を一瞥しながらも仕事を続けていたが、急に身を起こして壱師に近付き胸を鋭く突いた。壱師はよろけて倒れそうになりながら、呆然として父の顔を見た。長い間まともに父の顔を見ていなかった気がする。父の意向を知る時には常に母や兄が間にいたのだ。夕映えを背にした父の顔は、微かに記憶している長兄の面影に重なって見えた。
「行くんだろ! ここで突っ立って何してるんだ!」
眼差しは普段通りに硬いまま、打ち付けるような激しい口調だった。一喝した父は仕事に戻ろうとした。が、依然立ったまま動かない壱師を睨んで言った。
「取って来られんと言ったな? お前が沼での仕事をその日の内に終わらせると言ったことがあるか? 家の田を何だと思ってる? 未だに川がどうしただの、抜け出すことしか考えられんのか! 子供じゃないんだぞ! お前が……」言いかけたまま父は力が抜けたようにしゃがみ込んだ。
壱師はこの様な父を見たことがなかった。陰になった父の表情を窺うことはできず、壱師は小さな声で行って来ると言って川へ走った。
暗い流れの中から仕掛を探し引き上げると、小さな魚が少し獲れていた。魚がよく獲れたとしても、父が喜ぶわけではなかった。ただ気が急いて走り戻ったが、父の姿はもうなかった。
強い日差しを感じて空を仰ぐと、もう日が一番高い位置にある。壱師は黨慮と共に水鳥を追いながら沼の周辺を歩いていた。自分の動きを鳥の動静に合わせようと必死だった。稲や葦を相手にする仕事よりも、昼になるのが早いと感じる。
黨慮も壱師も二羽三羽と仕留めていて、沼から離れ小高くなった場所に上がって休みを取ることにした。壱師は水で戻した飯を分けてもらい食べた。一度蒸かしてから干したもので、狩に行く際の食料だった。
年に何度も行けなかったが、壱師は狩がとても好きだった。田に入って仕事をしていても、水に浮かぶ鳥の様子を想像して手を止めてしまうことがよくあった。
「壱。惚けた様にじっとしていることが増えたな」食べながら黨慮が言った。
「惚ける? よくあることだ。父からも仕事中に『おい、何してる』とよく言われる」
「半月ぐらい前からおかしいな。それまでの壱はそうじゃなかった。俺の気のせいか」
「獲物は外してない。腕は落ちてないだろう」
「狩はいいんだが……」
黨慮は少しの間黙っていたが、重たそうに口を開いた。
「探しに行けそうなのか? 壱の所の並倉。まだわからないんだろう。雪が降り出してからでは遅いからな」
「並兄は帰ってくる。大丈夫だ。きっと足を少しけがしただけだ。雪は遠江から向こうは降らない」
「雪は都でも降るぞ。婆から聞いたことがある。それに、布を収めにいった運脚が都から戻ってもう二月だ。都の役人に直接お伺いを立てに行ったのだとしても、まだ戻らないというのは……」
「並兄はきっと戻る! 兄弟の内で一番山歩きが速いのは並兄だ。どこの役人をあたるのか調べてから行ったんだ。古真兄のことはわかるはずだ」壱師は黨慮を遮って言った。
強い口調で訴える壱師を見て、黨慮は黙るしかなかった。消息不明になった防人のことを都で尋ねても、農民では相手にされない。仮に聴きいれられたとしても、答えを得るのに延々と待たされるかもしれないのだ。
防人の任期を過ぎても戻らないまま数年がたち、壱師の長兄古真磐は先の戸籍調査で不明のため除籍となっていた。壱師がかつての長兄と同じくらいに成長した今では、あえてこのことに触れる者もなくなっていた。そしてまた、次兄並倉についても、徐々に触れることがなくなりつつあった。
壱師が二人の兄に話が及ぶことを恐れたり、努めてそれを避けたりすることはなかった。父は兄について多くを語らず、開墾の計画もほとんど変えようとしなかった。父に向かって不平を言うことを知らない、次兄の帰りを待つ兄嫁・子らは壱師同様父の後ろを必死に付いていくしかなかった。まれにどうしようもなく兄に会いたくなり、街道を西に走って行きたくなっても、日々の忙しさで覆い隠してしまうことがあたりまえになっていた。
家が抱える問題にかかわらず、黨慮が壱師と共に狩を続けていることは、壱師にとってとても有難いことだった。兄のことでも何でも話せる仲だった。ただ、壱師の心の内を大きく占めてはいるが、封印しておかねばならないことについては一切顔にも出さなかった。黨慮の妹弥都売のことだった。
沼地で開墾することの困難を知る者同士、壱師・弥都売どちらの家も助け合いながら生きてきた。共に野山で遊び弓を習った壱師と弥都売が、互いに将来の夫・妻になることを望むのも自然なことだった。だが、二人の意志が確たる形になる前に、通い合うことのできない深い溝があいてしまった。
春に防人のための糧を送る際、役目の他に古真磐の跡を追って調べてもよいと申し出があったことも、壱師の家では知っていた。その黨慮の申し出が立消えになったのは、弥都売が郡家の役人の妻となることが決まったからだった。
黨慮は兄を病でなくし、他に跡継ぎとなる者がないにもかかわらず、里中の成人の中で次に兵士に選ばれると目されていた。しかも、今後の兵士は蝦夷に対する東征軍として徴集され、防人とは異なり本当の戦をすることになるとの噂が広がっていた。その父が、家のことを考えた上で、郡家に勤める男からの申し出を受け入れたのも無理からぬことだった。
それ以来、弥都売に関することは全て消え去った。田の仕事や狩などは、黨慮の働きのおかげでかろうじて支障をきたさずに済んでいた。
散りゆく花びらを見ることもなく、花が一度に首から落ちたようだった。当初壱師には実感がなく、気付くと失われた花の影をいつの間にか探していた。仕事以外のことではとやかく言わない父から、弥都売には近付いてはならないと言いつけられていた。月明かりさえも避けて二人で逢うなどということは、もう許されないことだった。
壱師は黨慮に促されて腰を上げた。水際に向かい、互いの間をあけて風下から近付いた。木の下に鴨が五六羽眠ったように動かず、浮かんでいるのが葦の合間から見える。壱師は息を殺し、慎重に狙いを定めようとした。
「壱!」風に鳴る葦のような声で黨慮が呼んだ。
我に返り矢を放った。同時に黨慮も放った。
飛び立てず水に浮かんだのは一羽だけだった。
「どうした? お前なら仕留められただろう」黨慮が眉間にしわを寄せて言った。
冬は驚くほど早く日が落ちる。壱師は恨めしく思った。まだ狩をしていたいためではなく、父の元に帰ることをおそれるためだった。黨慮が多く獲った鳥を壱師に分けると言ったが、父が鳥を大して喜ばないと言って断った。家に向かいながらも、壱師はわざと歩みを遅くした。
既に日は沈み、薄明かりの中壱師は炊煙の上がる我が家に着いた。父はともかく、鴨を持って帰ったのであれば皆に喜ばれるだろう。
中に入ろうとした途端、後ろから不意にひどく強い力で腕を引っ張られた。父の顔が目の前にあった。
「今日藁を干すから昼には戻れと言っておいたな。なぜ戻らん」抑えてはいるがはっきりとした声で父が言った。
壱師は父の顔を凝視した。狩に出る前に父が言いつける光景が微かに思い出される。言葉を失った。
「お前はいつまでも古真磐や並倉がいなければ何もできないと思っていたが……」
父は壱師の提げていた鴨をむしり取り地面に叩きつけた。
「いつまでも鳥を追っていたければ好きなだけ山でも沼でも行け! 帰ってくるな! お前に田は作れん! 山犬にでも食われろ!」、父の声が夕闇に響いた。
父が怒鳴りながら迫ってくるような気がした壱師は、父の顔が見えなくなるほど後退りした。一歩も家に近付けないと思った。
父や田や狩などが壱師の頭の中に渾然として浮かんでくる。とにかく家から遠ざかろうと壱師は走り出した。あてはないが、人目を避けようと思いムラを見下ろす山に向かった。壱師が幼い頃から遊びに入っていた山だったが、山犬が出ると言って夜に入ることを戒められていた。
山仕事に行く者が付けた、道とは言えないほどの跡をたどろうとしたが、草木に覆われた暗い山中では、ゆっくりと足元を見ながらでなければ進めなかった。周囲を見渡すと、人の世界から隔絶されたように感じられ、壱師は漠然とした畏れに包まれた。
遭遇するまいという気持から、かえって僅かな物音や草木の揺らぎに山犬の影をみてしまう。壱師は闇雲に進み、視界の開ける場所へ急いだ。
岩場から見下ろすと、田を包んで円を成す川や、その流れの先に広がる葦が闇に包まれている。円内の平地に比べれば、壱師達の住む土地はほとんど荒れ地だった。
岩場の陰に腰を下ろした。足が張っていて重さを感じる。身を縮めて目を閉じると、木々のざわつきが気にならなかった。壱師は山犬を忘れ、眠った。
壱師が目を覚ますと、強風で草木が鳴る音に包まれていた。手足が冷えるものの、夜露の湿りをあまり感じない。日差しの強さや木の陰から、既に日が天中を過ぎているのがわかった。一晩中家に帰らなかったことも初めてだったが、真昼に起きたのも初めてだった。何もせずじっと座っていると、強く気がとがめた。
喉が渇いた。できるだけムラの人に遭わずに済むよう山中を回り込み、斜面を下って川を目指す。
川原が見える場所まで来ると、人の声が響いている。壱師は繁みの間からそっと川原をうかがった。女が四五人腰を下ろして休んでいる。皆かごを持っているところを見ると、茸や栗などを採りに上流域に向かっているのだろう。壱師は目を凝らし、その中に弥都売の姿を探した。皆若い娘だったが、弥都売がいないとすぐにわかった。日に焼けた瓜が衣を着ているような姿ばかりで、首から足まで弓のように緩やかにしなる線を持つ弥都売とは似ても似つかない。壱師は元の場所に引き返そうと斜面を上がった。
収穫が済んだ後とはいえ、皆それぞれに仕事を負っていた。兵士として徴発された者には休みなどないのだろう。こうして山の中で明るい内に遊んでいることなど許されることではない、貴族のような身分ではないのだ、などと考えながら壱師は草をつかんでよじ登った。
岩場に戻り息をついていると、突然壱師の視界に人影が現れた。とっさに伏せ、近付く影を窺った。目の前に現れたのは、かごを提げた弥都売だった。壱師に気付いた弥都売は小さく声を上げ、立ち止まった。立ち上がった壱師につかみかかり顔を確かめると、そのまま抱き付いた。壱師はすぐに弥都売の肩をつかんで引き離そうとしたが、弥都売がさらに強く抱き付いたため、しばらくそのままにしておくしかなかった。
弥都売が顔を上げると、壱師の衣は胸の辺りが濡れてしまっていた。黨慮を通じて壱師が家に帰っていないことを知り、一緒に山に向かった女達と別れ、以前壱師と分け入ったことのある場所へ捜しに来たのだと弥都売は言った。全く逢わなかった長い月日などなかったかのように、二人は見つめ合った。しかし同時に、決して許されない禁に手をかけているようにも、壱師には感じられた。
「何度も声を出して呼ぶな。人に聞かれたらどうするんだ」壱師は言った。
「誰もこんな所へは来ない。壱……、もう逢いに来てくれないの? 嫌なの?」
「行けるわけがない。そんなことをしたら、俺も弥都売も親父に叩き殺されるぞ」
壱師は、嫌になったりはしないと言いかけて口を噤んだ。弥都売も黙り、つかんでいた壱師の袖を離した。
「もう帰らないつもりなの?」
「帰らなければ生きていけないことぐらいわかっている。ただでさえ、並兄の分も働かなければいけないのに……。でも後少しだけ、こうしてムラから離れていたいんだ。弥都売は早くここを離れろ」
壱師が突き放そうとすると、弥都売は抗った。
「碆瀬麻呂の所へなんか行きたくない!」
「お前が男だったら、いい狩人か兵士になっていただろうと黨慮が言っていたよ。その方が離れ離れにもならずに、俺と一緒に狩にも行けただろう。ずっとな。若い頃男に代わって馬に乗った安都佐婆は、提げた矢と同じ数の敵を仕留めたらしいな。弥都売もその血を引いているんだ」
「それは安都佐婆の、そのまた婆のこと」
壱師は、木々の間から見える田や葦原を眺めながら座り、弥都売もそばに座った。
流れる雲の大きな陰が、広い田の上を幾つも幾つも過ぎて行くのを見ていた。
「こうして、よそのムラから来た者のように、それか鳥にでもなったかのようにムラを遠目に見ていたんだ。仕事から離れて山の中を歩いていると、わかってくることがあるんだよ。いつも父の後について仕事をしている時には全く気にも留めなかったことに惹かれるんだ。母は死ぬ前、まだ元気だった頃、畦道でも山の中でも一人で立ち止まって、小さな草花を眺めたり摘んだりしていた。皆で動いている時に、一人後れた母によく待たされたものだ。どうして度々そんなことをするのかわからなかった」
「一緒にお花摘みに行ったことあったよ。好きだったものね」
「やっと今、母の見ていたものがわかるような気がする。思わず立ち止まってしまうような草も花もあるんだよ。今まで気付かなかっただけなんだ。母の実家は郡ができる前からの土着の人達で、母は草木の名をよく知っていた。だから俺に花の名を付けたんだ。今までは花の名なんて嫌だと思っていたのに……」
母が野山に何を見て楽しんだのか、一つ一つを壱師が確かめる術はもうない。小さな草花の、人為に依らず自ら整う驚くべき形やその美しさから、母が見ていたものはこうであったろうと想像するのだった。
壱師は強いて弥都売を立たせ、もう一度帰るように促した。清らかな弥都売の顔が憂いで曇っていた。弥都売は何度も振り返りながらムラへ向かって降りていった。
日は傾き始めていた。ムラの様子、特に壱師の家付近をうかがうことのできる場所を探して、身を隠しながら少しずつ川原に向かって降りていく。たった一晩逃げていただけで、知らないムラにでも入って行くかのようだった。
もし、家に戻ろうとして父から拒絶されたら、このまま衰えて本当に山犬の餌になるかもしれない、との思いが壱師の脳裏をよぎった。空腹と喉の渇きからその思いは一層強くなり、壱師はただ水に誘われるがままに川原へ向かった。
壱師は気が済むまで川の水を飲むと、すぐに身を隠すこともせずその場に腰を下ろした。緩やかに流れる水は淵では遅くなり、流れの狭まる所では速く流れて渦を作る。その絶え間ない繰り返しを見ているだけで心が満たされ、我を忘れて眺めていた。
壱師がただ流れだけを見て過ごす内に辺りは薄暗くなり、光を千々に映す黒い流れが川原の中に横たわっていた。壱師は顔を上げ、川原に沿って歩き出した。川原は既に暗がりとなった木立に囲まれていた。
程なく、川幅が広がり流れが浅くなった。ムラの領域に入っていた。
騎馬が三騎、突然川原に入ってきた。川を渡ろうとしていたが、馬上の男達は壱師に気付くと馬を止めた。
「おぬしはこのムラの者か?」頭巾を着け弓矢を携えた男が言った。
男の顔は陰になりよく見えなかった。壱師は身を硬くし、そうだと答えた。
「漁をする者には見えないが、何をしている? 名を名乗れ」男は言った。
壱師は即座に答えることができなかった。馬上の男の身に付けているものが判別できるようになるにつれ、逃げられるような相手ではないと思った。
「胡毛井部真磐の……」
「胡毛井部真磐の息子か。このムラの者だな。何をしている? こんな所で」
「仕掛を沈める場所の下見に……」壱師は早くこの場を離れようと出まかせを言った。
「真磐の息子ならば、魚獲りをして遊んではいられないはずではないのか? おぬしの父は寸暇を惜しんで荒地を拓いているらしいな。郡家にも聞こえのあるほどだ」男は辺りによく通る声で言った。
「おぬしの父は奴だとばかり思っていた。あの働きようではな」と言って男は笑った。奴婢でもああまではやらん、と言って供の男も笑った。
寒風が吹きつけ壱師の顔は強張った。男の顔を凝視し続け、薄明かりの中でも少しずつ見えるようになってきた。その顔には微かに見覚えがあった。
「おぬしは真磐の何番目の息子だ? 確か息子が一人防人として出たまま帰らず、また一人戻ってこないらしいな。まだ戻らないのか?」
「並兄はきっと帰ってくる。古真兄も……いつかは帰る」うつむきながら壱師は言った。
「古真磐は既に除籍だ。死んだも同じこと。並倉は、逃亡を疑う者もいるのだ。他国では公地を捨てて逃げる者がいくらでもいるからな。もし逃亡した者が捕まれば、杖で叩きのめすぐらいでは済まされん。そう覚えておけ」男は目の前に逃亡者がいるかのように言った。
「逃げたのではなく、歌垣に行こうとして、道を失ったまま帰れないのではないのか」供の男が笑いながら言った。
壱師は答えず、顔も上げない。
「何だ、おのれの態度は! 物の言い方にしても、身分をわきまえろ!」供の男が怒鳴った。
壱師の手前の男が手を上げ、供の男を制止して言った。
「おぬしまで姿をくらましたりはしないだろう。三番目の男の子はおぬしか?」
壱師は頷いた。
「騎射ができるらしいな。黨慮から聞いた。しかもヤツより上手だそうな」
壱師は黨慮と聞いて、目の前の男が誰なのかを思い出した。郡の役人と共にムラをめぐる姿を何度か見たことのある舎人であり、弥都売の夫になる人物だと黨慮から教えられた男、碆瀬麻呂だった。
壱師は顔を上げ、食い入るように碆瀬麻呂の顔を見つめた。眉つきも鼻筋も真っ直ぐ通り、尖った頬骨や盛り上がった頬の肉でゴツゴツした所がなく、頬・顎を包む容が緩やかだった。母親が都の家の出だと聞いていたが、このムラの男の中では見ることのない顔立ちをしている。いつか寺の中で垣間見た仏の顔のようだった。それは、笑いも怒りもない顔付きでありながら、結んだ口のまま何かを語るように見えた。
「馬に乗っていたのはずっと前のことだ。黨慮の家で馬を売ってしまってからはもう乗っていない。それに、騎射がよくできるのは……黨慮の家の者だ」壱師は答えたが、弥都売の名を口に出すことができなかった。
わきまえているではないかと言って、碆瀬麻呂は顔を崩すこともなく静かに笑った。
「郡家の者でも、狩や戦に行ったことのない者がいるのだ。型通りの稽古はしていてもな。我らに手を貸してくれ。犬や鹿の代わりをしろと言うのではない。騎馬での戦い方を覚えるには、騎射に優れた者を相手に戦の如くやり合うことが必要なのだ。案ずることはない。鏃の付いた矢は使わん」
碆瀬麻呂は提げていた矢を取って壱師に見せた。矢の先には鏃ではない丸い頭が付いている。碆瀬麻呂の指図に応じて供の男が馬を降りた。壱師が綱を受け取りその鹿毛の馬に触れると、馬に親しんだ頃が懐かしく思い出された。
黨慮や弥都売の真似をしているだけで、面白いように騎射が身に付いていった。農耕馬でありながら、黨慮らによって乗る者に合わせることをよく仕込まれており、手を放して乗っていても落ちる怖さを感じることがなかった。どんな時にも壱師を優しく背に乗せてくれる。乗らずに触れているだけでも楽しく、辛いことを忘れることができた。
「当てるのは相手の首から下。馬には当てるな」と言って供の男が弓と胡籙を渡した。
壱師は鐙に足をかけ馬の背に乗った。まともな鞍を使ったことがない壱師にとって、立派な作りの鞍は驚くほど座りがよく、腰を浮かせても安定して乗ることができる。これならずっと馬に乗り続けられる上に、騎射もしやすい。碆瀬麻呂の後に従って下流へ進み、葦原に出た。
葦は月明りに照らされていたが、地と沼の境が見えなかった。壱師はぬかるみを避けられるのか気がかりだったが、馬の背に乗り揺られていると、馬の足に任せられるような気がした。
「この辺りなら邪魔が入ることもないだろう。矢が尽きるまでやる。待っていろ。鏑矢を放ったらそれが合図だ」と言って碆瀬麻呂は壱師から離れた。
遠ざかる碆瀬麻呂の馬が闇に紛れるやいなや、壱師は胡籙から矢を抜き馬を叩いて走らせた。鏑矢の大きな音が間近に聞こえたのだ。
二騎共、葦に隠れた起伏を避けながら走り、互いに相手を左手に見ながら様子を窺っていた。壱師にとっては狩場としてよく知る場所だったが、馬上から、しかも夜に見る景色は普段と異なり、大まかな方向しかわからなかった。
小高くなった斜面に近付き、葦原が切れた所で壱師が矢を放った。その瞬間、脇に矢を受けた。当てることに気を取られていると、相手の矢が確実に己を捉えることに壱師は戦慄を覚えた。これは稽古なのだという心積もりが薄れつつあった。
再度両騎馬共に葦の中へと駆け込んだ時だった。矢が鋭い音を立てて壱師の視界を掠めた。追いつつある騎馬とは全く別の方向からのものだった。鋭利な鏃が頭の中で光った。
壱師と碆瀬麻呂達が遭遇した時から不穏な重たい空気が漂ってはいた。壱師は馬の背に揺られている内に、その心地悪さを忘れかけた所だった。
身を屈め、隠れた射手から離れようと馬を急かした。馬は暴れるような力強さで駆け、左に折れ右に折れては葦原を突き進み、壱師は振り落とされないように夢中でしがみついた。
鏃で射かけられ、壱師は否応無しに戦場を駆け回ることになった。その因縁として考えられることは一つしかなかった。
それぞれ互いの位置がわからずにいるのか、常に囲まれているのか、壱師にはわからない。馬を降り手綱を引いてそろそろと歩く。逃げ出すくらいなら馬と一緒にいる方がいい。たった一度だけでも、相手を恐れさせるほどの矢を射ることができるのか試したい、そんな思いが壱師を衝き動かした。
不意に前方の葦が揺れ、弓を構えた人影が現れた。壱師が身を低くして隠れようとすると、小さく壱師を呼ぶ声がする。駆け寄ってきたのは弥都売だった。
「けがは? 賊に間違われたの?」弥都売が壱師の全身を見回しながら言った。
「稽古のはずが……。どうしてこんな所へ来た。すぐに帰れ!」
「壱師が気になって外へ出たら、いつもは見ない騎馬を見たから心配になって……。追ってくるのは役人なの? 止めてくる! 壱師を狙っていた騎馬を一つ、もう仕留めた」
「騎馬を討ったのか!?」
壱師は弥都売の腕をつかんで引き止め、弥都売とその手に持つ弓を見比べた。黨慮の言葉が頭に浮かんだ。どんなに駆け回っても碆瀬麻呂一騎のみで、もう一騎いるはずの騎馬を見なかった。
「研いでいない鏃。でも安都佐婆の矢だから毒が塗ってある。馬がしびれているだけ」弥都売は矢を見せながら言った。
「その弓と矢をよこせ。馬上は貊弓でないとやりにくい。鏃は使わない。付け替える」
弥都売は何度帰れと言われても抗った。壱師の相手が碆瀬麻呂だと気付いていないのだ。壱師は急いだ。すぐにでも碆瀬麻呂の馬をこの場から引き離さなければならなかった。
「すぐにここを離れろ! 矢を射かけられるぞ!」壱師は馬に上がりながら言った。
「壱師も! 討たれるくらいなら逃げて!」
討たれはしない。相手も殺さない(弥都売の夫になる男だからな)。壱師は呟き、葦から抜け出して突進した。
葦から離れて走れば碆瀬麻呂は追ってくるはずだ。川に沿って馬を走らせた。冷たい風を受け、壱師は顔を下げた。馬はまるで川を下る船のように滑らかで早い。顔を横に向ければ、真東から北に寄った地の端に、微かに朱を帯びた月輪が浮かんでいる。月はどこまでも駆ける馬についてくる。馬体の躍動が股間を経て伝わり、壱師は喜びを込め手綱を力一杯握った。できることならば、家も追手も恋も忘れ、果てしなく走り去ってしまいたかった。
川が大きく曲がった所で壱師は直進を止め、馬を返した。鹿毛の首をなでながら、壱師は目指す所を決めた。鍬も田も捨てない。そしていつかは馬を買うのだ。きっとどこかに咲いている可憐な花に遇うこともあるだろう。
男の頭巾を射抜きさえすれば十分な威嚇になる。もうあえて弓馬を揃えてやって来ることはないはずだ。貊弓と一本の矢を手に、壱師はもと来た方へ駆け出した。もし、先に相手方の矢が壱師の胸に突き刺されば、本当に山犬の餌になるかもしれない。それでも山犬への恐れより、むしろその存在の大きさを思うのだった。
(山のカミ、オオカミ! この一矢に力をくれ!)
突進し迫る壱師を認めて、碆瀬麻呂が弓を構えた。左手へ回ろうとする碆瀬麻呂の正面へ突っ込み、壱師は前方に向けて弓を構える。その目は頭巾を捉えていた。
三.
不意に矢が飛んだ。手がしびれたのか、弦が弽を弾いた感覚がまるでない。第三射は黒く円い星に的中した。三本も矢が刺さっていていつもより的が狭い。
三射目でピークに達し精根尽き果てた僕は、悟りを開いたようになった。ただ型のみで動くものとなった僕は、すんなりと四射目を射て、型通りに的中した。
自他共に期待したことのない皆中を出すと、今まで感じたことのない種類の居心地の悪さがあった。きっと今日から僕は“まぐれあたり”の代名詞になるに違いない。
射位から下がった僕に向かい、諸山先生の口から「萱間、皆中か」と普段の十分の一ぐらいの声が漏れた。さらにまじまじと僕を見ていた先生は、普段のうるさい声でもう一度言った。弓道場に落武者が来た、と突然警告されたかのような衝撃が広がった。
彼女の姿は見えなかった。部長は忙しいのだ。競技を観る暇はなかったのかもしれない。
冬休みが終わり、僕が成し遂げた皆中は徒花だったのだということがよくわかった。小寺や諸山先生などから、今年は頼んだぞ、と冗談半分に言われただけで、それ以外何も変わっていない。そもそも、射初めでどんな結果を出そうと、僕が彼女に一方的に条件を押し付けたに過ぎない。やっぱり行かない、と言われてしまえばそれまでなのだ。
それでも彼女はやってきた。一月中旬の部活がない日曜日、他に予定ができなければ行ってもよいと彼女が言った日だった。彼女はどことなく嬉しそうに見える。部活中には見ることのない顔だった。
混んでいて何時間も行列に並ぶようなケーキ屋については触れず、彼女が観たかったという映画を観ることにした。アクション物の洋画で、後々テレビで放送してもまず観ようとは思わない映画だった。
妙に浮いているように見えた俳優について話すと、彼女も全く同じ様に見ていたと言った。その俳優本来のイメージがいかに配役と合っていないか、作中のセリフや動作を一つ一つ挙げて悪口を言うだけで楽しかった。
「主演の俳優が好きなの?」僕は何気無くきいた。
「うーん、どちらかと言えば好き」
「出てる俳優であの映画を選んだ訳じゃないんだ」
「なんだろう……。CM観たら面白そうだったから」
「でも予告映像観て、本編観たような気になったからもういいや、ってなったりするよね」僕は半分笑いながら言った。今日の映画がまさにそうだった。
「そう? 私は本編が気になって観たくなる」彼女は言った。
好きな異性のタイプなどは、するべきでない質問の内に入れていた。仮に僕のような男がタイプだと答えられても、彼女が気を使っているだけなのだと、どうしてもそう受け取ってしまう。かといって、強引に物理的な距離を縮める勇気もないので、当り障りのない話をして映画の中のヒロインを見るように、彼女の口や手が動くのを見ていた。
地元の駅に着くまで、大半は部活の話をして帰ってきた。部のたわいもない話ならいくらでも続けることができる。手をケガしたらどう対処するかについて話していると、彼女はケガをしにくい手になっていると言って、手を差し出して僕に見せた。表面が硬くなったと言うその手を取って指を触ると、不思議なくらいの細さだった。ゴツゴツしたタコもないが、女子の指にありそうな柔らかさもない。ズバ抜けた彼女の行射とその指が頭の中で結び付かず、寒気に素手をさらしているのも忘れ、彼女の指に目が釘付けになった。
既に暗くなった駅前には人影もなく、二階の高さ程ある一対の将軍標だけが口を開けて静かに立っていた。将軍標のそばで彼女の手をつかんでいた僕は、我に返ってその手を離した。彼女は横目で僕を見たまま目を離さずにいる。僕は思わず「馬手も見せて」と言った。離した手とは逆の右手が差し出されると、彼女がこちらの正面を向き、互いの目が重なった。
大きく開いた彼女の瞳に、とても長い年月親しんできた愛着のようなものを感じる。これほどまともに見つめ合ったことは一度もないはずなのに。僕は全く動けない。
「何? ねえ」と言って彼女は手を引き離した。
彼女の黒い瞳と周囲全てが暗闇に沈みそうだった。
背を向け遠ざかって行く彼女がおぼろげに見えていたのも束の間、全くの闇になってしまった。まるで墨の表面に髪の毛を置いて描いたような絵――葦原に囲まれた土地で鍬を取り、時には弓を取って生きる人々の姿――が様々無数に浮かんでは、闇に溶けて消えた。
長い時間に感じた。とても大きくて、大切な何かにふれた感覚だけが残った。
気付くと、駅敷地の外れまで行ってしまった彼女が鮮明に見えた。
「ま、……おはぎ!」僕が呼ぶと彼女が振り向いた。「今度、弓見せるよ! 貊弓!」
終