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創作怪談三題噺

贈り物の話

作者: 高野 真

【お題】チョコ、北欧、仙台

 災害レベルとも称されるその年の暑さの中にもかかわらず、あなたはひんやりとした空気にその身を任せていた。指先に触れるシーツがやや硬いのが気になったが、それを纏っていないと肌を撫でていく風に身体が冷えてしまうのである。窓の外には東京都内とは思えないほど豊かな緑が溢れる生命力を見せつけているが、いまのあなたの目にはあまりに眩しく、暴力的にすら映っている。

 あなたは白一色の殺風景な部屋の中で、薄緑色の簡素な服を身につけ、そしてベッドに横たわっていた。あなたは入院しているのである。


 入院と言っても、単なる検査入院である。しかももう五年も前に受けた手術の、その経過観察のためのものであったから、あなたの身体はいたって健康体だと言えた。

 あなたはひとつ溜め息をつくと、太陽も木々も見たくもないとばかりに窓に背を向けた。検査入院三日目、最初のうちこそ堂々と仕事を休める歓びに読書も捗ったが、持ち込んだ何冊もの本も読み終えてしまった。医師からは検査期間中の安静を命じられている。そもそも安静を心掛けずとも、こんな暑さの中を散歩に出る気すら起こらない。あなたはもうひとつ、大きな息を吐き出した。


 何を買う訳でもないが、しかし少しでも世間との繋がりを求めて院内の売店へ出掛けていたあなたは、またしても退屈な自室へと戻ってきた。両親が気を使ってくれたのは理解するのだが、こうしたときに個室というのは寂しい。あなた自身の身体とそこから発せられる生活音以外に、あなたの存在を確固たらしめるものが空間に存在しないからである。

 冷たい金属の取っ手を横に引くと、正面の窓から差し込むオレンジ色の陽光が視野を占有する。ようやく陽が沈んでいくのだ。


 ドア右手には見舞客用のふたり掛けのソファが置いてあり、ソファと窓の中間点にベッドが横向きに設置されている。ベッドの脇にはスイッチを入れる気にもならないテレビと、サイドテーブルに積まれた文庫本が何冊かあり、…そこにあなたは見覚えのない箱があることを確認する。

 見覚えがない、というのは厳密に言えば誤りであった。竹の皮で作った弁当箱のような見た目をした、あなたの両手には少し大きい円筒形のその箱は、かつて留学していた北欧はデンマークで流行っていた、Pというチョコレートメーカーのギフトボックスであった。


 自分宛によくギフト包装をしてもらっていたことを思い出して一瞬懐かしくなったあなたは、しかしその箱がなぜここにあるのかが理解できずに居た。

 自分で持ってきた覚えは当然、ない。先週末に山形の実家から見舞いにきた親も、持って来てはいない。ではその他の見舞客はとなると、そもそもいまここに入院していることを知っているのは、両親と祖母、勤務先の仙台の会社の上司と恋人程度であって、祖母以下の三者は見舞いに来たことはない。たかだか検査入院なのだから、とあなたは断っていたのだ。


 では誰がこれを持ってきたのか、と考えたあなたは、そもそも余所の見舞客が間違ってここに置いて行った可能性に気がついた。だとすれば、これをナースステーションへ持って行って、正しい受取人のもとへ渡るようにしなければなるまい。

 しかし、そのささやかな可能性は、箱に添えられていた一通の白い封筒によって早々に打ち砕かれることになる。

 名刺ほどの大きさの横長のそれには、しっかりとあなたの名前が書かれているのだ。全ての字画を定規を当てて書いたような、神経質そうな字であった。裏返してみても、差出人は書かれていない。封を開くと、中にはさらに小さな紙片が入っている。あなたはそれをそっとつまみ、引き出し、開き、


 宛書きよりもさらに小さな文字で横書きされていたそれは、

 はやく「よくなってください。

 ――と読めた。


 あなたを呼ぶ声に振り向くと、そこに立っていたのは看護師のKさんである。彼女はあなたとほぼ同年代で、快活な人物で小柄ながらもきびきびと動く。知り合って間が無くとも、あなたの良き話し相手であった。

 あなたはこの「プレゼント」のことを切り出そうとしたが、しかしほんのわずかに早く彼女の口が開いてしまった。日中受けた検査の結果が出たという。この検査結果如何によっては、明日以降の検査項目が減るかもしれない、とも。あなたはぱたぱたとスリッパの音を立て、医師の待つカンファレンスルームへと急いだ。結果を早く聞いたところで、早くここから出られる訳でもない。判ってはいても、あなたの足取りは自ずと早まっていく。


 しかし。


 結論から言うと、結果は全くもって芳しくなかった。検査項目は減るどころか、四つも増えてしまった。

「昨日までの検査結果はどれもいい数字だったんだけど……。まあこれを機に、さらに念入りに調べてみましょう」

 慰めるような口ぶりで医師は言った。目が痛くなるほどに真白く照らされているはずのこの部屋が、古ぼけた土蔵の中のようにくすんでいく。石でも詰め込まれたかのように、身体がその内部から重たい。先ほどまでの浮かれた自分を、あなたは呪った。


 あなたは誰とも口をきかず、無言のうちに部屋へと戻った。外は既に昏くなっていた。低く立ち込めた雲に街の灯が反射して、おぼろげに光っている。あなたは恋人の声を聞こうと携帯電話を手にしたが、思い直して止めた。何をどう報告すれば良いものかわからなかったし、彼から何を言われたところで心にできた隙間は埋められまいと思ったからである。今はただ、鉛のように重たいその四肢を布団の中へと引きずり込むばかりである。食事なんて要らない。とにかく独りにして欲しかった。眠りにつきたかった。いっそこのまま、ずっと眠ってしまいたかった。


 どのぐらいの間そうしていたものか、あなたはふと目を覚ました。ひどく喉が乾いている。空腹のせいか精神的なものか、下腹部が重い。いったいいま何時なのだろうか。どんな夜更けでも射し込んでくる街灯の明かりも、病室の扉に開けられた窓から漏れてくる廊下の明かりも、いまのあなたには届かない。壁も天井も、自分が被っている布団すらもわからない。まるであなたの顔全体に何かがまとわりついていて、それに視界を遮られているようなのである。妙に甘ったるい、油のようなにおいがする。耳に届くは、あなた自身の呼吸の音のみ。あなたの心を満たしていく、言い様のない不安。爪の先ほどでも良い、何か明かりが欲しい。あなたは、枕元に置いてあったはずの携帯電話に手を伸ばそうとして、


 寸分の身動きも取ることが出来ない自分の身体に気がついたのだった。


 勿論、あなたは何らかの器具に拘束されている訳ではない。何かしらの薬剤を投与されている訳でもない。であるにもかかわらず、四肢に力が全く入らないのである。あなたは腕を動かそうと念じる。念じているのであるからそれは電気信号となって筋肉へと伝送されるはずであるのに、どこかで雲散霧消してしまうのだ。決して苦しいのではない。重たいということもない。物理的な障壁はどこにも存在していない。意識も明瞭である。試みにあなたは普段の仕事の手順を思い返してみる。契約書類のチェックポイント、上司への回覧順序、調印手順、どれも完全に思い出すことができた。心身とも、どこにも異常はないのだ。では、何故―――


 はやく、………さい。


 不意に声がした。男性のものとも女性のものともつかぬ、中性的な声であった。か細いけれども、サラウンド出力された音声のように、部屋全体に反響している気がした。耳元でささやかれているようにも感じられた。もちろん、この部屋にはあなた以外の何者も存在しない。音声を発するものも存在しないはずである。目に見える限りは。

 けれどもその肝心の視界が全く効かないのである。つまり、本当はこの部屋にはあなたの知らない誰かが居て、あなたはそれに気づいていないだけなのかもしれない。

 その事実に思い至ったあなたの身体はにわかに緊張した。動けと念じても動かない筋肉が、さらに収縮するのをあなたは知覚した。まるで蛇にじわりじわりと絞め殺されるカエルのように、あなたの身体は強張っていく。


 はやく、……てください。


 その声は確実に、仰向けに寝るあなたの目と鼻の先から発せられていた。氷でも含んだかのような冷たい息があなたの頬に触れる。あなたの柔らかな前髪が空気の動きによってさやさやと揺れる。あなたの優しげな双肩に、なだらかな双丘に、検査着越しの触覚が軌跡を描く。右へ左へ、行きつ戻りつする枯れ枝のようなそれの正体に、あなたは気づいてしまった。親指、人差し指、中指、薬指、小指。か細くて骨ばった様子や、そのやや尖った爪の先さえ、その目で見ずともあなたの脳裏に描かれる。事ここに至ってあなたは、この部屋にあなた以外の何者かが存在することを認知せざるを得ない状態に陥った。


 はやく、…なってください。


 抑揚のない、機械が喋っているような声。湿り気を帯びた、生臭い息遣い。あなたの両腕の付け根に徐々に入力されていく、十指の感覚。ぐいぐいと上から押さえつけられて、あなたの上半身はマットレスへと沈んでいく。きしきしと音を立てるベッドのフレーム。頭蓋骨に反響する、気道を空気が抜ける音。皮膚をざわつかせる、頸動脈の収縮。ぎりぎりと音を立てる奥歯。何をしろと言うのか、どうなれと言うのか。全身を針金で雁字搦めにされるような思いの中であなたは自問するが、当然答えは得られない。

 あなたの肉体が生を渇望する。全てはここから逃れるがために。より多くの酸素を求めて呼吸が荒くなる。酸素を含んだ血液を全身へ送り込むべく心拍数が高くなる。未だかつてあなたは、これほどまでに生きたいと思ったことはなかった。

 生きたい、生きたい、生きたい。


 一念岩をも通ずとでも言うのか、あれほどまでにあなたに食い込んでいた指の感覚がふっと遠のいていく。ずるずるずる、と音がして、あなたの顔の上を繊維状の束が移動していく。顎から鼻、鼻から額へと、尾を引くように、裾引くように。逃げるのならば今しかないと思ったあなたは、渾身の力を振り絞ってその身体を捩ろうとする。肩が浮く、背中が離れる、肘が動く。

「もうやめて、いい加減にして!」

 自分でも思いもしなかった、張りのある声であった。あなたの右腕が宙を切る。いまだ頭上に留まる何かに手首から先が突っ込んでいく。確かな手ごたえを感じて、あなたはそれを大きく振り払う。


 ああ、やめておけばよかった。


 あなたが開いた闇の裂け目から、真っ白い顔がこちらを覗く。目鼻も口もない、それでいてケロイドのようにボコボコとした顔が。男のものとも女のものともわからぬ。それがぐぐぐ、っとあなたの目の前に近づいてきて―――


 はやく、なくなってください。


(平成30年12月11日脱稿)

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