オレの半分
「ほら! サードにシフトアップ!」
「お、おぉ。ちょっと待て。右手でシフトチェンジって初めてだ。いつもと逆でやりにくいな」
「ほら、真ん中のゲートにシフトノブ入れて」
「サードって三速のことだろ。それくらいわかってる」
水が張られた田んぼの間を、真っ直ぐに伸びる田舎道。全開にした窓から風が吹き込んで、初夏の新緑が濃厚に匂う。
運転席にオレ、助手席にはオッチャン。ギアチェンジに使うシフトノブだけをオッチャンに任せて、残りの運転は全部オレが担当している。
この車を一人で操る体力が、オッチャンにはもう残っていない。
「よし、クラッチ繋いだよ」
「あぁ」
「このまま三速で四千回転になったら、四速にシフトアップするから」
「わかった」
「んー…… はい、シフトアップ!」
たった半年の入院生活なのに、シフトノブを握るオッチャンの右手は痩せ細り、太い血管が紫色に浮かび上がっている。
去年の冬山登山で肺炎をこじらせて入院、検査によって肺腫瘍が検出された。原発性ではない。他の臓器に発生した癌細胞が、肺に転移した転移性肺腫瘍だった。
当初、医師によって宣告された余命も、既に経過している。
「よし、じゃ、次はシフトダウンの練習するから」
「いや、お前、それは無理だろ」
「やれるって。二人でタイミング合わせるだけだよ」
「普通は運転手一人に、車一台だろ」
「フツーって何だよ。いいんだよ、半分ずつでも」
そうだ。一人で一台を動かすのが無理なら、半分ずつでも良い。片親しかいなかったオレの空っぽの半分を、アンタは埋めてくれたじゃないか。
だから、今度はオレが埋めてやるよ。
「これであの温泉街までは無理だろ」
「いや、行けるって。むしろ、ヨユーでしょ」
ふとバックミラーに視線を向けると、地元ナンバーの白い軽トラックが迫っていた。
この丸形四灯のテールランプを煽るとは、良い度胸だ。オッチャンに車の走らせ方を教わったオレが、舐められる運転をするわけにいかない。
骨ばったオッチャンの手の上からシフトノブを握る。
左足でスパッとクラッチを切って、右足でアクセルペダルを軽く煽る。フォンっと小気味よく吹き上がるエンジンの回転数。トップからサードへ、サードからさらにセカンドへ、シフトノブを操ってギアを落とす。
エンジン音は四千二百から三百回転付近で、物欲しそうに鳴いている。
左手はオッチャンの手を握ったまま。右手だけでステアリングを支えて、アクセルをグッと踏み込む。
わずかなタイムラグを挟んでターボチャージャーの甲高い動作音が続き、サイドウィンドウの長閑な風景が飛ぶ様に背後へ流れ始める。
急速に狭まりつつある視界の先、夏空に描かれる山脈の稜線に目を凝らしながら。
オレはアクセルを床まで踏み抜いた。
(了)