紅茶の香り
彼女はお茶を用意したテーブルまで移動する。
そしてマグカップを手にとってを飲み始めた。
ピアノの椅子に座っていた時のように背筋は伸びている。両手でマグカップを持って味わうようにお茶を飲んでいた。
「用意してくれたんですか?」
「気が付かなかったの?」
「気付きませんでした。ずっと弾くことに集中していましたので……」
彼女がお茶を飲む姿が絵になっていたので、ピアノの前から彼女の方を少しぼーっと眺めていた。
「どうしたの?」
彼女がこちらの視線に気づき不思議そうな顔をしてこちらを見ている。
僕は彼女の声を聞いて我に返る。
「なんでもないですよ」
と言って、テーブルの方へ移動した。
「紅茶ですか?」
優しいさわやかな香りがする。
ピアノを一緒に弾いていた横で、彼女の髪からも優しい香りがしていたのを思いしていた。
良い香りだったな……
「紅茶ダメだった?」
彼女が心配そうな顔をしている。
しまった。変な顔でもしていたかな。変な想像をしていたのは否めないが、それで彼女を心配させてしまったのなら非常に申し訳ない。
「いえ、紅茶好きですよ。」
「良かった。でもティーパックだから期待しないでね」
彼女の表情が安心して少し微笑んだように見えた。
「頂きます」
僕はお茶飲み、一息つきながら彼女の方を見て、さっきの燦々たる成果を思い出していた。あそこで弾けていればここでドヤ顔の一つでもできたかもしれないのに、と思ったりもした。
「教えてもらってありがとうございます。なかなか難しいですね。片手ずつ弾けたかと思ったのですが、両手でやり始めたら全然できなくなっちゃって。せっかく教えてもらったのに申し訳ないです。遅れましたけど、一年の沢村一樹って言います」
「ふふっ、初めてであそこまで弾けていたら凄いわよ。私は三年の志村夏穂よ。よろしくね沢村くん。ほんと最後まで完璧だったらきれいだったのにね。でも最後まで弾けていたら沢村くんの才能に嫉妬しちゃったかもね」
志村夏穂。彼女の名前を聞いた。思った通り上級生だったようだ。
才能という言葉を使われてもいまいちピンと来ない。最後は燦々たるものだったのだから。
「むしろ教育心をくすぐられたりはしなかったりですか?」
僕はちょっとふざけた感じで言った。
「そうね。はじめはどんどん出来ちゃうから、どんどん教えたくなっちゃった。でも私なんてまだまだだから。教えられることなんて限られているわ」
少し寂しそうに俯いている。
「最初聞いた時、志村さんのピアノに引き込まれるようでしたよ。あれだけ弾けても、まだまだなんですか?」
「そうよ。いっぱい練習して上手な人はもっとたくさんいるわ」
なんだかピアノの上手下手の話をしていると沢村さんは少し寂しそうな感じが漂う。
僕はなんだか居たたまれなくて残っていたマグカップのお茶を飲み干した。
「そろそろ失礼します。明日また来てもいいですか?」
「そっか、結構遅くなっちゃったね。この時間までありがとうね。明日は弾けるといいわね。」
「明日は弾けたいですね。それじゃあ、ありがとうございました。また明日お願いします。」
僕はそう言って音楽室を後にした。