鑑賞
放課後、音楽室へ来るのはこれで二日目だ。
ピアノの音が聞こえる。志村さんはもう来ているようだ。
昨日とは違う曲、これはどこかで聞いた事があるような気がする。
今回は志村さんの作曲した曲ではなさそうだ。弾いているのを邪魔してしまうのも悪かったので曲が終わるまで音楽室の外で待っていようと思った。
滑らかな旋律がやはり耳に心地よい。音を聞いているのにまるでそよ風に吹かれているような心地よさを覚える。志村さんはまだまだと言っていたが、これでまだまだだったら上手な人はどんな演奏をするのだろうか? それとも彼女が謙遜していっているだけなのだろうか?
曲が終わる。
僕は曲が終わった後もドアの前で余韻に浸っている。早く激情を感じさせる旋律と穏やかな調べが相混ざって僕の感情まで一緒に揺さぶられているようだ。このまま余韻に浸っていて次の曲が始まってしまったら教室に入るタイミングを逃してしまうだろう。でも、彼女のピアノを聞いていられるなら、それでもいいかもしれないと思ったりもする。
いや、良くない。聞くにしても教室の外じゃなくて、コソコソせずに音楽室の中でで聞いていたい。盗み聞ぎしているような背徳感が嫌なのもあったが、なにより弾いている彼女の姿も一緒に見ながら聞いていたいという気持ちが湧いてきた。彼女の弾いている旋律にあたりながら、僕も同じそよ風に吹かれていたいと思う。ただ迷惑な客だと思われても嫌だ。昨日の感触からしてどっちだろうかと心が揺れる。迷っている時間はあまりないだろう。ここまで来たのなら自分の気持ちは決まっているはずなんだ。そう言い聞かせた。。
僕は音楽室のドアを開ける。
「こんにちは」
志村さんがピアノの陰から顔を上げてこちらをみる。その表情は穏やかで、こちらの顔を見て微笑んでくれたのが見えた。拒否されるような顔をされたらどうしようかという不安感は払拭されて、安心すると共に、とても嬉しかった。
「こんにちは、沢村くん。今日も来てくれたね」
「今日も来るって言ったじゃないですか、今弾いていた曲はなんて題名ですか?」
「ショパンの幻想即興曲よ。早いし両手のリズムが違うから少し難しいから練習中よ」
彼女はそう言って譜面を少し見せてくれた。
ショパン。名前は聞いた事がある。知識の浅い僕でも知っているのだから有名な人なのだろう。音楽の教科書にでも出ていたかな? 幻想即効曲と書かれた譜面を見ていると大量の音符が並んでいる。
昨日見せてもらったメヌエットとは大違いだ。自分が褒められて舞い上がっていたのが恥ずかしくなる。初心者にしては、というハードルを越えてこの曲が弾けるまでどの程度必要なのだろうか?
「聞いていただけでも難しそうです。練習続けてください。隣で聞いていてもいいですか?」
僕は窓際のテーブルへ移動しながら水筒に持ってきたコーヒーをコップに淹れる。
紅茶は彼女が持っているだろう。それならと思って僕はコーヒーを持ってきた。
時間が経ってしまっているがインスタントよりはドリップして淹れたコーヒーの方が幾分美味しく感じる。
「どうぞ、後で私にも頂戴ね」
そう言って志村さんはまたピアノを弾き始めた。
「どうぞ」と言った言葉に昨日のような恥じらいは感じられない。自分の曲で無ければ大丈夫という事なのだろうか? それとも練習中とはいえそれなりの腕前か、僕が素人だから気にする事は無いと思われたか。いずれにせよ、堂々と彼女の曲を聞けることには変わりない。僕にとってはそれで十分だった。
弾き始めのメロディーが頭に強烈に残る。そしてその後のゆったりとした音とのギャップに心が癒されていくような気持になる。練習なので何度も同じ曲を弾いているがそれでも聞き飽きない。
熱心に指を動かして弾いている、力強い音も不快に思うことも無い。彼女の体のどこにそんなパワーがあるのかと思わせるような迫力のある音も、部屋を包み込むような優しい音も、一人の人間が奏でていると思うととても不思議な気持ちになる。
志村さんはしばらく弾いた後、こちらへやってきて一緒にコーヒーを飲み始めた。