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魔悪人現る!

 そんなことを考えている。


「聖者だ、聖者が来たぞ!」


 ほら、こうなる。だから、俺は反対したんだ。東京の山奥にある廃村に身を潜めていた悪人どもが、夜明け前の微かな明りを頼りに、少ない荷物をまとめて慌ただしく逃げ出す。残雪があるほど実際に寒いのだが、聖者と聞いただけで心は凍りついていた。


「ぼ、ぼくのせいです。ごめんなさい。いっそ“試合”をして……」


 ああそうだよ。全部、お前のせいだ。お前が聖者をここへ呼んだんだ。ブルブルと体を震わせる13歳の少年を、俺は容赦なく目で責める。


「ダメです。そんなことを考えてはいけません。あなたは何も気にすることはないのです」


 エミさんが身を寄せて、少年を抱きしめる。大きな胸が十分過ぎるほど当たっている。腰の位置まである長くてキレイなエミさんの髪の匂いを独占している。エミさんに抱きしめられ、少しは安堵したのか涙を流している少年を俺は殴りたかったが、ここは我慢してあとでこっそりエミさんにばれないように殴ってやることにした。


「もうすぐ聖者になってしまうあなたを置いて行くことなどできません。私たちが好きでしたことです。あなたは自分を責める必要は一切ありません。そうですよね、タクマさん」


 なんて美しい……。エミさんの頬笑みには勝てない。


「はい。当然のことをしたまでです」


 俺とエミさんは、この廃村に向かう道中で聖者と出くわし、聖者に頭をなでられてしまったこの少年を他の悪人どもには内緒で連れて来たのだった。そして、この少年はもう間もなく、あと30分ほどで聖者になってしまう……。



 2年前の7月7日。世界はたった1日で変わってしまった。

 やけに頭をなでてくる人たちがいるなと、高校のクラスメイト達と話をしていた。まさか、その頭をなでられた人たちが次々と聖者になってしまうなんて……。そして、同じ高校に通っていても話すどころか近づくことさえできない高嶺の花のエミさんと一緒に逃亡生活を過ごすようになるとは思ってもいなかった。


 犯罪はゼロと言っても過言ではないほど激減した。街でケンカが起こることもなく、財布を落としても必ず交番に届けられ、芸能人の不倫で世間が騒がしくなることもなくなった。いざこざのない、笑顔だらけの街……。お互いをひたすら褒め合うサイト……。

 つまり、世界が激しくつまらなくなったのだ。


 やがて、聖者に頭をなでられると、48時間後に聖者になってしまうことが判明した。道端に落ちているゴミをスルーすることも、パンチラを期待して強風の日に渋谷に行くことも、小腹が空いて夜中にカップラーメンを食べることも、何一つ悪いことができない、超真面目な人間になってしまうのだ。


 怖ろしい。怖ろしすぎる。欲望を奪われてしまうなんて絶対にごめんだ。


 帽子やヘルメットが飛ぶように売れたが、かえって聖者でないことがばれてしまい、どんどん悪人は減っていった。人は誰もが闇の部分を隠し持っているのだから、俺は聖者になっていない人を、悪人と呼ぶことにした。エミさん以外は……。



 なぜだ? どうして聖者にならないんだ? もう48時間経っているはずだ……。聖者になって俺やエミさんの頭をなでようとするはずなのに、少年に変化はなく、相変わらず震えている。芝居なのか? 油断させて、頭をなでるつもりなのか? いや、聖者はそんな卑怯なことをしない。


 あっ、もしかして、俺とエミさんは既に聖者になってしまっているのか? だから、この少年は頭をなでようとしないのかもしれない……。


 俺は勇気を出して、エミさんのスカートをめくる。一瞬だけ、素晴らしい光景を目にすると、ボコッとエミさんに顔を殴られる。ビンタではなく、こういうことがあるとエミさんは必ずグーで殴ってくる。よし、俺もエミさんもまだ聖者にはなっていない。聖者はこんなスケベなことはしないし、暴力もふるわない。


 なぜ、少年が聖者にならないのかわからないが、そろそろ俺たちもここから逃げ出さないといけない。


「エミさん、もう行きましょう」

「わかりました。さあ、あなたも行きましょう」


 エミさんが少年の手を取る。


「えっ?」


 俺も驚いたが、少年も驚いた表情を浮かべる。


「でも、エミさん、その少年は……」


「もう48時間経過しています。恐らく、聖者に紛れた悪人になでられたのではないでしょうか?」


 なるほど、その可能性はある。


「助かったの? 僕、助かったの?」


 少年が大粒の涙を流して、エミさんにすがるように尋ねる。


「そのようですね」


 エミさんが少年の手をギュッと握ると、少年に安堵の表情が浮かぶ。俺もエミさんもこの少年の名前を知らない。名前を知ると情が移ってしまうからだ。一緒に逃げながら聖者になってしまう悪人を何人も見てきた。そして、聖者となった悪人に追いかけられる……。辛くなるから名前は聞かない。必要以上に仲良くならない。俺もエミさんもいつからか自然とそうなっていた。


「悩ましき悪人よ、出ておいでなさい」


 ゾッとするほど穏やかな声が外から聞こえてきた。

 窓ガラスの割れたすき間から外を覗くと、15人ほどの聖者たちが廃屋を取り囲んでいた。長居し過ぎたのだ。エミさんを置いてでも、俺は一人でさっさとここから逃げるべきだったのだ。これだけの聖者に囲まれてしまっては、もう逃げられない……。


「コラ! 暴れないの!」

「や、やめてください!」


 俺が落ち込んでいると、エミさんが少年を柱にロープでくくり付けようとしていた。


「タクマも早く手伝って!」


 違和感が二つあった。エミさんが初めて俺の名前を呼び捨てにした。そして、エミさんらしくない強い口調だった。

 俺が戸惑っていると、


「ウッ……」


 エミさんは少年の脇腹を思いきり殴り、ササッとロープで縛った。


「さあ、早く隠れるわよ。そして、この子に聖者が集まった隙に逃げるからね」


「そんな、お姉さん、あんなに優しかったのに……」


 エミさんは鞄からガムテープを出すと、少年の口を塞ぐ。


「早く!」


 状況を理解できず、ボーッとしている俺の手を掴むと、エミさんはドアの裏に隠れる。密着している。いい匂いがする。いつもなら興奮するところだが、今は頭の中をクエスチョンマークに占拠されている。俺の知らないエミさんがここにいる。


 聖者たちはゆっくりと廃屋に入って来た。そして、少年の周りに集まると、


「田中さんがどうぞ」

「いえいえ、今回は佐伯さんがどうぞ」


と誰が少年の頭をなでるか譲り合っていた。

 俺とエミさんはその隙に、廃屋から抜け出すことに成功した。少年のあの怯える目を、2、3日は忘れることはできないだろう。



 すっかり日が昇っていた。エミさんに置いて行かれないように林の中を必死に走り続けた。そして、俺はなぜあの少年とエミさんを残して逃げなかったのか理解した。俺にとってエミさんはたった一つの明りになっていたのだ。もはや知り合いはエミさんしかいない。独りになることが怖くてたまらなかったのだ。


 やがて、湖畔に辿り着くと、30人ほどの悪人どもが集まっていた。いくつかの家族が集まっているようで子供の姿もあった。すぐに悪人どもとわかったし、相手も必死に走って来た様子から俺とエミさんのことを悪人と理解していた。


「こいつになでられないように湖に沈めてしまおう」

「それはやりすぎだ。腕を切るだけでいいだろう」

「それもやりすぎだ。このまま縛っておけばいい」


 どうやら聖者を捕獲したようで、両腕をロープで縛ってベンチにくくり付けていた。


「あなた方の心が痛まないのなら、それでいいです」


 初老で年齢の割に鍛えられた体をしている聖者は湖面と同じく穏やかな表情をしていた。


「タクマさん、しばらくはこの方たちと一緒に居ましょう」


 エミさんが優しく微笑む。


「そう、そうですね、エミさん……」


 俺もなるべく自然に笑顔をつくる。エミさんはきっと聖者と遭遇した時、この中の誰かを犠牲にして逃げる気なのだろう。


「やっぱり、ここはナナ様に決めていただこう」

「そうだな。ナナ様のご判断にお任せしよう」


 そうだ、そうだと悪人たちが頷く。ナナ様だって? まさかだとは思うが……。


「あの、ナナ様というのは?」


 エミさんが悪人のひとりに尋ねる。


「あら、あなたナナ様を知らないの? ナナ様は世界中に5人しかいないと言われるあの魔悪人のおひとりなのよ」

「そうなのですか? 聖者に頭をなでられた悪人を、48時間以内にお尻を叩くことで悪人のままにしてくれるあの魔悪人がここにおられるのですか?」

「そうよ。ナナ様のところに訪れるなんて、あなたたちも運がいいわね」

「良かったですね。タクマさん」


 エミさんが瞳をキラキラさせて俺を見た。かわいい。やっぱり先ほど見たエミさんは、極限状態でヤバい感じになっていただけなのだろう。俺はエミさんの人間性を疑ったことを反省した。しかし、ナナ様という名前が気になる。俺が人間不信になったのも……。


「タクマーーー!!」


 えっ、この声はやっぱり……。俺が聞き覚えのある声がした方を向くと、


「痛ッ!」


 思いきり顔をドロップキックされる。


「これは、ナナ様のお戻りだ」

「良かった。ナナ様に決めてもらおう」


 悪人どもが頭を下げて、ナナに敬意を払う。

 俺が仰向けに倒れると、ナナはマウントポジションをとり、容赦なく往復ビンタを続けた。あの日と同じくツインテールで、高校の制服を着ていた。


「や、やめてくれ、ナナ」

「よくも私を置き去りにして行ったわね、タクマ!」

「わ、悪かったよ。ごめん」

「ごめんですます聖者と違うのよ!」


 ナナのビンタがより強くなる。


「タクマさん、ナナ様とお知り合いなの?」


 エミさんはビンタされていることはスルーして俺に尋ねる。もう少しでパンツが見えそうだ。


「妹です」


 俺が小さい声で言うと、


「えっ?」


と言って、エミさんがさらに近寄って来た。よし、あと一歩でパンツが……。


「兄です」


 ナナが視界を遮って、エミさんに答える。ちくしょう、もうちょっとだったのに!


「えっ、タクマさんの妹さんが魔悪人なのですか? 素敵! これはもう奇跡ですわ」


 エミさんが俺に抱きついてくる。ビンタの痛みなんて一瞬で吹き飛ぶ。


「ちょっと、タクマが喜ぶようなことをしないでくれる?」


 ナナが冷たい声でエミさんに言う。


「ご、ごめんなさい」


 エミさんは俺から体を離すと、


「でも、どうなのかな? いくら魔悪人だからって、年上にいきなりタメ口で話すのは失礼じゃないかしら」


とナナに丁寧に注意する。


「私、嫌いなの。あんたみたいに猫かぶっている女」


 ナナがエミさんに言い放つ。


「べ、べつに猫かぶっているわけでは……」


 エミさんの瞳にうっすらと涙が浮かぶ。


「あんた、タクマが魔悪人かもしれないと思って一緒に行動しているんでしょう?」

「そ、そんなことないです」

「嘘つかないで! だったらなんでタクマみたいなろくでなしと一緒にいるのよ?」

「それは……ボランティアです」

「まだ認めないなんて、筋金入りの嫌な女だな」

「おい、ナナ。エミさんになんてことを言うんだ!」


 俺が注意すると、


「相変わらずタクマは女を見る目がないんだから……」


とナナに深いため息をつかれてしまう。確かに今、エミさんにひどいことを言われた気がするぞ……。


 2歳年下の妹なんて、はっきり言って年上のような存在だ。いつも俺は見下されてきた。それに、エミさんにあんなことを言っていたが、人前ではおしとやかな妹を演じて猫をかぶっていたのナナの方だ。まるで別人のように演じていて、おかげで俺は人間不信になってしまったのだ。


とは言え、ナナがいくらなんでも魔悪人だったとは……。人はボタンの掛け間違いで悪事を働いてしまうことがあり、根っこを辿っていけば善人になれる要素があるのだと、今では穏やかなニュースばかり掲載されている新聞に書かれていた。


しかし、この世界にたった5人だけ、ボタンの掛け違いではなく、何をどうしても悪人になってしまう魔悪人がいるそうだった。例え、聖者に頭をなでられても、魔悪人のままだと言う。その一人が妹のナナだったとは……。


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