(9)
目が覚めると、病室だった。
体が動かなかった。
周りの灯りのようす、人の動きが見えないことから、夜なのだ、と勝手に思った。
トイレがしたくなり、ベッドから起きようとして体を起こそうとしても重い感じがして全く動かない。
「誰か…… いませんか……」
声もロクに出ない。
もう一度、全力で叫ぼうと考えた。
「だれ…… か…… いま…… せ……」
口を動かすこともできなくなってきた。
そうだ、なにか看護師を呼ぶ方法があるはずだ。
頭の上の方に腕を出そうとしても、かけられている布団の重さで腕が引き上げられない。どうなっているのか状況が分からない。
それより、自分は会社にいたはずだ。
どこで倒れたんだ…… そうか。そうだ、会社しかない。パフレットを課長に渡して、その後…… その後の記憶がない。眠かったが、眠かっただけのはずだが…… 推測するなら、そこで倒れたのだ。
今も眠いのは、おそらくクスリのせいだ。
何日たっているんだ。まだクスリが効いてるなんて……
それより腕が動かない。
口も動かないから、誰も呼べない。
誰にも気付かれないまま、深い深いプールに沈んでいくようなイメージが頭をよぎる。
声は泡になる。
地上の様子は殆ど見えない。灯りすら遠くでぼんやりと揺らいでいる。
苦しい。
このまま死ぬのだろうか。
もう意識は戻らないのだろうか。
まだ、色々やり残したことがあるのに……
このプールに沈んで死ぬのか。
必死にもがくが体は動かない。
遠くに看護師が歩いているように見える。
「か…… ん…… …… 」
揺らめく先に見えていた人も消えた。
ダメだ……
私は絶望とともに意識を失った。
目が覚めると、部屋は明るかった。
廊下からハッキリと音が聞こえ、扉が開くと看護師がやってきた。
「お目覚めですか」
私は腕を上げて看護師に触れようとした。
「何か欲しいものはありますか?」
私は首を振った。
もう一度、触れようとして腕を上げた。
看護師は私のてをベッドに押さえつけた。
「先生の説明が必要ですか?」
確かに腕が動く。
看護師が押さえつける手から、体温も感じる。
私は生きている。
私はゆっくりうなずいた。
看護師は慌てて廊下に出ていった。
「生きてる……」
自分の声が部屋に響くのを感じた。
後の不明な部分…… どういう訳でここにいるのかは、先生が話してくれるだろう。
ドアからノックの音がした。
「はい」
返事をすると、先生が入ってきた。
看護師はいなかった。
「佐古田さん。どうしてここに来たか覚えていますか?」
「覚えていません。会社で寝てしまったところは分かっていますが……」
「そうみたいですね。そこで様子がおかしいから会社の人が救急車を呼んだわけですね」
「はあ……」
まあ、そうじゃなければこんなところにはいないはずだ。
「佐古田さん。あなたはクスリを常用していましたよね」
「はい。パニック症候群と言われてクスリをもらっています」
「それを飲み間違えませんでしたか? 間違えたというか、特に飲む量ですね」
そうだ。あの時だ。
カフェで変な笑い声が聞こえて……
飲み間違えたに違いない。
「そう、かも、しれません」
「佐古田さんが精神疾患で治療中とのことを聞き、運ばれてくるなり血液検査を行いました。しかし、血中から検出された成分から、それほど大変な量を飲み間違えたとは考えらません」
「?」
「これは、推測になりますが、あなたの罪悪感が症状に強く影響したようです」
私はカッとなった。
「あんたは私が狂言で救急車に運ばれてきたと言いたいのか?」
「違います違います。そうじゃありません。言い方が悪かったですね。クスリの飲み間違えはあったと思ってます」
そうだ。あの時。
カフェで、クスクスと何度も笑い声を聞いて、クスリを飲んでも飲んでも効果が出ないから……
「!」
「とにかく、症状が落ち着いたようであればすぐにでも退院できますよ。他に具合の悪いところは見当たりませんから」
ドアが再び開いた。
「食事の時間です」
食事を運び込むのと同時、スーツを来た男性が入ってきた。
「佐古田さん、人事の橋本です。会社の方が気にしないで、ゆっくり治療にあたってください。後、出社する前に人事部に連絡ください。今回の件でお話することがありますんで。名刺渡して起きますね。しばらくは会社を休んで、病気の療養に専念してください」
一方的に話し続け、ベッド脇のテーブルに名刺を置いて去っていった。
「どうしてこの時間に面会人を入れているんだ?」
「どうしても時間がないとおっしゃって」
「後で問題になるぞ」
先生は振り返り、私に言った。
「とにかく、今は回復しています。申し訳ないんですが、退院の手続きをお願いします」
「昼食は用意がないので、午前中に病室は出ていただくことになります。もちろん、今お出しした分は召し上がってください」
なんでそんなに慌てて退院させたがるのか。
部屋には私と医者の先生と食事を運んできた看護師しかいないのに、子供のような高い声でクスクスと笑い声が聞こえてきた。
私はクスリを探した。
「どうなさいました?」
「クスリはどこに置きましたか?」
「クスリ、ですか。病室に持ち込まれているのはこのカバンと靴、そこに掛けてあるスーツ、服のポケットに入っていたようなものは、その引き出しに入っています」
「カバン、そのカバンを取ってください」
カバンを渡され、中を確認する。
精神科で処方されたクスリが入ってない。
それを飲んで、ここに運ばれたはずなのに。
「ない、ないぞ。どこへやった?」
看護師は手を振った。
「存じません」