(8)
もう一度反対側のホームににある鏡を見るが、やっぱり自分以外の人物が後ろに立っているように見える。
振り返れば消えるのなら、カメラでならどうだ、とスマフォをインカメラに切り替えてそっと自分の正面に掲げる。
……だれもいない。
念の為写真を撮ってみる。
電車が走ってくる音が聞こえ、ホームにアナウンスが流れた。
写真も拡大しても何も見えない。
何だったんだろう。
電車にのってxx商事に書類を届け、松田さんんから新しい機材のパンフレットを受け取った。
新しい機材がどう変わったかの説明を一通り受け、パンフレットにメモ書きを付けておいた。
「それでは失礼します」
xx商事を出た時は、時間が微妙だったせいで、近くのカフェに入って一服することにした。
コーヒーを飲んでゆっくりしながら、ふと、さっきの駅で撮った写真を宮田のやり方で加工してみることにした。
色を白黒にして、コントラストを強めていく。
光と影が強くにじみ出るように浮かび上がってくる。
「これって……」
浮かび上がってきた画像にゾッとした。
明らかに人の顔の形をしていた。
鷺沼の顔と言えばそうとも言えた。だが、目がギョロっとしていて、鷺沼の感じとはすこし違うようだった。ただ、飛び出し気味のその目の様子のせいで、画像の気味の悪さが増していた。
「確かに鏡で見た感じと同じだ」
後ろを振り向いて気付かないものが、画像を加工して出てくる。しかも鏡を通してみれば分かる、というのだ。
私はこれが何なのか、何見たのか考えていた。液体生物だとして、私の肩の近くに現れたのだとしたらなぜ私を襲ったり、しなかたのか。
それとも誰かがいたずらで私の後ろで、立ったりしゃがんだりを繰り返していたのだろうか。
本当に誰かいたのなら、もっと簡単に気がついても良いはずだ。
クスクス、と笑い声が聞こえた。
なんだろう、と思って声のする方も見ても笑っている人はいない。
おそらく女性だ、と思って左手にいる女性の方を見つめると、その女性がキッと睨み返してくる。
違う、子供か、と思い店内を眺め回す。
見せの外に私学に通う子供が黙々と通り過ぎていった。
まさかあの子の笑い声ではあるまい。
また、クスクスと笑い声が聞こえた。
目を見開いて、どこの誰が笑ったのか見逃さないようにしているのに、笑い声は聞こえるのに笑っている人は見つからない。
『笑い声が止まない時はクスリを飲んでください』
先生の姿が思い出された。
もしかして、精神がまいっているのか……
カバンからクスリを取り出し、水を少し口に含んだ。
錠剤を口にいれ、水と一緒に飲み込む。
いつになったらこのクスリはきくのだろう。
『笑い声が止まない時はクスリを飲んでください』
またカバンからクスリを取り出して、ハッと気付いた。
さっき飲んだばかりのことを忘れていた。
それより、社に戻って機材のパンフレットを課長に届けないと。
飲み込めなかったクスリが舌にこびりついている。
それをコーヒーで飲み込もうとして、不快な気分になる。舌の上にあるクスリなのに、何か変な匂いがするように感じるのだ。これはいつも先生に言っているんだが、出されるクスリはいつもこれだ。
クスクスと、私を笑うような声が聞こえてくる。
誰を笑っているわけではない。
私を笑っているのだ。
不快なクスリ、変な匂い。
コーヒーを片付けて、店を出る。
地下鉄の駅に降りていくと、急に音が遠くなった気がした。
視界にもやが掛かったように白くボケている。
早く社に戻らないと。
電車がホームに入ってくるが、遠く離れたところを走っているように感じる。
スマフォを開くと、宮田が『クスリを飲むなと言ったろう』とメッセージを出していた。『なんで?』と聞き返す。『飲んだら、カビの思う壺だ』カビだって? 液体生物のはずだろう。カビなんて言って俺をだまそうとしているのか。
「危ない!」
急に現れた駅員は、私の胸を触った。
「危ないから、黄色い線の内側にさがって」
内側に下がる? ホームのアナウンスはビハインドイエローラインと言っている。だとすれば、黄色い線の後ろに下がれ、ではないのか?
ぐらぐらと風景がゆれる。
電車がホームに止まると、ドアが開き、流水のように人が滲み出ていった。
一人一人の顔が、流れて見えない。
どうなってる?
前からの流れがなくなると、急に後ろからも同じように人が流れてきた。
「乗らないのですか?」
「いえ、乗ります」
後ろからの流れもなくなった後、私はようやくドアから電車に入った。
この麻痺したような感じは……
クスリが過剰に効いたのだろうか。もしかして、飲み過ぎた、か?
会社のある駅についた時には、体が重くて電車を降りるのがやっとだった。
過去の経験から考えると、この感じはクスリの影響に違いない。
早くここを出て、社に戻らないと、こんな状態のまま駅にいたら液体生物に食われてしまう。
重くて淀んだ空気の中を泳ぐように手をかくが、重いように感じる空気は全く手応えがない。早く社にもどらないと。
階段を上がり、エレベータホールで待つ間も、必死にもがいているのに、体はちっとも前に進まない。
エレベータを降りると、同じ部署の後輩とすれ違った。
「お先に失礼します」
「もう帰るのか?」
「定時とっくに過ぎてますよ」
エレベーターが閉まった。
感覚が全く戻ってこなかった。
部屋に戻ると、水沢さんが帰るところだった。
「お先に失礼します」
私は会釈だけして、そのまま課長の席へ向かった。
「とどけてきました。それとこれ」
「おう、ありがとう。こんな時間になるなら、パンフレットは明日でもよかったんだがな」
「えっ?」
課長の視線の先を追った。
柱に時計がかかっているはずだ。
「?」
時計の針が見えているのに、時刻が分からなかった。
「まあいい。お前は疲れてるみたいだから、すぐ帰って良いんだぞ」
「疲れている?」
私は自席に戻って、パソコンの画面を開きメールをチェックしようとしたところで、強烈な眠気が襲ってきた。
左目をかるく閉じたのは覚えている。
この時、私は気を失っていた。
救急車で運ばれ、入院先に人事の担当が来て説明してくれた。
『回復するまで、しばらく休んでください』
それはつまり、会社に来るな、という意味だった。
来るな、という意味ではあったが、有休を使わされた。
思えば、この間、会社側は私の転勤先の調整をしていたのだと思う。