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「ええ、それなら構いません」
何としても鷺沼の日記を調べたかった。
私は水沢さんのことで頭がいっぱいになっていた。本当に、特に好きでもなんでもない女性が、会社の友人の恋人だったと分かっただけでなんでこんなにイライラしなければならないのか。何故鷺沼に嫉妬しているのか、自分自身の心がわからなくなっていた。
コピーしたハードディスクを持ち帰り、家でテレビをつけると、地下鉄で事件があったと報道していた。興味がなかったので、チャンネルを変えるが、どこも同じ事件を扱っていた。
しかたなしにその報道をみていると、どうやら地下鉄の車両に薬品をまいたらしい。
数年前の地下鉄テロで大勢の人がなくなった事件があった。
テレビは、まるでそれを真似たようだ、と言っていた。
画面が切り替わり、記者会見が始まった。
撒かれた薬品は消毒液で、地下鉄が汚染されているから浄化する、と言っている。
犯人の精神鑑定の必要があるかもしれないらしい、ということのようだった。
私は途中まで見て、テレビを切った。
私が休んでいる時の事件で良かった。こんなことに巻き込まれたら、そのまま電車の中で缶詰状態になってしまう。
そのまま机に行ってパソコンの電源を入れた。
そしてコピーしたハードディスクをつないで、鷺沼の作ったファイルを眺めた。日記らしいファイルが幾つか見つかった。いくつか日記を書く期間があったようだ。
一つは何か、自己啓発書を読んで日記をつけることにした、と書いてあって、一週間ぐらい続いていたものだった。
もう一つは単なるアイデア帳のようなもので、不定期に書いていた。意味不明な文や文字の並びであることが多かった。
そして最後の日記が例の水沢さんと付き合っていることが書かれているものだった。
大きく息をして、こころを落ち着かせた。
きっと水沢さんと鷺沼が仲良くしているような内容を読んだら、また頭に血が昇ってしまう。恋愛に対して子供のような反応をしてしまう自分が嫌だった。
読んでいくと不思議なことに、私は水沢さんのことが書いてない場面にも水沢さんを含めた想像してしまっていた。例えば美味しいものを食べた、と書いてあるのだが、その向かいには水沢さんが座っていたのだろう、と思い、勝手に嫉妬していた。
一月分を読んだ頃だろうか、鷺沼の日記に出てくる、ある単語に興味を持った。
それは『助かった』というものだった。
最初の内は対して書かれていなかったが、どんどん多くなっていた。
「『助かった』って、そんな口癖がだっただろうか……」
誰に話しかけるわけでもなく、私はそう独り言を言っていた。
その時、スマフォが振動した。
充電が終わったのか、と思って画面をみると、メッセージアプリの通知だった。
『テレビを見たか? 犯人は消毒する、って言っているようだ。どういうことかわかるか』
それは鷺沼の死について『自殺じゃない』と言っていた奴からのものだった。
なんでこんな内容を送ってくるのか? 事件の事を共感して欲しいのか。
私は返事をしていいものかどうか考えた。
『地下鉄のエアコンなんて腐ってる。消毒しようと考えるのは別段変じゃないだろう。いや、やらないが』
『これが鷺沼の死に関わっている、としたら? 話を聞きたくないか?』
またか。
『お前あたま大丈夫か、精神科を紹介するぜ。良いクスリを出してくれる』
顔を真っ赤にして食いついてきたら、スマフォを閉じてしまえばいい。
『精神科の出すクスリ…… お前こそ飲んでないだろうな。脳の活動を鈍くさせているだけだぞ。正しい現実認識ができなくなる』
『こっちの治療に口出すな』
『君にはいろいろと説明しといた方がいい。もしかして鷺沼と同じ会社か? ならxxに十時でどうだ。まだ来れるだろう』
『今は会社じゃない』
『休んだのか。なら最寄り駅を教えてくれ。そこに行く』
強引すぎる。信用していいものだろうか。
こっちの最寄り駅が知られてしまう。
少し外れた駅を指定するべきか。
普段使わない側の路線の駅名を調べ、そこを書き込んだ。
『このメッセージアプリで電話する』
もう行くしかない。
どうせ大した話ではない。自分を大きく見せたいから大げさに言うのであって、到底信用出来る内容ではないだろう。
上着を羽織って、大通りに出てタクシーを拾った。往復したら三千円ぐらいかかってしまう。ドリンク、ポップコーン、映画のチケット、電車賃でそれくらいか。映画のように楽しませてくれれば元が取れるのだが。
駅でタクシーを下り、相手のメッセージを待っていた。エスカレータで駅の改札側に登って回りをみた。
人はまばらで、これが通常のならかなり寂しい駅だと思った。
この状態から通話が始まったら、相手を確認して逃げることは出来そうにない。
双眼鏡でももって遠くから監視していれば別だが、受け側が一方的に相手を見つけることが出来ず、通話が始まった瞬間、お互い顔が割れてしまうだろう。
だから、ある程度覚悟を決めていた。
命を取られるわけでもない。ただ、ちょっと頭がおかしい奴の話に付き合うだけだ。
『着いた。今降りたところだ』
電車が走り去っていく音が聞こえた。
かなりの人数が改札を通ったが、メッセージアプリに着信はなかった。
電車を降りた人たちは、自分が来た側の反対側へ降りていった。おそらく、そっち側が駅の栄えている側なのだ。
再び駅が寂しい状況に戻った頃、ようやく階段を登ってくる男がいた。
季節外れのヨレヨレのコートに、時刻はずれのサングラスをしている。メッセージアプリからの通話はないが、コイツだ、と思った。外観からして痛い感じが、メッセージと同じ雰囲気を醸し出していた。
その男がスマフォをいじると、こちらの手元のスマフォが振動した。
『通話要求』
画面にはそう書かれていた。私はスライドして応答した。
『なんだ、そこにいるのか』
私は辺りを見回した。ここで待っている人間は一人しか居ない。サングラスで見えないのだろう。
「どこか喫茶店でもはいりますか?」
「そうだね」
答えを確認して、私が大勢の人が降りていったほうへ進もうとすると、男は引き止めた。
「そっちは明るすぎる。こっちにしよう」
店があったかは記憶がなかったが、男のいう通りに戻ってみることにした。
階段を降りると、バスロータリーの端に、薄暗い喫茶店を見つけた。
「あそこにしよう」
「えっ? 本当にやってる?」
あまりに暗すぎて、営業中なのか怪しかった。
「とにかく行ってみよう」
サングラスをかけたまま夜の町を歩くやつには、店が明るいかくらいかなんか関係ないだろう、と思ったが口にはださなかった。
店が暗ければサングラスを外せるとか、そういう理由だろうか。
店に入ると、一番奥の暗い席に座りサングラスをはずしたが、コートは羽織ったままだった。
その一重の細いつり目がこちらを睨んだ。
「鷺沼の死因だ」
スマフォをテーブルに置いた。
何かの写真らしかったが、何かの模様が描かれているようだったが、何が写っているのか分からなかった。
「なに?」
「これが、何か、ってこだとだよな」
私はうなずいた。
「カビだよ。いや、カビのようなもの、と言った方がいいかな」
「なんだよ判ってないのか。ならそれが原因かどうかも怪しいも」
「死因なのは確実だよ」
「カビだかなんだか判っていないのに?」
その細い目を更に細くして、強く睨みつけてきた。少し怖くなって体を引いた。
「死は目に見える結果だ。カビかどうかは問題じゃない。ちゃんと調べてみればカビじゃないだろう。カビだったら人を殺しはしない。けれど人類はこれを例えるものを持っていない。だからカビ、とよんでいるだけさ」
面倒くさい。格好だけではなく、何もかも痛くて面倒くさい男だった。
「人を殺すカビ、ね……」
笑いかけたところで、男に胸ぐらを掴まれた。
「笑う話をしに来たんじゃない」
「なんだよ、いきなり」
「笑うな」