(3)
窓の外には鷺沼はいなかった。ただ何もない暗闇が広がっていた。
そして車内のエアコンから、べちょっ、という何かとても嫌な音がした。
「……」
首はまだ動かない。
目線だけあちこちと動かしてみてみるが、何がいるわけでもない。
ようやく手も足も動くようになると、急いで鷺沼の母のメッセージを読んだ。
「息子の死に関わる重要事項を探しています。どんな些細なことでも教えて下さい。有効な情報にはお金を払います」
また例のメッセージだ、私が鷺沼のロックを外してから、母親はメッセージアプリを使って生前の鷺沼の知り合い全てにメッセージを送り続けている。
何か別の手段で、鷺沼が死んだと知っている人はいいだろうが、突然母が息子のメッセージアプリに書き込みを開始すれば、過去の記録を見られたと思って嫌な気持ちになる人もいるだろう。
自分も少なからず嫌な気持ちになった方だ。だが、鷺沼の死のことを思う親の気持ちもわかる。だから我慢しているのだ。
座席が空いたのを見て、私は席に座った。
すると、またバイブレータが動作した。ロックを解除して内容を見てみる。
『自殺ではありません』
知らない名前からのメッセージだった。
自殺ではない? 他殺だとでも言うのだろうか。
駅のホームで…… 確かに、普通は最初の駅で並んでいるとか、乗り換え駅で並んでいる時にそういう気持ちになるもので、満員電車から開放され、後は社に行くだけ、の降りたばかりのホームで死のうと思うだろうか、とは思う。
『軽々しく言うな』
と、母親に見られないよう、知らない人物へ直接メッセージを返した。
『違う、軽々しくなんて思ってない』
『母親が見ているメッセージだったんだぞ』
誰だか知らない相手だが、次第に怒りが湧いてきた。
『ご両親は自殺の理由を会社に求めているんだ。自殺じゃないなら、鷺沼が殺されるような悪いことをしていたみたいじゃないか』
『だから違う…… 多分メッセージで書いても信用してくれないだろう』
『お前みたいな奴のどこが信用出来るんだ』
どんな相手なのか分からない状態なのに、ただひたすら怒りをぶつけていた。振り返ってみれば怖くなるほど感情に任せたメッセージだった。
『冷静になれよ……』
「くそっ!」
周囲に居た乗客がこちらを向いた。
酒でも飲んで、酔っ払っているように思われたに違いない。
顔が熱くなるのを感じていた。
私はそのままスマフォをしまった。
その後も何度か振動したがメッセージは確認しなかった。
思えばこの頃に精神科に通うようになった。
最初に行った精神科の先生はカウンセリングという名の世間話と、毎回大量にクスリの処方せんを出してくるだけだった。クスリを飲むと、考えていることが鈍くなるような気がしたが、クスリを飲んでいないと電車に乗れなくなっていた。
停止した状態から電車のモーターが回り始め、そのモーター音に何かいつもと違う調子の音がまじると、それが頭のなかでグルグルと再生され始める。まずい、この電車は何か整備不良ではないか、なのにこんなスピードを出して平気なのか。
おそらく始発駅で座ってくる高齢者が変ないびきをたてていれば、それが気になってしかたなくる。髪の毛が油でベタベタな男が、ガムでも噛んでいるように口でくちゃくちゃと音を立てると、何か吸ってはいけないようなガスが周囲に発せられているのではないか、と不安になった。
とにかく音という音を聞いては不安になる状態だった。クスリを飲んでいる限り、そういう思考が鈍くなって、ただ漠然と地下鉄の窓の外にあるただ暗い闇を見続けることができた。
今、書いていて、ふと自分の現状に不安を持った。
しかし、今、書いているのは自分の部屋の中だ。
ここは安全なはずだ。
今、ふと気付いたのだが、エアコンもつけていないはずなのに、そとからべちょべちょと音がしている。もしかすると他の部屋の連中がエアコンをつけたのだろうか。
そいつらは間違いなく侵入されてしまうだろう。
身を守るためにはエアコンに頼らないことだ。それを知っているか知らないかで、残りの人生の長さが左右されるのに。
もう一度部屋のエアコンを確認した。コンセントがはずれていて、動作することはない。壁に耳を付けて聞いてみると、となりの部屋はエアコンをつけているようだ。馬鹿め。
そんな事を書いている場合じゃない。
先に進めよう。
鷺沼の四十九日があった翌日、私は鷺沼の母からメッセージを受けた。
『日記のようなものを見つけたので中を確認して欲しい』
日記が紙のものなのか、スマフォのメモ帳アプリで書いたものなのか、そんなことも何も分からなかった。
ただ、四十九日が過ぎたことと、その日記の内容を確認して欲しいということだった。
その日は有給休暇をもらい、朝から鷺沼の家に向かった。
鷺沼の母は、墓に入れた息子の骨があまりに少なかったと話してくれた。火葬場の人があの体格ならば骨壷の縁まで入るくらいなのに、と言われ、ご病気だったのでしょうかと聞かれたそうだ。
「病気の話しは何かご存知ですか?」
「いえ、何も聞いてませんん。体が悪いようなことも口にしていませんでしたし」
健康体ではない人の骨は確かに形が残らないとは聞いたことがある。ただ、鷺沼は電車に飛び込んでいる。遺体が全て集まらなかった、とかそういうことではないのだろうか。私はそんなに気にすることはなかった。
「日記というのはこれです」
鷺沼の母が見せたのは、パソコンだった。
どうやら文書作成ソフトで作ったファイルに、日付がついて、何行かその日の出来事が書いてある。また先に行くと日付が書いてあって、また出来事が書いてある、といった具合だった。
「ファイルを送ってもらっていいですか?」
「どうすればいいかわからないもので」
私はパソコンをネットにつなぎ、自分のアカウントのファイルボックスにそのファイルを転送した。
「それで、どこを読めば」
「ああ、そうなんです。ここです」
鷺沼の母は不器用にページをめくりながら、私に読んで欲しいところをマウスで指し示した。
「この部分に『発光が酷くなった』と」
「はぁ」
発光? 光ることだろうが、それが何のことか、全くピンとこなかった。
「発光っていうのはなんですか?」
「そこが分からないので、何かご存知ないかと」
これ以上聞いても何も知らないだろう。
私は検索メニューを使って『発光』と打ち込んだ。
この日記の中に書かれている『発光』はこの一行だけだった。
「ここだけ…… ですね」
もしかして他に日記のファイルがあるかもしれない、と思い検索をかけようとして思いとどまった。
「このパソコン、調べてもいいんですか?」
鷺沼の母はうなずいた。
「あ…… けど、裁判とか、弁護士さんとかの話しは?」
「ああ、あの話のことですね。もう会社を訴えるのはやめにしたんです」
「そうですか」
ふと、表示してあった日記に水沢さんとのことが書いてあった。
それを読んだ瞬間に、頭の中が沸騰したように混乱した。
水沢さんは同じ部署の女性で、鷺沼の隣に座っていた。別に綺麗でも可愛いとも思わなかったが、まさか鷺沼と彼女ができているとは知らなかった。
デートの内容が時系列でびっしりと書いてあった。いや、別に水沢さんが鷺沼の恋人でも何も変じゃないし。
自分の手が不自然にふるえているのに気付いた。
「あの…… 何か書いてありましたか?」
ツバを飲み込むのが精一杯で答えられなかった。
「これ、どうも同じ会社の女性の方のようで。仲良くさせていただいていたみたいですね。佐古田さんはご存知ですか?」
「あ…… ああ知ってますよ。鷺沼の…… 息子さんの隣に座っていた女性の方ですね」
「そうなんですか…… 葬儀にもいらしてたのかしら」
「ええ、多分」
「ご挨拶したかったわ」
「……」
ご両親に挨拶するほどのには進展していなかったということか、しかし、日記の内容としては……
「あ、あのパソコンですが、パソコンごとお借りしてもよいでしょうか?」
「ええ、ただ、あの子の残したものなので、何も消さないでいただければ……」
確かに、すこし間違えれば消えてしまう。
やるのであれば、全部をバックアップしてみよう。
「分かりました。それじゃ、こうしましょう。パソコンをお借りするんじゃなくて、コピーを取らさせてください」