(12)
きっとバリバリ働くことを期待されるのではなく、政府からの補助金の為に雇用されるのだろう。
だったら、もとの仕事の方がましだった。
まだ実力を評価してもらえる(かもしれない)からだ。
転勤直後に梅雨があけた。
転勤して、良かったことは地下鉄に乗らなくてよくなったことだった。
べちょべちょした感じのコケやカビや、ホームの天井やレール間際の水の流れ、大勢の乗降客を見なくて済むことが、私の心を落ち着かせたようだった。
もう精神科に行かなくてもいいだろう、と思っていた。
しかし、本当に精神が除染されたのかは分からなかった。
そうおもっていたから、転勤と同時に精神科からはしばらく遠ざかっていた。
精神科に行くには、都心にもどらねばならない。
その時には、一番キライな地下鉄にも乗ることになる。
精神科に行く途中で、精神が汚されてしまうような気がした。
だが、会社から指示が出て、期間内に精神科に行くことになってしまった。おそらく社員のだれかが自殺したのだ。
以前、こういう話を聞いたことがある。社員へ相談室へ電話しろ、だの、精神科に通ったことのあるヤツに再受診の指示が行くときは、誰かが自殺して会社が対策をしなければならなくなったからだ、と。
だから今回もそうだったのだろう。
もしかしたら、鷺沼の死に対して、ようやく会社がアクションをとったのかもしれなかった。
とにかく、理由は分からなかったが、会社の指示で都心の精神科の先生のところに行くことになった。
新幹線を使って都心の駅に着くと、そこから地下鉄に乗り換えた。
地下鉄に乗っていると、斜め向かいの優先席に白衣を来た男をみつけた。
雨も降っていないのに百均で売っているような傘を持ち、白衣と対照的な黒い大きなカバンをひざに抱えている。
左右をキョロキョロと、必要以上に確認しており、手や身体も震えているように見えた。
私はあえて見なかったフリをしようと、スマフォを取り出した。
宮田の作り話が分かった時から、存在すら忘れていたメッセージアプリを開くと、まさにこのタイミングで、メッセージを受信した。
『悪かった』
鷺沼の母の通夜に送られたメッセージだと思って、何度か送信の時刻を確認したが、やはり今受信したものだった。
『お前に謝りたい』
宮田は立て続けにメッセージを送ってきた。まるで私が都心に来たのが分かっているような感じだった。
何かゾッとした。
どうやら、その感じは宮田のメッセージから感じたのではなかった。
視野の隅に映った、優先席の白衣の男の表情だった。
追い詰められたように床をじっと見つめ、エアコンの効いた車内でダラダラと汗をかいている。
見ていると、優先席の男は黒いカバンをひっくり返し、透明なビニールに入った液体を床に置いた。
男は靴のまま椅子の上に乗り、ビニールを傘の先で突き始めた。
私以外にも気づき始め、騒ぎ始めた。
「車掌を呼んでこい」
「お前何をしている!」
「早く逃げろ、毒ガスだっ!」
気づくと、白衣の男はガスマスクをしていた。
まずい……
あの液体がなんであれ、どんなガスがでるとしても、この狭い車内では致命的だ。
幸い、駅が近かったようで、電車は減速を始め、ホームに停車した。
ドアが開き、乗客が一斉にホームに出ようとした瞬間、つついていたビニールが破けた。
床をサァーと音を立てて広がる液体。
何かに反応してか小さな泡が出ている。
ガスマスクの男は足を滑らせながらホームへ出て行く。
「除染だ、消毒するんだ」
電車の方を向いて、そんな事を言っていた。
こっちのドアの乗客はドアでひっかかりながらも外へ出て行く。
「乗ったら駄目だ、変なガスが出ている!」
「液体を撒かれた、液体を撒かれた」
「毒ガスだ、逃げろ」
「離れろ危ないぞ」
駅は火災警報がなり、駅員が地上へと誘導した。
私が地上に出た時は、地下鉄への入口付近に消防車や救急車、警察車両が止まっていた。
気持ちが落ち着かず、クスリを探して飲もうとしていた。
駄目だ、クスリを飲んだらまた……
スマフォが震えて宮田からメッセージが入る。
『なんか事故があったみたいだな』
「!」
さすがにこれだけ騒ぎになればニュースにもなっているかもしれないが……
あまりに早すぎる。
『おまえ、どこにいる?』
「ここだよ」
声とともに肩を叩かれ、慌てて逃げ去ろうとして転んでしまった。
「み、宮田?」
細い目の男が立っていた。
「(仮名だから大きな声で呼ぶな)」
痛い感じも変わっていない。
「いつからそこにいた?」
私は少し足が震えていて、スムーズに立てなかった。
「今、たまたまここにいたんだよ」
「……」
このホームから避難してきた乗客、消防車や救急車をみて集まってくる野次馬。そんな大勢の人でごった返しているところで、たまたま見つけたとでもいうのか。
「お前に言っておきたい話がある」
宮田の顔つきに真剣さを感じた。
私は医者に電話して、地下鉄で事故に巻き込まれたから到着が遅れると伝えた。
近くの喫茶店を探して入り、この騒動を見下ろせる二階席に並んで座った。
「何が言いたいんだ。もうカビの話はなしだぞ」
「お前の言ったとおり、液体生物がいるって」
「……」
「後で見せたいものがある。今は話を聞いてくれ」
宮田の真剣な表情に不安がよぎる。
「笑わないで欲しい。俺はお前の会社の人とお付き合いさせていただいた」
「はあ?」
ふざけてやがるのか。
「……ふざけたり、自慢したい訳じゃない。カビのことが想像の話だ、と言ったあの後、お前の会社の水沢という女性が俺のところに来た」
「何がいいたい?」
水沢さんがなぜこんなヤツに……
「俺に興味があったのではなく、鷺沼のことを調べていたような感じがする」
「鷺沼のことだって?」
「とにかく、はじめて女性と付き合ったから、色々とまどうことも多かった」
「……」
鷺沼の死をどれくらい調べられているか知りたかったのだろうか。
水沢さんと付き合ったあたりで、鷺沼は発光のことを書いている。鷺沼の母も水沢さんと……
「水沢さんは……」
「お前の言いたいことはわかる」
「じゃあ、何故」
「すえぜん食わぬは…… って昔からいうじゃないか」
「違う」




