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「――――!!」
音もなく、舞台中央にボクシング用のリングが中央に現れる。おりしもそこには二人、Bと大橋が睨み合っていた場所で――他の三人は少し後ろに下がっていたせいで――まるで突如エレベーターが上昇したかのように軽い無重力感に似た浮遊を感じた。
(こんなモンだろうな)
予想していたBと違い、大橋は突如リングが何もない地面から浮上したことに戸惑うが、そこはプロらしく平静を装う。
「できることならハデな登場から、いやせめてリングに上がりたかったがな」
「まあ、いいじゃないですか。その分ハデにえっと……何でしたかね、無様にマットを舐めさせてあげさせますよ」
「――――!」
あいも変わらず人を喰ったことを笑顔でいう少年に怒りは極限に達する。
「俺は今までここまでコケにされたことは初めてだ! 命乞いしても許さない! ギブアップも認めねぇ! 全身ボコボコに痛めつけたる!」
「そんなに怖いこと言わないでくださいよ。あなたと違って僕は人を命乞いもギブアップも認めず全身ボコボコに痛めつける事に抵抗があるんですから」
「……何言ってんだ?」
「あなたは、いやあなた方は考えた事がありますか?」
そういって大橋とその後方からリングを見ている三人を見渡す。
「実際にする事ができる人間が言う言葉の重みを。脅し文句、の一言で片づけてしまう言葉の重みを……。多分……考えた事が無いでしょう、だから身を持って体験させてあげます。だから恨むのなら愚かだった自分を恨んでくださいね」
「……何、言ってやがる」
「あなたが僕に宣言しただけで実際するつもりかどうかは不明ですが、僕にすると宣言したことはその身に受けて頂きます、と言ってます」
「ケッ、言ってろや」
大橋は面白く無さそうに言い、両の拳を軽く合わせ、いつもならあるのに今日は無いことに気がついた。おもむろに天井を見、どこにいるか分からないアナウンサーに。
「おい! クラブつけてくれ。簡単につけれるんだろ!」
『あ、はい。……』
何かに確認するような気配がする。
『すぐにつけるそうです……』
言うが早いか拳の周りに電子の揺らぎが走り、真っ赤なグラブが装着される。
「……ヨシッ」
感覚を確かめるように何度も握りなおし、軽く拳をシャドーする。その感覚がいつものそれと同じなので満足する。それは何度も練習させてもらったこの仮想現実の世界とも、またゲームのウリである、現実の世界ともほとんど変わらない。
「いいのですか? グラブなんかつけて? 拳を傷める心配ないんですから素手でも構わないのですよ」
「チッチッチ……」
グラブを握らずに顔の前で軽く振る。
「これだからトーシロは……」
初めて優越感に浸った、そんな表情で続ける。
「グラブってのは拳を保護するだけじゃねーんだよ。普通に素手で殴るより衝撃が大きいんだよ」
「らしいですね。骨を折るには素手の方がいいらしいですが、頭とか殴る場合、力場の伝導率が違うかららしいですね。それに……」
そんな事は知っていた。逆に詳しく説明し、口元を隠しクスッと笑う。
「それにそれだけ拳が大きくなると、かする可能性が多少なりとも大きくなりますね」
もっとも警戒すべきはシステム側サイドがグラブに細工している可能性だ。まあそれは当てさせなければいい。それが作戦であった。そのために
「……絶対、後悔させたらぁ!」
まずは冷静でいさせない。精神戦ではこちらの優位に進める。
「ゴングだ! サッサと鳴らせ!」
歯ぎしりで奥歯がすり減るのではないかと思うくらいの形相を見て勝ちを確信する。あと問題は勝ち方である。残り三人にも影響を与えるような。
――カーン!
ゴングが自分の思考を断ち切るように響く。
それに呼応して大橋は一気に間合いを詰め右のストレートを素早く放つ。
――パーン、パン!
誰もが目を疑った。
Bはその速いストレートを難なく屈むようにかわし、さらに一歩間合いを詰める。そして軽く、音だけ響くような感覚で大橋の左頬を二度はたく。
「…………」
誰もが言葉を失う。大橋自身、自分でも呆気にとられたのだろう、目が合うが自失呆然気味になっているようだった。
Bは構わず今度は両手で相手の胸を軽く押し、自分は足で後方に飛ぶ。着地し、態勢が立て直らないうちに相手が攻撃してくるかと警戒はしていたがその心配はなかった。
『一体何が起きたと言うのでしょうかぁぁぁぁー!』
実況の古田は思わず叫ぶ。
『……信じられません』
解説の堂本も驚きを隠さない。
『世界を制した大橋のパンチを避けることが素人にできるとは』
しかし解説らしく、
『しかし彼は勝てる唯一のチャンスを失いましたね』
『ハッ? というと……』
「ふっざけやがってぇぇ!」
堂本が答えるより先に大橋が吠える。
「せっかくのチャンスに俺に一発も入れねーとはどう言うことだ」
「二度もはたいたじゃないですか?」
「あんなの痛くよ痒くもねぇ! なめられた方がよっぽど痛ぇ!」
ヤレヤレといった仕種で大橋を見るも思惑どおりに事が進んでいることに内心、満足する。先程のは外的ではなく内的、精神的にダメージを与えることが目的だった。
「サウスポーが利き腕の反対で放つストレートを避けたことぐらいで何の自慢になりますか? それで勝ったところでラッキーの一言で片づけられたらかないません。さっきの貴方の台詞は全部僕の台詞ですね。まだふざけてるのですか? まだ舐めているのですか?」
そして今度は一瞬空を見る。どこにいるのか分からない解説に対して揶揄を含めて。
「まだ信じられないのですか? 僕の強さが」
今度は声を少し低く、落ちついた感じで振る舞う。
その言葉を聞き、大橋はサッと左足を前にだし、爪先立ちになる。構えをサウスポータイプに変えた。
「そこまでいうならプロの本気をみせてやらぁ」
「いつでもどうぞ」
ヤレヤレと内心で呟く。最初の相手は本気を完膚なきまでに倒さなければ意味がない。
今度はフットワークを使い、上半身を上下左右に器用に振る。小刻みな足運びで右のジャブ、立て続けに左ストレート。
『おっと大橋巧みなフットワークからのワン・ツー』
相手の視界一杯に動き焦点を合わせさせないその動きはまさに巧みと言っていいだろう。狭いリングの上とはいえ、真正面からこれだけの動きを人間にできることを実感する。
だがBはもっと広い空間、多方面からの人を越えた速度の動きや武器の攻撃すら避けてきた。つまりは先程の攻撃もそうだが見ること、反応することは難しいことではない。
(反応速度が鈍いな。ちょっと早めに……か)
問題は支給された身体がいつもよりも身体能力が低く、従来の自分の動きができないこと。常に頭の片隅に置いていなければならない。
『なんということだぁぁぁ!』
アナウンサーが驚愕の実況をする。
まずは左手で大橋の右のジャブを外に受け流す。若干、態勢が崩れたが構わず大橋は渾身の左ストレートを顔面めがけて放つ。
Bは半歩踏み込み、右手、右腕のみならず、それを支える全身が効率よく、かつ最大限に筋肉が動くようなイメージを強く描き、その大橋の左を受ける。顔の前でピタリと止まった拳は立場が逆ならば不思議では無いだろうが。
『信じ……られません。態勢が少し崩れたとはいえ……』
二度も世界を獲った男の利き腕のストレートを止める。
その光景を見て信じられない人間は彼を見た目のまま、つまりは高校生並の身体能力しかないと思っている実況や解説の人間。全くサン・オブ・バトルマスターについての知識が無い者。また実際に高校生並の身体能力だと知っている大橋らの選手達。そしてそのように設定したシステムの者などは今この光景に青ざめていることだろう。
その光景が当然だと思っている者ももちろんいる。サン・オブ・バトルマスターについての知識を持っている者。実際闘ったことがある者は例え能力がいつもと違うことを聞いていてもだ。
ただ何故今それができたのかと詳しく説明できるものは当の本人と久遠社のブレインを製作した中でもほんの一握り、社長などの上層部だけであろう。
「ブレインとは違いますね」
「二度あることは三度」とは言うが、「三度目の正直」の方を信じていた大橋には止められるということがあるなど露にも思わなかったはずだ。拳を軽く押し返しながら言うBを勢いに負け、後ずさる。
「痛みがジワジワと、しかもなかなか引かない。痛みは現実と同じってことですか」
手を何度か軽く握る。痛むのは主に手の平で、指には異常は無さそうだが思いきり握るとなると支障がある。まあ、多少ではあるが。
ちなみに「ブレイン・フィールド」の場合は単に打撃なら痛みは最初だけで持続はしない。傷が残るような場合は数秒に一度の感覚で相応の痛みを感じる。安全性を考えてか痛みは実際よりもかなり低めに設定されている。つまり今のような防御をすると受けた瞬間こそ痛みを感じるが、ダメージはパラメーター上でしか残らず、拳を握ることに支障は無い。安全性をとるか本物指向か、好みの別れるところではある。
『堂本さん、さっきのは一体?』
『態勢を崩し、少し踏み込むことでダメージを減少させた、と言うところでしょうか? ……もっとも大橋選手にも何だかんだ言っても手加減したとは思いますが』
どうしてもBをタダの素人と信じて疑わないのかどうしても大橋贔屓に解説をする。しかしその一言が大橋の心を千々と乱す。手加減などしなかった、その事実と一緒に。
「どうしました? ギブアップですか? まさか僕には認めないとかいって自分はサッサとリングから降りる、なんてことは無いですよね。チャンピオン」
そのあいも変わらず人を小バカにした口調は現実に引き戻すには十分な一言。舐めてかかった相手が予想以上に強かったという現実に。
「ギブアップだぁ、なめるな小僧!」
プロの本気を避けられること、受け止められること。素人に出来るはずはない。マグレも何度も続くはずはない。
「覚悟……決めろや!」
ならばどんな強敵をも倒してきた自分の必殺技を出すことで、それ相応の強さを認めてやる。
大橋は再び構える。脇を締め、拳で顎を隠すような感じで上下に軽く重ねる。今度はさっきと違い少し前傾になっていることに気づく。
(くるか)
Bは予備知識も無しに望んでいるのではない。
『オオッと、遂にだすのか! 伝家の宝刀ダブルフックを』
この身体で練習こそさせてもらえなかったが敵は分かっていた。兄が相手の戦術、得意技などいくらでも調べてくれたし、自分でも対策は練っている。
大橋は先程とは対照的に一瞬で間合いを飛ぶように詰め、ドォンというマットを強く踏みつけるような音がすると同時に下段からボディ、左脇腹を狙う勢いのある右のショベルフック。そして一拍おいて死角から側頭部、テンプルを狙う左フック。言うは簡単そうだが彼独特のリズムと間合いでの連打に何人もノックアウトされている。
「なるほどね……こいつは確かに伝家の宝刀ですね」
「……テメェ、一体」
「いい音の踏みだしから、モーションが大きいわりに素早いボディへの攻撃だからどうしても反射的に目がいってしまう。それもなまじ動態視力、反射神経が早ければ早いほど無意識に反応してしまう、次に来る死角からの鋭くコンパクトな左フックを忘れて……。いや逆ですか、左フックから気をそらさせるためにショベルフックのモーションが大きいと見るべきですかね。そこまで考えてるなら大したものですね。でもこれは言葉で説明するのは難しいですね。なまじ理屈で反応しようとすると逆に対応が鈍くなりますよ。実際受けてみると今まで難攻不落とまで言われた理由がよく分かりますよ」
実際そんな小難しく考えて攻撃していたわけではない。自分の思うがままやっていただけだった。後付け、結果論的に似たようなことを解説されたこともあったし、それによってどちらか片方がガードされたこともあった。しかし理屈で反応しようとすると逆に対応が鈍くなったのだろう。完璧にはガードされたことはないし、ましてや誰にも破られなかった。そう今の今までは。
『私は……夢を見ているとでも言うのでしょうか』
実況の声にも力ない。
大橋の技はまさに稲妻のようなコンビネーションだった。だがそれを左脇腹を狙った右のショベルフックを左肘で、側頭部を狙った左フックを右腕で完全にガードした姿勢のまま動かない二人の姿は誰もが驚愕の一言であった。