ベートーベンは2度笑う
幼なじみの小百合が、いきなりバイオリンを習う!と言い出した。
白い息を吐き、隣家の門口から飛び出してきた彼女は、朝もやの中で、頬を紅潮させてはしゃいでいる。
「……バイオリン?! バカか、お前」
「なんでよ!」
通学路のど真ん中で、俺が呆れた顔を向けると、小百合は納得がいかない顔で眉毛を吊り上げた。
「お前にバイオリンなんて出来るわけないじゃん」
「それはやってみなきゃ分からないでしょ」
「分かるよ。そもそも楽器なんて触ったこともないんだから、音が出るかどうかさえ怪しいだろ。どうせ飽きて捨てるのが関の山だ。そこんとこ分かってんの?!」
「そんな大声を出さなくても聞えてるわよ」
「――」
小百合は、なおさらぷうっと頬を膨らませ、俺を見上げて、挑むように言い返してきた。
「本当はピアノがやりたかったんだけど、私の家じゃ置く場所がないでしょ。バイオリンなら買ってやる、ってうちのパパが言うんだもの」
「……親バカだよなぁ」
「愛されてるって言ってくれる?」
「サイアクだ!」
「うるさいわね」
渋い顔をした小百合がつんと顎を突き出す。と、長い黒髪がなびいた拍子に、耳元できらりと小さな塊が光った。
――補聴器だ。
俺は、視線をそらすように、早朝の白い空を見上げた。
幼なじみの小百合は、聴力障害者だ。
小学生の時に事故で聴力を失って以来、今日までずっと補聴器のお世話になっている。
普段の生活に支障はないものの、やはり時おり小さな呼び声には反応しないことがあって、自然と俺の話し声も大きくなってしまう。
「まぁ見ててよ。そのうちうんと巧くなって、ステージで大喝采を浴びてやるんだから!」
「わぁそりゃ楽しみ。……痛っ」
横からガツンと俺の足を蹴り上げ、小百合は不機嫌に歩道を踏み歩いた。
耳が聞えない、とはとても思えないほど、威勢がいい。
「……泣く前にやめた方がいいぞ……」
彼女に聞えないぐらいの小さな声で。
俺は警告のように呟いて、小百合の背中を見つめた。
もちろん、俺の細い声なんか届いちゃいなかったが。
+++++
バイオリンを習うなんて……。
なんの冗談かと思っていたら、どうやら本気だったらしい。
休日のたびに、朝から掠れた音色が近所に響き渡る。
ぎぃぃこ、ぎぃぃこ、ぎぃぃ……!!
あれは、本当にバイオリンの音か?!
まるでカタツムリが、寒さに震えているような?
声をなくしたカッコウがうめいているような?
「――すげぇ下手」
自分の部屋から、隣家の窓を覗いていた俺は、絶句してカーテンを引いてしまった。
本人は気付かないのか。
それともわざとか、嫌がらせか。
その音があまりにもヒドすぎて、彼女を慰める気にもならない。
何とかやめさせたいとは思うが、「お前には才能がない!」と直接明言するのもはばかられ、結局、見て見ぬふり、いや、聞いて聞かぬフリを決め込むことにした。
あの下手さぶりに耳を塞ぎ、俺はひたすら暖かく見守ろうと決意、もとい我慢して、耐え忍ぶことにしたのだ。
……どうして、近所から苦情がこないんだろう。
+++++
小百合のレッスンは、日に日に回数を増していった。
よほどバイオリンが気に入ったのだろう。
休日だけだった練習は、さらに時間を延ばし、果ては平日の早朝、夕刻と――彼女は、学校にいる時間以外のほとんどをバイオリンと共に過ごしているようだった。
「……なのに、なぜちっとも上手くならないんだっ?!」
まるで軋んだ古ドアを開けるような音色。
首を締められたニワトリの悲鳴のような演奏。
それを連日のように聞かされ、俺はノイローゼになりそうな恐怖を感じて、小百合の部屋の窓をガン、と叩いた。
「……なによ」
ご機嫌なレッスン中を邪魔され、小百合がむっとした顔を露にしてガラス戸を開けた。
と同時に、俺は即座に中に入り込んで、ベッドの上のバイオリンを取り上げた。
――限界点を越えたのだ。
堪忍袋の緒が、ぶちりと音を立てて切り飛んだと言ってもいい。
「ち、ちょっと、何するのよっ」
部屋に侵入した俺に驚き、小百合は声を荒げて抵抗した。
「やめてよ、返してよ!」
「うるさいんだよ、毎日毎日。やかましいし、下手すぎだし、近所迷惑だし!」
「そんなことないわよ、失礼ねっ。先週からバイオリン教室にだって通ってるんだから」
「へ?!」
「独学じゃ限界があるもの。今から頑張れば、春の発表会にも出られるって言ってもらえたんだから」
「……教室の先生も苦労するな。気の毒に」
「なんですって!」
怒りが頂点に達したらしい小百合は、充血した瞳を震わせて俺を見据えている。
ぎゅっと拳を握り締め、腹立たしさを堪えるように口を引き結んだ。
「……やめてよ。せっかくやる気になってるのに……どうしてそんなコトいうの。誰も下手だなんて言わないわ。近所から苦情だって来たことないんだから」
「それは遠慮してるからだろ。お前が聴力障害者だから」
「!」
……しまった、言い過ぎた。
と、思った時には、すでに手遅れだった。
俺から強引にバイオリンを取り返した小百合は、片足を振り上げて俺の心臓を蹴り上げると、そのまま無情にも窓から転がり落とした。
「ぐはっ!」
「もう二度と来ないでよっ、バカ!」
「……」
――ここが1階でよかった。でなきゃ即死してた。
さっさと飽きてやめてしまえばいいのに……。
挫折を味わって泣きじゃくる彼女を見るのはごめんだ。
数年前、聴力を失って、いろんなものを諦め続けてきた小百合の泣き顔を見てきただけに。
……また慰めるなんて、そんなのはもっとごめんだった。
+++++
彼女の家から、バイオリンの音色が消えたのは、しばらくしてからだった。
学校も休みがちになり、最近はバイオリン教室にも足が遠のいているらしい。
――ようやく、自分の実力を思い知ったか。
やっと諦める気になったか。
そう安堵して、再び静けさを取り戻した日常を満喫していた頃。
「……げげっ!」
小百合の部屋から、大音量のロック・ミュージックが流れてきた。
周辺にガンガンと鳴り響く音楽は、天を裂くかの勢いで、イカズチのごとく辺りに鳴り響いてくる。
なに考えてんだ?!
気でも狂ったか?!
「――小百合っ」
すぐに向かいにある彼女の部屋の窓を叩く。
が、応答がない。
カギも閉まってる。
蒼白した俺は、慌てて外周を迂回すると、家の門扉を開けて中にはいり、彼女の部屋を開け放った。
「! ……さ、小百合……?」
ガンガンとミュージックの音が鳴り響く室内に、彼女がいた。
ベッドの上にうつ伏せに寝そべったまま、ぴくりともしない。
……眠っているらしい。
「おい~っ」
大音量は、壁際のコンポから流れていた。
眠っている間に、知らずリモコンを踏んでしまったのか、彼女の体の近くに置きっぱなしのそれを手に、俺は呆れてスイッチを切った。
「……何やってんだ、こいつ」
部屋の中は、まるで泥棒が入ったように荒れ放題だ。
家族は誰もいないらしく、とたんにしんと静まり返った狭い室内で、小百合はやはり泥のように眠り続けている。
「よく近所から苦情が来ないなぁ」
呆れる、というより、本気で心配になってきた。
リモコンを床に放り投げ、俺はそっと彼女に近づいて、その背中を揺らした。
「……! 幹生……?」
寝ぼけ眼で、ゆっくりと顔を上げた小百合の表情は――幽霊のように青白い。
「お前……大丈夫か」
「――」
長い髪をぼさぼさに乱し、小百合はむくりと起き上がった。
すっ、と細い指が動く。
《補聴器、こわした……》
久しぶりに見る彼女の手話は、なんだか新鮮だった。
《あらら。それはまた……気の毒に》
ざまぁみろ、と言おうとして、俺は慌てて指を動かした。
手話なんて、小百合が補聴器を使い出して以来、数年ぶりだ。
おぼろげな記憶を辿り、ぎこちなく手先を振る。
久々に使った手話が通じるかと心配していると、それでも何とか理解したらしい小百合が、小さくこくりと頷いた。
《今、ざまぁみろって思ったでしょ》
《お、思ってないよっ》
「……」
補聴器を外した彼女は、決して喋らない。
自分の声が相手にどんな風に聞えているのか、どんな風に届いているのか、……自覚がない分、不安になるらしい。
俺が必死に指先を動かすのを、彼女は可笑しそうに見つめた。
《……心配して来てくれたの?》
《そう思うなら、ちょっとは部屋の片付けを手伝えよ。補聴器壊したぐらいで、自暴自棄になんなよ》
《――だって、新しいのが届くまで1ヶ月ぐらいかかるって言うんだもの》
面倒くさそうに唇を尖らせ、彼女は慣れた仕草で空中に言葉を描いた。
《補聴器がなくても、バイオリンはあるだろ》
《でも、聞えないんだもの》
……そりゃそうだ。
聞えなきゃ演奏しても意味がない。――というか、補聴器があってもあの程度のレベルなのだ。聴力なしで弾こうものなら、どんな音が出るのか分かったものじゃない。
それこそ、小うるさいガチョウの大合唱をすぐ近くで聞かせられるのかと思うと、考えただけでぞっとする。
ある意味、拷問だろう。
《……ちょっと待ってろ》
そう言い聞かせて、俺は再び自分の部屋に戻った。
どうして、放っておけないんだろう。
あのまま諦めさせれば、これからずっと静かに生活が送られるというのに……。
なんとかしてやりたい、と思ってしまった俺は、間違いなく相当のお人よしなのだろう。
《……なに、これ》
《聴診器》
は?! という顔をして、俺が差し出したオモチャのそれを凝視した小百合は、ぱちくりと目を開いた。
もともと小百合は骨伝導用の補聴器を使ってた。それは壊れてしまったが、音楽鑑賞用のアンプはまだ使えるはずだ。それをヘッドフォンとコードに繋げ、バイオリンの共鳴部分にあてがうと、即席の骨伝導補聴器が出来上がった。
そもそもバイオリン自体、顎に当てて奏でる楽器なのだから、半分は普通に演奏してても骨伝導が作用しているはずだ。
《なんか弾いてみて。……聞こえる?》
《聞こえるわ!》
《おぉ、マジ?》
自分でもビックリだ。
ちょっと信じられない。が、小百合はかなり気に入ったらしく、夢中で弓を滑らせ始めた。
うーむ、やはり巧いとはいえない。
音色は美妙だ。というか、さらに下手になってないか?
《骨伝導だと音が反響するから、自分ではすごく巧く聞こえるのよね。でも、実際に周りの人が聞いてると、実はそれほど巧くはなかったりするのよ》
……そのとおりだ。
よく分かってるじゃないか。
俺は否定しないぞ。
小百合の体内に鮮明な音色が届いているとは思えないが、それでも音階の高低さはそこそこ理解しているらしい。
ヘッドフォンと、オモチャの聴診器。
そして、長く伸びた黒いコード。
まるで、充電された機械人形が、調子の外れた音で演奏しているかのような、そんな彼女の姿に、俺はどうにも不可思議な印象を受けた。
だが、本人はかなりご満悦な様子で、やる気まんまんで練習を再開することにしたらしい。
《ありがとうありがとうありがとう……!》
バカの一つ覚えみたいに、彼女は言いつづけた。
バイオリンを抱きしめ、瞳をうるます小百合の表情は、喜びに溢れている。
そんな彼女を見ている俺自身、胸中に満足感が漂っているのを、悲しいかな否定することはできなかった――
+++++
「とても感謝しています!」
バイオリン教室の発表会が終わった後。
たくさんのカメラの前で、小百合は記者からマイクを差し出され、満面の笑顔でそう答えた。
「補聴器が壊れて困っていたとき、友人が即席の反響器を作って、助けてくれたんです。あの時のことがなかったら、私、バイオリンをやめていたかも……」
ブラウン管に映し出された彼女の姿を見て、俺は自宅に置かれたテレビを食い入るように凝視した。
バイオリン教室に通う、ただの練習生による、ただの発表演奏会だったはずなのに――
《‘ベートーベンの再来’ 聴力障害者の女子高生、バイオリンを演奏――》
そんな記事が、あっという間に新聞や雑誌をにぎわせた。
そして、何より俺を驚かせたのは、小百合の唇から発せられた感謝の言葉だった。
「バイオリンを続けてよかった。とても嬉しいです」
「そのお友達には、今、なんとおっしゃりたいですか」
「――」
記者の1人に質問され、小百合は一瞬ためらうような仕草を見せた後、静かに口を開いた。
「……ざまーみろ! と言いたいです!」
「!」
テレビを見ていた俺は、その場にひっくり返った。
「これで、やっと彼を見返せたわ!」
「……」
高笑いを響かせる小百合の声が、テレビのスピーカーから鳴り渡った。
全国ネットで――俺は、小百合同様、瞬く間に有名人の仲間入りをしたのだ。
……いろんな意味で。
+++++
今日も、隣家の部屋から、バイオリンの音色が聞えてくる。
相変わらず超!下手くそなのは変わらない。
それでも頑張る前向きな聴覚障害者――そんな健気な小百合の姿に、全国の人々は励まされているらしい。
……あんなに下手なのに!
俺は、もう泣きそうだ。
ぎぃぃぃこ、ぎぃぃこ、ぎぃぃ……!
「……失敗した」
死にかけのかたつむりのような騒音の大合唱に耳を傾け、胸に小さな後悔を抱きながら、俺は、今日もこれからも、頭痛に悩み続けるのだろう。
……なぜ近所から苦情がこない?!
-終-
《あとがき》
時どき、こんなアホっぽい話が書きたくなります(笑)
近所から苦情が来ないのは、もちろん小百合のご両親が菓子折り持参であいさつ回りをしたから。そして、皆さん自分の家に防音措置を施しているから。
主人公・幹生の家も、もちろん防音はされてるんですけど、なぜか彼の部屋だけはしてないんですよ。お気の毒さま。
タイトルについて。
ベートーベンは後年、聴力を失って以後、細長い棒を口にくわえて、片方をピアノにあてがい、作曲したと言われています。これが、骨伝導の始まりとも言われてますね。