虚ろな庭
──これはよくある話、「近所の変人」の話なんだが。
都会と言うか、所謂村社会でもない限り、子供の頃の近所には大抵、変人が住んでいる。地域コミュニティーの希薄化であるとか、他人に対する危機意識の悪風であるとか、そういう社会問題の影響なのだろうが、それは置いておこう。
そしてその変人とは老人である場合が多い。と、思う。
まあ、おれの近所にも変人が住んでいて、そいつは婆だった、という事だ。
その婆というのは、別段、怖ろしげな風貌をしている訳ではなかった。いや寧ろ、今にして思えば優しげな婆さんだ。
新聞紙を丸めたみたいな、笑い皺が戻らなくなった様な、愛嬌のある顔付きだった。灰色の髪の毛をいつもこざっぱりさせていたし、服装は地味でも汚らしい印象は無かった。
出会してしまったとしても、婆の方からニコニコ笑って、あいさつを掛けてきた。
けれどその度、おれやおれ以外の子供、いや大人もみんな目を逸らした。
誰も彼も、婆と関わろうとしなかった。
おれの家から数軒先、古めかしい瓦屋根の平屋に婆は住んでいた。
どうやら一人暮らしだったらしい。なんでも以前は夫と娘二人が居たそうだが、夫には先立たれ、それぞれ結婚して家を離れた子供は訪ねても来なかったのだとか。それらは最近、つまり婆が死んだ後になって、おれのお袋から聞いた話。どうも、先に挙げた問題とは裏腹に、噂話は色々あった様だ。
話を戻すが、娘達が戻らなかった理由は、婆が避けられていた理由と、恐らく同じだ。
一言で言えば、不気味だからだ。
婆が、と言うべきか。
家が、と言うべきか。
家屋自体は、古めかしくはあっても決してオンボロではなかった。逆に造りはしっかりした日本家屋という印象だった。瓦は定期的にメンテナンスしていた様だし、外壁に蔦が這っている訳でも、窓が曇っている訳でもなかった。
土地を四角く区切ったブロック塀も同様。苔も生えていなければ、落書きだとか不穏な張り紙だとか、そういう類いは一切無い。一見すればただの家だ。
だが問題は、家と塀との間──庭だ。
あの庭は、虚ろだ。
普通、庭木が植わっている。でなければ植木鉢でも置いてある。ついでにバケツやら箒やらが転がっていたりする。庭というのは普通そうだろう。
だがあの庭は、ただの平面だった。
植木なんか無い。バケツも箒も、塵取りも無い。
敷石だの砂利だのも無い。雑草すら無い。門扉から玄関までの飛び石だって無い。
ただただ、土の地面。
それが奇妙でならなかった。
小学生の時分、登下校の通学路とは外れた道にあったが、時折おれは友達と連れ立って覗きに行っていた。多くの何かある庭と打って変わって、何も無い庭というのは、酷く興味を掻き立てられた。無いからこそ関心が向くというのも奇妙な感覚ではあった。
ほとんどの場合、ただ家の壁面があって地面があるその庭と同じく、何ら感想を抱かず退散していたが、時々、たった一人の主である婆を見掛けた。
その場合の婆は、決まって縁側に腰掛けている。そして虚ろな庭を見詰めている。
ひょいと飛び上がって塀から顔を出したり、門扉の鉄柵越しに覗き見たりすると、婆と目が合う。それで、こんにちは、とニッコリ笑われて、おれ達は逃げる。
たったそれだけだ。睨まれも、怒鳴られもしなかった。
当時、友達や同級生や学校中で、色々噂が立っていた。その一つに、庭に死んだ爺さんが家を出たという娘二人が埋まっているんだ、なんてものがあった。憶測にも達しない馬鹿馬鹿しい話だが、おれはそれを支持していた。
しかし中学生の頃にもなると、そんな幼稚な話より不気味な事実に気付いてしまった。
考えてもみろ。
敷石も砂利も無い庭に、雑草一つ生やさない。枯れ葉や野良猫の糞の一つも残さない。しかも、おれが知る限りずっと。
その執念は一体どこから来ている?
いや何故そう執着するのか。何も無い庭に。何も無いという事に。
夫を亡くして、娘が出て行った寂しさからおかしくなったのか。いや、普通は逆だ。そうだろう。それなら物に執着するだろうが、そうじゃない。聞いた話では、婆の家族が居た頃は、立派な柿の木が植わっていて花壇もあったそうだ。それを切り倒して、引っこ抜いたのだから、逆だ。
──あんたは今、物を無くす方に執着し出す事もあると言ったが、それも確かにあるだろうが、いいや、違う。
おれの言い方が悪かった。ああ、わざとそう言った。そう言わないで居られなかった。
婆さんが死んで、家の持ち主が居なくなってからも、庭には何も無いままなんだ。
孤独死だった。夏の事だ。見付かるまで二週間もあった。その間も庭は変わらなかった。だから誰も気付かなかった。
除草剤を撒いていたのかも知れない。それならおれだって納得する。
だけど、しかし、今日この日、誰も居なくなって三年も経っているのに、あの庭に何一つも無いのは、どう説明する? どう納得すればいい?
いずれにせよ。
あの虚無が婆のものだったとして。それとも他の誰かのものだったとして。
いずれにせよ。
それを何度も、今も、覗いているんだ。
「無い」シリーズ第三弾。