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第三章 雲の上、ソラの街

 目覚めた俺は自分の格好が白い服で魔王の黒剣を持ったままであることに安心していた。

 麦畑にできた大穴から落ちた先は、暖かかった。そう、まるで春のように。魔女の街の気候が常冬であったから、この眠くなるほどの陽気は快適だ。

 しかし目の前の光景は、何だろうか。白い雲が広がるばかりで、まるで死後世界に居るようだ。だが、どうもそうではないらしい。何故そんなことがわかるのかと言えば、ひどい頭痛がしていたからである。さっきから周囲に漂う花の香りのせいだろうか。いや、そうではないだろう。俺の頭痛の種は、俺の横でぐったりと横たわっているテレサに違いない。頭が痛いから死後世界ではないという論理は、どこかおかしい気がするが、俺は確かに生きているのだという確信があった。

 先刻、俺が朝帰りという不良行為をしてしまったことにより、それまで蓄積されていたであろう怒りを爆発させたテレサは、別人格に切り替わったかのようだった。まるで、悪魔に憑かれたかのような濁った瞳で俺を見ていた。正直言って混乱した。

 今は目をつぶって、だらしなくよだれを垂らしているテレサ。白い服を着ていて白い肌なので、雲に混ざってしまわないかと心配だ。

 先刻の魔女のようなテレサと、いつもの気楽そうなテレサ。一体どちらが本当の彼女なのかと思って、おそるおそる彼女に触れてみる。温かかった。

「んぅ……はれ? ここは?」

 テレサが身体を起こして呟いた。様子から察するに、どうやらあの恐ろしいテレサではなく普段の、ふわふわふらふらしたテレサのようだ。

「わからないけど……」

 俺がテレサの呟きに応えると、テレサは勢いよく振り返り、

「あーっ! ピエール! あんたね、心配したんだからね! 朝まで帰って来ないで! 下級悪魔とかに誘拐されちゃったかと思って一睡もせずに待ってたんだよ! 外泊するならするってちゃんと言って行きなさいよ! 晩御飯もムダになっちゃったでしょ!」

 いつものテレサの姿が戻っていた。しかし、今の発言から考えるに、昨日俺やクララの前で爆発した恐ろしいテレサでいた時の記憶は無いようで……何だか安心した。

「……何よ……何か反論でもあるの……?」

 テレサは可愛い瞳で俺をにらみつける。

「いや……何もない、ごめんな」

 透き通るような水色の髪を撫でる。

「触らないでよ!」

 怒られて、ばしっと手を叩かれた時、俺は頭痛が治まっていることに気付いた。

「それにしても……ここ、どこだろうね……」

 とテレサ。

「さあな……この異世界で、テレサが知らない場所を俺が知っているわけもないだろ」

「そっか。じゃ、わかんないや」

 甘い香りといい、どこまでも続いているような雲海といい、まるで、わたあめの上に居るようだった。ここじゃあ自転車は役に立ちそうもないな、と思ったがどうやら自転車は魔女の街に置いてきてしまったようで、近くに存在しなかった。つまり考えても無意味だ。

「ふかふかしてきもちいいー」

 テレサは手足を大の字に伸ばし、ぱたりと仰向けに寝転んだ。俺も同じように仰向けになる。

「青いね」

「ああ、青いな」

 見上げた空には雲ひとつ無かった。

 そして俺はまた、本気で怒った時のテレサの恐ろしさを思い出して、小さく震えてしまった。

「ね、ピエール。今、何考えているの?」

「テレサのこと」

「えへへ、なんか照れるなぁ」

 恥ずかしそうな声。

「テレサは? 何考えてた?」

「私は……どうしてピエールはクララじゃなくって私を選んだのかってこと」

「どうしてそんなこと?」

「だってそうでしょう? 私は料理もド下手だし、家事のセンス無いし、胸も、その、ぺったんこだし……」

「それが良いんじゃないか」

「その正体が、おそろしい魔女でも?」

「……そんなの、大した障害でもないね」

 強がってみた。

「……ありがとう。ピエール」



 しばらくして、ふと起き上がると、木材で建てられた小屋が近付いてくるのが見えた。どうやら雲は川の流れに乗るように、移動していたらしい。

「お、何か小屋があるぞ」

 俺がテレサに話しかけた時、隣にいたはずのテレサは既に小屋の目の前にいて、扉をノックしようとしていた。さすがの素早さが可愛い。

 コンコン

「ごめんくださーい。誰かいませんかー?」

「…………」

 返事が無い。空き家なのだろうか。

「ごめんくださーい」

「…………」

 やはり返事が無い。

 誰もいないのだろうか。

 俺はようやくテレサに追いつき木製扉のドアノブを掴んで回してみた。

 がちゃり……

「お、開いた」

「入ってみよう」

 二人で小屋の中に入り、数歩進んだところで、人の姿を確認した。窓際のベッドに座り、開いた窓から外の風景を眺めている白い服の少女だった。窓から入って来る風が、白いカーテンと少女の銀白の髪を揺らしていた。

「誰?」

 微笑みながら、やわらかく、少女は言った。

 俺たちは、それぞれ自己紹介する。

「俺はピエール。魔王だ」

「私はテレサ。魔女よ」

 すると、彼女も名乗った。

「モアレ。それがモアレに与えられた名前」

 そして一つ深く息を吐くと、

「魔王さまに魔女さま、か。この世界の人じゃないんだね」

「この世界と魔女の世界は違うの? モアレちゃん」

 テレサが訊ねると、

「たぶんね。ここはソラの街。花の枯れることのない常春の楽園よ」

 またしても、違う世界に来てしまったらしい。と、そんなことを考えた時、俺は地上に帰ろうとしていたことを思い出した。最近、たまに地上のことを忘れそうになる。我ながら困ったものだと思うぜ。

「モアレちゃんは、ここに一人で住んでるの? どうして髪の毛白いの? それに、どうして昼間から寝てるの? あ、そうだ、あとソラの街って私の住んでた魔女の街との位置関係はどんな感じなの? あ、ソラの街って言うくらいだから空の上にあるんだよね。あの白くてふかふかした地面は、やっぱり雲? 魔女の街に帰る方法は?」

 テレサは勢いよく言葉を発した後、近くに置いてあった椅子に、すとんと座った。

「おいおい一気に質問するな。モアレさんが困ってるだろう」

「いえ、モアレは大丈夫です。魔王さま、お気遣いありがとうございます」

「そ、そうか」

「モアレちゃん、質問の答えはっ?」

 それがモノを訊く者の態度か。だがそんなところも可愛い。

「わかりました。答えられることにだけお答えします。モアレの髪の毛が白いのは生まれつきですが、モアレがここに一人住み、昼間から寝ているのは、病気だからなのです」

「病気?」

 テレサが首を傾げると、

「そう。ケルエルソウルシンドローム」

 俯き、聞いたことのないような病名を呟くように言った。

「ケルエルソウルシンドロームは、存在が消えていってしまう病。モアレが生まれるずっと前の、古代期に流行した病で、特効薬の誕生と共に根絶されたはずの幻の病気でした」

 モアレは、俺たちから目を背け、ただただ青すぎる空を見つめ出した。

「でも、特効薬があるんでしょう? どうしてそれを使わないの?」

「この街には、もう薬が無く、薬を作る方法もわからないのです」

「モアレちゃんのその病気、えっと、何だっけ……ケロケロ……」

「ケルエルソウルシンドロームです」

「そう、それ。その病気は一体、どんな病気なの?」

 テレサは子供のように落ち着きなく足をバタバタさせながら訊いた。

「安心してください。モアレは隔離されて生きていますが、言い伝えによれば、他人に伝染する病ではありません。魂の内部に突然発生するガンのようなものなのです。ケルエルソウルシンドロームとは、モアレたちの世界の古代語で言うと、『魂が消滅する病』という意味になります。薬が無い今、モアレはこのままここで青い空を眺めながら死んでいくのでしょうね……」

 俯くモアレ。

「モアレちゃん。ちなみに、薬の名前ってわかる?」

「ネクタル……です」

 テレサはバタバタさせていた足をピタリと止めた。

「ネクタル……きいたことあるね。確か万病に効く薬で、ブドウから造る。うん、私、造り方知ってるよ」

 モアレは顔を上げて、テレサの方を見た。

「何でそんなものの作り方知ってるんだ?」

 俺が訊くと、

「魔女だもん」

 ということらしい。

 しかし希望が見えてきたはずなのだが、モアレは再び俯いた。自分の足にかかっている掛け布を見つめた。

「確かにブドウがあれば、薬が作れるかもしれません。でも……良いのです。モアレが消滅するのは運命。モアレは、モアレは、消えるのです……」

「モアレちゃん……モアレちゃんは、生きたいの?」

 モアレは顔を上げ、窓の外を見つめた。

「生き……たいです……モアレは……本当は消えたくなんか、ないです……」

 銀白の髪の少女は窓の外を見つめながら涙を零した。

 助けたい、と思った。その時、テレサの強い視線を感じて振り向いたところ目が合って、テレサと二人で頷いた。

「モアレちゃん。ブドウがある場所、知ってるでしょう? 教えて」

「え……でも……」

「いいから、教えなさい」

「は……はい。ここから雲の流れの下流方面に流れていくと『風魔の丘』というところがあって、そこにブドウ畑が広がっていたのですが……名前の通り、嵐の壁に守られていて、近付くことすらできません」

 モアレが言うと、テレサはフッと鼻で笑い、

「どーせ風の下級悪魔か何かが住み着いてるんでしょ。風の魔女である私に何とかできないわけがないわ」

「とにかく、その『風魔の丘』に行ってみよう」

 俺が言って、

「うん」

 テレサが頷いた。

「…………」

 窓の外を眺めていたモアレは、一度俺たちの顔を見た後、また俯いてしまった。

 俺たちは『風魔の丘』に向かうことにした。



 雲の流れに乗って進むと、目の前に竜巻が立ち上っているのが見えた。周囲の雲を巻き上げ、白い嵐の壁を形成している。モアレの話に出てきた『風魔の丘』であろう。あの中にブドウ畑があるらしい。

「しかし……どうやって近付けば良いのやら……」

 呟くと、テレサは、

「何寝ぼけたこと言ってるのよ。簡単じゃない」

 バカにしたような口調。そう言うからにはやってもらおうじゃねえか。こんな大規模な天災級の風の壁をどうやって通り抜けるのか。

「行くよ、ピエール。私につかまってね」

「ああ……でも、何をする気なんだ?」

「竜巻の中に入るんでしょ? 決まってるじゃん」

 だから俺はその具体的な方法を訊いているんだが……。

「ほら、早くつかまって。落っこちたら死んじゃうから気をつけてね」

「死ぬぅ?」

「うん。さあ、行くよ!」

 俺はテレサに後ろからしがみついた。死にたくはないからな。テレサは俺が腕を回して抱きしめたのを確認してすぐに、頭上に手を伸ばし、叫んだ。

「――風よっ!」

 するとどうだろう。今まで俺たちの意志とは関係なく流れていた雲の動きがピタリと止まり、人がちょうど二人乗れるほどの大きさの分の黒い雲が現れ、宙に浮いた。風の流れがピタリと止んで、今まで地面にあった流れる雲も霧散してしまった。眼下に見えたのは……緑あふれる大地だった。以前テレビで見たアマゾン川のジャングルのような森が広がっていた。

 と、その時、

「うぁっ」

 テレサの空飛ぶ黒雲が竜巻の前で急停止して、俺は思わず情けない声を上げた。

「ど、どうしたんだ、テレサ、急に止まって……」

「この風……私が契約してる精霊の出してる風じゃないみたい。だから操れないわ。私の契約精霊よりも上級の精霊なんて存在しないはずだから、これは精霊以外の存在が出している風」

「どういうことだ?」

「つまり……消すことができない風なの」

 あれだけ自信満々で余裕綽々だったのにノせられて、大ピンチになってるってことじゃないのか。なんだこの軽率な娘は。だがそれが可愛い。

「じゃあ、どうするんだテレサ。このまま帰るわけにはいかないぞ。モアレを助けなければならないんだからな」

「当り前でしょ。こうなったら方法は一つ。私の生み出す黒い風を、時計回りに回転するあの白い竜巻に逆回りでぶつけて風そのものを消すのよ。物理的に」

「そんなことが出来るのか?」

「できないはずが無いわ。だって私は……魔女だもの!」

 テレサは力強く言って、再び真っ青な天に手をかざした。

 その瞬間、テレサと俺の周囲に強風が発生した。風の流れが目に見えるほどの強風。頭上を見上げれば空。俺たち二人はまるで台風の目の中にいるようで、それほどの風を感じない。目の前の風の流れが更に加速して、黒い風になった。白くて大きな竜巻に向かって、黒い小さな風の渦がぶつかろうとしていた。

 そして、接触。轟音と強風が俺を襲い、息ができない。これはキツイ。昔の俺ならばすぐに音を上げて、テレサから離れてしまっていただろうが、今の俺は違う。こんな風の直撃などというものは、テレサの手料理を毎日食べ続けるよりかは遥かに楽なのだ!

「――はっ!」

 テレサが叫び、一瞬、凪いだ。

 二つの強風がぶつかり合って、相殺したらしい。

「行くよっ」

「おう」

 竜巻の中に入り込むことに成功した。



 風魔の丘は、その名前とは裏腹にメルヘンな場所だった。ブドウ畑や鮮やかな花畑が広がり、四枚羽の風車小屋が立ち並ぶ。風車はそよ風を受けて常に回転を続けていたが、人の気配は無かった。

「おお、いかにもブドウだねっ!」

 はしゃいでいた。くりくりした大きな目を輝かせていた。

 真っ先にブドウ畑に降り立ったテレサと俺は、最初にブドウの品質チェック。

「どうだ? ネクタルとやらはできそうか?」

「うん。上質のブドウだわ。これは美味しいネクタルができるわよ」

 ぷち、ぱく

 テレサはブドウを一粒ちぎって口に運んだ。

「んー。美味し」

 ぱくぱくぱくぱく

「お、おい……ブドウなくなっちまうぞ……」

 夢中で食べていた。次々と房が裸にされていき、テレサの歩いた後には吐き出したブドウの種が散乱している。どう考えてもやっていることは畑泥棒に違いない。

「おい、テレサ……無断で食べて大丈夫なのか?」

「へーひへーひ。ふぁっふぇわふぁしふぁしはふぁひょ。そふぃふぇふぃふぇーふふぁ、ふぁっふぉうふぁふぉふぁふぁふぁ」

「こらテレサ、口にモノを入れながら喋るんじゃありません。お行儀の悪い。飲み込んでから喋れ」

「あはは、ごめん、言い直すわ」

「どうぞ」

「平気平気。だって私は魔女。そしてピエールは魔王なんだから」

「なるほど」

 って、ちょっと待て、俺。「なるほど」じゃあないだろ。落ち着いて考えてみろ。いくらテレサが魔女で俺が魔王だからってブドウ泥棒をして良いという理由にはならないじゃないか。

 ブドウ泥棒、ダメ、絶対。

 と、そんなことを考えているうちに、何と俺とテレサは真っ黒な鳥に取り囲まれていた。

 鳥たちは、俺たちの行為を、じっと見つめていた。

「…………」

 静寂。

「カァ」

 静かな世界で鳥が、鳴いた。この鳴き声はやはりカラスだ。

 真っ黒な鳥というのはカラスのことだが、俺が日本で見たカラスよりも一回り大きかったから本当にカラスであるのか疑ったのだ。しかし、この群れのカラス。やはり普通のカラスではなかったらしい。

「なんだ、貴様らは。どこから来たのだ」

 なんとカラスが、喋っていた。

 ふっ、他の人間は驚くのだろうがな、もはや俺は驚かないさ。この程度の不思議なことはありふれている。ここで俺が発するべき言葉は一つ。

「俺は、ブドウ泥棒ではなぁい!」

「私も、ブドウ泥棒ではないわっ!」

 いや、テレサは既にブドウ泥棒だろうが。

「我々はこの畑を守る鳥の群れ。誰にもブドウを渡さないというのが、我々の仕事だ」

 さっそくテレサに食い荒らされてるけど。

「どうやってこの地に足を踏み入れたのかは知らぬし、問題にもならないことだ。今、我々が命じるのは、この風魔の丘から即刻立ち去れということだけだ!」

 ぱくぱく、もぐもぐ、ぶち

 テレサはカラスの声を無視してブドウを貪っていた。

「おい、テレサ。どうする?」

 俺は小さな口の、その口元をブドウの汁まみれにしているテレサに訊く。

「ん。私に任せなさい。魔女にとってカラスを手なずけることは初歩中の初歩。それが喋るカラスだとしても所詮はカラス。純血で高潔な魔女である私にできないはずがないわ」

 俺の着ていた真っ白い服に手をなすりつけ、ブドウ汁まみれの手を拭いたテレサは、腕をいっぱいに伸ばしてカラスを人差し指でズバっと指さし、

「やいカラス! カラスならカラスらしく私に服従しなさい!」

 大声でそう言った。

「カァ! カァ! カァ!」

「うぅあぁああ、痛い、いたい! やめてぇ!」

 ……俺の嫁になる魔女が、大勢のカラスにつつかれていた。

「よくも我々のブドウを!」

「ごめん~。許してぇ~」

「ええい、許すものか!」

「痛いぃ~」

 はっ。いかん。ボーっと眺めている場合ではない。このままでは俺のテレサがカラスにボロボロにされてしまう。どうにかしなくては。

 そうだ。カラスと言えば光るもの好きであまりにも有名。何か光るもので気を引けばテレサを助けることができるはずだ。何か光るもの……これだ!

 俺は、腰に帯びていた魔王の剣を抜いてみた。

「カラスども! これを見よ!」

 どうだ。天上からの光を浴びてキラキラと光っているこの剣を手に入れたくなるだろう。

「あ、あれは!」

「なんと! あれはまさしく魔王の剣……」

「魔王の剣だと!」

「ぬげぇ、魔王!」

「魔王……だと……まさか……あの魔王だというのか?」

 カラスたちは口々にそんな言葉を発した後、俺から距離をとり、放射状に地面に並び、翼を広げてひれ伏した。

「はは~っ」

 まるで某時代劇のご老公にでもなった気分。ううむ、悪くない。

「さあ、ブドウをもらおうか」

 俺が偉そうに言うと、

「へい! いくらでも持っていってくだせえ!」

 急に腰の低い町人のようになったカラス。

「さすがピエールね。さ、ネクタルづくりを始めましょう!」

 テレサはニコニコしていた。

「ああ」

 こうして、俺たちはブドウを手に入れた。



「いい? ピエール。絶対にのぞかないでね。絶対だよ?」

 テレサはそう言って、扉の向こうに消えた。

 風魔の丘にあった風車小屋で、テレサがネクタルを造る。製法は極秘ということで、俺は風車小屋の前で真っ青な空と花畑を見つめているばかりだった。すぐに飽きた。と、そこで俺は風車小屋の裏側にある小窓から内部をのぞき見てしまおうと考えた。

 のぞくなと言われたら、のぞきたくなるのが魔王ってもんだ。これは魔王としては仕方のない行為なのだ。

 そうっと小屋の裏側にある円い小窓に駆け寄り、おそるおそる中を覗いてみる。

「あれ?」

 内部には、誰も居なかった。

 おかしい。確かにテレサはこの小屋の中に入ったはずだ。だが待て、よく考えるんだ。風車小屋の内部には二階がある。その場合、この小窓からのぞき見たところで何も見えないことは有り得る。

 とにかくネクタルの製法が気になる。だって、どんな病でも治すことのできる妙薬なのだろう。そんな秘宝ならば造り方を知っておきたいと思うじゃないか。

「ピエール。何してんの?」

「見りゃわかるだろ。のぞいてるんだよ。誰もいないけどな」

「ふぅん」

「…………」

「…………」

「うげぇ! テレサ!」

 背後に居たのは、テレサだった。ゴミの日じゃない日に出されたマナー違反ゴミ袋を見るような目で、俺を見ていた。

「ち、ちがうんだ。決してのぞこうとしていたわけじゃなく……」

「じーっ……」

 そんな……声に出してまで見つめてこなくても……。

「ご、ごめんなさい……」

「あはは。大丈夫、怒ってないから」

 ああ、何て優しいテレサ。まるで天使のようだ。

「それで、テレサ。ネクタルはできたのか?」

「うん。ほらっ、この通りっ!」

 小瓶に入った紫色の液体を俺に手渡してきた。俺はそれをじっと見つめて訊いてみる。

「ちなみに、ネクタルってどうやって造るんだ?」

「言葉で説明できるような製法じゃあないのよ」

「そんなに、いやらしい方法なのか?」

 ばしん!

 殴られた。痛い。

「最、低……」

 散乱する生ゴミを見るような目で俺を見ていた。



 復路。来た時と同じように竜巻の外へ出る。一瞬竜巻が消えて、俺たちはモアレの小屋へと向かう。往路と少し違うのは、テレサの服がカラスに突かれて少しボロになったのと、テレサからプレゼントされた白い服がブドウ汁で紫色に汚れたこと、テレサに殴られた俺の右頬が少し赤くなって腫れていること、そしてネクタルを手に入れていたことだ。

 帰り道での会話の中で、こんなやりとりがあった。

「ね、ピエール。モアレを治したら、魔女の街に帰ろうね」

「ん……ああ、そうだな」

 テレサにはこう答えたが、俺は迷っていた。

 元々、俺の目的は魔女の街で暮らすことではない。

 地上から降ってきて、地底の街で戦乱を治め、長老に地上に戻るための手助けをしてくれるように頼んだ。バンジョウに言われたのは、魔女の街に行けば地上に戻るために前進できるということだけだ。そして今、魔女の街からソラの街にやって来た。もしかしたら、こうしてソラの街に来ることが運命のようにして決まっていたことかもしれない。

 だとしたらどうだろう。

 そして、どんどん地下に進んでいると見せて、実は少しずつ地上に近付いているのではないだろうか。先刻テレサが風を操って分厚いふかふか雲が散った時、眼下に見えたのは、確かに大地だった。南アメリカ大陸あたりに広がっていそうな森林だ。

 となれば、このソラの街から地上に降りる大きな手がかりがあると考えて良いだろう。だから、魔女の街に戻ることはしないと今、心に決めた。ただ、テレサに嫌われたくないので、もう魔女の街に帰らないなんて口には出せない……。

 ヘタレた自分が嫌にもなる。

「どうかしたの? ピエール。頭抱えちゃって」

「いや、何でもない。それはそうと、もうモアレの小屋に着くぞ」

「うん。そうだね」

 とにかく、全てはモアレの病気を治してからだ。



「モアレ、ネクタルを持ってきたぞ」

 俺たちは、小屋の中に入って、すぐにモアレの所へ駆け寄った。

「え……ほ、本当に?」

 そう言ったモアレの身体は、背景の窓枠が透けてしまっていた。どうやらケルエルソウルシンドロームの末期症状が現れているようだ。存在そのものが消えてしまう不思議な病。モアレに残された時間は、そう長くはないだろう。

「さ、早く飲んで」

 テレサはグラスにネクタルを注ぐと、

「あいやぁ!」

 ガシャーン!

 焦りすぎてそれをぶちまけた。モアレの座るベッドのシーツが紫に染まる。ドジっ娘なところも嫌いじゃないが、何もこんな時にやらかさなくても。

「俺がやる」

 俺は邪魔な魔王の剣を床に置いて身軽になると、テレサからネクタルの入ったビンを受け取り、グラスに注いだ。もう失敗できない。あと一回でも零したら、せっかくの苦労が水の泡だ。

「さ、モアレ」

 モアレは頷き、紫色の液体が入ったグラスに口付けると、それを傾けた。一気に飲み干す。

「美味しい……」

 するとどうだろう、今まで透けてしまっていたモアレの身体が、質感を取り戻し、血色の良さそうな表情になった。髪の毛もキューティクルを取り戻し、見事な銀白の髪に。髪が白いのは生まれつきだと言っていたが、さっきまでの髪とは全く違う、美しい輝きを取り戻していた。

「これでもう大丈夫。ケロケロシンドロームは治ったわ」

 親指をグッと突き立てたテレサ。ケルエルソウルシンドロームな。

「よかったな。モアレ」

 俺が言うと、

「……はい……」

 あまり喜んでいないようだった。助かったというのに浮かない表情。まるで、親の大事にしていた花瓶を割ってしまった時のような、この後の処置を考え込むような顔。

 と、その時――

 がちゃりと扉が開く音がして、入ってきたのは金色の髪をした美しい女性。金髪だったので、クララかと思ったのだが違った。それはクララではなかった。髪の色こそ同じだが、長さがセミロングほどで、体のサイズも胸のサイズもクララとは全く違っていた。その女は入ってくるなり、咎めるように、

「モアレ……この二人は誰?」

「あの……えっと……えっと……」

 モアレは視線をグラグラさせながら次の言葉をさがす。金髪の女性は、先刻テレサがベッドにぶちまけた紫のシミに視線を落とす。

「…………まさか」

 金髪の女性は呟いた。

「違うの、アンガリーお姉ちゃん!」

 どうやら金髪女性はモアレの姉で、アンガリーという名前らしい。

「ネクタル……まさかモアレ……あなた……」

「…………」

「答えなさい! ネクタルを飲んだの? モアレ!」

 アンガリーはモアレの肩を勢いよく掴み、揺すりながら訊く。

「…………」

 しかしモアレは押し黙ってしまって答えない。ベッドに座ったまま俯いてしまっている。

「そんな……病気が治っちゃいけないのに……。ラスカル様の予言を破ることになってしまうのに……」

 ラスカル様……?

 誰だ、それ。

 予言?

 またこの街にも予言とかあんのか。

「…………」

 静寂の中、なおも金髪の女性、アンガリーの言葉は続く。

「モアレ。答えて。治りたいと言ったわけじゃないのよね。この黒い剣の男と、水色の女にそそのかされた結果、ネクタルを……モアレの意思とは関係なくネクタルを無理矢理飲まされた。そうでしょう?」

「…………」

 沈黙。

「そうとなれば話が早いわ。この二人の反逆者をラスカル様の所に連行しましょう!」

 二人の反逆者ってのは、もしかして俺とテレサのことだろうか。一体何がどうしてこんな展開になっているんだ。戸惑いを隠せない。オロオロする俺。

「待って、お姉ちゃん!」

「待たないわ。アンガリーは怒ってるのよ。予言に逆らったら、どうなるかわかってるはずでしょう?」

 アンガリーが怒っている。つまり、アンガリーがアングリーというわけか。

 と、そんなアホなことを考えた瞬間、それを見透かしたかのように、アンガリーの右拳が俺を襲った。頭の中に轟音が響き、衝撃。

 視界はすぐに暗転した。


  ☆


「いててててて。何なんだ、この急展開は……」

 俺が起き上がりながら呟くと、

「まったくよね。私たちは良いことをしたのに、その善行の報いがこの扱いなんて、信じられない」

 テレサが答えてくれた。

「というか、ここはどこだ?」

「どう見たって閉じ込められているようにしか見えないでしょ。洞窟の中にいるみたいで」

 なるほど、確かに牢獄だ。外界とこの十畳ほどの密室を繋ぐのは分厚い鉄扉しかなく、太陽の光も全く入って来ない。頼りに出来る明かりはと言えば、部屋の隅に無造作に置かれた蝋燭に灯った炎だけ。

「何の面白味もないな」

「当り前でしょ。牢屋入れられて愉快な気分になるのなんて、狂人くらいだよ」

「確かに……」

 狂人ってのを見たことはないがな。

 ふと周囲を見渡すと、同じ部屋の中に、ハンザとクララも倒れているのが見えた。

「そして外からの助けは期待できない……か」

「そうだね……クララもハンザくんも情けないんだから……あとピエールも」

 テレサだって捕まったんだから他人のことは言えないじゃないか……。



 俺は、洞窟の中のような牢屋の中をぐるぐる回っていた。決して頭がおかしくなったわけではない。どうすれば牢屋を抜け出すことができるか考えていたのだ。ここは陽の光も差さない完全な密室。明かりは蝋燭に灯った炎の怪しい明かりだけ。外界とこの空間を繋ぐのは一枚の分厚い鉄扉のみ。

「何してんの、ピエール。落ち着いて座ってなさいよ」

「とは言ってもだな、テレサ。不安になるだろ?」

「何がよ」

「このままだと何も悪い事をしていないのに裁判にかけられるだろ。その結果不当な判決によって前科なんてものを手に入れてしまったら俺の人生はメチャクチャだ。就職戦線に大きな影響が出かねない。それ以前にアルバイトだって採用してもらえなくなるかもしれないんだぞ! そうだ、その前に大学だよ。大学に入れなくなったら稼ぎが減ってテレサに苦労させることになる可能性だってある!」

「何わけのわかんないこと言ってるの」

 そうか、テレサには理解できないんだ。常識人であるこの俺が、前科を持つことがどれだけ社会的に不利であるかを説いたところで異世界の住人だから共感なんて出来ないのだろう。

「とにかく、俺はテレサを不幸にしたくないんだ」

「何言ってんの。そんな……前科くらいで不幸になるとは限らないじゃない」

 可能性の話をしているんだよ。

 と、その時、扉の向こうで人の声がした。

「ほら、入れ」

 ギィと耳障りな音を立てて目の前の鉄扉が開き、後ろ手に腕を縛られた二人の女性が目の前に放り込まれた。

 バタンと冷酷な音を立てて、鉄扉は閉じられる。

「モアレ?」

 俺がモアレに駆け寄り、すぐさま腕と脚の自由を奪っていた縄を解いてやった。

「あ、ありがとう」

「どうしてモアレちゃんがここに……?」

 テレサが訊くと、アンガリーが手足を縛られ、横たわった姿のままモアレの代わりに呟いた。

「モアレは、モアレは何も悪い事はしていない。悪いのはアンガリー。アンガリーの考えが浅くて、モアレを死なせることになってしまう。苦しい死が待ってる。ケルエルソウルシンドロームなら、苦しまずに天国へ逝けるはずだった。それが良いことなのかどうかは不明だったけれど、少なくとも、死刑になるよりかは……」

「死刑だって?」

 俺は慌てて訊き返す。すると、

「さっきはごめんなさい。本当は、妹の命を助けてもらって、お礼を言わないといけないくらいなのに、殴ったりしちゃって」

 ああ、やっぱり殴られていたのか。ということは……

「じゃあ、テレサも気絶するほどの力で殴ったのか?」

 だとしたら、いくら謝っても許しておくことはできないぞ。俺はいくら殴られても良いが、テレサに振るわれた暴力には何倍もの暴力で返してやらねば気が済まない。目には目を歯には歯を、だ。しかしアンガリーは首を振った。

「テレサさんのことは殴ったりしていないわ。理解して、自分から牢に入ってくれた」

 そうだったのか。ならば許そう。

「それで……死刑ってのは……」

 俺が再び訊くと、

「そう。この光差さない牢に居る六人は全員、死刑になるのよ。皆みんな死ぬの。アンガリーも、あなたも」

 アンガリーは言うと、ごろんと寝返りを打って背を向けた。縄で縛られた手足が見えた。

「そうか……死刑か……覚悟を決めないとな……」

 俺がそう言った時、

「何でそこで諦めんのよ!」

 テレサが元気の無い俺たちを叱った。大声が密室内に響く。

「もっと元気出しなさいよ! 魔王でしょ! 太陽の光も風も空も無い洞窟じゃあ、私たち魔女の力は使えないの。こんな時こそあんたの剣が役に立つ時じゃない」


 なるほど、言われてみれば確かにそうだ。さすがテレサだ、賢いな。俺は腰に帯びていたはずの剣を手に取ろうとする。

「……って……あれぇ!?」

「え? どうしたの、ピエール」

 なんと、俺の大切な魔王の剣が、なくなっていた!

 魔王の鎧を着ていない今、あの剣のみが俺が魔王であることを証明する身分証明アイテム。それが無いということは、アルバイトに採用してもらうことさえ困難になってしまうじゃないか。いや、違う、問題はそんなことじゃない。落ち着け。一番の問題は、この牢から抜け出せないということだ。一体、どこで落としただろう。『風魔の丘』で群がるカラスに見せ付けたのだから、その時には未だ持っていたということになる。その後だ。たしか、モアレの小屋に戻って……。

 あ……ビンからグラスにネクタルを注ぐ時に、剣を鞘ごと床に置いたんだ……。

「ピエール……剣はどうしたの?」

 テレサは真っ直ぐ俺の目を見つめてくる。俺はすぐに目を逸らした。

「剣……持ってない……」

「あっきれた……」

 テレサは、またゴミを見るような目で俺を見ていた。



「…………」

 あれからしばらく経った。モアレはアンガリーを縛っていた縄を外したが、アンガリーはまるで手足の自由を失ったかのようにぐったりと横たわっている。彼女なりの罪滅ぼしのつもりなのだろうか。あるいは思考全体が絶望に彩られてしまって現実から逃避しようとしているのだろうか。だとしたら、アンガリーばかりずるい。俺だって現実から逃避したい。

「…………」

「…………」

 次の行動が決まらず、無言のまま時が流れる。皆が、魔王の剣を置いてきてしまった俺を責めているような気がした。

 しかし、どうしようもないじゃないか。そもそもテレサがネクタルをグラスに注ぐという単純な行為に手間取らなければ、俺が魔王の剣を床に置くこともなかったんだ。それ以前にアンガリーに気絶させられなければ魔王の剣が無いなんて事態には……。

 いけない。こんな風に他人のせいにする思考そのものが、よくないな。正さなければ。

 今、どうするのが最善か、悪い頭を必死になって働かせて考えてみる。

 クララの雷やテレサの風は使えない。魔王の剣も手元に無い。どうにかすることのできる可能性があるとすれば、ハンザだ。

「ハンザ、ハンザ」

 俺はハンザを揺り起こす。

「……はっ……」

 ハンザが目を覚まし起き上がった。

「……ん……」

 次いでクララも起き上がる。

「ハンザ、起きたか」

「えっと……ピエールさん……? あれ? ここは一体……」

 起き上がり、周囲を見回すハンザ。

「ここは牢獄よ。私たちはぶち込まれたの」とテレサ。

「なるほど……それでこの場所では魔女の不思議な力が使えないから、僕の力が必要だということですね」

 ハンザは状況を一瞬で把握し、知的に言うと、愛用の茶色い鞄に手を突っ込みガサガサと何かを探した。理解早いな、さすが。

「ごめんなさい……アンガリーのせいで……」

 とアンガリーが申し訳なさそうに呟く。するとハンザは、

「大丈夫。アンガリーさんが僕の鞄を取り上げなかったおかげで、僕らは脱出ができる! 君は自分の失策を喜ぶべきですよ! いや、失策ではないな。むしろ今、この瞬間、君が僕の鞄を取り上げなかったミスは多くの命を救う大ファインプレーに進化したんです!」

 そして、

「――七つ道具の一つ、鉄をも溶かす不思議な薬品!」

 大声で言うと、小瓶に入った液体を、小瓶ごと鉄扉に投げつけた。

 パリンと軽い音で小瓶が割れて液体が鉄扉にかかると、じゅじゅっと溶けた。上へと続く細く薄暗い階段が視界に現れる。

「行きましょう」

 ハンザを先頭に、俺たち六人は上り階段を駆け出した。



 狭い階段を、順に並んで走る。

 褐色の肌に白い服、茶色い鞄を肩に掛けた、背も小さく痩せた男ハンザ。

 セミロングの金髪でグレーの服、色白で比較的背の高い女性、アンガリー。

 長い銀髪で同じく服はグレー、色白で背は低い女性、モアレ。

 白い肌、黒い服、集団の中で一番の長身で、長い金髪と大きな胸。料理の上手な、クララ。

 輝く白い肌、黒い服、透き通るような水色のセミロング髪。料理が超下手な、テレサ。

 そして、だいたいが日本人平均レベルの容姿と中身と自負する俺。

 六人の最後尾が俺。そう、真の実力者というものは、しんがりを守るものなのだ。つまり、俺は今いらない子扱いされているわけではなく、頼りにされているに違いない。

 ぱっと、視界を光が包み、開けた場所に出た。階段は終わり、やわらかい雲の上を走る。

 外へ、外へ。できるだけ外へ。

「遠くへ、とにかく遠くへ逃げましょう。このラスカル様の砦から少しでも遠くへ!」

 アンガリーが叫ぶ。

「はい、わかりました」

 ハンザが応える。見かけによらず、とても頼りになる男だ。

 と、その時――

「待てぇ! 貴様ら!」

「逃がすものか!」

「脱獄だ、脱獄だ! であえであえー!」

 カラスだか人だか判断しがたい生き物の群れが俺たちを背後から追ってきた。

 まずい。このままでは一番最初に俺が襲われる。魔王の剣が無い今、俺の戦闘力はゴミ以下だ。魔王の剣があってもテレサやクララに圧倒的に劣る俺だぞ。青い空と白い雲を背景に、黒い肌で黒い槍を持ち、黒い翼で羽ばたきながらやって来るいかにも強そうなカラス人間に勝てる気がしないぞ!

「テレサ! 助けて!」

 俺はそんなことを言う。どう考えても魔王失格だが、死にたくはないから!

「皆さん、先に行って下さい! このカラス兵たちは、アンガリーが押さえます」

 アンガリーは一人立ち止まると、カラス兵たちの進路を塞ごうと大の字に手を広げて立った。

「モアレも、もう引き返せません! ラスカル様に逆らってしまった以上、戦う以外に道はないです!」

 モアレもアンガリーと同じように立ち止まり、勇敢に言った。

 情けなく女の子に助けを求める俺とは大違いだぜ。立派すぎる。

「よし、行こう! モアレちゃん、アンガリーちゃん。ありがとう!」

 テレサが言って、更に走る。

 しかし、カラス兵は一ヶ所から出てきたわけではないらしく、更にまずいことに思ったよりもずっと多く存在していて、そして思ったよりずっと素早かった。

 アンガリーはカラス人間をその体術でもって殴ったり蹴ったりして倒している。

 モアレも念力のような不思議な力で次々と敵を撃墜している。

 しかし、彼女らの強大な力でも全てのカラス兵を止めることはできないらしかった。

 やがて俺たち四人は、別方向からやって来たカラス兵に取り囲まれてしまった。絶体絶命というやつである。じりじりと槍先が迫ってくる。テレサ助けてと叫びたい。

「ハンザ……どうする?」

 クララが呟く。

「おそらくこのソラの街に居る限り、カラス兵の追撃からは逃れられないでしょう。となれば、別の世界に行くしかない」

「別の世界?」

 テレサが訊き返す。

「雲の下……だな」

 と俺。

「さすがピエールさんだ。その通りです。ここは雲の上でしょう、そして上空に雲が無いとなれば、雲の下に以前僕らが居た世界が広がっていると考えるのが自然です」

 ハンザに褒められた。

「そうとなれば話は早いわね。あたしの雷で雲を散らすわ」

「はい、お願いします」

 ハンザが言って、クララは上空に手をかざす。そして、

「――雷よ!」

 大声……しかし雷が発生しない。何故だ。

「ああ、そうか。空に雲が無いということは、雷雲も発生しないということか!」

 カラス兵の槍は、なおもジリジリと近付いてきている。

「じゃあ私の風でどうにかしてみるね……――風よ!」

 テレサが声を発すると、強風が発生。カラス兵の半数が風に押し返された。しかし、目的の分厚い白い雲に風穴を開けることはできなかった。

「万事休す……か」

 力なく雲に手をつくハンザ。カラス兵たちは再び陣形を立て直して近付いてくる。八方から迫る槍の壁。逃げ道は上空しかない。しかし、テレサの風で舞い上がろうにも、相手は鳥人間。空を飛ぶ翼も持っているのだ。

「さあ、覚悟しろ、反逆者ども」

 と、カラス兵の一人が言った、まさにその時――!!

 上空に雲が無い世界のはずなのに、太陽の光は遮られた。日陰になった。

 何事か、とカラス兵たちも俺たちも空を見上げた。そこには――

 広げた翼のシルエット。

「クーちゃん!」

 テレサは、彼の名前を呼んだ。

「くるっぽー!」

 応える白いハト。しかし、姿の点で、俺の知っている白いハトとは明らかに違っていた。

「な、なんだ、あのバケモノじみたハトは!」

 カラス兵だって十分異常だと思うが、しかしそれよりもハトの巨大さが異常だった。

 クーは一気に降下して来ると、俺たちの立つ雲の上に降り立つ。その時、ついでみたいにカラス兵を羽ばたきによって発生させた強風によって吹き飛ばした。テレサの風の威力には僅かに劣るものの、クーは俺よりもはるかに役に立っている。

 クーは、大きくなっていた。三十メートルほどの体長にまで成長していたのは、やはり異常だとしか言えない。魔女の街のハトだからということで説明がついてしまいそうだが、それにしたって……。

 しかし、今、俺が発する言葉は一つ。

「立派になって……」

〔ご主人様、ご主人様〕

 何だ、何か頭の奥に響くような声が聴こえる。

〔ボクです。クーです。ボクには言語を発することのできる物理的な器官が存在しないので、テレパシーを送ります〕

「まさか、この声……クーの声なのか?」

 ハト頷いた。

 どうやらそうらしかった。しかし、俺以外の皆には聴こえていないらしく、テレサたちは俺を気の毒そうに見つめている。おかしくなった人を見るような目だ。今にも「春だからね」とでも言い出しそうである。

〔実は、ボク、ついさっきこの世界にやって来たんです。ボクの小屋のそばに雷が落ちて、それでできた穴から吸い込まれました。その後、ボクはご主人様の気配を探して、とある小屋に辿り着きました〕

 モアレの居た小屋のことだな。

〔そして、そこで黒い剣を発見したんです。近くにご主人様がいないかな、と床を何度もつついていると、何だか甘い香りのする一滴の雫を見つけました。紫色の液体でした。気になったボクは、それを飲んでみたのです。すると……〕

「すると?」

〔ボクの身体はみるみる大きくなり、小屋を破壊してしまいました。そして視界には、ちょうどご主人様の黒い甲冑も、どんぶらこどんぶらこ、と流れて来たのが見えました〕

「なんと。甲冑まで……」

〔その時に、ボクにもう一つの変化が現れたんです〕

「もう一つの変化?」

〔そうです。今まで愚かだったボクにも、知恵が宿りました。そして今、ご主人の恩に報いるためにここに立っているんです〕

「俺への恩?」

〔ボクは、残忍なクララさんに殺されるはずでした。それはボクがハトである以上、受け入れなくてはならない運命だと思いました。でも、ご主人様とテレサさんは、そんなボクを助けてくれた。だから、今こうして、追いかけて来たのです〕

 クーは語り終えると、左足に鷲掴みしていた魔王の剣と黒い甲冑を俺に差し出す。

〔さあ、ご主人様。この魔王の剣ならどれだけ分厚い雲だろうと切り裂くことができます。このままソラの街に居る限り、カラスたちに追われ続けるでしょう。だから――〕

「ああ、わかった」

〔ええ、次の世界に――!〕

 そして俺は、クーから二つのアイテムを受け取った。魔王の甲冑に身を包み、腰には魔王の剣を装備した。美しい刃を持った黒剣を鞘から抜いて、ひいきにしている地元球団の本格派エースのフォームで振りかぶり、ボールを地面に叩きつけるように右腕を振りぬいた。

 ヒュッと、良い音がした。

 次の瞬間、道が現れた。割れた雲海の間から見えたのは――街。見慣れた街だった。



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