第六章 最後の審判
今日は、運動会である。
都会の真ん中にあるグラウンドにおいて、秋の運動会が行われるというのだ。
俺は、体育着を装備して秋の通学路を歩き、そして電車に乗り込んだ。
あの夏――
あの夏、俺が魔王になった夏。
世界の崩壊が予言されていた。
だけど世界は崩壊しなかった。
そして俺は、日常を取り戻したのだ。
日常……といっても、以前とは少し違う日常だったが。
たとえば……隣に座る女の子。
彼女はテレサ。青い髪の魔女。俺の家で一緒に住んでいる。あの白いハトも一緒に。
テレサは俺の恋人……ということになっていて、将来は夫婦になる予定で、俺は彼女のことが大好きだ。
だが、彼女はどうも俺のことが好きだというわけではないような気がしている。彼女が俺の家に住んでいるのも、俺と一緒に住みたいからというよりかは、俺の家の庭に住み着いたデミンと一緒に居たいからではないかという疑惑すらある。
「拙者、ピエール殿をお守りするでござる!」
とラカンスが言って、
「俺も俺も」
とデミンも言って、
今は二人、門番として庭のダンボールハウスで生活している。
テレサがやってきたのはその後だ。
だから、テレサが欲しいのはデミンなんじゃないか、と思ったわけだ。
ちなみに、このラカンスとデミンは俺が登校する時も付いて来ようとしたのだが、さすがにそれは止めて、代わりにテレサを連れて登校するようになった。
そんなこんなで、突然の大量の転校生が入ったなんてこともあった。
大量と言うからには、テレサだけではない。
テレサの妹である金髪の魔女クララ(見た目はクララの方が完全に姉だが)や、ハンザ、そして何と、アンガリーとモアレまでもが同じクラスに転入してきた。
皆、日本人離れした風貌なので、一気に国際色豊かになったように錯覚するが、全員日本語ペラペラでむしろ外国語がムリなので、そんなに国際的な感じでもないかもしれない。
ところで、ラカンスとデミンはどうしているかといえば、家で留守番を命じた。どうも、うちの母親が、
「ラカンスさんしゅてき! 何たる武士! しゅてき!」
とか言って熱を上げ始めたようだったから、かさばる二人には魔王の母親を守るという使命を与えてきた。
親孝行をしたつもりだったのだが、父親がショックを受けて泣きながら家出したようで……世界が崩壊しなかったかわりに、西荻窪家が崩壊したんじゃないかって疑いがあったりもする。
そうそう、アンガリーとモアレが何故地上に居ついたのかといえば、これには三鷹未来が関わっている。
どういうことかといえば、アンガリーとモアレは三鷹未来のピンク色の自転車に書いてあった住所を辿って三鷹家に辿り着いたのである。そして、そこでゴハンを恵んでもらったことで、三鷹家に忠誠を誓い、今はメイドとして働いているのだという。
あと、そういえばハンザとクララの住んでいるところも言っておかねばなるまい。
吉祥寺悟が「自分の家に住んでいい」と言い出したりしたのだが、二人はそれを断って学校の寮に住んでいるようだった。
そんなこんなで、転校生が大量流入した教室で日々を送っていたのだが、今日は運動会。
俺は魔王という立場……そう「王」と名のつくものになってしまった以上、勝負事において敗北は許されないのだ。
だから今日の運動会では、本気を出さねばならない。
幸い、我が軍にはテレサ、クララという魔法という名のインチキを使える味方が居る。更に、超能力を持ったモアレも我が軍だ。いざとなればそれを使うことも視野に入れようではないか。
俺は魔王。
もう昔の平和的な俺ではないのだ。
いざとなれば魔王の鎧でも剣でも持ち出して容赦なく勝ちに行くだろう。それで誰が死ぬわけでもないのだ。だから勝ちに行く。絶対。 何よりもそう、もう愛するテレサの前で不様に敗北を喫するわけにはいかない。何を置いてもそれだけは避けたい。
――と、そんなことを考えているうちに、学校のある駅に着いた。
「降りるよ、ピエール」
テレサに腕を引っ張られる。
「おう……」
降りた。
人の多い駅のホームの階段を降りて、改札を通り抜ける。
駅を出る。
通学路を歩く。
マンホールの蓋の中心を踏む。
再び学校に通うようになって、初めてこのマンホールの中心を踏んだ時、戻ってきた日々の習慣に対する感動に打ち震えたのが記憶に新しい。
と、その時――
「マモルー!」
振り返ると、眩しかった。体育着姿の吉祥寺悟がダッシュで突っ込んでくるではないか。
また今日も抱きついてくるのだろうか。
それにしても眩しかった。悟の体育着姿が眩しいわけではない。悟がいつも身に付けている不思議な色の星型ペンダントに反射したスペクトル光線が、俺の両目を突き刺したのだ。俺は咄嗟に目を閉じながらも、吉祥寺悟の突進を避けた。
我ながら見事な回避だぜ。
そして、悟は勢いあまってボテッとうつ伏せに転んだ。
「はぎゃっ」
そんな声を上げながら。
掛けていたペンダントが転がった。
「うきゅー……アスファルト冷たいー」
と、その時だった。
「未来お嬢様ぁ! 前方にピエールさんとテレサさん、それにお友達の吉祥寺悟様がいらっしゃいますがぁ!」
声のした方に振り返ると、特注自転車(馬車みたいになってる自転車)を駆るアンガリーとモアレの二人と、その後ろで座席に座る快活ポニーテール娘の三鷹未来の姿があった。
「あ、止めて。ここで降りる。二人ともありがとう」
「「いえ、メイドですから!」」
二人揃って返事した。
メイドってのは、自転車タクシーをするのが当り前のものなのだろうか。そんなにメイド界に精通しているわけではないからわからないのだが、なんだかメイドとは少し違う気がする。でもメイド服はそれはそれは文化的で可愛いので、それで万事オーケーだとも思う。
三鷹未来は、座席から降り、アンガリーとモアレの二人も自転車から降りてハンドルを手で持って手で押していくような形になった。
未来はアスファルトを少し走り、近づいてきた。
そして、
「おはよう、サトリ……って……なんで転んでるの?」
「おっはよう、未来ちゃん。うっかり転んでしまったんだよー」
「そうなんだ」
そして俺も挨拶。
「おはよう、三鷹さん」
「あ、おはよう、マモルくん」
三鷹未来はおはようを返してくれた。
「おはよう、ミライー」
テレサが手を振りながら言った。すると三鷹未来は、
「て……テレサさん……おは……おはよう……」
何だかドギマギしていた。
これは聞いた話――情報源は吉祥寺悟――で、何がどうなってそうなったのかさっぱり不明なのだが、三鷹未来のファーストキスの相手がテレサたんなのだという。
テレサは限りなく可愛いからキスしたくなってしまう気持ちも理解できる。だが、テレサは俺の嫁だぞ。三鷹未来への嫉妬フレイムが燃え上がりそうになった。
しかしながら、俺は三鷹未来のことも嫌いじゃない――というか実は好きです――ので、その話を聞かなかったことにした。
ともかく、テレサは平気そうにしているものの、三鷹未来のほうは何となく顔を合わせづらいようで、目を逸らし、あとずさった。
そのタイミングが悪かった!
ばきっ、という音がした。
「ん?」
声を漏らして、足を上げて足元を見ると、そこには――
「あっ……あああぁあああっ!」
叫んだ。
吉祥寺悟の星型ペンダントが、真っ二つに割れていた。
「ご、ごごごごっごごめん! ごめんサトリ!」
「え……」
のっそりと起き上がったサトリの目に、割れた星型ペンダントが映った。
「うっそ……」
驚愕の声を漏らした。
幼い頃からいつも大事にしていたペンダントが、壊れてしまったのだ。
「……………………」
言葉もないようだった。
三鷹未来の家は金持ちである。
なので、お金で買えるものならば弁償できるのだろうが、これはお金で解決できるものではない。
いわば、世界的名画であるモナリザにカビが生えるのと同じようなものなのだ。吉祥寺悟にとって、そのペンダントは何物にも代えられない価値のあるものだ。
昔、小学校の頃、悟のペンダントを男子生徒が盗んで遊んでいたことがあった。それを俺が取り返して悟に渡した時に、悟はペンダントについて教えてくれた。何とそれは、母親の形見なのだという。
それが、それが今、彼女の親友の手によって――いや、足によってこんなにも無残な姿になってしまったのだ。
「こういうときは、あいつを呼ぶしかない」
俺は格好つけた声でそう言った。
「あいつ? だれそれ」
とテレサ。
「そう、色んな道具を持っているあの男だ」
その男なら、おそらく高性能接着剤とかも持っているだろうからな。
「あ、わかった。あの人だね。とうきゅーハンザ、みたいな人だもんね?」
ダジャレじゃねぇか。だがそんなテレサが可愛い。
「ふっテレサ。随分都会になじんできたようだな」
「でしょー。んふふー」
笑ってた。天使かっ。
「それはそうとテレサ。何とかハンザを呼べないか? できればすぐに」
「ん、うん。わかった。……――風よっ」
テレサが上空に手をかざして言った。
すると、黒雲がもくもくと集まって、ここからは見えないが何か文字を表現したようだった。
すると……
「何か御用ですか、テレサさん」
ハンザとクララがすぐに目の前に現れた。まさに電光石火のスピード。
「テレサ、何なの今の雲のメッセージは。恥ずかしいからやめなさい」
「はーい」
「おいテレサ、何ていって呼び出したんだ?」
「んとねー、『ハンザくん、クララはあずかったぁ。かえしてほしくばカモン』って雲で文字書いて」
「あたしはハンザと一緒に居たのにね」
溜息混じりにクララが言った。
その時、「あ、あう……ペンダントが……」という悲しげな声が耳に入ってきた。ふと声のした方を見ると、ペンダントの破片を拾い上げながら、悟が慌てている姿があった。
「ごめん、ごめんね、サトリ。ごめん、ごめんごめん……」
三鷹未来は謝罪を続けながら悟の背中に手を置いている。
そして、ハンザが悟の姿に気付いた。その手にあった壊れてしまったペンダントにも。
「そ、そんな! あのペンダントが壊れてしまったということは……またあの――」
そう言いかけた瞬間だった。
どごーーーーん!
アスファルトを付き破って再びの登場を果たした六角錐の塔。
それだけで超常現象で、それだけで大災害だった。家とかいくつか吹っ飛んだし、アスファルトが捲れ上がった。
「何だこの展開……」
俺は頭を抱えて呟くしかない。
塔は、ちょうど学校のあたりからニョキッと天空に向かって生えた。
「あぁ……これは……運動会は中止かなぁ……」
「ピエールさん、そんなこと言ってる場合ですか?」
と冷静なハンザ。
「なんか、打ち上げられた家から人が零れ落ちて……高所から落下しているように見えるのは気のせいか……?」
俺は言った。あの高さから落ちたら人は……。
「それなら大丈夫、ネクタルの風を吹かせておくわ。それで人は一回くらい死んでも生き返るもん」
テレサが言って、懐からネクタルを取り出して口に含むと、それを飲み込んだ。
その後で上空にビンを投げると、クララが雷撃でそれを割る。
後に巻き起こった強い風によって霧状になり、街を覆うように散っていった。これで、ひとまずみんなの命は救われただろう。
悟の様子をもう一度見てみると、
「あれ……直った……」
いつの間にかペンダントが直っていたようだ。それを素早く首にかける。そして、
「うぇえええええっ! 何あれ!」
六角錐の塔の存在に気付いて驚いていた。ようやくその異常事態に気付いたようだった。
何というか……さすがマイペース娘……。
「運動会は……?」
「おい悟、そんなこと言ってる場合じゃないだろ」
俺が言ったが、アンガリーとモアレが声を揃えて、
「「それピエールさんが言うのおかしいと思います!」」
久しぶりに喋ったかと思ったら、ツッコミとはな。
「とにかく、あの塔に行ってみようよ」
テレサがそう言って先頭に立って歩き出した。
俺、ハンザ、悟、未来、アンガリー、モアレ、クララは突如学校の現れたその塔に向かって歩き出した。
学校の敷地内に入ると、どういうわけか人が居なかった。
「何でこんなに閑散としているんだ……」
俺が呟いた時、
「我が人を移動させたからだ」
問いに応える者が居た。
それは……。
「あ、あんたは……予言者、バンジョウ!」
それは、かつて俺をピエールにした男。俺を魔王に育てた男だった。
地底の街の予言者バンジョウ……その男が何故ここに!
そして、
「わたくしも居ます」
それは、魔女の街の予言者、ハーラーンだった。
「二人とも……何故ここに……」
言った時には、俺とハンザを残して皆倒れていた。
「何だ、何だこれ……」
俺は頭を抱えた。
「わたくしがやったのさ」
とハーラーン。
クララ、悟、未来、モアレ、アンガリー、そしてテレサまで、倒れていた。
どうやらハーラーンの魔法によって眠らされたようだ。
「わたくしは魔女の街の予言者でもあり最高位の魔女でもある。眠りの魔法などたやすいこと」
立ち尽くす俺とハンザに向かって指を差した。
「…………」
ハンザは黙っている。
かと思えば今度は動き出し、吉祥寺悟に歩み寄った。
何だろうと思っていたら、悟の首からペンダントを外し、ギュッと握った。
「何を訊かれるか、わかっているはずだ、魔王様」
バンジョウはそう言った。
魔王である俺は首をかしげる。何が何だか、わけがわからない。
「ええ、わかっています」
ハンザがそう言った。
「んんっ!?」
俺は傾けていた首をさらに思いっきりかしげた。
更に何が何だかわからない。
魔王といわれて、何でハンザが返事をしたんだ?
何だこれは、何だ!
世界で何が起きている?
何だかよくわからない汗が出て、止まらない。
俺こそが魔王で、魔王ピエールなんじゃないのか!?
そうじゃなかったら、何だったんだ今までのことは。
魔王だ。そう魔王。俺は魔王だ。
魔王ピエールだ。
魔王の剣も鎧も、家に帰ればそこにあるんだ。
俺が魔王じゃないなら、テレサは――。
魔王だ。俺は魔王。魔王だ。
なのに、何が起きているというんだ!
「よろしい、ならば答えをください、魔王。我らは魔王の命令に従うのみ」
バンジョウは低い声でそう言った。
答え?
答えって何だ。
わけが、わけがわからない。
そして、ハンザが答えた。
「僕は、僕自身はどっちでもいいんです」
と。
「何?」
驚いた顔のバンジョウと、表情を崩さないハーラーン。
「僕は、地底で育ちました。その地底の街こそ……竜族の末裔が生きる場所。地下の黒い川の水を飲み、石を食べて生き永らえてきたのは、竜族……かつて高度な文明を持ちながら滅びた竜族……そういうことでしょう? でも、僕が生まれたのは……」
「そう、地上だ。知っていたのか?」とバンジョウ。
「吉祥寺悟さんが、同じ形のペンダントを持っていたから、薄々とそうなんじゃないかと思って、それに、彼女の母親を見た時、懐かしい感じがしたから。僕は、僕はきっと、竜族の血を引いた……人間……なんだと思います」
「さすがだな、ハンザ。その通りだ」
とバンジョウ。
「そして、魔女の街も、地底にある。地底に空を描いて、魔法を用いて地上の空気をそれなりに再現していたけれど、地上とは明らかに違っていた」
「その通りよ、ハンザくん」
とハーラーン。
「そ、ソラの街はどうなんだ。あそこも地下だって言うのか?」
俺が口を挟んだ。
「いえ、違いますよピエールさん。あそこは、雲の上です」
ハンザは頭上を指差して言った。
すると今度はバンジョウが語り出す。
「我ら竜族は、人類と共存していた。文明は栄え、この塔を見てもわかる通り、高度な技術を持っていた。だが、竜族は、謎の病によって滅びかけた」
「ケルエルソウルシンドローム……」
俺が呟く。
「そう。そこで地底に逃れた我々とソラに逃れた者たちとに別れることとなった。やがて来る復活の日のために、我らは地底で時が来るのを待った。そう、病の消え去った地上から、魔王が降りてきた時を」
とバンジョウ。すると今度はハーラーンが、
「そうさ、そしてソラの雲の上に世界を展開させたのが、ラスカルアルタミーラ。あの女は過激派でね。どうにも好きになれないんだけど、ネクタルって特効薬を作り出したのは偉業だよ。でも、残されたほんの数人の竜族の他はカラスばかりだからねぇ。地上を攻め取るってのは無理だったんだよ」
と言った。
何が何だか、わからない。
「こ、この塔は何なんだ」
俺は訊いた。
「この塔の中には、我らの文明が凍結されて閉じ込められている」
バンジョウが答えた。
「解凍すれば最後、この世界は上書きされて、今度は地上が地下になるということです」
ハンザが補足した。
「して、ハンザ。どちらでもいいということは、人類が滅びをむかえても良いと、そういうことか?」
ハーラーンがハンザに訊ねる。
「そうですね……でも、できれば第三の選択肢を選びたいです」
「第三の……?」
「我らの世界が崩壊することを望むというのか?」
「違いますよ。互いに別世界として共存するんです」
「現状維持……ということか?」
「はい、バンジョウさんの言うとおり、ある観点から見れば現状維持です。でも、確かにそこに竜族の世界があることを知っている人間が、少数でも存在するなら、それでいいじゃないですか。これは、僕が人間だからそう思うのかもしれませんが……」
「だが、地底には太陽が無い。我らが夢見るのは、太陽の下での生活……」
「バンジョウさんもハーラーンさんも、人間の姿を保てるのなら、好きなときに地上に出てこられるじゃないですか」
ハンザが言うと、バンジョウは興奮して叫んだ。
「仮の姿だ! 我らは真の姿で空を飛び回り、自由に……。ひっそりと地底でなど、もう……もう……」
「落ち着いて、バンジョウ」
大袈裟な身振り手振りで熱い思いを表現するバンジョウをハーラーンがなだめた。
「ソラの街に行けば――」
とハンザが言い掛けたが、
「それはムリだわ」
ハーラーンが遮るように言った。
「どうしてです?」
「今さら、ラスカルアルタミーラと共存なんかできやしないし、あれを倒すこともできないだろうさ。何より竜族同士が戦うなんて、もうゴメンだよ。だから、なるべく刺激しないようにしてるのさ」
何やらいろいろあるらしい。
「とにかく僕は戦わない道を選びたい。今の世界を壊すことなく。だから、どうしてもと言うのなら、僕は育った地底や、凍結された竜族の文明の方を壊す選択をします」
「ハンザ……」
呟くバンジョウ。
「失敗に終わったみたいねぇ、バンジョウ」
ハーラーンは悲しそうにそう言った。
「そのようだ。だが、魔王がこう言うのだから仕方が無い。我らはそれに従う存在なのだ」
「……バンジョウさんは、以前、言ってましたよね。僕がまだ子供だった時、『悩んだ時は、コイントスをしてみるといい』って。それで自分の本当の気持ちに気付けるはずだって」
「あぁ、そんなことを言ったのかもしれんな」
言ったらしい。俺は聞いたことないが、ハンザとバンジョウは地底で長い間過ごしていたようだから、そういう話もしたのだろう。いかにもバンジョウが言いそうなことでもある。
「僕は、バンジョウさんからもらった五百円玉でコイントスをしてみたんです。どうにも答えが出そうにない問題だったから。それで、何回も何回もコイントスをして、両方の結果が何回か出て、それで、思ったんです。『僕は、消滅も上書きも選択したくない。別の方法を考えたい』って……その、自分の気持ちに……。僕が生まれたのは地上。僕が育ったのは地底。そのどちらもが残るためには、何も起こさない方が良いじゃないですか。消極的と言われようが、動かないと何も起きないと言われようが、何も起きないことにだって大いなる価値があるんだって、僕は思います。地底で戦争があった時、ピエールさんは戦いの中にありながら平和的に戦いを解決しようとしました。少しバカっぽかったですけど、結果的に戦いは終わった。あの出来事で、僕は思ったんです。戦わないこともできるかもしれないって。だから、僕は……このまま、今のままが一番だと思うんですよ」
そして俺は言った。
「テレサも運動会、楽しみにしてたしな」
と。
「……………………」
「…………」
どうやら無視されたようだった。
「とにかく、魔王の決定が下されたのだ、我らは地底の街に戻るぞ」
「そうだねぇ」
そして、次の瞬間――
しゅるるるるるる。
反時計回りに回転しながら六角錐の塔は地面に吸い込まれていった。
その後には、何事もなかったかのように、元の世界が広がっていて、塔があった場所には元の学校と校庭があった。
振り返れば、テレサもアンガリーもモアレもクララも、消えることなくそこに居た。
よかった――。
俺は心の底からそう思った。
こうして地上の平和は守られたのだ。




