プロローグ
ガタタン、ゴトトン。
電車の走る音がする。俺はいつもと同じ服装で、吊革につかまり、いつもと同じように流れる景色を見つめていた。
ビルが棒グラフみたいに立ち並び、大量の電波が飛び交う。電車に乗って十分ほどかけてやって来たこの東京都心は、今日も電磁波まみれだ。
俺の名前は、西荻窪マモル。良い名前かと問われれば、嫌いじゃないぜと答えたい。そもそも嫌いなものなんて俺には少ない。この世のほとんどを俺は愛していて、この世界の全ての人を幸せにしてやりたいとさえ思っているんだ。
さて、どうだろう。二十一世紀になって少し経った今、この世界は平和だろうか。皆が幸せを感じて生きているだろうか。「答えは否だ」と叫びたい。幸せを実感して生きている人なんて、いないに等しい。たとえば、この電車の車両内に居る人々の表情をぐるりと見渡してみると、皆シケた面だ。皆、何かに怯えて生きているみたいで、それで果たして本当に生きていると言えるのだろうか。
と、そんなことを考えるだけの余裕がある自分を幸せだと思ったが、自分をスペシャルに幸せだと思い込むにはまだ早い。
だって、俺はまだ、高校に入ったばかりの若者なのだから。
電車を降りると暑かった。
すれ違う女の人の声が、既に去年の最高気温を上回ったという聞かなければよかったと思うような情報をもたらしてくれた。どうやら駅の外は更に暑いらしい。夏だから暑いのは当然と言えば当然なのだが、それにしたって暑過ぎる。既に小龍包になったような気分だ。
今日は七月序盤のとある平日。俺は高校生なので登校しなければならない日であった。暑いからさっさと夏休みになれよ、と心の中で文句を言いながら通学路をいつものペースで歩いていく。やはりアスファルトの上は思わずネクタイを緩めて第二ボタンまで外すほど暑い。太陽が十個くらいあるんじゃないかと思えるくらいだ。だとしたら射ち落としたいぜ。
こんな記録的な猛暑の中で登校という行為は初めてだったとはいえ、いつも通りの一日が繰り広げられるんだろう、と……この時の俺は思っていた。
だが、そんなことを考えてすぐに、目前の通学ルートに異常が現れた。
マンホールのフタが、開いていたのだ。
覗いてみると、底が見えなかった。
俺は毎日、このマンホールのフタの中心を踏んで学校へ行くのが日課なわけだが、この状態では、それができないではないか。毎日のルーティンワークを乱す誰かの悪戯を嘆きたい。
ちなみに、俺が何故工事中や作業中ではなく悪戯だと判断したかと言えば、注意を促す看板とか、そういったものが何もなかったからである。それどころか、外されたフタも見当たらない。羽目を外し過ぎた酔っ払いが持って行ってしまったか何かしたのだろうか。もっとも、マンホールというものが只の酔っ払いに簡単に外せるようなものだとは思えないが。
とにかく、その穴にだけは落ちないようにと注意していたのだが……。
「マモルー! おっはよー!」
全てのタイミングが悪かった。
振り返ると、眩しかった。声の主がいつも身に付けている銀色の星型ペンダントに反射した太陽光が右目に入ってきたのだ。咄嗟に右目を閉じたところで、一人の小柄な女子が突進して来た。
「おっと」
目を閉じながらも、いつもと同じように小柄な彼女の突進を避けた。いつも通学中に俺を見ると抱きついて来る友人の吉祥寺悟の突進をマンホールとは反対方向にステップして避けた。だがその時、吉祥寺悟の親友、つまり友人の親友である三鷹未来が快活ポニーテール髪を揺らしながら愛用のピンク色の自転車に乗って、猛スピード。吉祥寺の突進を避けた俺をひき殺さんとする勢いで突っ込んできていた!
「キャァアアアア!」
悲鳴と共に、ハンドルをマンホール方向に切った三鷹未来は、自転車ごとギュルギュルスピンしながらマンホールへと向かって行く!
「危ない!」
俺は叫んだ。
もしもあのマンホールに落ちたらどうなる?
少なくとも無傷ではいられないだろう。助けよう。助けなくては!
世界がスローモーションに見える。何の音も聴こえない集中世界の中で、俺は自転車ごと落ちそうになる黒髪ポニーテール娘、三鷹未来に体当たりした。肩をぶつけて弾き飛ばした。
「キャァ!」
自転車から離れた三鷹未来の身体は、マンホールの一メートル手前にドサリと落ち、そして俺は……ピンクの自転車と共に穴の中へと落ちた。
「うわぁあああああああああ!」
叫んだ。
まさか……こんな所で死ぬ……のか?
光が遠ざかっていく。どんどん小さくなって、やがて……見えなくなった。




