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橋のおちる水のあふれる

作者: 立田


 生まれてから死ぬまでずっと同じところに住むのだと信じていたころ、どぶ川の傍に家があった。川といっても下水溝のようなもので、コンクリートで固められた急な斜面に挟まれて黒く淀んだ一筋の水。深さは優に子供の身長を超えており、大人達は足を滑らせ落ちれば溺れるとその近くで遊ぶことを禁じていた。けれど行きに帰りに橋代わりに架けられた一枚板を渡らねばならず、そのたびにいつもそこを覗きこんだ。重油のようにねっとりとひたすら暗い水面からは、映る顔が判別できないほど遠い。それでも時には水底から泡が腐臭と共に浮かび上がっては弾けるのが見えた。行きどころなく漂っては沈む野菜の切り屑ビニール袋、酔っぱらいの吐瀉に猫の死体。捨てられたものの行き着く所。

 雨が降るたびに、水が溢れやしないかと、駒野は怖くてたまらなかった。



 アノオンナクソムカツク。

 片仮名ばかり並べたような言葉に、駒野は引手にかけた手を止めた。男子校のここで女というからにはそれは教師の自分のことを指すに他ならない。自分が去った直後に悪口を言い始めるとは良い度胸だと、自然に皮肉な微笑が形作られた。

「ちょっとくらい若いからって期待してたオレ馬鹿みたいじゃん?」

「化粧もしてねえよな、あれは。何しててもすげえ無表情。怖えっての」

「駒野ってさ、あいつ不感症だぜきっと」

「言えてる、つうか処女じゃねえの? あんなん相手にする奴いねえって」

「ドブスであの表情、どんなにガンバっても萎えちゃいマース」

 性に対して興味ばかり先走る年頃、話題は自然とそちらに向かう。経験も全く無いか、あっても毛が生えたようなものだろうにご苦労なことだ。教室に置き忘れた物は今日中に必要だが、今この戸を開けてしまうと、この馬鹿共に何らかの処置を取らなければいけないのが面倒だった。後で戻ってこようと踝を返そうとしたところで新たな声が会話に参入した。

「でもさーあのヒト、脚キレイじゃね?」

「オマエは女だったらなんでもいいのかよ!?」

 心底呆れたような叫びに、梶はやらせてくれりゃあどんなんでもいいんだろ、と下卑た声が重なる。キレイな顔したおぼっちゃんの癖にオマエはやりかたがあくどいんだよ。ちょっと前まで四股かけてただろ、えオレは五股って聞いたぜ。

「でもさオマエ本命ができたとかいうウワサはマジ?」

「そうそうカノジョ達もいっぺんに切ったって!?」 

「あーしかも片思いなんだろー? この前の旅行で告白する時にプレゼントとかって携帯ストラップ買ったとか聞いたぜ?」

「ストラップかよ貧乏くせえな」 

「うっせ、ってか誰から聞いたんだよそんなん」

「オレ達の情報網を舐めちゃいけませんよ梶クン? で、相手は誰だ?」

 さっさと吐けよ、オレ達の仲だろー。伸ばした語尾にあわせて、吐け吐け、の大合唱がはじまる。それと同時に駒野は金縛りが解けたように後ずさった。息を詰めたまま廊下を死に物狂いに歩いて、逃げ出した。


 この脚を切り落とせばお前は見るのをやめるのか。


 修学旅行の日程にはガラス工房の見学も含まれていた。黒一色の学ランが可愛らしい細工物の間をぞろぞろと歩き回っているのは不似合いな光景だったが、土産物の購入を生徒達はそれなりに楽しんでいるようだった。自分でも家族や数少ない知人へ小物を買い求めた後、壁際でその様子をぼんやりと眺めていた。

「駒野センセイ」

 聞き慣れた声が横からかかる。旅行で羽目を外しがちな生徒を上手くまとめているクラス委員が、それでもやはり疲労は隠せない顔のまま、片手に持っていた色とりどりの携帯ストラップを揚げて見せた。

「女の子に買うとしたらどの色がいいと思う?」

「それは訊ねる相手を間違えてるな」

「でも他に女のヒトっていないし。てゆうかセンセイまだ二十代じゃんか」

「後半だ。彼女にか?」

「いやまだ。これから告白すんの」

「そりゃまあ……ご苦労なことだな。何人目だ?」 

 ついそんな軽口をたたいてしまったのは、まったく自分らしくなかった。旅行前の打ち合わせで連日顔を合わせていたせいで、知らぬうちに馴れ合ってしまっていたのだろう。

 あ、ひでえ、と軽くかわして彼は笑った。センセイの耳にまで入るなんてどんな噂たってんだよオレ。でも今回はホントに本気でさ、純情片思いなの。どんな色が好きなのかも知らないからさ。

「じゃピンク」

「うわ投げやり」

「と言っても他人のノロケを聞く趣味はないしな。女の子といったらやっぱりピンクが好きなんじゃないか?」

 ふーん、と梶は紐の中から薄桃色のガラスビーズが付いているものを選び出した。親指の先ほどのぽってりとした球の中、金と銀の細い線が螺旋を描いている。それをつまんだ手の指が随分骨ばっているのに気がついて、駒野は何となく目をそらした。

「じゃあさ、センセイとしては、これが好きなんだ?」

 その時、相手の目の奥をよぎった何かにもっと心を留めておけばよかったとでもいうのか。思い過ごしだと思い込んだのがいけなかったというのか。

 自分の周りを囲むどぶ川を越えるものなどないと、絶対の信頼を置いていたのが悪いというのか。

 旅行から帰ってきた翌日、教卓の引き出しに押し込まれていた見覚えのあるロゴ入りの小さな紙袋を認識した瞬間、身体の隅々から一気に血が引いたのを憶えている。

 彼は川を渡って侵入するつもりなのか。それとも自分を引きずり出せるとでも思っているのか。これまでずっとどぶ川に囲まれて駒野は安全だった。何も来ない代わりに誰にも傷つけられはしない。

 無かったことにすると決めても付きまとう視線までは遮断できなかった。瞳孔と虹彩の見分けがつかないほど黒い瞳が一挙一動を辿っている。意識してしまえばそれはあの水面が上昇しているような奇妙な圧迫感をもたらした。


 その目を抉り出してやろうか。それとも自分の目を失えばもう何も感じないだろうか。


 水位の上がっている時に橋を渡ってはいけない。橋と呼ぶのもおこがましいボロ板に足をかけてしまえばもう戻れない。一方がまず落ち、もう一方も水に沈む。前に進めも後ろに引き返せもせず、川は容赦なく溢れる。腐臭漂う川にひとり取り残され、いくらもがいても甲斐なく最後は溺れる。 

 あれはどぶ川、廃棄されたものの終着点。

 お前はそこに自分まで沈めろというのか。



 一時間ほど前から降りはじめた雨のせいで、暗くなるのが通常より早かった。他に行くところも思いつかず逃げ込んだ準備室、ドアがノックされるまで電気を点けもせず駒野は座ったままでいた。

「日誌忘れてたよ」

 さっき教室の外に居たんだろ、他の奴は気づかなかったと思うけど足音が聞こえたよ。

 許しも得ずに準備室に上がりこむと、梶は日誌を机の上に放り投げた。雨降ってんな、と溜息のように独り言のように言葉が紡がれる。返事が出来なかったのは恐怖のせいだ。

 川から溢れ出すのは水だけではない。捨てられ息を潜めていたものたちが泥から再び浮き上がる。それを見るのが怖かった。溺れるのはもっと恐ろしい。水底に沈む覚悟などなかった。

 オレはセンセイ結構美人だと思うけど。窓の外を眺めながら、いっそ子供のような口調で梶は続けた。今となっても抵抗する駒野を突き落とすように。それにしてもセンセイ、オレのこと好きだよな。

「もうわかってんだろ」

 わかっている。わかっていた。

 橋は落ち水は溢れ最後にはすべてが泥へと沈む。

 梶の暗い瞳には映っていないのだろうか、こんなにも結末は明白だというのに。 

 ここは橋の上だ。一枚板の上だ。下には累々と残骸が泥に横たわる。静かに溢れはじめた水に土はぬかるみ、橋は足をかけた瞬間から川へと滑り落ちている。

 もう戻れないと思った。もう引き返させないとも思った。もはや抗うことを止めて身を任せた。沈む時自分は相手をも泥の中へ引きずり込もうとするだろうか。それはまだわからなかった。

 返事をする努力を放棄して、振り向いた梶に自分から近付いた。外した眼鏡を机に置いた際の微かな硬い響きだけが、降りしきる雨と息遣い以外に聞こえた唯一の音だった。二人とも目を開いたままで口づける。顔越しに見えた夜は淀み暗い。昔見下ろしたあの川面のように、今こちらを見つめている瞳のように。

 水とともに何が溢れるかなど、考えたくはなかった。



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