削られた愛の付け足し方
「あなたが若い女の子と浮気をしている夢を最近よく見るのよ。その女の子が微笑みを浮かべながら『知宏さんは私が幸せにします』って言うの。もしかして、本当に浮気してる?」
キッチンの換気扇の前で、スマホ片手に電子タバコを吸っていると、隣で食器を洗う妻の安恵から、不意にそんなことを言われた。彼女の声はどこか不安を孕んでいる。ややこしい夢を見たものだ。俺はスマホから目をそらさずに、そっけなく返した。
「まさか。こんな腹の出たおっさんが、そんな若い子と付き合える訳ないだろう? それに面倒なだけだ。浮気なんて」
呆れ声になっていたと思う。三十二歳のときに七歳年下の妻と結婚して、もう二十年が経つ。誰がこんなくたびれた中年を相手にするというのだ。
「そうだといいんだけどね。起きたときにいつも嫌な気分になるし」
それだけ言った後、蛇口から流れる水の音がきゅっと止まった。妻の気配が遠ざかっていく。
なんで彼女はそんなことを言い出したのだろうか。俺は気になって検索をかけてみた。
『妻 旦那が浮気する夢を見た』
どうやら、夫を失うことへの不安や日々の寂しさが映し出された心理の表れだということらしい。その結果を見て、どうしてか優越感で心が満たされていく。だけど、間違い探しで最後の一カ所が見つからないような、妙なモヤモヤ感も残った。
俺は年子の娘と息子が生まれてからは父親として、浮気なんか一切せずに、家族を養ってきた自負がある。俺の父親がそうであったように、それを見習ってきた。
あんなに幼かった子供たちもすくすくと育って、今や二人とも大学生だ。ずっと家族のためを思って仕事に打ち込んできた。どこに夫を失うような不安や、寂しさを覚えるようなシチュエーションがあるというのか。
それにしても、幸せにします――この一言が妙にひっかかる。妻の心の奥底では、まだ俺を男として幸せにしたいと思っているのか。残念ながら、こんな歳になってという気分の方が強かった。それに俺自身、今更彼女を女として見る気もない。昔読んだ本に「古女房を抱くのは修行」というコラムがあったが、まさにその感覚に近いと思う。
夜。二階の自室でネットサーフィンをしているとスマホが振動した。画面には妻の名前。食事の合図だ。俺は電話に出ずにそのまま切り、一階のリビングへ向かう。
すでに夕食がテーブルの上に置かれている。妻がぽつりと座っていた。子どもたちはバイトで家にはいない。
椅子に座り、食事の挨拶も交わさずに箸を動かした。ただ焼き魚をほぐして、黙々と口に運ぶ。
沈黙に耐えかねたように妻がおずおずと話しかけてくる。
「なんか最近ね。自転車に乗ってると息苦しくなって、めまいがするときがあるの」
気持ちが一瞬で沈んだ。そんなの、俺にどうしろというんだ。
「病院できちんと診てもらう方がいいんじゃないか。素人がどうこうできる話ではないだろう?」
そう言い捨て、食べ終えた後に食器を流しへと持っていった。軽くすすいだ後にシンクへ置く。妻がなぜかしょぼくれた顔をしている。俺はすぐに二階へと戻った。
日曜の夜に気が重くなるのはいつものことだったが、妻の一言がそれを加速した。彼女はわざと俺を苦しめているんじゃないかとさえ思えてくる。
――次の朝。妻と二人で無言の食事を取る。子どもたちはバイト疲れでまだ夢の中だ。妻が、押し殺した声で話しかけてくる。
「……ねえあなた。子どもたちが大学を卒業したら、別居しようと思うの」
その一言で、俺は蓋の外れたマンホールに足を踏み外してしまった気分になった。
「どうしたんだい? いきなり」
「別に。きっとあなたも……その方が嬉しいと思って」
嬉しい……確かにそうかもしれなかった。正直、自由な時間と身分を手に入れた自分を想像し、心が踊ったのは事実だったから。
思えば今までずっと家族のために人生を切り売りし、稼ぎを捧げてきた。外食を控え、遊びにもいかず、ただ生活費を納め、子どもたちの学費を貯める毎日。
だけどそれは苦痛ではなかった。奨学金を借りた学生が借金地獄で困窮するニュースを見るたび、そんな思いを子どもたちに味わわせるよりは、その方がよっぽどマシだと思っていたから。
そんなことを考えているとすぐに、踊っていた心は鳴りを潜めた。
もっと上司に媚を売って、上のポストに引き上げてもらえばよかったのかもしれない。だが俺は要領が悪く、出世とは無縁の世界に生きていた。
……こんな稼ぎも少なくて甲斐性のない男だったから、一緒にいる妻にも惨めな思いをさせ続けていたのかもしれない……別居することで彼女が楽になるのなら、それでもいいと思った。
「そうしたいのなら、別に構わないよ」
あからさまに、妻の顔に失望の色が浮かぶ。
「本当にいいのね……」
妻はそれ以上何も言わなかった。そしてこの日から、彼女との会話が消えた。
――会社の喫煙室で、俺は同期の佐山と二人、話し込んでいた。
「なあ、佐山。別居を切り出されたよ。色々と考え抜いた末にオーケー出したら、それから全く会話をしてこなくなった。必要な連絡がメッセージで送られてくるだけだ」
電子タバコをふかす。霧のような蒸気が甘ったるいフレーバーの匂いを漂わせながら、ガラス張りの部屋の中を彷徨う。
「ん。お前のところ、そんなに夫婦仲悪かったっけ?」
「悪くないと思ってたさ。俺なりに気を使っていたつもりなんだがなあ。理由がさっぱり分からなくてな。きっと稼ぎが悪くて愛想を尽かされたのかもな」
佐山は眉をひそめ、タバコを口に咥えながら考え込んでいる。
「そんなものなのかね。稼ぎが悪いのが原因なら、とうの昔に逃げ出してそうなもんだけどな」
身も蓋もない分析に、俺は少し返答に詰まり、話題を逸らすように聞いた。
「そういうお前のところはどうなんだよ」
「ぼちぼちってところか。まあ、今週末は久々にラブホテルに行くけどな。ラブホデートってやつ?」
その『ラブホテル』という一言に、衝撃を受けた。中学生のとき、車に跳ねられたことがあった。それと同じぐらいの衝撃ではなかろうか。思わず佐山を凝視する。
彼は俺には見向きもせずに、口が滑ったという顔をして、辺りをキョロキョロ見回していた。俺たち以外に誰もいないことを確認し、ホッと胸を撫で下ろしている。半信半疑のまま、引きつった声で彼に尋ねた。
「……なあ。やっぱり……あれもする……のか?」
「おう。俺も負けられないと思ってな」
「負けられない……って何に対してだ?」
「フランス人夫婦。だいぶ前に動画で見たんだけどさ、七十歳とかになってもそっちの方、現役らしいぞ」
突然出てきたフランス人の話は初耳だったが、歳をとってからもその行為を続けることに、何の意味があるのかとも思った。
佐山はプーハーと豪快に煙を吐き出した。
「勿論それだけじゃないけどな。最近のホテルって凄いんだぜ」
その後も彼は、露天風呂がついているだの、料理のクオリティが高いだのと熱っぽく語っていた。相槌を打ちながらも、俺の頭は別のことでいっぱいだった。
佐山夫婦がおしどり夫婦なのは、社内でも有名だ。彼のデスクには最近撮ったであろう、仲睦まじい二人の写真が飾られているし、見せてもらった弁当の白飯にはふりかけでハートマークが描かれていた。ちなみに俺の弁当はいつもシラスがかかっている。
なぜこんな歳にもなって、そこまで妻を女として愛せるのか。逆に妻の方も夫を男として愛せるのか。俺にはその感覚が、さっぱり分からなかった。
そんな考えに耽っていると、彼の声が耳に入った。
「なあ田原。奥さんのこと、家事をやってくれる以外で好きなところある?」
「……」
俺は佐山に何も言い返せなかった。子供が生まれてからはずっと、妻を主婦として見ていたから。なによりも彼女の内面を何一つ見ていないことに気付いた。
そんな俺の気持ちを見透かすように、彼は吸い殻を水の入った箱型の灰皿にポイと捨てた後、俺の肩をポンと、軽く叩いてきた。
「お前も一回、行ってみたらどうだ? 奥さんの魅力を再発見できるし、なによりきっと喜ぶぜ」
「……そうだな。考えてみるわ」
適当に返事をしたものの、その日は一日中、頭の中が『ラブホテル』でいっぱいだった。隣で元気にパソコンに向き合う佐山を見るたび、思わず彼らの営みまで想像しそうになる。俺は慌てて首を振って妄想を打ち消した。
それに、佐山のデスクの上に飾られているツーショット写真が、やたら気になって仕方がない。俺も、少しだけでもいいから、妻のことを気にかけてみようと思った。
午後九時。帰宅すると、妻と子どもたちはもう夕飯を終えていた。テーブルにはラップのかかった生姜焼きとサラダが置かれている。
俺は一人でそれを温め、ご飯と味噌汁を用意した。
「いただきます」
静まり返ったリビングに、自分の声だけが妙に大きく響く。
リビングの隣、ふすまで仕切られた和室から妻の気配がした。俺は口に入れたものを飲み込み、ためらいながらも声を張り上げた。
「美味い!」
すぐにしんと静まり返る。顔に熱が籠もっただけだった。何をやっているんだ、俺は。
ふた口目を口に入れ、無心で噛んだ。次は何て言うのが自然だろうか。思考の迷宮に入り込もうとしたそのとき、ふすまがほんの少し開いた。
「……どうしたの? 急に大声を出して」
隙間から、困惑と心配の混じった表情でこちらを覗き込む、妻の顔が見えた。
「あ、その。何だ。美味しくてついな……」
ふすまがスッと大きく開いた。妻が訝しげな表情のまま、俺の方へと歩いてくる。
「いつもと変わらない味付けよ。どういう風の吹き回し?」
なんて答えようか。下手に言い訳しても余計嘘くさく聞こえるかもしれない。思っていたことをストレートに言い放つことに決めた。
「ありがとう……」
本当は「いつもご飯を作ってくれてありがとう。とても美味しいよ」と伝えたかった。だが実際に口から出たのは、蚊の鳴くような掠れた一言だけだった。
「……」
妻は黙ったまま、何も言わなかった。俺は目を逸らさずに、彼女の顔をまじまじと見つめる。綺麗に黒く染められた髪の生え際だけが、白くなっていた。
それが、俺が妻にかけた苦労の重さのように思えて仕方なかった。
「……ごめん」
自然と口から謝罪の言葉が漏れていた。何に対して謝ったのか自分でも分からない。
そんなことを考えている俺に対し、妻の口から出てきた言葉は思いもよらないものだった。
「浮気しているのならそう言って。別に止めやしないから」
「待て待て待て。なんでそうなる!?」
頭の中が、ぐるぐるとかき回したシチューのように混乱した。
訳が分からなくなり、妻を抱きしめた。彼女は思いのほかやせ細っていて、身体から温もりのある体温だけが伝わってくる。それだけで、ぐるぐると渦巻いていた混乱が、嘘のように引いていく。
「俺は浮気なんかしてないし、これからもするつもりもない。前にも話した通り、そんなの面倒くさいだけだよ」
俺は一度大きく息を吸った。頭の通りがスッと良くなる。
「俺に必要なのはお前だけだ。今まで一緒にいてくれてありがとう。それと、ずっと苦労をかけてごめん」
スラスラと言葉が出てきた。こんなに喋ったら余計に怪しまれるのではないか、と雑念がよぎる。だがそれが、意識の片隅から現れた本心だった。
妻は俺を突き放すこともなく、そのままの姿勢でいてくれた。
「違うのよ……苦労なんかしてない……ただ」
何かを噛み締めるような声とともに、妻の手がゆっくりと俺の背中に回り、抱き返してくれた。
「……毎日料理作って、洗濯して、掃除して。ただその繰り返し。誰も何も言わないし、見てもくれない。まるで家政婦みたいで。本当に……私って何なのかなって……」
妻の瞳には涙が浮かんでいた。
俺は何も分かっていなかった。家族のために家事をやるのが主婦の役割。彼女もそれを当たり前のように受け入れているはずだ。長い間、ずっとそう思ってきた。
そんな妻の気持ちを顧みない自分の無神経さと身勝手さに、このときほど激しい後悔を覚えたことはなかった。
――遠い昔。
プロポーズした直後のことを思い出していた。防波堤に二人で腰掛けながら、どこまでも続く青い空と水平線を眺めていた。俺の質問に、彼女が嬉しそうに答える。
「安恵。子供は何人ほしい?」
「二人以上」
「男の子と女の子のどっちがいい?」
「……元気に生まれてくれれば、どっちでもいいかな。知宏さんは?」
「俺も。どっちでも大歓迎だよ」
――幸せに満ちていた。
それでも「二十年の年月」という名のヤスリによって、徐々にあのときの気持ちが削られていった――削られたのなら、またここから付け足せばいい。
「安恵」
「何? 知宏さん」
「今度の週末、ホテル行かないか?」
一瞬の沈黙の後、妻は驚いたように、けれどどこか嬉しそうにクスリと笑った。
「若い女の子じゃなくていいの?」
「安恵じゃなきゃ駄目だ」
結局、週末まで待ちきれずに明後日に行くことにした。
会社に有休を申請し、子どもたちには「妻の健康診断に付き添う」と伝えた。あながち嘘でもないように思う。妻の心の健康診断だと考えれば。
妻と二人でスマホを眺めながらホテルを選んだ。家から車で二十分ほど走ったところにあるラブホテルに決めた。
朝の九時に車に乗り込む。妻はカジュアルな若々しい服装で、帽子を深めに被り、マスクをしている。
「この歳になって、大丈夫かしらね」
俯きがちの妻に、同じくマスクをした俺は努めて明るく言った。
「最近だと、中高年の利用も多いらしいよ。同期も利用しているって言っていたし」
真夏の密室の中、エアコンの効きが悪くて二人で汗だくになる。ベッドの上で、汗まみれの顔を見合わせて思わず笑い合った。
俺が楽しみにしていたマッサージチェアも置いておらず、途端にやることがなくなる。俺はベッドの隣にいる妻を抱きながら、静かに話しかけた。
「なあ、安恵」
「何?」
「別居の話、あれ無しな」
「当たり前でしょう」
結局、無料の軽食を食べた後、二人でフカフカのベッドに再び倒れ込み、チェックアウトの時間まで泥のように眠った。
結果だけ見れば散々だったと思う。けれど、目の前の妻を心から愛おしいと思う気持ちと、家に帰った後に胸を満たしたあの深く心地よい感覚は、忘れがたいものだった。
「ねえ、あなた」
「何だい?」
「また来月行かない?」
殊の外、妻は気に入ったようだ。俺の心も躍っていることを自覚しつつ、大きく頷いた。
次の日も有給を取り、妻を病院へと連れて行った。検査の結果、特に異常はなし。おそらく心因性のものだろうと診断した医師から、生活上の注意点を受けていた妻の顔には安堵の色が見えた。
その翌朝。出勤前に換気扇の下で電子タバコを吸っていると、隣で食器を洗っている妻からにこやかに話しかけられた。
「また夢を見たの。あなたが女の人と一緒にいる夢」
どうやら妻の夢の中で、俺は相当モテまくっているらしい。思わず苦笑いした。
「誰だい? その不謹慎な女は」
「私」
妻のその返事を聞いてふと腑に落ちた。前に妻が打ち明けてくれた、夢の中で俺と浮気していたという謎の女の子は、若い頃の妻自身だったんじゃないかと。彼女をずっと主婦として扱っていたせいで、自信をなくしてあんな夢を見たのかもしれない。
もうそんなことはさせない。俺はこれからずっと、妻を女として愛し続けることを誓った。
(おわり)




