悪魔
昼食の後、私は適当な理由を付けて部屋に引きこもった。
取り出した手帳をそっとテーブルに置く。
それから本棚から、古代語の辞書を取り出した。
「…ちょっと試してみるくらいなら、いいわよね」
ほんの、好奇心だった。
魔法は大昔、古代文明の崩壊と共に失われたとされている。
今や魔法使いや精霊、悪魔などは創作物の中の存在だ。
私はウキウキと辞書を開いた。
魔法陣の下に書かれた呪文は、それほど難しいものではなかった。
三十分後、私はメモに書き写した呪文を満足気に見直した。
「悪魔なんて…本当にいるのかしら」
もし、本当に悪魔がいるのなら。
「うーん、悪魔があのクソッタレ共に一泡吹かせてくれるといいんだけど…。ええと───」
私は手帳の魔法陣に手を添えた。
【我は今、汝の封印を解かん。我が願いを聞き届けよ】
不意に、部屋の温度がスっと寒くなった気がした。
風もないのに、窓がカタカタと鳴る。
【黒き門を越え、我が前に姿を現せ】
言い終えた途端、バチリ、と手に静電気が流れた。
私は咄嗟に手を離す。
「いたっ!」
人差し指がピリピリと痺れ、指の腹に小さく血が浮かんだ。
「なに?一体…」
魔法陣に、じわりと血が染みていく。
私は机の前に立ち尽くした。
いつの間にか、部屋は元の温かさを取り戻している。
昼下がりの穏やかな日差しが眩しかった。
しばらく待っても、特に何も起こらない。
「…ふぅ…そうよね。本当に悪魔なんて、いるわけないものね」
私はそっと肩を落とした。
手帳を閉じ、辞書とメモを片付ける。
その時、不意にどこからか声がした。
「良くぞ封印を解いてくれた。契約は成立だ」
低く、愉悦を含んだ声が鼓膜の裏側を撫でた。
「誰!?」
振り返っても、誰もいない。
「我が名は、───リ─ユ────シル─────。我が友であるエルデローズの子孫よ。お前の願いを聞き届けよう。お前の元婚約者と浮気相手に、制裁を加えればいいのだな!任せておけ!」
声は私の頭の中に朗々と響いた。
名前を名乗っていたようだが、人間の耳には聞き取れない言葉だった。
唯一聞き取れた単語を組み合わせた結果が、リュシールだったのだろう。
「では吉報を待て!」
びゅう、と風が吹き抜ける。
「ちょ、ちょっと!」
バタンと勝手に窓が開き、黒い何かが猛スピードで部屋から出て行った。
「ま、待って!待ってお願い!私の話を聞いて!?」
慌てて手を伸ばすも、もう遅い。
黒い影は意気揚々と公爵邸を飛び出し、ふっと消えてしまった。
残されたのは、乱れた部屋と呆然とする私だけ。
「ど、どうしよう…」
いつの間にか人差し指の爪に、小さな黒い星が浮かんでいた。
契約の証なのだろうか。
「…私、とんでもないことをしてしまったかもしれない…」
リュシールは制裁といった。
何をするつもりだろうか。
流石の私も、あの二人が死ぬことを望んだりはしていない。
私はおろおろと部屋の中を歩き回った。
エルデローズの手帳には、悪魔は契約者に対価を求めると書いてあった。
しかしリュシールはなんの話しもしないまま、すっ飛んでいってしまった。
向かった先は王都だろうか。
「か、帰らなきゃ!」
慌てて部屋を飛び出すと、ちょうど帰ってきたサーシャが廊下にいた。
「あ、お嬢様!ちょうどよかっ…」
「ちょうど良かった!サーシャ、王都へ帰るわよ!!!」
「え!?お嬢様!?」
ドレスをたくし上げ、廊下を走る。
「廊下を走らないでくださいお嬢様ぁぁぁ!!!」
私のあまりの勢いに尻もちをついたサーシャの声が、公爵邸に響き渡った。
騒ぎを聞きつけて出てきた祖父母に急用ができたと言って、私は馬に飛び乗る。
「サーシャは荷物を持って馬車で追ってきて!」
馬を飛ばせば王都まで三時間。
日が沈むまでには公爵家のタウンハウスに着けるはずだ。
「行くわよ!」
護衛の騎士が慌てて馬に合図を出す。
「お、お待ちくださいお嬢様ぁぁぁ!!!」
サーシャの声が遠ざかる。
(ごめんサーシャ!でも今、それどころじゃないの!)
ドレス姿で馬を駆り疾走する姿を、通り過ぎる領民が驚いた顔で見送った。
「あれまぁ。お転婆お嬢を久々に見たねぇ」
「いつだったか、お前のとこの娘に絡んでいた酔っ払いを叩きのめしたこともあったねぇ」
「あんなでも未来の王妃様だもんねぇ」
「バッカ知らないのか?婚約破棄されたらしいぞ」
「なに!?いったいお嬢は何をやったんだ!?」
「なんでも王子が浮気して、相手共々ボコボコにしたとかなんとか」
「あれまぁ…」
のどかな公爵領に、こうして噂が広がって行く。
そんなことはつゆ知らず、私はひたすらに王都を目指して街道を駆けた。
(戻ってきて!リュシール!)
心の中で、リュシールの名前を叫びながら。




