ブランジェ
私が目を覚ましたのは、次の日の昼だった。
慌てて使用人を呼び出すと、サーシャも目を覚まし、念の為休んでいるようだ。
父と母は不在だった。
軽食を取り、部屋に戻る。
そしてリュシールに呼びかけた。
すると。
「リュシール様なら、今お城に行ってるぽ」
ベッドの下から、モゾモゾと毛玉が這い出てくる。
あのときマドリーヌと一緒にいた狸だった。
「あ、あなた…!?」
「はい。ぼくの名前、あの人はつけてくれなかったぽ。お好きに呼んで欲しいぽ」
「えっと、聖霊の本当の名前?は、なんて言うの?」
告げられた名前は、やはり半分も聞き取れなかった。
「うーん、じゃあ、ブランジェって呼ぶわね」
狸、茶色、つまりブラウン。
安直だが、小さな狸は嬉しそうに頷いた。
「何があったのか、説明してもらってもいいかしら」
「はいですぽ」
ブランジェを抱き上げ、ベッドに座る。
そしてブランジェは話し始めた。
事の始まりは数年前、ポルテ男爵の愛人だった女が亡くなり、マドリーヌが男爵家に迎え入れられる前のことだった。
隣国の小さな村で生活していたマドリーヌは、ある日畑から小さな石像を掘り当てた。
その中ではブランジェが眠りについており、目が覚めたブランジェはマドリーヌと契約を結んだのだという。
その頃は、美味しい野菜を対価にした、ただの話し相手のような関係だったそうだ。
きっかけは、ささやかな事だった。
容姿の事で虐められたマドリーヌを可哀想に思ったブランジェは、ちょっとした魔法を使った。
力のあまり強くないブランジェの魔法は、幻でマドリーヌの肌を少し綺麗に見せるだけの筈だったという。
不運だったのは、マドリーヌが魔法の効きやすい体質だったということだ。
魔法は実際に肌に影響を与え、マドリーヌは見る見るうちに綺麗になった。
そしてマドリーヌを通して、魔法は他の人にも影響を与えるようになった。
ちょっとした怪我も治せるようになり、聖女と呼ばれた。
男爵家から迎えが来る頃、マドリーヌはブランジェに暴力を振るい、無理やり魔法を使わせるようになっていた。
結ばれた契約は、双方の合意がないと滅多なことでは解除できない。
こうしてブランジェは、マドリーヌに命じられるがまま、魔法を使った。
ビクトルに魔法をかけることもあったらしい。
小さな体を震わせて、ブランジェがポロポロと涙を零した。
その背中をそっと撫でる。
不意に鈴の音がして、空中からリュシールが姿を見せた。
いつもの、黒猫の姿だ。
鼻をすすったブランジェが顔を上げる。
「おかえりなさいですぽ、聖霊王様」
「その呼び方はやめるにゃ。俺はリュシールという立派な名前があるにゃん」
リュシールはぽふりとブランジェの頭に手を置く。
「うん、契約は破棄されてる。もう大丈夫にゃ」
「はい。ありがとうございます」
リュシールは満足気に頷き、私の顔を見つめた。
「エルメは、大丈夫かにゃ?」
「うん…あのとき、助けてくれたのはやっぱり、リュシールなのね」
「そうにゃ。あれは俺のもうひとつの姿だにゃん」
「聖霊の、王様なの?」
リュシールはちょっと首を傾げた。
「聖霊に、明確な王は居ないにゃ。神から生まれた始まりの聖霊で、特に強い力を持ったものが他の聖霊たちから王と呼ばれたりするんにゃ」
「そうなんだ…」
少しの沈黙の後、リュシールが口を開く。
「あの女は、そこのチビの力を悪用していた。それが俺のかけた軽い呪いを暴走させ、一層深いものになった。悪用された魔法は精神に影響を及ぼす。魂も救いようのないほど穢れていた。聖霊を虐め、魔法を悪用した報いにゃん」
すりすり、と艶やかな毛並みが私の頬を撫でる。
「エルメが気にする必要は、ないにゃ」
「うん…ありがとう」
目の前で、人が消えた。
悪夢のように。
でもマドリーヌは、それだけの事をしたのだ。
忘れよう。
私はそう心に誓った。




