第8話 旅立ちの日、目指すはバルディア
月日は流れ、季節は四度巡った。
僕は、十六歳になっていた。
「はぁぁぁぁッ!!」
深い森の、わずかに開けた場所。
目の前で、丸太のような牙を剥き、僕の身長を優に超える巨体が跳ねる。
僕は裂帛の気合いと共に、使い込まれた鉄の剣を振り下ろした。
猛烈な勢いで突進してきた黒鉄の鎧猪『アーマード・ボア』は、その一撃を受けて断末魔を上げ、どうっと力なく倒れ伏した。
「ふぅ……。なんとかなったな」
額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、僕は剣を鞘に納めた。
師匠の手によって常に整えられている漆黒の髪が、動きに合わせてさらりと揺れる。
そして、ふと見開かれた黄金の瞳。
激しい修行を経て体は逞しくなった。
けれど、その瞳の奥だけは村にいた頃と変わらず、陽だまりのような温かさと、澄んだ優しさを湛えている。
幼かった肩幅は広く逞しくなり、服の上からでもしなやかに引き締まった筋肉の動きがわかる。
村にいた頃のひ弱な自分は、もうどこにもいない。
そしてこの四年間、僕は一度も右腕の力を解放しなかった。
『精神が成熟するまでは、決してその力は使うな』
それが、師匠と交わした厳格な約束だった。
心が未熟なまま力を使えば、安易な力に溺れ、自分自身を見失ってしまう。
だから僕は、己の心を練り上げるように、あくまで「人間」として剣だけを振り続けてきたのだ。
だから僕の右腕には、今も変わらず分厚い包帯が巻かれたままだ。
「甘いわ、たわけ者!」
――ゴンッ!
鋭い風切り音と共に飛んできた硬い木の実が、僕の後頭部を的確に撃ち抜いた。
「痛っ……!」
後頭部を押さえながら振り返ると、そこには岩場の上で腕組みをした師匠――ガルドが、相変わらずの威圧感で仁王立ちしていた。
「倒した後に気を抜くな。獲物の断末魔が他の敵を呼び寄せることくらい、想像できんのか。騎士の戦場に『終わり』などない。常に次の牙がどこにあるか、肌で感じ取れ」
「うう……ごめん、師匠」
「謝る暇があるなら周囲をよく見ろ。敵は目の前の一体とは限らん。常に戦場の全体図を頭に描け。一対一の勝負など、騎士の戦いには万に一つもないと思え」
師匠は岩場から音もなく飛び降りると、僕の足元に転がっているアーマード・ボアの死骸を、顎でしゃくった。
「一撃の威力は申し分ない。だが、剣筋がわずかに大振りだ。真に腕の立つ者が相手ならば、今の隙に三度は喉を突かれているぞ。己の力を過信するな。力に頼った剣は、いつか必ずその力に裏切られる」
ぶっきらぼうな物言いだが、その指摘はいつも鋭く、具体的だ。
その言葉の端々に、僕の知らない「本物の戦場」の匂いが混じっている気がして、僕は無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
仕留めたアーマード・ボアを家の近くまで運び、二人で黙々と解体していると、師匠が静かに口を開いた。
「……アレンよ。お前も、もう十六か」
「え? あ、うん。そうだけど。急にどうしたの、師匠」
血のついた手を拭うこともせず、師匠は僕の成長を確かめるように、じっと僕を見つめた。
「剣の腕も上がり、体もできた。……そろそろ、ここも潮時じゃろう」
師匠は、血に濡れたナイフで遠くの空――深い霧を越え、その外側に広がる果てしない地平を指差した。
「山を降り、旅に出るぞ、アレン」
「えっ……旅? 二人で、どこかへ行くの?」
「そうじゃ。……お前、ずっと気にしておったじゃろう。『自分の本当の親は誰なのか』。そして――『なぜ、その右腕を持って生まれてきたのか』をな」
「……ッ」
心臓を直接掴まれたような衝撃に、僕は息を呑んだ。
図星だった。
それはあの村を出てから今日まで、僕が幾度となく自問自答し続けてきたことだ。
けれど、捨て子の僕を拾ってくれた師匠に聞いたところで、わかるはずがない。
なにより、自分を救ってくれた恩人を困らせたくなくて、一度も口には出さなかった。
けれど、師匠の濁りのない隻眼は、すべてを見通した上で、僕の黄金の瞳を真っ直ぐに射抜いていた。
「ここには、もうお前に教えるべきことは何もない。真実を知りたくば、広い世界を見ろ。自分の足で歩き、多くのものを見聞きし……その果てに、お前自身の答えを見つけるんじゃ」
師匠の言葉が、胸の奥底に熱く響く。
自分の宿命から逃げず、向き合え。
そう背中を押されている気がした。
「……うん。行きたい。僕、知りたいんだ。自分が何者なのか。この腕が、本当は何なのか」
「うむ。いい目じゃ」
師匠はニカっと、野性味溢れる笑みを浮かべた。
そして、僕の腰にある、四年の修行で刃こぼれだらけになったボロボロの鉄剣を指差した。
「だが、そのなまくらで旅に出るのは自殺行為じゃな。まずは装備を整えねばならん」
「装備?」
「うむ。ここから一番近い都市……『城塞都市バルディア』へ向かう。そこで、お前に相応しい剣を調達するぞ」
「バルディア……!」
初めて聞く街の名前。
そして、初めて踏み出す外の世界。
不安がないわけじゃない。
けれど、それ以上に「僕が何者か」を知るための第一歩を踏み出せる喜びで、胸が高鳴っていた。
しかし、師匠の顔は険しい。
彼は僕の包帯の巻かれた右腕をじっと見つめ、厳しく言い放った。
「よいか、アレン。街に入れば、この山のように『獲物と自分』だけの世界ではない。数多の人間、そして……魔族を仇敵とする聖教会どもの目がある」
「えっ……」
「いかなる理由があろうとも、絶対に右腕の力を使うな。もしその右腕を衆目に晒せば、お前は真実を知る前に、世界そのものを敵に回すことになると心得よ」
師匠の言葉には、この四年間で一度も聞いたことがないような、重く冷たい覚悟が滲んでいた。
「は、はい! わかりました! ……じゃあ、なるべく目立たないように……」
「……勘違いするな。『コソコソ逃げ回れ』と言っておるのではないぞ」
「え?」
「お前は修行中の身じゃ。降りかかる火の粉を払わねばならん時もある。……その時、腕の力に頼らず、剣技だけで切り抜けてみせよ」
「……!」
「いかなる状況でも、己を律し、秘密を守り通して勝つ。……それがお前に課す『試練』じゃ。よいな?」
「はい、師匠!」
「よし。……では支度をせよ。できしだい出発だ」
そう言い残すと、師匠は一足先に、四年間住み慣れた小屋へと戻っていった。
僕はその背中を追いかけ、この四年間で自分の手足のように馴染んだ道具たちを、一つ一つ丁寧にまとめていく。
小屋の火を消し、使い古した斧を壁に立てかける。
振り返れば、そこには僕を育てた「家」があった。
僕は生唾を飲み込み、先に待つ師匠の背中を追って、雲海の下へと続く一歩を踏み出した。
ついに、僕は外の世界へと足を踏み出すのだ。
その先に待ち受ける運命が、血の匂いに満ちたものになるのも知らずに―――




