第6話 霧幻獣ミスト・リンクス ―山の守り神―
霧の中に入ってから、もう何日たっただろうか。
まとわりつく湿った空気は容赦なく体温を奪い、夜になれば火を焚くことすらままならない。
そこにあるのは、ただどこまでも続く乳白色の世界だ。
視界は常に白く、すぐ目の前を歩く師匠の背中ですら、油断すれば乳白色の闇に溶けて見えなくなりそうになる。
僕はただ、その微かな影を見失うまいと、今までになく必死に足を動かし続けた。
足元は容赦なく傾斜を増していく。
今自分たちが山を登っているのだということだけは、足裏に伝わる確かな重みと、肺を焼くような息苦しさだけが教えてくれた。
この霧はいつまで続くのか。
出口のない迷宮に閉じ込められたような心細さに押し潰されそうになっていた、その時――。
――ぞくり。
背筋を冷たい指でなぞられたような、おぞましい魔物の気配がした。
一瞬前まで、世界には僕と師匠しか存在していなかった。
けれど今、この白濁した世界のどこかに、明確な「殺意」を持ってこちらを凝視している「何か」がいる。
僕は思わず足を止め、右腕を抱えるように身構えた。
視界はまだ、真っ白なままだ。
なのに、皮膚を刺すような視線だけが、霧の向こうから突き刺さってくる。
師匠が僕の前に立ちはだかった。
「アレン、離れるなよ」
師匠の低い警告とほぼ同時だった。
目の前の乳白色の霧が、不自然に揺らめいた。
音は、なかった。
風の音さえ消えたような完全な静寂の中で、渦を巻いた霧の一部が急速に凝縮し――そして、一つの「形」を成した。
霧の中から現れたのは、しなやかな体躯を持つ、大型の山猫だった。
だが、ただの獣ではない。
全身を覆うその毛並みは、この深い霧そのものを織り込んで作られたかのように、神秘的な銀白色の光沢を放っている。
ゆらりと揺れる長い尾。
霧の中でもはっきりと輝く、冷酷な黄金の瞳。
息を呑むほどに美しく、そして、ゾッとするほどに禍々しい。
「……『霧幻獣ミスト・リンクス』。まさか、その姿を拝めるとはな」
師匠の声には、いつものぶっきらぼうさの中に、僅かな緊張と――幻を見た熱が混じっていた。
「霧に同化して姿を消し、音もなく忍び寄って獲物の喉笛を食いちぎる。森のゴブリンどもとは格が違うぞ」
姿を、消す……?
僕はゴクリと喉を鳴らした。
目の前の美しい獣は、ピクリとも動かず、ただ静かに、値踏みするように僕たちを見つめている。
金色の瞳が、霧の奥で怪しく、けれど澄んだ光を放っていた。
どれほどの時間が経っただろうか。
張り詰めた沈黙の中、ミスト・リンクスはふっと瞳を細めると、まるで最初から存在しなかったかのように、その輪郭を霧の中に溶かして消えていった。
「……行ったか」
師匠が、小さく息を吐きながら剣の柄から手を離した。
その横顔には、微かな熱が残っている。
「ミスト・リンクスの毛皮は、一生遊んで暮らせるほどの金になる。ゆえに、欲に目の眩んだ連中がこぞってこの山へ入るが……あやつは『幻』と呼ばれるほどに聡明よ。わしらに殺生を成す気が無いことを悟り、引き際を弁えたのじゃろうな」
師匠は消えていった霧の向こうを見つめ、静かに呟いた。
「無駄な血を流さずに済んだわい。あやつはこの山の『守り神』のようなものだからな」
そう言うと、師匠は何事もなかったかのように、再び重い足取りで坂を登り始めた。
僕は、銀色の幻影が消えた場所をもう一度だけ振り返り、慌ててその後を追った。
それからさらに、どれほど歩いただろうか。
纏わりついていた白濁が少しずつ透け始め、周囲の鬱蒼とした木々が、濡れた黒い幹をはっきりと露わにしていく。
麓からこの山を見上げた時、白い帯のような霧は山の中腹あたりに停滞していた。
その霧をようやく抜けたのだ。
そして、霧の幕が完全に上がった先には、僕の想像を絶する光景が広がっていた。
鬱蒼とした巨木の群れが唐突に途切れ、視界が一気に開ける。
そこは山の斜面に突き出した、巨大な手のひらのような平坦な岩場だった。
振り返れば、ついさっきまで僕たちを飲み込んでいた白い霧が、今は足元で海のように波打っている。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
空はどこまでも高く、突き抜けるような青さだ。
師匠は岩場の端に立ち、眼下に広がる真っ白な霧の海を満足げに眺めてから、背負っていた荷物をどさりと地面に下ろした。
「よし、ここをキャンプ地……いや、『家』とする」
「えっ、ここに、住むんですか?」
「そうじゃ。これからお前は、ここで己を叩き直す。まずは、わしらが寝起きする小屋を作らねばならんな」
師匠は、岩場のすぐ裏手に広がる針葉樹の森を顎でしゃくった。
「木材ならいくらでもある。水はあそこの岩間から湧き出ておる。アレン、まずは斧を持て。家を建てるぞ」
その言葉に迷いはなかった。
明日からの糧を、そして雨露をしのぐ場所を、自分の手で作り上げる。
この空に近い場所で、僕と師匠の本当の生活が始まろうとしていた。




