第5話 無知な少年と、底知れぬ守護者
師匠に助けてもらってから一週間。
師匠はほとんど口を利かず、ただ迷いのない足取りでずんずんと進んでいった。
人目を避けるように道なき深き森を突き進むその後ろ姿を、僕は必死に追いかけ続けた。
そうして辿り着いた僕たちの前には、今、天をも衝くほどの巨山がそびえ立っている。
見上げれば首が痛くなるほどに高く、険しい。
その裾野には、まるで行く手を阻む壁のように、白く重い霧が山の中腹まで深く立ち込めていた。
ガサリッ。
不吉な音と共に、鬱蒼とした茂みからその巨躯が姿を現した。
大人の背丈の倍はある、鋼鉄熊『アイアン・グリズリー』だ。
針金のように硬い毛皮が金属光沢を放ち、岩のような筋肉に覆われたその獣は、僕を見つけるなり、空気を震わせるほどの咆哮を上げようと大きく口を開いた。
――だが、その咆哮が響くことはなかった。
僕が恐怖で身をすくませた、その一瞬。
剣を抜く金属音さえ、聞こえなかった。
ただ、一筋の銀光が空を裂いたかと思った次の瞬間。
ドォォッ、と。
大熊の巨大な頭部が、まるで最初からそこになかったかのように、重力に従って地面へ転がり落ちた。
断末魔も、抵抗もない。
切り口からは血が噴き出すことすら遅れるほどの、あまりに鋭く、速すぎる一撃。
何度見ても、息を呑むほどの神業だ。
けれど、その鮮やかすぎる幕引きとは裏腹に、僕は倒れ伏した巨躯を見つめて密かに肩を落としていた。
(……ああ、またこれか)
師匠と行動を共にしてからの一週間、僕たちの食事はすべて、師匠が道すがらに狩る魔物で賄われていた。
そして僕は、この短期間ですでに学んでしまっていたのだ。
熊系の魔物は――特にアイアン・グリズリーのような強靭な種は――肉が驚くほど硬く、鼻をつくような独特の獣臭さがあるということを。
生きるために贅沢は言えない。
けれど、連日「臭みの強い肉」を食べるということは、十二歳の僕にとって、なかなか過酷なものだった。
それにしても、この七日間で世界の見え方は一変してしまった。
村にいた頃、森で見かける魔物といえば、額に小さな角を持つ一角兎『ホーンラビット』や、風のようにすばしっこい瞬身リス『ウィンドリス』くらいのものだった。
それだって、たまに出くわして驚く程度だったのに。
師匠と行動を共にするようになってからは、初めて見る大きな魔物ばかりだ。
道すがら、師匠は遭遇する魔物の名を一つ一つ教えてくれた。
群れで襲いくるゴブリン、醜悪な豚の顔をしたオーク、そして先ほどの一撃で沈んだアイアン・グリズリーや巨大な魔猪『ワイルドボア』――。
数え上げればキリがないほどの「本物の脅威」が、この森には、そして世界には満ち溢れている。
その事実を知るたびに、僕は自分の無知さと、隣を歩く師匠の底知れなさを思い知らされるのだった。
手際よくアイアン・グリズリーを解体していた師匠が、ふと顔を上げた。
「……今日はここで野宿するぞ」
僕は「はい」と短く答えたものの、視線は地面に転がる熊の肉に固定されていた。
(やっぱり、今夜もこれなんだ……)
隠しきれない落胆が顔に出ていたのだろう。
師匠はフン、と鼻を鳴らした。
彼はいつものように手早く火を起こし、野宿の準備を一通り整えると、おもむろに腰を上げた。
「ここから動くでないぞ。すぐ戻る」
それだけ言い残すと、師匠は音もなく夜の闇が降り始めた森の中へと消えてしまった。
残された僕は、途端に押し寄せてきた静寂に身をすくませた。
あたりはもう、手のひらを見るのも難しいほどに薄暗い。
つい先ほどまで師匠が教えてくれていた「魔物たちの名前」が脳裏をよぎり、風に揺れる木の葉の音さえ、何かの唸り声のように聞こえてしまう。
パチッ、と焚き火が爆ぜる音だけが、今の僕にとって唯一の味方だった。
膝を抱え、心細さに耐えながら待っていると――。
ガサッ。
すぐ近くの茂みが、大きく揺れた。
僕はヒッと息を呑み、全身の筋肉を硬直させる。
何かが来る。
凶悪な爪か、あるいは……。
しかし、茂みをかき分けて現れたのは、見慣れた筋骨隆々の人影だった。
「…………師匠?」
安堵で膝から力が抜けそうになる僕を、師匠は一瞥もせず火のそばに座り込んだ。
その大きな手には、数種類の青々とした香草が握られていた。
「これを使えば、少しはマシな味になるじゃろう」
ぶっきらぼうに投げられたその草は、焚き火の熱に煽られ、爽やかな香りをふわりと漂わせた。
その香草を纏わせて焼き上げたグリズリーの肉は、「美味しい」と手放しで言えるほどではない。
けれど、鼻をつく獣臭さは驚くほど和らぎ、今までよりずっと喉を通りやすかった。
一心不乱に肉を頬張る僕を、師匠は横目で見て、ふっと小さく、慈しむように目を細めた。
それは、滅多に見ることのできない、師匠の静かな微笑みだった。
「……明日はあの霧を抜け、本格的に山に入るぞ。これまでの道など、散歩に等しかったと思えるほど辛い日々になる。今日は余計なことは考えず、ゆっくり休め」
僕はただ、短く頷いた。
視線の先、夜の闇に同化した巨大な山の影を見据える。
霧の向こうに隠れたその峻険な姿は、まるで意志を持つ巨大な怪物のようにも見えた。
明日からは、どんな日々が始まるのだろう。
焚き火の温もりとは裏腹に、未知の試練への期待と緊張で、僕の心は小さく、けれど激しく震えていた。




