第1話 忌み子の覚醒
この腕が黒く染まるまで、僕は自分が「化け物」だなんて知らなかった。
国境から遠く離れた、辺境の村「リルク」。
ここが、十二歳になる僕――アレンの世界のすべてだった。
世界は、二つの色に分かれていた。
人間が住む、緑豊かな大地。
魔族が支配する、霧に覆われた不毛の地。
両者は長い間、互いの生存領域を巡って血を流し続けている。
けれど、そんな殺伐とした世界情勢なんて、僕には関係のない話だった。
「アレン、誕生日おめでとう!」
「これ、畑で採れた一番甘いイチゴだぞ。食え食え!」
「アレンちゃん、もう十二歳なのねえ。背も伸びて、立派になって」
近所のおばさんが、僕の頭を愛おしそうになでる。
夜の闇をそのまま切り取ったような、しっとりと重い漆黒の髪。
そして、覗き込めば吸い込まれてしまいそうなほど、透き通った綺麗な黄金の瞳。
村の小さな教会には、聖女エレナ様の肖像画がある。
村人たちが毎日お祈りを捧げるその聖女様と同じ瞳の色を持つ僕は、みんなから「まるで聖女様の子のようだ」と可愛がられていた。
「ありがとう、おじさん! わあ、このイチゴすっごく甘い!」
口いっぱいに広がる甘酸っぱさに、僕は満面の笑みを浮かべる。
黄金の瞳を細めて笑う僕を、みんなが自分の家族のように見つめてくれていた。
両親の顔は知らない。
物心ついた時には、村長のじっちゃんと暮らしていた。
けれど、寂しいと思ったことはない。
村のみんなが家族みたいに優しかったから。
今日は僕の十二歳の誕生日。
広場には焚き火が焚かれ、ささやかな宴が開かれていた。
パチパチと爆ぜる火の粉が、夜空に舞い上がる。
「ほらアレン、わしから剣のプレゼントじゃ」
白い髭をたくわえた村長が、錆びついた鉄の剣を渡してくれた。
古いけれど、丁寧に手入れされている。
「うわあ! いいの!? じっちゃん!」
「ああ。といっても、この村の周りじゃもう十年は大型の魔物の姿なんて見かけん。お前がこの剣を抜くのは、畑の草を刈る時くらいかもしれんがの」
じっちゃんは愉快そうに笑って、僕の頭を撫でた。
「……アレン、お前は誰よりも優しい子だ。今日からお前も村の守り手の一人。その優しさで、この村を守ってくれよ」
「うん! 僕、みんなを守ってみせるよ!」
錆びた剣を握りしめる。
ずしりと重いその感触が、大人への一歩を踏み出したようで嬉しかった。
この幸せが、ずっと続くと思っていた。
――あの鐘の音が鳴るまでは。
カン、カン、カン、カン、カン!!!!
村外れの火の見櫓から、狂ったような早鐘が響き渡った。
宴の空気は凍りつく。
「敵襲だぁぁぁっ! 魔物の群れだッ!」
見張りの男の叫び声と共に、広場の入り口が破壊された。
現れたのは、爛々と目を赤く光らせた巨大な狼――魔狼の群れだった。
「グルルルゥ……ッ!」
「ひ、ひぃぃッ! 逃げろぉ!」
「か、母ちゃん!」
平和だった広場は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと変わった。
逃げ惑う村人たち。
建物を薙ぎ倒す鋭い爪。
僕は震える手で剣を抜き、前に出た。
「み、みんな逃げて! 僕が……!」
けれど、足がすくむ。
初めて見る大型魔物は、あまりにも凶暴だった。
僕が怯えている間に、一匹の巨大な魔狼が、逃げ遅れた村長に飛びかかろうとしていた。
「じっちゃん!!」
村長は腰を抜かし、動けない。
魔狼の大きな口が開き、鋭い牙が村長の喉元へと迫る。
――嫌だ。
――死なせたくない。
――誰か、助けて・・・!!!
僕の願いに応えるように、ドクン、と心臓が跳ねた。
いや、心臓じゃない。
熱い。
右腕が、焼けるように熱い。
直後、僕の右腕を包んでいた服の袖が、内側から弾け飛んだ。
「ぐ、あ、あああああああッ!?」
激痛と共に、視界が明滅する。
肌色だった僕の右腕が、内側から弾けるように膨れ上がり、光を吸い込むような漆黒の鱗に覆われていく。
指は長く伸び、獲物を引き裂く鋭い鉤爪が生え、関節の隙間からは抑えきれない魔力が、歪んだ熱気となって噴き出した。
「あ、あああ……っ!!」
腕が、熱い。
まるで、血管の中に煮えたぎった鉄を流し込まれているような熱量だ。
けれど、今の僕には迷っている時間はなかった。
じっちゃんが死んでしまう。
「やめろおおおおおおおおッ!!」
僕は咆哮と共に地面を蹴った。
思考よりも速く、異形と化した右腕を振り上げる。
魔狼がこちらを向いた瞬間、僕はその顔に爪を突き立て――そのまま、思い切り振り抜いた。
ドォォォォォォンッ!!
肉を断つ音ではない。
まるで大砲が着弾したような衝撃音が響いた。
大人の身長を優に超えた巨大な魔狼の体が、枯れ葉のように吹き飛び、広場の反対側の岩壁に激突する。
魔狼はピクリとも動かない。
残った魔狼たちが、恐怖に怯えたようにキャンキャンと鳴き声を上げ、闇の奥へと逃げ去っていく。
後には、耳が痛くなるほどの、重苦しい沈黙だけが残された。
さっきまでの怒号と悲鳴が嘘のように消え失せ、パチパチ、と音を立てて燃える焚き火の音だけが、不気味なほど大きく響き渡る。
舞い上がった土煙が晴れていく中、誰一人として動く者はいなかった。
まるで、時が止まってしまったかのように。




