第八滴 無自覚
嵐のようだったと思い返す天璃の首に、背後からするりと手が回された。
「誰と話してたの?」
「おはよう、珠羅ちゃん」
「おはよ〜」
もうお昼だけどねと続けた珠羅は、覗き込んでいた顔を上げると、天璃の隣に音もなく腰掛けた。
いつ来たのか。そもそも、どこから入ってきたのか。
疑問は尽きないが、珠羅だからで片付けてしまう程度には、天璃の肝も据わっていた。
「クラスの子と、少し挨拶してただけだよ」
「ふーん。なんかこの辺、獣臭いんだよね〜」
笑顔も口調も変わっていないようで、どこかひりつく圧を感じる。
機嫌が降下していく珠羅の前に、天璃が何かを差し出した。
「食べる?」
「……飴?」
「そう。いちごミルク味」
受け取った珠羅が包みを破ると、隙間から柔らかいピンク色が覗いた。
天璃の瞳の色と似ているそれを摘み、ぱくりと口に含む。
「けっこう甘いね」
「甘いの苦手だった?」
「んー、これは好きかも」
珠羅の言葉に、天璃がふわりと微笑む。
間近で目にした珠羅の表情が、一瞬ぴたりと固まった。
思えば、珠羅が天璃の笑顔を見たのは、これが初めてだった。
落ち着いた性格の天璃は、ポーカーフェイスのきらいがある。決して無表情という訳ではなく、感情をコントロールするのが上手いため、結果的にそう見えてしまうのだ。
容姿の影響もあり、傍から見た天璃は常に雪のような儚さを纏っていた。
だからこそ、わざと威圧した珠羅に怯えることなく名前を聞いてきた時や、魅与に対して一矢報いてみせた時は、見た目にそぐわぬ芯の強さに驚いたものだった。
「笑えるんだ」
ぽつりと聞こえた言葉に、天璃は思わず珠羅を見つめた。
意図を問おうとした天璃だったが、教室に結解が入ってきたことで中断される。
「西園寺さんと風殿さんがいないようね」
魅与と荒牙が欠席していることを指摘されるも、誰も理由を知らないのか、答える様子はない。
不意に、廊下側の席で手が上がった。
「結解先生。西園寺さんは、気分が悪いんやと思います。普段から傲慢っちゅう病に侵されとりますし、今頃暴れとるんちゃいますか?」
「……つまり、風殿さんは看病ということね。いいでしょう。このまま授業を始めます」
九重の話に息を吐いた結解は、呆れを滲ませつつも教鞭を執っている。
隣であわあわしていた兎々の額を指で突くと、九重はペンを握り、黒板に視線を戻していた。
◆ ◆ ◇ ◇
「ああの……! みっ、御門さん……!」
「有栖川さん、九重さん」
名前を呼ばれ振り向くと、真っ赤な顔で天璃を見つめる兎々と、兎々に服の裾を掴まれた九重がいた。
「あー、ここじゃなんやし、場所移そか」
「天璃ちゃんと話してたの、九重だったんだ。どおりで獣臭いと思った〜」
「阿留多伎は相変わらず、胡散臭い笑みしよるな」
ちらりと珠羅を見た九重が場所の移動を持ちかけるも、天璃を抱き寄せた珠羅がそれを阻んでいる。
バチバチと飛び交う火花に、兎々が「ぴぇ……」と泣きそうな声を漏らした。
「圧かけるんやめぇや。うちのんが怯えとるやろ」
「ならさっさと帰りなよ。狩りが終わった途端、接触しようとするなんて、都合がいいと思わない?」
「そやかて、御門さんは自分のモンとちゃうやろ」
黙り込んだ珠羅が、九重をじっと睨んだ。
天璃を抱く腕に、じわじわと力がこもっていく。
足元に広がる暗闇から這い出た何かを見て、兎々が「ひっ……」と引き攣った声を漏らした。
「……自分、今どんな顔しよるか分かっとるん?」
兎々を背後に庇った九重が、視線を正面から受け止める。
いつの間にか、教室には四人以外誰も居なくなっていた。
不意に、天璃が身じろいだ。
重苦しい空気を断ち切るかのように、よろよろと上がった手が、珠羅の背中を何度か叩く。
「……珠羅ちゃん、あの……胸が。めちゃくちゃ胸が、当たってます……」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられた天璃の頬が、珠羅の胸によって押し上げられている。
背骨を押され爪先立ちの天璃と、前屈みに抱きしめている珠羅では、ちょうど天璃の頬が珠羅の胸の上に乗る位置にくるのだ。
実質、腕枕ならぬ胸枕状態である。
恥ずかしさから、雪のような肌が桜色に染まっている。
純粋な白を汚したような感覚に、珠羅の中で背徳感にも似た欲が生まれた。
「天璃ちゃんってば、うぶだね〜」
張り付けた笑みは、一種の防御線だった。
珠羅が離れたことで、天璃はほっとしたような、それとは違う何かに戸惑っているような、複雑な表情を浮かべている。
「じゃ、また明日ねー」
さっさと踵を返した珠羅が、教室を出ていく。
ぽかんとした様子の天璃と兎々に対し、九重だけは探るような目で珠羅の消えた方を見ていた。
──あの綺麗な雪原に、自分だけの跡を残せたら。
まるで猛毒のように広がっていく欲望に、珠羅は自然と口角を上げた。
笑顔という仮面の下に隠れた本性が、いずれ天璃を喰ってしまう前に──天璃は珠羅のお願いを叶えてくれるだろうか。
次の狩りが待ちきれない。
太陽を背に伸びた珠羅の影が、不自然に揺らめいた。




