第六滴 気に食わない
薄井の亡骸を前に佇む天璃の顔は、雪が積もったような髪で隠されている。
静寂に包まれる森の中で、珠羅は天璃の髪に手を伸ばすと、気を引くように指先で触れた。
「……珠羅ちゃんは、私を殺さないの?」
「殺さないよ。正確には──殺せない、かな」
雪の下から芽生えた春のように、鮮やかな桃花が珠羅を映した。天璃の意識が珠羅に向いたことで、もやついていた心が晴れていくのを感じる。
「獲物は、他の獲物を餌として与えることができる。猛獣側が餌に手を出した時点で、獲物は“餌係”という役職に変わり、その狩りの間は他の猛獣から狙われることがなくなるってわけ」
所詮は一時凌ぎに過ぎないが、獲物の中には進んで餌係になろうとする者もいるだろう。
薄井は自らを餌と称したことで、天璃を餌係だと認めさせたのだ。
「じゃあ、飼い主については何か知ってる?」
──猛獣の飼い主になって。
死の間際、薄井は天璃にそう囁いた。
飼い主のことは微塵も分からない天璃だが、猛獣のことなら少しは知っている。
珠羅は猛獣だ。
それも、カーストの中でもかなり上位の。
これまでのことを見ていれば、自然と気付かされる。クラスメイトの珠羅への態度は、明らかに他と違っていた。
珠羅ならば、飼い主についても何か知っているのではないか。そんな意図を込めて見つめる天璃に、珠羅が唇の端を吊り上げた。
「飼い主っていうのは、猛獣と主従契約を交わした獲物のことだよ」
猛獣に気に入られた獲物は、双方の同意のもとで主従契約を結べるらしい。
飼い主のカーストには、“ペット”となった猛獣のカーストがそのまま適応され、獲物は一気に上位の仲間入りを果たすことができるという夢のような制度だ。
「ただし、飼い主になるためには、猛獣側の条件を呑む必要があってね。条件に違反するか、叶えられなくなった時点で、契約は即座に破棄され、飼い主は獲物へと逆戻りする」
たとえペットになっても、猛獣は猛獣だ。
妖しく微笑む珠羅の瞳には、そんな警告が宿っているような気がした。
『ただ今をもって、狩りを終了します。生徒の皆さんは寮に戻ってください』
島に響き渡った学園放送を耳にして、珠羅がにこりと笑みを張り付けた。
「私たちも戻ろっか〜。狩りの翌日は、午前の授業が休みになるから気をつけてねー」
「でも、薄井さんが……」
地面に横たわったままの亡骸を振り返り、天璃が戸惑いの声を漏らす。天璃の視線が逸れたことで、珠羅が面白くなさそうに笑みを消した。
「放っておいた方がいいよ。遺体は手にした猛獣のものだからね。後で回収にでも来るんじゃないかな」
「……回収して、どうするの?」
「どうって、喰べるんだよ。人間は美味しいし、能力者なんかだと強さの底上げになるからね」
ぴたりと動きを止めた天璃を見て、珠羅が目を細める。
「それにしても、天璃ちゃんって本当に弱かったんだね〜。最初は何か隠してるのかなと思ってたけど、お友達を死なせちゃうくらいだし? なんか期待外れだったかもー」
口調は軽いものの、内容は刺々しい。
つまらなさそうな声には、やけに冷ややかな色も混じっている。
「そうだよ。私、弱いの」
冷ややかさの増した珠羅の目を、天璃は真っ直ぐ見返した。
「だから──私のペットになって、珠羅ちゃん」
辺りに沈黙が流れる。
一拍遅れて、珠羅がきょとんとした表情を浮かべた。
「お返しもまだなのにー?」
「それは……おっしゃる通りデス」
思わぬ返しに、天璃がしょぼくれた顔になる。
先ほどまでと一転し、機嫌が良さそうに「ふーん」と呟いた珠羅は、天璃に向けて条件を口にした。
「だったら、次の狩りで誰か一人殺してきてよ」
「……え?」
「そしたら考えてあげる」
どの道、獲物が生き残るためには、他人の命を犠牲にするしかない。それらしい理由を挙げてみた珠羅だが、本音を言うならむかついたからだった。
あの人間が、天璃の記憶として残ることが、無性に気に食わなかった。
けれど、他の人間を殺せば、その記憶も少しは薄れるかもしれない。
真っ暗な瞳で遺体を一瞥した珠羅は、天璃の背を押すと、振り返ることなくその場を後にした。




