第五十五滴 侵食
医務室のドアが開いた音に、神領は一瞬だけ視線を向けた。
「骨折してる」
「あ、やっぱり分かりますか?」
室内に入ってきた希杏は、折れた右腕を押さえながら、近くのベッドに腰掛けている。
給仕として働く際の気弱さは鳴りを潜め、柔らかい物腰はどこかさっぱりとしていた。
「仕事は休むつもりか?」
「まさか。私、両利きなんですよ。片腕が使えなくても、業務に支障はありません」
「見上げた社畜根性だな」
皮肉の混じった言葉に、希杏が愛想笑いを浮かべる。
「とはいえですね、上司が少々口うるさい方でして。早く治してこいと、怒られてしまいました」
「まるで、本当は治したくないとでも言いたげな態度だな」
「当然です。本来であれば、骨折の痛みを味わいながら、じっくりと悦に浸る予定でしたから……」
残念だと話す希杏は、腫れ上がった右腕を名残惜しそうに撫でている。棚から物品を取り出した神領が、汚物でも見るかのような目つきをした。
「マジで気持ち悪いな、おまえ」
「ありがとうございます」
頬を染めた希杏が、心底嬉しそうに答える。
悪態をつくのは逆効果だと察した神領は、げんなりした様子で腕の処置を始めた。
「誰にやられた」
「私の不手際で折った、とは考えないんですか?」
「名張家の長子であるおまえがか? 寝言は寝て言え」
濃いクマの張り付いた瞳が、億劫そうに希杏を映す。
「右腕は、阿留多伎様に折っていただきました」
望んでされたことだと口にした希杏に、神領は長いため息をつくと、「右腕“は”?」と面倒そうに問いかけた。
「背中の痣は、御門様に付けていただいたんです。あ、そちらの治療は結構ですよ」
絶対に触れるなと念を押す希杏に、神領が僅かに驚いた表情をみせる。
「獲物を下に見てたおまえが、御門を気に入るとはな」
「下に見るなんてとんでもない。それに、御門様は素晴らしいお方ですから」
誇らしげに語った希杏が、ポツポツと話を続けていく。
「御門様と話していると、ここが仮にも女学園だということを忘れそうになります。達観した視点をお持ちで、時折……猛獣よりも大人びているように感じるんです。他の獲物が、幼く思えてくるほどですよ」
「獲物が幼く思えるなら、それは単に年相応ってだけだ。中には猛獣と比べて幼稚だと言う者もいるが、生まれて十年とそこらの子供に、いったいどんな理想を求めてるんだか」
鼻で笑った神領が、巻き終えた包帯から手を離す。
立ち上がった神領が薬棚の方へ向かうのを、希杏は黙って見つめていた。
「そもそも、先祖返りは元となった人外の性質を受け継いでる。血が濃いほど長寿で、老化が遅い。大人びて見えるのは先祖の影響もあるが、達観してるように思えるのは、人間とは違う常識で生きてるからだ」
どんなに人間と似ていても、先祖返りは人間ではない。人間を殺し、喰べることに戸惑いがなく、人外なりのルールを持っている。
先祖返りとして生まれた時点で、人間とは根本的に異なっているのだ。
「だからこそ、御門については僕も気になっていた。あの子はどこか……異質だからな」
最下層から成り上がった、人間の獲物。雪のように儚い姿をしていながら、内側には真逆の何かを潜ませている。
例の薬を飲んでも平然としていた天璃のことを、神領はずっと忘れられずにいた。
「たしか、名張は探偵業にも優れてたな。報酬さえ用意すれば、僕の依頼も受けてくれるのか?」
「他ならぬ神領先生からの頼みですし、場合によってはお受けすることもやぶさかではないのですが──お断りします」
「理由は?」
きっぱりとした返答に、神領が落ち着いた口調で問いかける。
「古くから、主と忍びは一連托生です。自らがこれと定めたならば、裏切ることは決してありません。それ故、御門様に関する情報をお渡しすることも、主の不利益となる行動を取ることも、私にはできかねます」
他の教師からの誘いをのらりくらりと躱しながら、特定の相手に深入りすることを避けていた希杏が、まさか一人の生徒に忠誠を誓うとは。それも、猛獣ではなく獲物に。
思わず沈黙した神領を、希杏が強い眼差しで射抜いた。
「それに、もしも情報を流したと知られれば、御門様は私のことを排除しようとなさるはずです。最悪の場合、怒ったペットに喉笛を噛みちぎられてしまうかもしれません」
否定のしようがなかった。
ファンタジアでは、不興を買った者が消されることはままある。人間にとってこの島は、常に死と隣合わせの場所でもあるのだ。
「まったく。御門も面倒なやつに気に入られたな」
厄介な相手を惹きつける体質でも持っているのだろうか。ため息を呑み込んだ神領が、持っていた瓶を放り投げる。
「飲めば三日で治る。ただし、かなり痛むぞ」
危なげなく瓶を掴んだ希杏は、医務室のドアを開けると、まばゆい笑顔で神領を振り返った。
「痛いのは大歓迎です」
◆ ◆ ◇ ◇
滑らかな肌触りと、ほどよい弾力。
極上のベッドで丸まる天璃の髪を、体温の低い指が掬っていく。
「天璃ちゃん、朝だよ〜」
露わになった頬に、指先がツンツンと埋められる。
まだ起きたくないと抵抗する天璃から布団を剥がすと、珠羅は軽々と天璃の身体を抱き上げた。
「……わたしのふとん……」
「ほんと、朝弱いよね〜」
洗面所に運ばれ、歯ブラシを渡される。
口に含んだブラシを、天璃は寝ぼけ眼のままシャコシャコと動かした。
歯を磨き終わる頃には、天璃の意識はほとんど覚醒していた。
珠羅のコップの隣に自分のコップを並べると、はっきりした頭で周りを見回す。
二つ並んだ洗面台と、横に長い鏡。洗面所だけでも、天璃が以前いた寮の一室と同じくらいの面積がありそうだ。
ワンフロアを全て使っているだけあり、どこもかしこも規格外に広い。リビングに着いた天璃は、テーブルに並べられた朝食を見て微かに頬を緩めた。
朝はあまり食べられない天璃のために、フルーツやスープなど、軽めの物を選んでくれたようだ。
最近は、朝も夜も部屋で食べることが多かった。珠羅が何かにつけて世話を焼きたがるため、それなら二人きりの方がいいと天璃自身が思ったためでもある。
「美味しい?」
「うん。美味しいよ」
口に含むたび、ほのかに甘さを感じた。蕩けるような心地に、天璃の表情がふわりと緩む。
幸せそうに味わう天璃を、珠羅はどこか楽しげで、満足そうに見つめていた。




