第五滴 餌やり
一回の狩りにつき、猛獣が捕まえていいのは一体まで。
薄井の説明通りなら、魅与と荒牙がいる時点で数は釣り合うはずだ。
しかし、魅与たちの狙いは天璃ただ一人であり、「二人は無理だ」という荒牙の言葉が、天璃の中で妙な引っかかりを残していた。
「ど……どうして、分かったの……」
「なんつーか、直感? 血のにおいがしたと思ったら、途中から消えちまってよ。なら直感に頼るしかねえなって思ってたら、見つけた」
存在感を消せる能力に、五感で対処するのは至難の業だ。
けれどまさか、攻略方法が第六感とは。相性が悪かったとしか言いようがない。
「てゆーか、あんたに用はないの。とっとと尻尾でも巻いて逃げたら?」
「……っ」
「魅与ー、その言い方やめてくんね?」
薄井を睨む魅与の傍には、耳と尻尾を生やした荒牙の姿がある。複雑そうに眉を顰める荒牙を見て、魅与はぷっと笑い声を漏らした。
「荒牙ってば。いくら人狼の先祖返りだからって、そんなに気にすることないじゃない」
魅与の視線が逸れたことで、薄井は震える息を吐き出した。
凍りついた薄井の背に、天璃が優しく触れる。
まるで雪解けが起きたかのように、薄井の身体が温さを取り戻した。
「行って、薄井さん。狙いは私だけだから、薄井さんまで巻き込まれる必要はないよ。ここまで助けてくれてありがとう」
微笑む天璃の姿は、今にも消えてしまいそうなほどに儚い。
背を向けた天璃を引き止めようと、薄井は泣きそうな顔で手を伸ばした。
「……だめ。だめなの……。御門さんを失ったら、わたし……」
薄井の精神は、とっくに限界だった。
それでも、天璃が生きていてくれるのなら、薄井もまだ頑張れると思えた。
「なに、諦めでもしたの?」
「そうかもね」
天璃の声は淡々としていて、そこに温度は感じられない。
「……まあいいわ。あたしは優しいから、せめて苦しませずに殺してあげる」
「殺すのは俺だけどな」
静かに近寄ってくる天璃を見て、魅与が嘲るように笑った。
魅与の言葉に息をついた荒牙は、手を狼のそれに変化させ、天璃に向かって鋭い爪を振り下ろす。
──もうこれしかないと思った。
銀の閃光が、身体を切り裂いた。
後ろに倒れ込んだ天璃の前で、勢いよく血が飛び散る。
「……薄井、さん?」
初めから決めていたのだ。
ようやく現れた希望の光を、絶対に死なせたりしないと。
「……無事で……良かった……」
「喋らないで!」
珍しく焦った様子の天璃が、止血しようと傷口を押さえる。
「どうしてこんなこと……!」
「……わたしは……餌に、なっただけ……」
その言葉を聞いた魅与が、ハッと息を呑んだ。
「あんた……正気?」
「……どうして……驚く、の……? さいおんじさ……の、真似を……しただけ……なのに……」
固まった魅与の顔には、信じられないという感情が浮かんでいる。
天璃の手に触れた薄井が、口をはくはくと動かした。
耳を寄せた天璃に届くよう、薄井が何かを囁く。
驚く天璃に、薄井が微笑んだ。
たとえどんな犠牲を払っても、助けると決めていた。
これでやっと、ゆっくり眠ることができる。
花嫁のベールを上げるように、薄井の手が、天璃の前髪をふわりと揺らした。
「……きれい……」
その言葉を最後に──薄井の心臓は鼓動を止めた。
薄井の瞼を閉じると、天璃は安らかな表情を見下ろし謝罪を告げた。
横たわる亡骸を前に、我に返った魅与は怒りで身体を震わせている。
「やられたな、魅与」
「あーくそ! むかつく! こんな雑魚に邪魔されるなんて……!」
地団駄を踏んだ魅与が、癇癪を起こした子供のように叫んだ。
「もーいい! だったら、他の猛獣でも連れてきて──」
「それは駄目〜」
突如、背後から現れた腕が、天璃の身体に巻き付いていく。
すっぽりと覆うように抱き込んだ珠羅は、天璃の頭に頬を乗せると、魅与たちをじっと見つめている。
「しゅ、珠羅様……」
闇を詰め込んだ瞳は、今にも魅与たちを呑み込んでしまいそうなほどに暗い。
怯えた様子の魅与が、じりじりと後ろに退いた。
「天璃ちゃんは“餌係”になった。この意味、君が分からないわけないよね?」
「……魅与、行こう」
声を発することもできない魅与の手を、荒牙が引いた。
本能的な恐怖を押し殺した荒牙は、警戒した目で珠羅を一瞥すると、魅与を連れてその場から去っていった。




