第四十二滴 猫
「……岩?」
「障害物競走だからね〜。岩くらい落ちてくるよ」
従来の障害物競走とは違うが、猛獣仕様と言われればそうなのかもしれない。猛獣側は危険度の高い種目が当てられると聞いていたが、他にもこういった仕掛けがあるのだろうか。
ぼんやりしていた思考が、冷静さを取り戻していく。
自然と上目遣いになった天璃の視界に、珠羅の横顔が映った。
「まあ、これはただの妨害行為だけどね。君もそんなところに隠れてないで、出ておいでよ」
長いまつ毛に縁取られた目が、弓なりにしなる。形だけの笑みを浮かべ、珠羅が何処かへ声をかけた。
「……どんな心境の変化があったか知らにゃいが、今回も勝つのは三組だにゃ」
高く茂る木の枝に、少女が立っていた。
ピンと尖った耳と、猫のような目。スカートの下からは、ユラユラと細長い尻尾が覗いている。
「だったらこんなことしてないで、早く進んだ方がいいんじゃない?」
「ふんっ。分かってないにゃ。この競技で重要なのは一位だけ。吾輩の役目は、邪魔なやつらを排除することにゃ!」
参加者はそれぞれの組から二人ずつ。とはいえ、一位になれるのは一人だけであり、得点が入るのも一人だけだ。
クラス対抗戦において、生徒同士の協力は推奨されている。片方が妨害に徹している間に、もう片方を先に行かせるという方法は、競技の理にかなっていた。
「あれって、猫耳?」
「化け猫の先祖返りらしいよ〜。名前は忘れちゃった」
「茶美にゃ! 赤錆 茶美!」
天璃の疑問に答えるも、名前は覚えていなかったらしい。軽い口調で流す珠羅に、茶美が怒りを露わにした。
「へえ〜。で、もう行っていい? 邪魔がしたいなら、二組のやつらにでもしなよ〜」
「ウガーッ! ムカつくやつにゃ!」
木の上で地団駄を踏んだ茶美が、珠羅に人差し指を突きつける。
「吾輩がおまえに決めたのは、足手まといを連れているからにゃ! 生きた人間を借りるなんて、愚かなやつにゃ!」
今回の障害物競走は、借り物をゴールまで運ぶことも条件に追加されている。借り物が壊されれば失格扱いになるため、大抵の猛獣は手軽な物を探す傾向にあった。
つまるところ、生身の人間を借りるなど、猛獣自らハンデを背負うようなものだ。
「狩り以外での殺しは禁止されてるにゃ。でも、今のそいつは借り物。壊されても、文句は言えないってことにゃ!」
キラリと光った目が、天璃を捉える。
珠羅を相手にするのは無理でも、天璃がいるなら話は別だ。茶美の視線からは、そんな意図を感じた。
「なるほどね〜。やり方としては悪くないと思うよ。でも──私がさせると思う?」
底なしの闇が、茶美へと向けられる。ゾッとするような圧に身体を震わせた茶美は、しなやかな身のこなしで木々を飛び移った。
直後、木陰の中から現れた黒い手が、再び影の中へと引っ込んでいく。神出鬼没な黒い手を見て、茶美が警戒心をむき出しにした。
「捕まえようとしたって無駄にゃ! 吾輩の“擦り抜け”は、最適な方向に逃げられる能力にゃ!」
たとえどの方向から狙われようと、茶美は柔軟な身体と反射神経を使い、スルリスルリと避けていく。
猫は液体である──とはよく言ったもので、僅かな隙間があれば茶美にとっては充分なようだった。
「力加減が面倒なんだよね〜。腕か足の一本くらい、折っちゃってもいいかな」
猛獣側のルールは、獲物側よりも緩く設定されている。とはいえ、猛獣同士であっても、相手を再起不能にするほどの怪我を負わせるのは禁止されていた。
強硬手段が取れず億劫さを滲ませる珠羅の制服を、天璃の指がクイッと引っ張った。
「珠羅ちゃん」
「なぁに?」
「ちょっと試してみたいことがあるんだけど……」
真っ暗だった珠羅の瞳に、光が差し込む。
耳元で囁いた天璃を見つめ、珠羅が「面白そうだね」と目を細めた。
「おまえら! にゃに話してるにゃ!」
毛を逆立てる猫のように、茶美が天璃たちを睨む。防戦一方の現状に苛立ちを抑えきれない茶美だが、ずば抜けた反射神経により、未だ捕まることなく逃げおおせていた。
不意に、茶美の視界をチカチカとした光が横切った。
光は不規則に動きながら、木の幹や地面を高速で移動していく。
「にゃにゃっ!」
思わず声を上げた茶美が、うずうずと身体を震わせた。
光が動くたび、茶美の目も自然と光の方を追っていく。瞳孔の開いた目で光を凝視していた茶美は、ついに我慢の限界を迎えたようで、光に向かって勢いよく飛びかかっていった。
「ミャーーーーッ!」
茶美の両手が、光を押さえ込むように当てられる。
──瞬間、コースに仕掛けられていた罠が発動した。
巨大な網が、茶美の上から降ってくる。逃げ場のない状況に、茶美はなすすべなく全身を網によって拘束された。
「ウガーッ! 油断したにゃ!」
地面と網の間で暴れる茶美だが、さすがに極小さな網の目を擦り抜けることはできないらしい。
悔しそうな茶美を見下ろしながら、天璃は取り出していた手鏡をポケットにしまった。
「もしかしてとは思ってたけど、上手くいったみたいだね」
「獣は本能の強いタイプが多いからね〜」
木々を移りながら黒い手を避けていた茶美だが、視線は常に手の方を追っていた。じわじわと瞳孔が開いていく茶美を見て、天璃の脳裏にふとあることが思い浮かんだ。
手鏡で反射させた光をレーザーポインターのように動かす。茶美を誘導した後は、珠羅がタイミングよく罠を起動してくれたため、こうして捕縛に成功したという訳だ。
「誰が獣にゃ! 吾輩は誇り高き猫族の……って、無視するんじゃにゃーーーい!」
用は済んだとばかりに去っていく珠羅の背中を睨みつけ、茶美は森中に響き渡る怒声を上げた。




