第四十滴 重症
目を覚ました天璃は、すっかり痛みの引いた患部を不思議そうに眺めていた。
包帯の下がどうなっているのかは分からないが、おそらく腫れも引いているのだろう。
「ご飯食べられる?」
「……うん」
時刻は夜の八時。二日どころか、まだ半日と経っていない。
遅めの夕食を取るため目を擦った天璃は、珠羅の問いかけに消え入りそうな声で返事をした。
「今から届けに来るって〜」
「わかった……」
朝に弱いだけで、寝起きはそれほど悪くない。ベッドから降りようとした天璃を、珠羅がひょいと抱き上げた。
「安静にしてなきゃ駄目だよ〜」
大人しくリビングまで運ばれていた天璃は、呼び鈴の音に伏せていた目を上げる。一緒に行きたいと袖を引く天璃を抱えたまま、珠羅が玄関のドアを開いた。
「お食事をお持ちしました」
ドアの前に立っていた希杏は、珠羅と天璃を交互に見ると、僅かに驚いた顔をした。そのまま足首に巻かれた包帯へと視線を移し、唇をわななかせている。
「御門様の、美しいおみ足が……」
「珠羅ちゃん。名張さんと、話しておきたいことがあるの。いったん降ろしてくれる?」
「それなら椅子持ってくるよー」
「少しだけだし、歩いたりしないから大丈夫だよ」
希杏をそっちのけにして進む会話に、当の本人は喜びで嗚咽を漏らしている。
先に折れた珠羅が、天璃をそっと床に降ろした。広々とした玄関は、配膳用のワゴンを入れてもまだ余裕があるほどだ。
ワゴンをリビングへ運び、食事を並べるのは珠羅の役目だった。相変わらず、希杏を部屋の中に入れるという選択肢は持ち合わせていないらしい。
珠羅が去った玄関で、天璃の目が小刻みに震える希杏を映した。
「……ああ……っ、なんてお労しい姿……! そのお怪我では、踏んでいただくことは難しそうですね。代わりと言っては何ですが、どうぞ私の背を椅子代わりにお使いください!」
片足で身体を支える天璃の前で、嬉々とした様子の希杏が四つん這いになった。
「……食堂で、夕食について尋ねられましたよね。朝食のメニューを見ている時に、夕食の話をするなんて不自然だと思ったんです。だから、もしかすると他の猛獣がいる食堂ではなく、ここで話したいことがあるのではと考えたんですが──」
そもそも、外面を演じるのが上手い希杏のことだ。あえて空気を読まない行動を取ったのだろう。
「それで、どんなお話ですか? 手短にお願いしますね」
希杏に割く時間がもったいない。
言葉にはされずとも、正確に意図を汲み取った希杏は、歓喜のあまり呼吸を荒げている。
ハアハアと息を吐く変態はスルーしながら、天璃は冷めた目で希杏が口を開くのを待っていた。
「……御門様は……、放置プレイがお好きなんですね……!」
吐息混じりに興奮した声を上げられ、天璃から一切の表情が消えていく。希杏の背に無言で腰を下ろした天璃は、悶絶した声を上げる希杏に遠慮なく体重をかけた。
「手短にって言ったの、聞こえてませんでしたか?」
「っ、いいえ! 申し訳ございません……っ!」
無視をしても喜ぶ。提案を呑んでも喜ぶ。
もはや、何をしても喜ぶ気しかしない。
虚無に近い様子で座っていた天璃に向けて、下から小さな巻き物が差し出された。
「……以前、御門様を害そうとした猛獣について……調べて参りました。目を通されましたら、水に溶かして処分してください……」
息も絶え絶えな希杏から用紙を受け取り、くるくると開いていく。大きさは小指ほどしかないが、開くとそれなりに横幅があった。
「それから……こちらを」
続けて渡されたのは、長方形のまっさらな用紙だった。
「こちらに文字を書き水に溶かすと、私へと内容が伝わるようになっております……。ご要望がありましたら、何なりとお申し付けください」
どうやら、希杏は今後も天璃に協力するつもりらしい。主君に仕える忍びのように、陰ながら力になると示しているのだろう。
「わあ。女王様と下僕みたいだね〜」
「珠羅ちゃん」
玄関まで戻ってきた珠羅が、惨状を見ておかしそうに笑う。両腕を伸ばした天璃を、珠羅は当然のように抱き上げた。
「あんまり汚すと、玄関の修繕費も払うことになるよー?」
天璃の温もりが無くなったことで、希杏は残念そうに吐息をこぼしている。大理石の床に、よだれか汗か分からない跡があるのを目にして、珠羅がにこりと笑みを浮かべた。
「……つまり、私のお金でお二方の住まいを造れる……?」
「重症だね〜」
◆ ◆ ◇ ◇
口の前に出されたスプーンを、天璃は素直に迎え入れた。
飲み込んでから不思議そうに瞬いた天璃を見て、珠羅がスプーンを手に小首を傾げる。
「どうしたの?」
「今日のご飯、いつもより美味しい気がして……」
「そ? 良かったね」
学園の食事は質がいい。普段から美味しくはあったものの、今日は殊更口に合ったようだ。
再びスプーンを差し出しながら、珠羅がにっこりと笑む。
「食べ終わったら、この前の続きしよ〜」
「あ、そういえばクリアまでもう少しだったね」
やりかけのゲームを思い出し、雪のような肌にほんのり色が灯った。
楽しみだと話す天璃の姿を眺めながら、珠羅は至極満足そうに目を細めた。




