第三十九滴 医務室
目の前の美しい猛獣を自分だけのペットにできるのならば、天璃は珠羅に食われることも厭わない。
そう、思っていた。
覚悟はしていたはずなのに、いざその時になると、よく回る頭はなんの役にも立たず。熱を帯びた思考が、ドロドロとした欲を孕み内側から溶け出していく。
天璃にできたのは、受け入れることだけだった。
今にも触れそうな唇が重なり、珠羅が満足するまでの間。たとえ舌を噛まれようと、味見と称して齧られようと、天璃は珠羅が行う大抵のことを許容できる自信があった。
だから今回も、全て受け入れる。
ただ、それだけで……いいのだから──。
大人しく目を瞑っていた天璃だが、いつまで経っても珠羅がキスをしてくる気配はない。ゆっくりと瞼を開いた天璃の視界に、優しく笑う珠羅の容貌が映った。
「びっくりした?」
「……本当にするかと思った」
「ふっ、あはは。しないよ〜」
身体を起こした珠羅が、楽しげに目を細める。
「どうせなら、どっちも欲しいからね」
まるで、身体だけでは満足しないとでも言いたげな口調だった。天璃が何か言うよりも早く、医務室のドアが音を立てて開かれる。
「おまえら、僕の部屋で何やってんだ」
癖っ毛でまとまりのない水色の髪。同色の目の下には、濃いクマがべったりと張り付いている。
ガシガシと頭を掻いた女は、天璃たちに向けて虫でも払うかのように手を振ってきた。
「イチャつくなら他所でやれ。こっちは忙しいんだ」
「それがさー、私の飼い主が怪我しちゃったんだよね〜。早めに治してくれる?」
「相変わらず、人に頼む態度がなってないやつだな」
面倒そうに近寄ってきた女は、ベッドから降りようとする天璃を制すと、薬棚から何かを取り出している。
「動くな。骨にひびが入ってる」
「見ただけで分かるんですか?」
「ある程度のことならな」
丸椅子を引いた女が、天璃の前に腰を下ろした。
「全治三週間ってところか。余計な負荷をかけなければ、二週間でいけるかもな」
クラス対抗戦までは、残り一週間を切っている。どう考えても、治るのを待っている余裕はなかった。
思わず力の入った天璃の拳を、珠羅が包むように握り込む。
「三日で治して。神領先生ならできるでしょ?」
空気がひりつくような圧に、神領と呼ばれた女が嫌そうに顔を歪めた。
「ったく。阿留多伎家は、とんだお姫様を学園に寄越したもんだよ」
「ありがとう〜」
「褒めてない」
患部を手早く包帯で巻いた神領が、確認するように天璃を見つめる。
「出来ないこともないが、かなり痛むぞ。それでもいいか?」
「お願いします」
躊躇なく頷いた天璃に、神領はどす黒い色の液体が入った小瓶を渡してきた。中を覗く天璃の隣で、何かに気づいた様子の珠羅が不満そうな声を漏らす。
「ねぇ、それってさぁ──」
「止めとけ。この子が飲めなくなったらどうする」
二人の会話から、言葉にし難い物が入っているのは確かなようだ。
覚悟を決めた天璃が、一気に小瓶の中身を飲み干した。
「……あの、ありがとうございました。神領先生でしたよね」
「ああ、そうだが……。おまえ、痛くないのか?」
「え? はい。痛くはないです」
むしろ、飲む前よりも飲んだ後の方が楽に感じるくらいだ。
天璃が本心から言っていると分かったのだろう。神領は思案顔になると、淡々と質問を続けてきた。
「味はどうだった?」
「美味しくはないですけど、飲めないほどではなかったです。あと、少しだけ甘かった気がします」
「……なるほどな。おまえ、名前は?」
「御門です」
丸椅子から立ち上がった神領が、「知らない家名だな」と呟いた。
「ひとまず、今日は一日安静にしとくように。移動する際は、可愛いペットにでも運んでもらえ」
「はい、そうします」
嫌味で言った“可愛い”を肯定的に受け取られ、神領は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「問題ないとは思うが、何かあれば連れてこいよ」
「もちろん。三日で治るんだよね?」
「馬鹿言え。二日だ」
しっしと手を払った神領の姿が、ドアの向こうに消えていく。
冷んやりとした体温に眠気を誘われ、天璃は珠羅の腕の中でゆるゆると瞼を閉じた。




