第三十八滴 ご褒美
地下室の壁は灰色で、空気が冷んやりとしている。
落ちた場所は四方を壁で囲まれており、出入口と思しきものは見当たらない。
ふと、奥の壁に何かの模様が描かれているのに気づいた天璃は、ざらつく壁を支えに立ち上がった。
おぼつかない足取りで、壁の方へと近寄っていく。
ピラミッドのような三角形と、空から降る雫。ポケットからコインを取り出した天璃は、思わず壁の模様とコインの絵を見比べていた。
「血の階級……ブラッドカースト?」
驚くほど似ているコインの絵だが、よく見るとコインの雫は形だけが描かれているのに対し、壁の雫は中を塗り潰すかのように描かれている。
模様の横に彫られていた文字を読み上げると、天璃は増していく足の痛みを和らげるため、その場に腰を下ろした。
◆ ◆ ◆ ◇
授業の終わりを知らせる鐘の音が響く。
あれから、どのくらい時間が経ったのだろうか。
瞼を開けた天璃は、腫れている足首を目にして顔をしょんぼりとさせた。
音夢と千莉は、ゴールまで到達できただろうか。何より、今も穴の近くにいるであろう兎々のことが心配だ。
脳内を流れていく“失態”の文字に引きずられ、天璃の脳裏に転入初日の出来事が浮かび上がってくる。
罠にかかり、逆さまに吊るされたあの日。照りつける太陽に苦しむ天璃を助けてくれたのは、夜の闇から抜け出てきたかのような少女だった。
「珠羅ちゃん……」
「なぁに?」
すぐ傍から聞こえた声に、ぱちりと目を瞬く。
「ん、え? 珠羅ちゃん?」
「はーい。天璃ちゃんの珠羅ちゃんだよ〜」
にこにこと笑いながら手を上げた珠羅は、天璃の隣に片膝をついてしゃがみ込んだ。
「どうしてここにいるの?」
「んー? 暗闇があるところなら、どこにでも行けるからね〜」
どうやら、闇の中を通ってきたらしい。
薄暗い地下ということもあり、珠羅からしてみればそこら中が入口のようなものなのだろう。
足首に触れられ、反射的に眉を顰める。天璃の反応を見た珠羅は、背中と膝裏に手を添えると、そのまま軽々と天璃のことを抱き上げた。
「……重くない?」
「ぜーんぜん。羽根より軽いよ」
「ふふ。それはさすがに言い過ぎだよ」
「そんなことないよ〜。前に翼持ちから剥ぎ取った時は、そこそこ重さがあったからね。天璃ちゃんなんて、重さも感じないくらい」
以前の狩りで、天璃は翼持ちの猛獣と遭遇したことがあった。確かにそこそこの大きさをしていたが、天璃の体重を感じなくなるほどのものかと聞かれれば、到底そんな風には見えなかった。
「そんなに? 少し意外かも」
「外見と中身が一致しないのは、先祖返りじゃよくある話だよ〜。気になるなら、プレゼントしてあげようか?」
「うーん。飾るところがないからいいかな」
使い道もないし、邪魔になるだけだ。天璃のあっけらかんとした答えに、珠羅がゆるりと口角を上げた。
「ちょっと揺れるよー」
いつの間にか、穴の下まできていたらしい。天璃を抱えたまま地下室の床を蹴った珠羅は、難なく地上へと戻ってきた。
ふわりとした浮遊感の後、先ほどまでいた別棟の光景が目に入ってくる。
「えらい災難やったな」
兎々を宥めるように抱きしめていた霊藻が、背中を優しく叩く。ハッとした様子で顔を上げた兎々は、天璃を見るなり目からポロリと涙をこぼした。
「あ、あめりちゃ……」
「心配かけてごめんね」
飴玉のような兎々の瞳を見返し、天璃が眉を下げる。
つくづく、不慮の事故に弱い身だ。ため息を呑み込んだ天璃は、珠羅の方をそっと見上げた。
「医務室いってくるから、後のこと頼むね〜」
「ええで。任せとき」
抱えられた天璃を見て、大体の事情は察していたのだろう。ひらりと手を振った霊藻は、心配そうな兎々の頭を撫でている。
「あ、え……はあ!?」
「今のは、阿留多伎殿でござるか?」
部屋を出た珠羅と入れ違い、百目鬼を連れた音夢たちが帰ってきた。
高い身長に、真っ黒な髪と制服。珠羅に関しては、後ろ姿でも容易に判別できる。
唖然とする音夢の横で、千莉はきょとんとした表情を浮かべていた。
◆ ◆ ◇ ◇
本館にある医務室のドアを開けた珠羅は、ガランとした室内を見回し、ひとまず天璃をベッドの端に座らせた。
「先生いないね」
「誰か来たのは分かってるだろうし、そのうち戻ってくると思うよ〜」
靴を脱がせた珠羅が、足首の腫れに触れる。息を詰めた天璃を見上げ、珠羅が「痛そうだね」と呟いた。
「そういえば、珠羅ちゃんも霊藻ちゃんも、どうして居場所が分かったの?」
「こいつが慌てて知らせに来たからね」
珠羅の影から現れたよっちゃんが、控えめに手を覗かせる。
どうやら、みっちゃんだけでなくよっちゃんも来ていたらしい。よっちゃんは人見知りのため、天璃の傍にはいたものの、ずっと影の中に潜んでいたのだろう。
「そうだったんだ。ありがとう、よっちゃん」
恥ずかしそうに指を擦り合わせたよっちゃんが、ゆっくりと指を前傾させた。どういたしましてと言うような仕草に、天璃が柔らかく微笑んだ。
「珠羅ちゃんもありがとう。助けに来てくれて」
「天璃ちゃんのペットだからね〜」
当然だと言うように目を細めた珠羅が、「でも──」と話を続ける。
「ご褒美はもらっておこうかな」
後ろに押し倒された身体が、ベッドに沈む。
覆い被さった珠羅の髪が、カーテンのように視界を閉ざした。
「ねぇ、いいよね?」
一瞬で焼けた思考に、天璃の口から浅い息が漏れる。
答えられない天璃を見下ろし、珠羅が楽しげに距離を縮めた。
──あ、喰べられそう。
漠然と浮かんだ言葉も、ドロリと焼かれた思考に溶けていく。
唇に吐息がかかり、天璃は反射的に瞼を閉じた。




